時は流れ、シーズン開幕戦。東京スワンズと埼玉ドルフィンズの戦いは、双方ともに日本代表に選出されるエース同士のぶつかり合いとなった。昨シーズンも激しい投手戦を繰り広げた好カードは、誰もが予想したとおりのゼロがスコアボードに並んでいる。
「いやぁ、神志名さんやべー。調子よすぎだよ」
七回表の守備を三人で締め、ベンチ裏へやってきた真尋が苦笑した。昨年十二月の合同自主トレの際に発覚した肘の炎症はすっかり完治し、真尋曰く今日は「超絶調子いい日」らしい。
「ヒットは出てるから。繋がるまであと少しの辛抱だね」
「大丈夫。今日は何百球でも投げ抜いてやるんだから」
「さすがに百四十球が限界じゃない?」
「例えだよ例え! もちろんそれ以内に抑えてみせるけどさぁ。美澄さん、たまにそういうとこあるよな」
「ごめんごめん。今日の真尋くんなら心配なさそうだからさ」
いまだに打たれたヒットはゼロ。与えた四死球もゼロ。そろそろ完全試合の文字がちらつき始め、観客席がどこか浮ついた異様な雰囲気を放っていた。意識させないように、美澄はあえて何も言わないでおく。
「みんな、俺の頑張りを無駄にしないように援護してほしいよ」
「次は三番からだから、何かが起きるかも……」
願いを口にした刹那、球場が大歓声に揺れた。
「えっ、なに? 誰か打った?」
真尋がベンチに顔を覗かせ確かめる。控え選手やコーチたちの熱気と興奮に満ちた声が聞こえてきた。
「要が打った!」
「スリーランだ!」
「今シーズンもやべーな、アイツ!」
真尋の肩越しにグラウンドを覗く。悠々とダイヤモンドを一周した要は、ホームベースを踏むと同時にベンチへ向けてこぶしを掲げた。弾ける笑顔と八重歯が眩しい。
「ホント、要さんって持ってるよなぁ。開幕スリーランとかズルい。カッコよすぎでしょ」
「ここで打つのがあの人だから」
「ま、そーだね……で、女房役が点数取ってくれたんだ。応えないわけにはいかないよね」
「うん。そうだね。あと二回だ。頑張って」
「期待しててよ。俺と要さんで、最高の結果を見せてあげるから」
真尋はニヤリと口角を上げ、キャッチボールをする為にグラウンドへ出ていった。真尋の続投を望む大勢のファンから、惜しみない拍手がスコールのように降りそそぐ。
「……思いっきり意識してたなぁ、完全試合」
楽しそうだから、まあいっか。
ベンチ裏の廊下に転がる男が二人。ついさっき、開幕戦完封という圧倒的な結果を収めたとは思えない、まるでアンデッドのような呻き声をあげるバッテリーに、美澄だけでなくチームメイトも笑ってはいけないと思いつつ肩を震わせている。
九回の表、ワンアウト。一番バッターへの一球目。アウトローに投げ込んだストレートは、あっけなく弾き返された。エラーでも四死球でもポテンヒットでもなく、綺麗なセンター前ヒット。誰にも文句は言えなかった。
「真尋ぉ、マジでごめん。俺のリードの所為だ」
「いや、俺の球威が足りなかった! あそこ以外なかったから!」
「あー……悔しい……!」
「俺も!」
完封しても、ランナーを一人しか出さなかったとしても、出てくるのは反省の弁ばかりだ。きっと二人は、どこまでも高みへいくのだろう。眩しくて、羨ましくて、誇らしい。
明日、明後日と試合は続く。いつまでも落ち込んではいられない。それなのに、荷物をまとめてロッカールームから出てきた要は、ムッと口を尖らせていた。いじけてる。今日はデザートまでつけてあげようと心の中で決めた。ご機嫌取りも嫌いではない。
「美澄ぃ~……」
「お疲れさまでした。惜しかったですけど、スリーランも打ったし、ナイスゲームでした」
「うう、悔しさしか残んなかった……」
出口へ向けて歩きながら、美澄はそっと要の指先に触れた。手の甲をするりと撫でれば、指が絡まってくる。真尋の威力のある球を百球以上受け続けた左手は腫れぼったく、じんわりと熱を持っていた。手のひらのマメは何度も潰れては再生して硬くなり、要が人には見せない努力の一欠片を教えてくれる。
盗み見た横顔は、ついさっきと比べて機嫌が上向いたように見えた。難解な心理戦を得意とするのに、意外と単純なところがある。そういう部分も全てひっくるめて好きだけれど。
通用口を出て、地下駐車場へ向かった。静かな夜道に、揃わない二つの足音が響いている。
「美澄から手ぇつないでくんの、めずらしいな」
「そうですか?」
「手もそうだし、キスもそう。俺ばっかりベタ惚れって感じぃ」
「そんなことないですよ。大好きですって」
「ホントかぁ?」
「ホントですよ」
あまり表に出ないだけだ。
階段をおり、SUVの助手席に乗った。普段であればすぐに出発するのに、今日はなかなかエンジンをかけない。不思議に思って右を見る。要はスポーツバッグから何かを取り出し、美澄に差し出した。
「これ、持ってて。俺ん家の鍵」
「え」
「いつでもきていいし、俺いなくても勝手に入って好きにしていいから。ま、専属トレーナーだし、こうして一緒に帰ってるから、ほとんど一緒にいるんだけどさ」
それでも嬉しかった。独りぼっちだった要の、家族になれた気がして。
「ありがとうございます。要さん」
感謝の言葉を口にするだけでは足りなくて、美澄は身を乗り出し、要の頬にキスをした。ちゅ。二人きりの空間に、小さなリップ音が響く。ぶわ、と耳の先まで赤くなる瞬間を見た。
「……ふふ。要さんって、意外と照れ屋さんですよね」
「いや、なに、今日デレ多くない!? キャパオーバーしそうなんだけど!」
「そういう日もありますよ」
しどろもどろになって照れる要なんて、世界でただ一人、美澄だけが見られる特別。こんなに気分がいいことなんてない。
エンジンがかかり、少しだけ冷静さを取り戻した要が車を出発させた。合鍵をリュックに入れて、背もたれに身体を預ける。振動が心地いい。窓の外を流れる景色を眺めていると、美澄、と名前を呼ばれた。
「改めて、今シーズンもよろしくな」
「ええ、こちらこそ。全力でサポートしますので」
「俺、今年もキャリアハイいける気がするんだ。だって、美澄が隣にいるから」
街のネオンに照らされた横顔が、自信に満ち溢れている。飛ぶ鳥を落とす勢いだった昨シーズンの成績を超えるのは至難の業だが、きっと二人なら大丈夫。美澄もそう思えた。
「一番、近くで見てます」
「うん」
「要さんのカッコいいところも、たまに少しネガティブになるところも……全部受け止めた上で、期待してますね」
選手とトレーナー。立場は違えど、二人は失う痛みを知っている。だから寄り添い合える。分かち合いながら歩いていこう。どこまでも共に。
「いやぁ、神志名さんやべー。調子よすぎだよ」
七回表の守備を三人で締め、ベンチ裏へやってきた真尋が苦笑した。昨年十二月の合同自主トレの際に発覚した肘の炎症はすっかり完治し、真尋曰く今日は「超絶調子いい日」らしい。
「ヒットは出てるから。繋がるまであと少しの辛抱だね」
「大丈夫。今日は何百球でも投げ抜いてやるんだから」
「さすがに百四十球が限界じゃない?」
「例えだよ例え! もちろんそれ以内に抑えてみせるけどさぁ。美澄さん、たまにそういうとこあるよな」
「ごめんごめん。今日の真尋くんなら心配なさそうだからさ」
いまだに打たれたヒットはゼロ。与えた四死球もゼロ。そろそろ完全試合の文字がちらつき始め、観客席がどこか浮ついた異様な雰囲気を放っていた。意識させないように、美澄はあえて何も言わないでおく。
「みんな、俺の頑張りを無駄にしないように援護してほしいよ」
「次は三番からだから、何かが起きるかも……」
願いを口にした刹那、球場が大歓声に揺れた。
「えっ、なに? 誰か打った?」
真尋がベンチに顔を覗かせ確かめる。控え選手やコーチたちの熱気と興奮に満ちた声が聞こえてきた。
「要が打った!」
「スリーランだ!」
「今シーズンもやべーな、アイツ!」
真尋の肩越しにグラウンドを覗く。悠々とダイヤモンドを一周した要は、ホームベースを踏むと同時にベンチへ向けてこぶしを掲げた。弾ける笑顔と八重歯が眩しい。
「ホント、要さんって持ってるよなぁ。開幕スリーランとかズルい。カッコよすぎでしょ」
「ここで打つのがあの人だから」
「ま、そーだね……で、女房役が点数取ってくれたんだ。応えないわけにはいかないよね」
「うん。そうだね。あと二回だ。頑張って」
「期待しててよ。俺と要さんで、最高の結果を見せてあげるから」
真尋はニヤリと口角を上げ、キャッチボールをする為にグラウンドへ出ていった。真尋の続投を望む大勢のファンから、惜しみない拍手がスコールのように降りそそぐ。
「……思いっきり意識してたなぁ、完全試合」
楽しそうだから、まあいっか。
ベンチ裏の廊下に転がる男が二人。ついさっき、開幕戦完封という圧倒的な結果を収めたとは思えない、まるでアンデッドのような呻き声をあげるバッテリーに、美澄だけでなくチームメイトも笑ってはいけないと思いつつ肩を震わせている。
九回の表、ワンアウト。一番バッターへの一球目。アウトローに投げ込んだストレートは、あっけなく弾き返された。エラーでも四死球でもポテンヒットでもなく、綺麗なセンター前ヒット。誰にも文句は言えなかった。
「真尋ぉ、マジでごめん。俺のリードの所為だ」
「いや、俺の球威が足りなかった! あそこ以外なかったから!」
「あー……悔しい……!」
「俺も!」
完封しても、ランナーを一人しか出さなかったとしても、出てくるのは反省の弁ばかりだ。きっと二人は、どこまでも高みへいくのだろう。眩しくて、羨ましくて、誇らしい。
明日、明後日と試合は続く。いつまでも落ち込んではいられない。それなのに、荷物をまとめてロッカールームから出てきた要は、ムッと口を尖らせていた。いじけてる。今日はデザートまでつけてあげようと心の中で決めた。ご機嫌取りも嫌いではない。
「美澄ぃ~……」
「お疲れさまでした。惜しかったですけど、スリーランも打ったし、ナイスゲームでした」
「うう、悔しさしか残んなかった……」
出口へ向けて歩きながら、美澄はそっと要の指先に触れた。手の甲をするりと撫でれば、指が絡まってくる。真尋の威力のある球を百球以上受け続けた左手は腫れぼったく、じんわりと熱を持っていた。手のひらのマメは何度も潰れては再生して硬くなり、要が人には見せない努力の一欠片を教えてくれる。
盗み見た横顔は、ついさっきと比べて機嫌が上向いたように見えた。難解な心理戦を得意とするのに、意外と単純なところがある。そういう部分も全てひっくるめて好きだけれど。
通用口を出て、地下駐車場へ向かった。静かな夜道に、揃わない二つの足音が響いている。
「美澄から手ぇつないでくんの、めずらしいな」
「そうですか?」
「手もそうだし、キスもそう。俺ばっかりベタ惚れって感じぃ」
「そんなことないですよ。大好きですって」
「ホントかぁ?」
「ホントですよ」
あまり表に出ないだけだ。
階段をおり、SUVの助手席に乗った。普段であればすぐに出発するのに、今日はなかなかエンジンをかけない。不思議に思って右を見る。要はスポーツバッグから何かを取り出し、美澄に差し出した。
「これ、持ってて。俺ん家の鍵」
「え」
「いつでもきていいし、俺いなくても勝手に入って好きにしていいから。ま、専属トレーナーだし、こうして一緒に帰ってるから、ほとんど一緒にいるんだけどさ」
それでも嬉しかった。独りぼっちだった要の、家族になれた気がして。
「ありがとうございます。要さん」
感謝の言葉を口にするだけでは足りなくて、美澄は身を乗り出し、要の頬にキスをした。ちゅ。二人きりの空間に、小さなリップ音が響く。ぶわ、と耳の先まで赤くなる瞬間を見た。
「……ふふ。要さんって、意外と照れ屋さんですよね」
「いや、なに、今日デレ多くない!? キャパオーバーしそうなんだけど!」
「そういう日もありますよ」
しどろもどろになって照れる要なんて、世界でただ一人、美澄だけが見られる特別。こんなに気分がいいことなんてない。
エンジンがかかり、少しだけ冷静さを取り戻した要が車を出発させた。合鍵をリュックに入れて、背もたれに身体を預ける。振動が心地いい。窓の外を流れる景色を眺めていると、美澄、と名前を呼ばれた。
「改めて、今シーズンもよろしくな」
「ええ、こちらこそ。全力でサポートしますので」
「俺、今年もキャリアハイいける気がするんだ。だって、美澄が隣にいるから」
街のネオンに照らされた横顔が、自信に満ち溢れている。飛ぶ鳥を落とす勢いだった昨シーズンの成績を超えるのは至難の業だが、きっと二人なら大丈夫。美澄もそう思えた。
「一番、近くで見てます」
「うん」
「要さんのカッコいいところも、たまに少しネガティブになるところも……全部受け止めた上で、期待してますね」
選手とトレーナー。立場は違えど、二人は失う痛みを知っている。だから寄り添い合える。分かち合いながら歩いていこう。どこまでも共に。