診断結果は軽度の肘関節炎だった。痛みもないくらい軽い症状だったので大事には至らなかったが、二週間のノースローを言い渡された時の真尋は、この世の終わりみたいな顔をしていた。
 朝方は真っ青だった空が、夕方になってぐずつき始めた。病院から戻るタクシーの車内。真尋は一言も言葉を発さずに、窓枠に切り取られた灰色の空を見ていた。
 ホテルのエレベーターホールで真尋と別れ、要にはメッセージアプリで病院から戻ってきたことを伝える。部屋に戻ってタブレットを立ち上げると、二週間分の予定メニューを今一度確認した。合同自主トレ期間中に真尋が投げられないとなると、大幅に組み換えなくてはならない。
 それにしても、違和感に気がつけて本当によかった。自主トレに真尋を誘ってくれた要も、誘いに応じてくれた真尋も。年が明けたら春季キャンプが始まり、オープン戦と続いてペナントレースが開幕する。新たなシーズンが始まれば、責任感の強いエースはフルスロットルで投げ続けていただろう。肘に爆弾を抱えながら。
 たしかに、自主トレ中の二週間は長い。はるばる沖縄までやってきたのに、最大の武器を封じられてしまったようなものだ。
 ノースローと決めたら一日中走っているような投手だ。放っておいても自分で判断して下半身強化に努めるだろうが、一応トレーニングメニューを考えてみる。余計なお世話だと一蹴されるか、受け入れてくれるかは分からない。ただ、美澄がそうしたかったのだ。失った立場でもあるけれど、一人で抱え込んで黙っていた立場でもある。要と真尋、双方の痛みを知っているからこそ、行動せずにはいられなかった。
 真尋のトレーニング案をまとめ終える直前、不意に響いたノック音に顔を上げる。不用心だと言われてきちんと鍵をかけてあったので、ドアを開ける為に腰をあげた。
「要さん」
「……悪い、作業中だったか」
「いえ。明日の練習メニューどうしようかなって考えてただけなので。どうぞ、入ってください」
 中へ招き入れ、部屋の奥にある二人がけチェアへ座ってもらう。甘い飲み物がなかったので急いでお茶をいれてもてなすと、湯のみに口をつけた要はあち、と眉を寄せた。
「なあ、美澄」
「はい?」
「ごめん。真尋のこと、俺はずっと見てたはずなのに。日本選手権からって言ってたろ」
「要さんの所為じゃないです。俺は偶然、専門的な目を持っていたから分かっただけなので。それに、俺だって確証があったわけじゃない」
 炎症を起こしたのが、肘ではなくて肩だったら。膝だったら。美澄も気がつかなかったかもしれない。期間限定とはいえ美澄がトレーナーについたのも、エースの肘の違和感に気づいたのも、偶然に偶然が重なって起きたことだ。
「でも……」
「あの子が隠そうとしたら、みんな気がつかないものですよ。エースなんてそんなものです。エゴの塊、というか」
「美澄も、そっち側か」
「そうです。実は結構ワガママなんですよ、俺」
 要の心がほしいと願ったり、要と仲睦まじく柔軟体操をしている真尋を見て晴れない感情を抱いたり。
 美澄は要の隣に座った。顔を覗き込み、白い歯を見せてイタズラっぽく笑って見せれば、要はふにゃりと眉を下げた。
「お前がいてくれて、本当に助かったよ。ありがとな」
「いえ。できることをしただけなので」
「……真尋には強く言ってビビらせちゃったし。あんなん萎縮させちまうよな」
「俺は、要さんの気持ちも分かりますから。真尋くんにもきっと、要さんの気持ちは伝わってますよ」
「でも、なんか……美澄の前では、ダメな俺が出てくるんだ」
「そんなことないです。要さんはカッコイイし、いつだって俺の憧れです」
 ぽしょりとこぼした要は、ちょっぴり弱ったような笑みを浮かべていた。大きな手が美澄の丸い頭を撫で、やさしい指が頬をくすぐる。
「そうやって、お前ならどんな俺でも見限らないでいてくれるからさ……なんか、気ぃ抜ける……」
 大好きな人が、自分の隣でありのままでいてくれる。それって、すごく嬉しいことではないだろうか。
「俺は、こうやって要さんに撫でられるの、好きです」
「そーなの? いくらでも撫でてやるけど」
「……ふふ、ありがとうございます」
 頬がゆるんで、情けない表情しか作れない。要には見られないよう、肩にこてんと頭をのせた。

 翌朝、自転車に乗って要と共に室内練習場へ向かうと、ボールを使った練習をしばらく禁じられた真尋が黙々と走っていた。入り口に二人の姿を捉え、足を止める。
「おはよーございマス!」
「おう、おはよー」
「おはよう真尋くん。肘の調子はどう?」
「投げなきゃ何ともないから! 大丈夫!」
 昨日の今日だから落ち込んでいないか心配だったが、返ってきた元気な声に安心した。
 どれくらい前から走っていたのだろう。前髪が、汗で額やこめかみに張り付いている。
「真尋ぉ。オーバーワークにはならないようにな」
「うん。気をつける」
 ピリピリしていた二人の空気も、元に戻ったようだ。
「美澄、俺ウエイトしてくるから」
「あ、俺もドリンク準備するので、一旦そっち行きます」
 練習場を出ていく要を追いかける。トレーニング室でウエイトのメニューを再度確認した後、美澄は近くのコンビニへ向かった。

 規則正しい足音が響いている。一瞬で球場の主役になってしまう華やかなピッチング。お立ち台でコロコロ変わる表情。よく通る声。それらだけを見たら想像もつかないような地道な練習が、真尋を支えている。
「真尋くん」
「っ……なに?」
 入り口からそんなエースの姿を眺めていた美澄は、壁沿いを大きく回って近くへやってきた真尋に声をかけた。集中していたのだろう。今気づいたとでもいうように肩が跳ね、大きな目に警戒の色を浮かべる。
「これ、差し入れ」
 差し出したのはエナジーゼリーだ。さっき、コンビニで買ってきた。
「え、どうして」
「ずっと走ってたら、エネルギー使うでしょ? ドリンクのカロリーだけじゃ全然足りないと思って」
「……ありがと、いただきます」
 真尋は近くのベンチに座り、ゼリーの飲み口のキャップを左手で捻った。カチカチと音がする。
「無理に今飲まなくてもいいよ?」
「いや、二時間くらい走ってたし、ちょっと休憩。あんたも座りなよ」
 ちう、とゼリーを吸いながら、真尋が隣の一人分座れそうな空間を視線で指した。隣に座れということか。促されるまま腰を下ろせば、満足したように頷いた。
 相手は年下だというのに、少し緊張してしまう。まだ真尋のことをよく知らないし、真尋も美澄を知らない。二人の周囲に満ちるのは、お互いの腹を探るような張り詰めた空気だ。
「……怒らないの、練習してて」
 沈黙を破ったのは真尋だった。イタズラがバレてしまった子どもみたいに唇をとがらせて、バツが悪そうにこちらの様子をうかがっている。接骨院で働いていた時に、言いつけを守らず無茶をした小学生と同じ表情をしていて、可愛らしかった。
「肘に負担をかけなければ大丈夫だよ。ダメそうだったら止めるから」
「そっか、よかった……」
「じっとしていられないよね。あれだけのピッチング技術、練習しないと不安でしょ?」
「まあ……そうだね、うん。不安、なのかな」
「俺もそうだったなぁ……でも、君と比べるのは失礼か。真尋くんは、俺が手を伸ばしても触れられないくらい高い場所で戦ってるから。どれだけの練習を積んで、ここまで辿りついたのかなって。ちょっと想像できないや」
「……美澄さんには、そういう風に見える?」
「え?」
 真尋の問いかけの意味が分からず、聞き返す。いつもと変わらず、じっと美澄を見つめる眼差しに、複雑な感情が滲んでいた。
「……俺、昔っから「才能マン」って呼ばれてた。擦り傷以外の怪我も、今まで一度もしたことなくて」
 きっと、二人きりでなければ聞こえない大きさの声だった。
「その身体の強さやしなやかさは天性のものだよね。どれだけ気をつけてケアしていても、怪我しやすい体質っていうのは、たしかにある」
「でも、努力してないわけじゃない」
「もちろん、分かってるよ」
「ただ、そう言うのを言葉にするのはかっこ悪いから黙ってた。どうせ、言ったところで信じちゃもらえない。だって俺、生意気だし」
 自覚はあったらしい。それでも自分を貫き通せるのは、純粋に眩しかった。
 この世界だけじゃない。いつだって、妬み僻みはついて回る。幸い、美澄には間宮要という圧倒的で絶対的な存在がいたから、よそ見をする余裕なんてなかったけれど。
「俺は、真尋くんのマウンド度胸は努力の賜物だと思うよ。努力しないで何でもできるような人が、朝早くから一人で走ったりはしないでしょ?」
「……ねえ、美澄さん」
「なに?」
「俺、不安だよ。この世界、結果が全てだ。今は俺がエースって言われてるかもしれないけど、代わりなんてたくさんいる。練習して、もっと強くならなくちゃいけないのに、投げられない。それがすごく怖いんだ」
 吐露してくれたのは、要にさえ打ち明けられなかった不安だった。
「大丈夫。二週間なんてあっという間だし、シーズン開幕にも十分間に合う」
「……うん」
「それに、責任感の強さも、努力も、全部ひっくるめて真尋くんで、スワンズのエースだろ」
 真尋は元々大きな目をさらに丸くして美澄を見つめた。びっくりした猫みたいだなぁ、なんて、呑気なことを考える。
「そうやって言ってくれるの、あんたくらいだ。美澄さん」
「え、要さんも分かってくれるでしょ?」
「いや、あの人はそういうの、言葉にしないから分かんない。伝わってんだろ? って感じ!」
「あー……ちょっと分かる。伝わってはいるんだけど、要さんに褒められると本当に嬉しいんだから、ちゃんと言葉にしてほしいというか。マウンドでは言ってくれるのに」
 時期は違えど同じキャッチャーの話だ。真尋の顔がパッと輝き出す。
「そうなんだよ! あの人すげーのに、そういうとこ分かってないよなぁ~。でも、あのキャッチングは誰にも真似できないよな!」
「もしかして俺ってすごい……!? って勘違いしちゃうよね」
「分かる! それで「マウンドでは」手放しで褒めてくれるからさぁ……ずるいよなぁ……」
 慕う相手の話題で盛り上がれるのが嬉しいのだろう。初めて声をかけられた時のヒリついた空気が嘘のように明るい笑顔が弾けた。美澄はでも、と声をひそめて続ける。
「俺が高一の時にね、一回喧嘩というか……怒られたことあるんだよ」
「え……詳しく」
 真尋が顔を寄せてくる。神妙な面持ちを作ろうとしているのは分かったが、期待に上がってしまう口角を抑えきれていない。
「あれは高校一年生の秋……一から十まで新キャプテンで四番の要さんの言う通りにしてた時期があってね。マウンドでも全部任せきりの状態で、お前はそれでいいのかって、ちゃんと気持ちぶつけて来いよって叱られて……」
「叱られて……?」
「俺、要さんに初めて怒られてパニクって泣いて脱走した」
「あはは、何それぇ。あ、俺はオールスターの時、どーしても苦手な捕手と組まされて、サインに首振りまくって困らせたら、ベンチ裏で要さんにめちゃくちゃ怒られた。ちょー怖かった」
「そ、それはなかなかだね……」
「もうしないよ、反省してる!」
 ケラケラと弾むような笑い声が、室内練習場に響いていた。黙々と走り続けていた時のわずかな強張りが解けて、すっきりした表情をしている。


 美澄はふと立ち上がり、練習場の隅に置いたリュックから取り出したファイルを手に戻ってきた。間に挟まっているのは一枚のプリント。昨日、部屋でまとめたトレーニング案を印刷したものだ。
「真尋くん。俺、ノースローでもできるトレーニング案を作ってみたんだ。もしよければ、参考にしてほしいなって」
「え、ありがと。助かる」
「トレーナーとしての仕事だから。気にしないで」
「話も聞いてもらっちゃったしさぁ。なんか、すごく気分が軽くなった気がする」
「そう? それはよかった」
「あんたのお陰だよ。ありがと」
「どういたしまして」
 慣れた相手には、スキンシップが多いタイプなのだろう。ぎゅっとハグをされると、遠くから慌てたような声が聞こえた。視線の端で、要がこっちに駆けてくるのが見える。
「うわ、おい真尋!」
「要さん! ウエイト終わったの?」
「ああ。ついさっきな。つーか何やってんだよ」
「何って、感謝のハグ」
「美澄を困らせんな。離れなさい」
「あっ、ちょっと、なんだよ要さん!」
 あっという間に引き剥がされて、真尋が唇を尖らせた。今度は真尋よりもがっしりとした腕が、美澄を引き寄せ抱きとめる。普段よりも強く感じる汗の香りに、鼓動が速くなった。
「ダーメ。コイツ、俺のだから。つか何の話してたんだよ」
「要さんを怒らせると怖いって話。高校の時、美澄さんのこと泣かせたって話も聞いたよ」
「マジかよ。あれは反省してるって。ごめんな、美澄ぃ」
「いえ、あれは俺も悪かったので……」
 すっかり集中力が切れてしまったので、午前の練習を切り上げ、近くのレストランで昼食をとった。食休みの後、午後は元々ボールを使ってフィールディングの練習をすることになっていたが、投げられない真尋はセカンドベースに立ち、要にボールを打ち出す役目は美澄が担当した。
「ワンアウト、一塁。行きます」
「っよし、こい!」
 コツンとバットに当たったボールが、三塁側へ向かって転がっていく。マスクを外した要は軽快なステップでそれを捌いた。投げたボールは寸分の狂いもなく、二塁で待つ真尋のグローブに収まった。ベースに触れて、高く掲げる。
「アウトー! このスピード感だったら、丹羽さんがダブルプレーにしてくれそう!」
「さすがの強肩……いや、鬼肩ですね」
「あはは、なんだよ鬼肩って。ラーメンみてー」
「次、フライ打ち上げたいところなんですが……室内なので無理ですね」
「お前なら、天井スレスレいけんじゃね?」
「いや、万が一壊したら嫌なのでやりません」
「でも、さすが元四番って感じのバットコントロールだな。ノックの打ちわけもすぐできそう」
「もっと酷いかと思ってたんですけどね。意外と身体が覚えてました」
 天井を見上げながら話していると、真尋が駆け寄ってきた。
「え、美澄さん四番だったの?」
「要さんたちの代では五番だったよ。自分らの代では、他にいなかったから四番だっただけで」
「ホームランバッターというよりは、ヒットメーカー的な感じだったな。キャッチャー的には凡退でいいからベンチで休んどけーって思ってたけど」
「え、要さんそんなこと思ってたんですか」
 初耳だった。頑張って打ってたのに。
「思ってたよ。んなインコースに寄って立つなよ~とか色々。真尋、お前もだかんな」
「ハーイ。気をつけマース。それにしても、美澄さんすげーや。マッサージも上手いし、俺の肘のこと気づいたし、聞き上手だし、ノックもできるなんて。最強トレーナーじゃん」
「いや、そんな特筆すべきことはないよ。できることをやってるだけ」
「俺の専属になってよ美澄さん」
「あはは……」
「だーから、ダメだって」
「要さんのケチー」
「ケチで結構。美澄は俺のですー」
 まるで真尋から遠ざけるように、要は美澄を抱き寄せた。


 日没直後の稜線が、ぼんやりと赤く染まっている。夕焼けと入れ替わるように空を覆い尽くした濃紺に、宵の明星がきらりと輝いた。
 ホテルへは歩いて戻った。自転車を押して歩きながら大きく息を吸い込むと、どこからともなく潮の香りがする気がする。この四日間で行った場所といえば、室内練習場とホテルとレストランと病院だけ。南国の海特有のエメラルドグリーンに興味がないと言ったら嘘になる。明日はオフ日なので、少し足を伸ばして海岸沿いを散歩するのもいいかもしれない。
「要さん、あの」
「ん?」
 隣を歩く要の距離が、やけに近い気がする。真尋は「走って帰る!」と言って一足先に戻って行った。要の言った「スタミナお化け」の正しい理由を今になって知った気がした。
「明日、何するか決まってます?」
「んあー、そうだなぁ……飯食って寝るくらいしか決まってない」
「海を見に行こうと思うんですけど、要さんもどうですか?」
「いいね、俺も行く。真尋も誘って気分転換させよ。んで、昼はソーキそば食いにいこーぜ」
「分かりました。お店、探しておきますね」
 チキチキと自転車のチェーンが回る音が響く。大好きな横顔は、至っていつも通りだ。
――ダーメ。コイツ、俺のだから。
 あまりにも自然に放たれた言葉が、ずっと頭の中に残っている。意味を訊ねてみたかった。半分は期待。半分は願い。恋心ってやつは、我ながらひねくれていてめんどくさくて甘酸っぱい。
「俺さ、そろそろ美澄の飯が恋しいかも」
「早くないですか。まだ一週間以上ありますよ?」
「長ぇ~……まあ、やるしかねーんだけどさぁ……あ、美澄さ、夕食の後部屋くる? 最近ずっと二人部屋みたいなもんだったから、一人じゃ広いんだよ」
「え、いいんですか?」
「うん。美澄がよければ」
「行きます。行きたいです」
「じゃ、夕食終わって部屋戻ったら待ってるから。好きなタイミングでおいで」
 甘ったるい眼差しに、大きな手のひら。自分だけに向けられているのが、どうしようもなく嬉しい。


 夕食後、要の部屋を訪れた。淡い期待を抱きながら、扉を三度ノックする。要はすぐに出てきた。
「おう、いらっしゃい」
「おじゃまします……」
 合同自主トレが始まってからずっと、マッサージは美澄の部屋で行なっていた。初めて入る要の部屋。美澄に割り当てられた部屋と内観はほとんど変わらない。
「ミネラルウォーターしかねーけど、いい?」
「あ、はい。大丈夫です」
「好きなところ、座ってて」
 美澄の部屋では荷物置きになっている、奥の窓ぎわにあるソファに腰をおろした。
 要は冷蔵庫からペットボトルを取り出し、グラスにそそぐ。そして不意に顔を上げると、困ったように眉を下げて笑った。
「美澄、照れっからあんまり見ないで」
「あ、すみませんっ」
 無意識に目で追ってしまっていることを、言われて初めて気がついた。誤魔化すようにミネラルウォーターで口を潤し、ほっと息をつく。
「……要さん」
「どした? 隣、失礼~……っと」
 グラス片手に、要は隣に腰を下ろした。美澄の右腕と要の左腕が触れ合うくらいの距離。体温を意識した瞬間、心臓がうるさくなる。
 聞いても、いいだろうか。こっそり右隣を見上げてみる。要も、美澄を見ていた。色素が濃い虹彩に吸い込まれそうになる。
「さっき、室内練習場で言ってた言葉の意味を教えてほしくて」
「何か言ったっけ?」
「美澄は俺のって」
「あれは、俺の専属トレーナーって意味だけど……」
「でも、真尋くんが「俺の専属になってよ」って言う前も言ってました」
「……そーだっけ」
「そうです。ほら、ハグされてた時」
 引かない美澄に、要が目を泳がせ苦笑する。珍しい構図だった。あー、とも、うー、ともつかない不明瞭な声をあげ、それから意を決したようにまっすぐに美澄のヘーゼルの瞳を見つめた。
 顔が近づいてくる。咄嗟に目をつむると、鼻先に何かが触れた。ちゅ、と小さなリップ音。沈黙が落ちる。
 そおっとまぶたを持ち上げた先で、憧れの人は切なげに眉を寄せていた。視線がぱちっとぶつかって、絡み合う。要は掠れた声で、こういうこと。と言った。
「黙っててごめん。好きだよ、美澄」
 こつんと額が合わさる。鼻が触れ合い、まつ毛が絡んでしまいそうなほど近くで、要はもう一度「好き」と呟いた。
「それは、そういう、好きってことですか……?」
「うん。そういう好き。やさしいところも、真面目でまっすぐなところも、ちょっと意地悪しても食らいついてくるところも……もちろん、綺麗な顔も全部、昔からずっと特別だった」
「昔?」
「そ。高校の時から。お前とプレーした時間は、俺の青春の全てだったよ」
 後頭部を丸々包み込んでしまいそうな手のひらが、微かに震えている。ああ、本気なんだと、その切実さを知った。
 美澄は息を飲んだ。脳裏に浮かぶのは、日本選手権後の桃味のキスだ。酩酊状態で、勢いに流されて重ねた唇にも、美澄の望んだ理由があった。
 喉が震える。幸福感が内側から溢れてきて、美澄を包み込んだ。
「……日本選手権で負けた後、一緒にお酒飲んだじゃないですか」
「うん」
「あの時、キスしたの覚えてますか?」
「えっ!?」
「ふふ、やっぱり」
「じゃあ……もしかして俺、ゲイだってことも……」
「言ってました」
「うそぉ……」
 甘やかで端正な顔が、戸惑いや後悔の感情に染まった。美澄とは逆方向にひっくり返って、両手で顔を覆う。たくさん練習をして、数え切れないくらい突き指をしてきたのだろう。節くれだった指のすき間から、うっすらと潤んだ瞳が美澄の様子をうかがっていた。
「ひ、引いたよな……?」
「いえ。酔わないとキスさえできないの、要さんらしいなって思いました」
「あはは……」
 それも含めて間宮要という男なのだと、美澄は知っている。だって、美澄の青春も、要と共にあったのだから。
「俺も好きです。そういう意味で」
「……え?」
 こつ、とグラスを置く音が、二人きりの室内に大きく響いた。美澄はそっと要の顔を覆う手を取って、肉厚な唇にキスをした。
「こういうことです。分かりました?」
 憧れがいつしか恋に変わり、蕾は育って、やがて大輪の花を咲かせる。ふわりと軽やかに微笑んだ美澄は、もう一度要に淡い口づけを落とした。
「…………夢?」
「夢じゃないですよ。現実です」
「……うん、ちゃんと痛い」
 頬をつねってふにゃふにゃと頬をゆるめるのは、常勝スワンズを支える若き天才捕手。イケメンで、大人気で、チームの顔で、誰よりもカッコイイのに。美澄の前でしか見せてくれない気の抜けた顔に、愛おしさが溢れて溺れてしまいそうだ。
 もう、甘えてみてもいいらしい。なおもひっくり返ったまま耳の先まで赤く染める要にすり寄ってみる。首すじに顔を埋めれば、力強い腕が背中に回された。眼差しをそのまま溶かしたような甘さが、鼻腔を満たす。
「要さんの匂いがする」
「え、くさい?」
「いい匂いです。大好き」
 甘いものはあまり好きではないのだけれど。要の甘さは大好きだ。
「……美澄さん」
「なんでしょう、要さん」
「キスしていいですか」
 どうして敬語なのだろう。思わず笑うと要もつられて目を細めた。鼻先が触れる。甘えるように下唇を食み、角度を変えて重ねる。口唇のすき間から侵入してきた舌は火傷しそうなほど熱く、柔らかい。
「っ、ん……、ふ」
 あの時は美澄も酔っていたから、今日ほど感覚が鮮明じゃなかった。咥内を蹂躙されると、背中を快感が駆け上がる。負けないように絡め返して、ちゅ、と吸って、何度も角度を変えてキスをすれば、ぐ、と硬いものが太ももに触れた。刹那、身体が浮いて景色が変わる。要の髪が頬に触れてくすぐったい。天井が見えて、背中にソファの合成皮革の弾力を感じた。
 見上げた要は、微かに息を上擦らせていた。ふ、ふ、と熱い呼吸が肌を撫ぜる。夜の色をした虹彩の奥底に、隠しきれない欲の炎が揺らめいていた。自分で興奮してくれている。求められている。この上ない幸せじゃないか。
「要さん」
「っ、ごめん」
 背中に手を回して、離れられないようにぎゅっと力を込めた。いつもはヘラヘラ……否、ニコニコしていることのほうが多い要の余裕が消え、美澄だけが知ることを許された切なげな表情が浮かんでいる。優越感がじわじわと心に広がって、快感に変わっていく。
 もっと、もっと自分に夢中になってほしい。ワガママな一面が顔を出す。投手なんて、みんなそういう生き物なんだ。
「要さん、していいですよ」
「っ」
「きて、先輩」
 身も心も全て、あなたのものになりたい。
 手を伸ばして、要を求めた。