オフシーズンといえど、休んでいる暇はあまりない。惜しくも日本一の座は逃したものの、ラ・リーグ三連覇にベストナイン、守備のベストナインと呼ばれるプラチナグローブ賞を受賞し、あまつさえ顔がよく愛想もいい要は、テレビ出演や取材の依頼が山ほどきていた。受けられる範囲ではあるがそれらをこなし、ようやく落ち着いてきた頃。美澄は要の自主トレに付き合う為、沖縄へやってきた。

 飛行機から一歩外へ出ると、冬とは思えない暖かな空気に出迎えられた。
「うわ、あったかい」
 ボーディングブリッジを歩きながら感嘆の声をあげた美澄に、要は目尻をさげる。
「今日は天気いいし、むしろ暑いくらいだよな。ってか、沖縄初めて?」
「初めてです。修学旅行は大会で行けなかったですし」
「あー、覚えてる。俺たちもそーだったしなぁ。遠征しょっちゅう行ってたし、まーいっか、って」
 昔ばなしに花を咲かせる二人に、三歩先を行く背中が足を止めた。くるりと振り返った若槻真尋は見事なふくれっ面で、美澄と要の顔を交互に睨めつける。
「……ちょっと、身内ネタで盛り上がるのやめてくれる? 俺もいるんだけど」
「ああ、わりーわりー」
「っ、ごめん」
 そう、旅行ではなく自主トレだ。トレーナーとしてサポートとをする立場の美澄が浮かれてどうすると、背すじを伸ばす。
――「元」相棒さんね。
 シーズン中に嫌味たっぷりの牽制を受けてからというもの、挨拶を交わす時はいつも空気がヒリついた。真尋は人に声をかける際に人の目を食い入るように見る癖があるようで、お疲れさま。ああどうも。そのやり取りだけで、心の中を全て丸裸にされそうで苦手だった。
 今日から二週間沖縄に滞在し、要と真尋は合同自主トレを行なう。真尋には専属トレーナーがいないので、今回は美澄が二人のケアをすることになっていた。
 正直に言ってしまえば、ファーストインプレッションが最悪で、犬猿とも言える間柄の真尋が素直にケアを受けてくれるかは心配だったが、要が大丈夫だと言ったので信じてついてきた。アイツは気難しいけれど、野球に関してはまっすぐだから、と。
 スーツケースを引きながらロビーに出ると、待ってましたと言わんばかりに五人の大人が要たちを取り囲んだ。名刺に書いてある文字を、後方から目を眇めて確認する。新聞記者と雑誌のライター、地方局の報道記者など……囲まれた本人たちは驚く様子もなく爽やかに対応している。
「昨年に続き、今年も東京スワンズのエースと正捕手の合同自主トレということですが、どちらから声をかけられたんですか?」
「俺からです。真尋、今年もやるかって」
「若槻選手はなんと?」
「誘われると思ってたので、二つ返事で承諾しました。来シーズンこそ日本一を奪還する為、エースとしてチームを引っ張っていけるように。今から頑張りたいと思います」
「真尋、すげー優等生なコメントじゃん。昨日から何言うか考えてた?」
「考えてないし!」
「まあ、こんなに頼もしいエースですから。女房役として、しっかり支えていけたらいいと思ってます」
 要はやさしい顔をして言った。シーズン中のヒーローインタビューを思い出させる息のあったやり取り。マスコミを巻き込んだ和やかな雰囲気。二人の関係性の良さを感じさせた。
「間宮選手は今シーズン、打率や本塁打数等でキャリアハイの大活躍でしたが……その要因をご自身ではどのようにお考えでしょうか」
「一番は、夏に失速しなかったことですかね。専属トレーナーと契約して、支えてもらいましたから」
 甘ったるい眼差しが美澄を捉えた。後を追うように、真尋や記者たちの視線がぶつかる。
「彼が専属トレーナーですか? 随分と若いようですが」
「腕は確かですよ。俺の成績を見てもらえば分かると思います。じゃ、そろそろホテルに向かいますので」
 とびきり愛想のいい笑みを浮かべた要が、ひと足先に出口へ向かう。急に話を切り上げたので、美澄だけでなく真尋も遅れて背中を追いかけた。
「あーあ。あの記者が余計なこと言った所為で、要さんご機嫌損ねちゃったじゃん」
「余計なこと?」
 わずかに速度を落とした真尋が隣に並んだ。前を行く背中には届かぬよう、声のボリュームを下げる。
「あんたのこと、そんなに若いのに専属トレーナーとか大丈夫なんですか? 的なこと言ったの、嫌だったんじゃない?」
「別に、俺はいいのに……」
「ダメなんだよ! もっと堂々としないから舐められるんじゃん。あんたはいいけど、要さんの印象を悪くしたら俺が許さないから!」
「ご、ごめん」
 普通にしていただけなのに、どうして叱られているのだろう。エントランスを抜けて外に出ると、愛想のいい笑みを引っ込めていつも通りに戻った要が足を止めて振り返った。
「なに、二人とも仲良くなったの?」
「べーつにー。仲良くなってないし」
 否定された。いや、美澄としても仲がいいとは微塵も思っていないけれど。
「あ、タクシーはあそこですね。もう到着してるみたいです」
「おー、ありがと」
「あざーす」
 ロビーでのぶら下がり取材が始まってすぐに呼び出しておいたタクシーが、既に到着していた。荷物をトランクに入れ、三人で乗り込む。車窓から見上げた紺碧の空が綺麗だった。


 ホテルに到着してチェックインを済ませると、要と真尋は早速練習着に着替えて部屋から出てきた。そこそこのスピードで走って五分ほどの場所に今回の自主トレを行なう室内練習場があるらしい。長距離の移動で疲れていないはずがないのに、一息つく間もなく練習をするつもりなのだから、二人とも相当な野球バカだ。
 美澄も一緒に走ろうかと思ったが、現役アスリートのスピードと体力についていける自信がなかったので、ホテルのレンタサイクルを利用して自転車で二人を先導することになった。
「美澄、そっちじゃない、逆、逆!」
「え、もしかしてあの人方向音痴……?」
「うん」
「いや、先導させちゃダメでしょ! 迷子んなるから!」
 方向音痴の所為じゃない。初めての道だったから、口頭で説明されただけでは分からなかったのだ。
 結局、初日は二人の後ろをついていくことになったが、自転車と変わらないスピードで走っていく二人に美澄は感心してしまった。特にエースピッチャーの真尋だ。練習場に到着し、軽く息を上げた要の隣で、涼しい顔をして鼻歌交じりに肩のストレッチを始めた。
「要さん、あの」
「んー? どした?」
「真尋くん、すごいですね。かなりのスピードで走ってきたのに、全然息が上がってない」
「シーズン中もシーズンオフも、暇さえあれば走ってるからなぁ。相当な努力家で野球バカだよ、アイツは」
 全身からみなぎる自信は、練習量に裏付けられているのだろう。要が言うのだから間違いない。
 練習場には、先ほど空港で見かけた記者が二人ほどついてきていた。どうやって情報を仕入れているのかは分からないが、トレーニングを非公開にしているわけでもないので、自由にさせているらしい。要の機嫌を損ねたという人物はいなかった。
 それにしても、プロ選手は大変だとつくづく思う。ただひたすらに野球だけに向き合えばいいなんてことはなく、スター選手であればあるほど野球以外の仕事や対応に追われるのだ。ファンありきの人気商売であるのだから仕方ないし、高校の時だって甲子園常連校と言うだけで知らない大人がたくさん挨拶にやってきては監督が頭を下げていた。
 二人いればキャッチボールもストレッチもできるので、美澄はドリンクを用意したりタイムを計測したり道具を運んだりと、マネージャーのような役割をこなしていた。二人の役に立てるのは嬉しいが、要と楽しそうに柔軟運動をしている真尋を見ていると、どうしても羨ましい気持ちが芽生えてしまう。空港からついてきたスポーツ雑誌の記者だという男が一眼レフカメラを構えると、真尋は要にぴったりと密着したままピースサインで応じた。
「やっぱり若槻くんは間宮くんとセットだと、表情が柔らかくなっていいね」
 美澄が二本のスクイズボトルに水を補充していると、カメラで撮影したデータを液晶モニターで確認しながら男が言った。周囲には美澄以外に誰もおらず、独り言ではなさそうな声量だったので話しかけられているのだろう。
「そうなんですか?」
 要から教えられた程度しか真尋のことを知らないので、素直に問い返す。これから二週間、身体のケアをする相手だ。少しでも情報が欲しかった。
「若槻くん単体だとすごく気分屋というか……塩対応っていうのかな。登板する試合の後だとピリピリしてるし、あまりマスコミの前に姿を見せなかったりするから。間宮くんと一緒だと、こう、撮れ高がよくて助かるんだ。ああやってスキンシップもとってくれるし」
 視線を記者から二人へ戻す。何をどうしてそうなったかは知らないが、広い背中に真尋がしがみつき、楽しそうに笑っていた。要も完全に面白がっているのか、されるがままだ。二人の為の合同自主トレだと分かっていても、モヤモヤする。


 一日目は移動日ということもあり、キャッチボールと軽いティーバッティングのみで練習を切り上げた。ホテル近くのレストランで夕食をとった後、部屋で明日のタイムスケジュールを確認していると、控えめなノック音が響いた。二十時五十五分。約束は二十一時。五分前行動が身体に染み付いているらしい。
「どうぞ」
「……しつれーします。ねえ、開けっ放しは防犯的によくないと思うんだけど」
 ドアの向こうからひょこりと顔を覗かせた真尋が眉を寄せた。ストッパーを使ってドアが完全に閉まらないようにしていたのが気になったのだろう。
「もうすぐ真尋くんがくると思ったから。寝る時はちゃんと鍵をかけるよ。早速始めようか。ここにうつ伏せになってくれる?」
「すげー……マッサージベッド、わざわざ持ってきたの?」
「宅配便で送ったんだ。折りたたみ式だから小回りがきくし、便利だからね」
「へー。じゃ、お願いシマス」
 うつ伏せた真尋の背中は、アンダーシャツ越しでも筋肉の盛り上がりがよく分かった。要といい、プロアスリートの筋肉量は学生やアマチュアとは比べ物にならない。
 そっと手を触れ、確かめるようになぞる。弾力があって柔らかい、理想的ないい筋肉だ。
「……あれ?」
「何?」
「真尋くん、右利きだよね?」
「そうだよ。右投げ右打ちだけど。何か変?」
「左右差が全然ないなって思って」
 右半身と左半身。触れた身体の筋肉量に、ほとんど左右差がなかった。要もバランスを考えながらトレーニングをしているので左右差は少ないほうだが、それ以上かもしれない。
「それは、意識して鍛えるようにしてる。トレーニングだけじゃなくて、日常生活も左手使うようにしてるし。俺、左でもある程度投げられるよ」
「え、今度見てみたいな」
「……まあ、いいけど」
「楽しみにしてるね。じゃあ、仰向けになって」
「ん」
 右足の踵と膝を支え、ゆっくりと回旋させる。可動域の広さに、美澄は目を丸くした。
「わ、股関節柔らかい」
「それはなんか、生まれつきというか……肩も肘も柔らかいから、そういうのを最大限活かせるようにっていつも考えてて」
「自分で?」
「うん。学生の頃からずっと」
「へぇ、すごいね」
 若いのに、と言いかけて思いとどまる。年齢を理由にすると怒るのだと、以前要が言っていたのを思い出した。野球と本気で向き合うのに、若いも若くないも関係ない。
 バカにするなと怒らせてしまうだろうか。内転筋群を伸ばしながら、顔色をうかがう。
「当たり前じゃん。自分のことは、自分が一番分かってる。トレーナーつけても、俺、合う合わない激しいから……というか、そういうの突き詰めてくの好きだし」
 真尋の声は少しずつ小さくなり、照れくさそうにそっぽを向いた。
 

「俺、今日はノースローって決めてるから。走り込みしてくるね」
 合同自主トレ二日目。アップ最後のメニューであるチューブトレーニングまで終えて、真尋は颯爽と練習場を飛び出していった。女房役の承諾を得るよりも早かったエースの行動に、美澄は戸惑いを隠せない。出入口と要の顔を交互に見ると、「アイツなぁ~」と大して困ってなさそうな声で言う。
「だ、大丈夫なんですか……?」
「去年もあったから大丈夫。相手が俺じゃなかったら怒られてそうだけど」
「ですよね……」
「まあでも、真尋の性格的に、他チームの選手に誘われても合同自主トレはしねーだろうな。チームメイトならまだしも」
 要はどこか得意げだった。まるで、誘ったのが自分だったからついてきたんだとでも言っているように。
「この後のメニュー、どうします?」
「んー……美澄、グローブ持ってきてるよな?」
「あ、はい。一応リュックの中に入ってます」
 フィールディングの練習をする際、ファーストやセカンドに入って捕球係をする必要があるかもしれないと思って持ってきていた。バットケースの隣に置いたリュックの底から取り出したグローブを、右手にはめる。お待たせしました、と振り返れば、要は心の底から嬉しそうに破顔した。
「肩慣らししたら、美澄の球受けたいな。ブルペンあるし、本格的じゃん」
「いいんですか? 俺、選手じゃないのに」
「もちろん。なんなら、たくさん手伝ってもらう予定だったし」
 初めは近距離から、徐々に距離を広げてボールを強く投げる。キャッチボールからいい音を鳴らすのがいつも不思議で、真似をしようとしてもパスッと情けない音しか出なかった。
「っし、そろそろいいか。ブルペン移動しよう」
「はい。傾斜があるのは久しぶりで緊張しますが」
「美澄なら大丈夫だって」
 まっすぐ出口へ向かうかと思いきや、要は「奈良坂さん!」と練習場の隅っこで一眼レフカメラを構えていた男に声をかけた。昨日もここへきて要と真尋の様子を見守っていた、スポーツ雑誌の記者だ。
「どうしたの?」
 スポーツ雑誌の記者の男改め奈良坂は、まさか自分が呼ばれるとは思っていなかったのだろう。きょとんとした顔つきで答えた。
 美澄はボールケースを携え、今度こそ出口へ向けて歩き出した要の後ろを追いかける。もちろん、名前を呼ばれた奈良坂もついてきた。
「奈良坂さんに、一つお願いしたいことがあって。スピードガン構えてほしいんですよね」
「いいよ。彼が投げるの?」
「ええ。いい球投げるんですけど、復活してからは計測したことなくて」
「復活?」
「奈良坂さん、俺の高校時代覚えてます?」
「うん。ずっとプロ担当だったから、細かくは観られなかったんだけど」
「彼、夏の甲子園で準優勝した時の、俺の相棒っすよ」
「え、もしかして、あのサウスポーピッチャーかい?」
「おお、すげー。覚えてるもんですねぇ。そうです。あの時のエースピッチャー、雪平美澄です。故障が原因でしばらく野球からは離れてたんですけど、今は専属トレーナーとして支えてもらってて」
 ブルペンへ続く扉を開けると、視界一面に広がった緑色の空間に、切ないくらいの懐かしさが込み上げた。トレーナーとしてブルペンへ出入りするのは久しぶりではなかったが、投手側としては高校以来だ。
 スピードガンを持った奈良坂が美澄の後方に立った。要はホームベースの向こうで既に座って待っている。
「よろしくお願いします」
「こちらこそ……ああ、僕はもしかして、すごく尊い瞬間に立ち会っているのかもしれないね」
「え?」
「美澄! まずはストレート!」
「あっ、はい! 行きます!」
 ふうー……と息を吐いてから振りかぶる。右足を大きく踏み出し、傾斜を利用して力いっぱい腕を振った。手首を立て、ボールが指を離れる最後の一瞬まで意識を切らさない。
 バックスピンのかかった球は、糸を引くように要のミットに吸い込まれた。パァン、と乾いた高い音が響く。気持ちがよくて、気づいたら口角が上がっていた。
「ナイスボール! 奈良坂さん、何キロ出てますか?」
 座ったまま返球してきた要が問う。奈良坂は驚いたような、狐につままれたような表情でスピードガンを見ている。
「百四十キロ……」
「え……?」
「いやー、すごいなぁ、君」
「そんなに出てたんですか」
 投げられるようになってから計測するのはもちろん初めてだった。最速が百五十一キロなので、全盛期と比べれば全然及ばないが、それでも想像していたよりもずっと速度が出ていた。
「え、君、どこかでプレーしてないの?」
「してないです。俺は要さんの専属トレーナーなので。これからも、要さん一筋でやっていくつもりです」
 胸を張って答えれば、奈良坂は眩しそうに目を細めた。
「じゃあ、変化球も行くか。フォーク、スライダー、カット、シュート、チェンジアップの順な」
「分かりました!」
「あ、間宮くんごめんね。ちょっといいかな?」
 会話を止めた奈良坂に、二人の視線が刺さった。
「なんですか?」
 要はすっくと立ち上がり、ホームベースとマウンドの中間辺りまで近づいてくる。少しだけ怪訝そうな表情を浮かべていた。
「もし良ければ、君たちのことを記事にさせてくれないかい? 高校で青春を共にしたバッテリーが、形を変えて再び日本一を目指す。もちろん、二人が嫌じゃなければの話だけれど。記者タイトルは、そうだな……」
 まだ良いも悪いも言っていないが、アイディアが溢れて仕方ないようだ。奈良坂は目を輝かせながらあごに触れた。
「記事タイトルは、そうだな……『二人三脚。青春をもう一度』なんてどうかな。


 三日目の室内練習場は、昨日より賑やかだった。ノースロー調整と宣言してほぼ一日走りに行ってしまった真尋が今日はいるのもあるが、報道陣の数も増えた。
「なんか、人多くない?」
「真尋がラ・リーグ最多勝取ったからじゃね?」
「要さんのキャリアハイっしょ。ベストナインにプラチナグローブ賞」
「いやー、それほどでも」 
「謙遜しなよ。いや、すごいんだけどさ」
 背中を合わせてストレッチをしながら、日本の未来を担うバッテリーはテンポの良い会話を繰り広げる。言っている内容のレベルが高い。最多勝にベストナイン。プロの世界で、だ。一般人の美澄からしてみれば、見上げすぎてひっくり返りそうな高さである。
 ただのキャッチボールも、球団の顔とも言える二人が行なうことで付加価値がつく。一球一球丁寧に、ゆったりとしたフォームから繰り出されるボールには伸びとキレがあって、圧倒された。
 一度休憩を挟んで、ブルペンへ移動する。ボールケースを抱えて出口を目指すと、報道陣も美澄の後に続いた。
「みんな、あんまり期待しないでよね。オフシーズンだから全然球速出ないし。指先の感覚重視で、二十球で切り上げる」
「出力は七割未満な。力むなよ、真尋ぉ」
「ん。じゃ、まずはストレートから」
 シーズン中はほとんど披露しないワインドアップから、大きく踏み出した左足に体重をのせて腕を振る。美澄とは比べるのも失礼なくらいの強烈なバックスピンがかかったボールがゾーン低めいっぱいに決まり、気持ちのいい捕球音が響き渡る。見守っていたメディア関係者たちから拍手が起きた。
「ナイスボール!」
「ん」
 構えた場所から少しも動かさなかったコントロールのよさを、要が強めの返球で称えた。
「見たか、ミット全く動かさなかったぞ」
「さすがは常勝スワンズの若きエース」
「この時期なのに、余裕で百四十後半は出てるだろ。来シーズンも期待できるな、こりゃ」
「間宮要や丹羽夕晴もすごいけど、若槻真尋もやっぱり天才だ。ラ・リーグの王者はスワンズで決まりだな」
「……?」
 要は高めにミットを構えて次のボールを待っている。聞こえてくる声は、真尋への称賛ばかりだ。そんな中で美澄は一人、首を傾げる。嫉妬でも羨望でもない。何かがおかしい。
 次の一球はセットポジションからのストレートだった。指先を離れたボールは要求された場所に吸い込まれていく。ドパァン、と腹に響く爽快な音がした。
「仕上がってんなぁ、真尋ぉ」
「ん。来年こそは日本一だから」
「まあ、日本選手権でもお前は負けなしだったもんな。心配してねーよ。次、スライダーいくか」
「っ、ちょっと待って!」
 要が構えるよりも早く、今まで静観していた美澄が突然声をあげた。要や真尋だけでなく、ブルペンにいたメディア関係者全員の視線が集まる。
「……なに? 急に」
 真尋の表情から温度が消える。投球練習を遮られたのだ、無理もない。が、引くつもりはなかった。
 エースの鋭い視線や声に怯むことなく、美澄は傾斜のあるマウンドへ向かった。ぴんと張り詰めた空気が肌を刺す。静まり返った空間に、美澄の足音が大きく響いた。
「肘、おかしいよね」
「っ」
 確証はなかった。けれど、胸騒ぎがしたのだ。
 身体の横に下ろされていた右手を一瞥してから、気の強い双眸を見つめた。逸らすものか。
「見せて」
「……は?」
「要さん、少し中断でお願いします」
「どした?」
 美澄は真尋の左腕を引いて、壁際に設置されたベンチ座らせる。同時に、要が神妙な面持ちで駆け寄ってきた。美澄が練習中に口を出したことなどないし、相性の良し悪しで言えば悪いほうの真尋に声をかけて中断させたのだ。
 警戒の色を最前面に押し出した瞳が美澄を睨めあげた。美澄はそれを意に介さず、そっと真尋の右手に触れたが、拒絶されて身体の後ろに隠されてしまう。
「ね、ホント、何?」
「肘を庇ってるように見えたから。今回の合同自主トレのトレーナーとして、このまま見過ごすわけにはいかない」
「……は? 真尋。お前」
 要の驚きと困惑に満ちた眼差しから逃れるように、真尋はふいっと顔をそむけた。図星か。視線の高さを合わせようとしゃがむと、自然と見上げる形になる。
 視界の隅で、要がメディア関係者を全員ブルペンの外へ出すのが見えた。完全に三人だけの空間になってから、真尋がぽそりと呟く。
「…………大げさだって」
「真尋くん」
「……」
「痛みが出てからじゃ遅いんだ。正直に教えてほしい」
「あんたに何が分かるんだよ」
「君が抱える重圧の大きさは分からないよ。でも、俺みたいになってからじゃ遅いんだ」
 美澄はそう言って、自らが着ていたアンダーシャツの左袖を捲りあげた。
「え、あんた、それ……」
 肘に残る傷跡をその目に映して、真尋が息を飲んだ。消したい記憶だけれど、きっと一生消えない傷だ。こんな思いを、もう誰にもしてほしくない。
「高校二年の冬に覚えた違和感を、そのままにした結果だよ。俺も最初は痛くなかったんだ。でも、違和感は徐々に痛みに変わっていった。お前が抑えれば勝てるって言われたら、痛いですなんて言えなくて……自分が頑張らなくちゃって全部背負った結果、俺の肘は壊れた。高校三年の春にね」
「……っ、そんな」
「だから、真尋くん。君の為にも、チームの為にも、教えてほしい」
 気の強い双眸が、不安と迷いで揺れていた。エースとしてのプライドと覚悟が、弱い部分をさらけ出すのを怖がっている。立場の重さは比べ物にならなくても、美澄だって同じだった。
 静かに言葉を待っていた。真尋は口を開いて何かを言おうとしてはためらい、視線を落とし、やがて、消え入りそうな声で話し始めた。
「……に、日本選手権の時から、おかしくて」
「うん」
 右肘を摩る左手が震えている。
「でも、俺はエースだから……チームを引っ張らなくちゃって思って、言えなかった」
 ピンチの場面だって胸を張っているようなエースのこんなに弱々しい姿を、美澄は初めて目の当たりにした。普段の傍若無人な態度はどこへやら。随分としおらしくなってしまった真尋は、縋るような目を美澄へ向ける。
「でも、痛くないから大丈夫だって思ったのはホントなんだ。それに、来年こそは日本一にならなくちゃいけないのに……こんな所で、立ち止まってなんかいられない」
 我が強く、勝気で、気難しいと言われる若きエースは、一生懸命に、誠実に言葉を探して紡いでいく。要の言うとおりだと思った。強すぎるくらいの責任感も、思いの強さも、あの頃の美澄とよく似ている。
「真尋」
「……はい」
「何で言わねーんだよ。エースだからって、意地張るとこじゃないだろ」
「っ」
 険を帯びた口調が真尋を責めた。あまり聞かない低い声に、真尋は何も言えずにキュッとこぶしを握りしめて要を見上げた。
「壊れてからじゃ、失くしてからじゃ遅いんだよ。戻ってこねーの。エースなんだから、それくらい分かれよ……」
 普段が明るく温厚な人が怒ると、本当に怖いのだ。甘さのない声や眼差しに、真尋の大きな眼がじわりと潤んだ。

 要の言葉が何を意味するのか、分からないほどバカじゃない。美澄の左肘は壊れた。要の母親は亡くなった。どちらも少なからず、我慢強さがトリガーとなった。痛みを堪えるような顔は、異変に気づけなかった自分を責めているようにも見えた。
「……すみません、でした。黙ってて」
 すっかり落ち込んでしまった真尋にかける言葉を、上手く見つけられないのかもしれない。黙りこんでしまった要の代わりに、美澄がフォローに回る。
「真尋くんの判断は、プロとしてはダメかもしれない。だから、要さんが正しいと思う」
「……うん」
 震える右手の指を、両手で包み込んだ。よく手入れの行き届いた指先は、緊張で冷えきっている。
「でも、俺はプロじゃないから言うけれど、気持ちは分かるよ……というか、同じ気持ちでコレだからね」
 肘の傷を掲げて苦笑した。笑うところなのに、要も真尋も痛そうな顔をする。
「でも、大丈夫。ここで気づけたから、大丈夫だよ」
「美澄さん……」
「冷やしながら病院へ行こう。要さんはホテルのフロントか近くのコンビニから、氷を持ってきてもらえますか? 俺はタクシーと病院の手配、それから球団への報告をします」
「分かった」
 空港からホテルまでの移動で利用したのと同じタクシー会社の番号を呼び出し、耳にかざす。不安そうに縮こまった背中を摩りながら、どうか軽症であることを祈った。