終業後、院長の多々良に話があると伝えた時、彼は全てを悟ったような、寂しそうな笑みを浮かべた。いつもはほとんどを担っている片付けを吉村に任せ、事務所へ場所を移す。そして美澄は、要から専属トレーナーになってほしいと打診があったこと、自分自身がぜひ受けたいと思っていることを申し出た。したがって、多々良接骨院を退職したいということも。
「あい分かった。最近の君たちを見て、遅かれ早かれこの話が出ると思っていたよ。でも、美澄くんの人生だ。僕に止める資格はない」
「……すみません」
「美澄くんは、若くてやさしくて腕もいい優秀な人材だ。患者さんからの人気や信頼もあるし、本当は辞めてほしくない……でも僕はね、君たちが高校でバッテリーを組んでた姿を見ているから」
「え……?」
 初めて聞いた話だった。多々良の元で働き始めてから一度だって、過去に踏み込まれたことはない。
「テレビ越しでも伝わってくる信頼関係。夏の甲子園の決勝では惜しくも負けてしまったけれど、二人ともいい顔をしていて感動したし、とてもいいバッテリーだと思ったよ」
「なら、俺が、野球を辞めた理由のことは……」
「肘の傷を見ているから、何となくはね。誰だって、聞かれたくないことの一つや二つあるだろう?」
 多々良は一度言葉を切って、少しうつむきがちだった美澄の顔を下から覗き込んだ。いつも通りの穏やかな眼差しに、朝から強張っていた肩の力が少しだけ抜けた。
「プロスポーツ選手の専属トレーナー。名誉ある肩書きじゃないか。もっと誇らしげな顔をしていいんだよ」
「でも俺は、多々良先生にも吉村先生にも、言葉では表しきれないくらいお世話になりました。それなのに、俺は」
 自分なりに考えて決めた未来なのに、多々良接骨院を踏み台にしているみたいで今さら足がすくんでいる。
「美澄くん」
「っ、はい」
「君がここを去ったとしても、一度できた繋がりは切れないよ。君と間宮さんだってそうだろう?」
「……はい」
 六年の空白を経ても、二人は今共にある。その事実が、多々良の言葉に重みを持たせた。しっかりと頷いた美澄に、多々良は朗笑する。
「君なら大丈夫。立派に間宮さんを支えられると思う。頑張りなさい」
「っ、はい、ありがとうございます……!」
 この人の元で働けてよかった。心からそう思う。

 多々良接骨院への最終出勤日は、オフだった要が迎えにきてくれた。いつもは来院しない曜日の学生たちも駆けつけてくれ、接骨院の前はすっかり大所帯。なんだか有名人にでもなった気分がして、少し落ち着かない。
「多々良先生、吉村先生。短い間でしたが、本当にありがとうございました」
「こちらこそ、一生懸命働いてくれてありがとう。いつでも遊びにきていいからね」
「はい!」
「美澄、身体には気をつけてな。人のケアにばっか気ぃ取られて、自分が身体壊したら元も子もないから」
「はい。肝に銘じます、吉村先生」
「頑張れよ」
「ありがとうございます!」
 後ろ髪を引かれる思いだったが、飛ぶ鳥は跡を濁さず行くべきだ。門戸に横付けされたSUVの助手席に乗り込むと、要が窓を開けてくれた。学生たちが駆け寄ってくる。
「美澄先生、頑張ってな!」
「うん、ありがとう。みんなも、部活頑張ってね」
「っす!」
「勉強もね」
「……っす」
 半分以上の子が目を逸らしたのは気の所為ではないだろう。運転席の要も「耳がいてーわ」と呟いている。
「間宮選手、美澄先生いじめないでくださいね!」
「おう、任せろ。幸せにする」
「あはは、プロポーズみてー!」
 車窓に縁取られた景色が、ゆっくりと動き出す。手を振る顔が遠くなり、見えなくなって、窓を閉めた。門出を祝うようなバラードが、控えめに車内を彩っている。
 宴の終わりのような物悲しさが、心に薄く膜を張る。喪失感がないと言えば嘘になる。でも、このすき間を埋めてくれる人の隣が、美澄の新たな居場所だ。
「これでもう、後戻りはできないですね」
「……後悔してる?」
「いいえ。ワクワクしてます」
「そっか」
「でも、これからは要先輩の成績が落ちてクビになったら、俺も一緒に路頭に迷うってことになりますね」
 美澄はイタズラっぽく口角を上げた。
「うぇ~、縁起でもねーこと言うなし」
「なので頑張ってください。俺も全力で支えます。一蓮托生ですから」
「ああ、大舟に乗ったつもりでいてくれ。世界一のキャッチャーの専属トレーナーにしてやるからな」
 昔から有言実行を地で行く男だ。少しも心配はしていない。
「あと、一つ言おうと思ってたことがあって」
「うん」
「……よ、呼び方を、変えようと思うんですけど」
「え?」
「要先輩じゃなくて、要さん。まあ、先輩であることに変わりはないんですが……これからは仕事相手にもなるので、気持ちの問題、です」
 あと、要さんと呼んでいる真尋が少し羨ましかったのもある。絶対に口には出さないけれど。
 そんなところに拘らなくていいと言われるだろうか。膝の上で親指をすり合わせながら、ちらりと横顔を窺う。街灯の淡い橙が照らし出すかんばせは、早朝の凪いだ海のように穏やかだった。
「分かった。俺も早く慣れるようにするわ」
 今日はこのまま要の家に行く予定だった。しばらくは契約等で忙しくなるので、球場により近い要の家に居候させてもらうことになっている。
「要さん」
「なに?」
「呼んだだけです。ふふ、なんかくすぐったいですね」
「……呼ばれるほうもな」
 口元がもにょもにょと動いた。珍しい表情だ。耳の先が赤く色づいている。
「要さん、照れてます?」
「……ん」
「じゃあ、早く慣れるようにたくさん呼びますね」
「おー。よろしく頼むわ」
 決意の先には、どんな未来が待っているのだろう。


 歓声が、怒声と悲鳴に変わった。ベンチ裏でリュックの中身を整理しながら、モニターで音声のない試合映像を観ていた美澄は、血相を変えて立ち上がる。
 ベンチからグラウンドに出て、バッターボックスに駆け寄った。今の打席で死球を受けた要は、プロテクターを外しながらマウンドに厳しい視線を送っていたが、美澄の姿を視認するなり表情をやわらげた。
「あ、美澄だ」
「要さん、どこに当たりましたか」
 外されたプロテクターを受け取り、一塁へ向かいながら確認する。左肘の外側を指さす顔に変化はない。
「エルボーガードだったから大丈夫。ちょっと響いてるけど」
「冷やします?」
「いや、大丈夫。アザになるかならないかぐらいじゃね?」
「分かりました。違和感や痛みが続くようなら教えてください」
「りょーかい。ありがとな」
 別れ際にぽん、と背中を叩かれた。それが当てられた左腕だったから本当に大丈夫なのだろうが、一応攻守交替の際に冷却したほうがいいだろう。
 ベンチに戻ると、東京スワンズの監督である新川が美澄を呼んだ。エルボーガードに当たったこと、現時点ではプレーに支障が出るような痛みはないこと、攻守交替の際に念の為冷却しようと思っていることを伝えてからベンチ裏へ下がる。選手交代の必要はなさそうだが、後から腫れが出ないことを祈るばかりだ。
 後続が打ち取られて、塁上の選手がベンチに戻ってきた。数人がかりでキャッチャーの防具をつけていく要の肘に冷却スプレーをかけていると、プレー中特有の張り詰めた空気をほんの少しだけゆるめて目を細めた。
「少し赤くはなってますが、大丈夫そうですね」
「だな。ってか、試合中にお前の声聞けるの、なんかいいなぁ」
「要さん。それ、昨日も言ってましたよね」
「言ったっけ……あ、言ったわ」
 レガースの装着を手伝っていた控え選手がくすくす笑っている。東京スワンズは選手同士の仲が良く、雰囲気もいい。間宮要の専属トレーナーとして、試合中もバックヤードに入るのを許されてから知ったことだ。
 新しい生活がスタートしたけれど、自宅から通える距離に本拠地であるスワンズドームがある為引越しはせず、試合後にどちらかの家へ二人で帰って食事をするというルーティーンもそのまま続いていたので、今までの生活と変わらない点も多かった。大きく変わったことといえば、遠征で東京を離れても欠かさずケアができるようになったこと、それから、試合を観る場所が観客席ではなくベンチ裏――客人から関係者側の立場になったことだろうか。
 キャッチャー用のヘルメットをかぶった要は、バックスクリーンに表示されているスコアボードを見上げた。九回表。三対ゼロ。今日も圧巻のピッチングで相手をたったの三安打に抑えていた真尋が、今シーズン十三個目の勝ち星を自らの投球で決める為、颯爽と飛び出していった。相手はクリーンアップから始まる好打順だが、マウンドに駆けていく背中を見る限り心配はいらないだろう。
「優勝マジック、残り三かぁ。よし、最後まで気ぃ抜かずに守ってくるわ」
「行ってらっしゃい、要さん」
「ん。行ってきます」
 差し出されたこぶしに、左手をコツンとぶつける。グラウンドに駆け出す背中は広く、頼もしかった。

 常勝の名にふさわしい戦いぶりで順調にマジックを減らした東京スワンズは、危なげなくリーグ優勝を決めた。試合の後に始まった優勝を祝うビールかけのライブ中継を、美澄はひと足先に戻ってきた間宮家のリビングに設置されている八十インチテレビ越しに眺めていた。大きいので、キッチンからでもよく見える。
 今夜のメニューはミートドリアにコーンスープにグリーンサラダ。優勝記念のサプライズとして、イチゴのパフェも作る予定だ。
 チームキャプテンの丹羽が普段どおりのローテンションで挨拶を終え、宴が始まった。画面を横切る白い泡。見ているだけでも酔っ払いそうだ。
 監督の新川は強面でガタイがよく、厳つい見た目をしているが、今日ばかりは無礼講だ。遠慮なく頭からビールをぶっかける選手たちに、見ている美澄のほうがハラハラしてしまう。
 選手にインタビューをするアナウンサーももれなくびしょ濡れになる中、憧れを探す。試合中は主役級のオーラを放っていた要は、インタビューを受けるだけ受けて隅っこでビールの雨を避けていた。人にはしっかりかけているところが彼らしい。 
 サラダとコーンスープが完成し、ちょうどいちごパフェを仕込み終える頃合で、玄関から物音がした。スポンジやムース、ストロベリーソースを仕込んだ器を冷蔵庫に隠し、オーブンにミートドリア入れた。近づいてくる足音は軽やかだ。
「たーいまー」
「おかえりなさい。早かったですね」
「シャワー浴びて速攻帰ってきた。すげーいい匂いする……」
「ドリアに焼き目がついたらすぐ完成なので、座って待っててください」
「ありがとー」
 随分と機嫌がいい。優勝当日だから当たり前か。
「要さん、酔ってます?」
「んや、ビール苦くて好きじゃねーから、意地でも口に入らないようにしてた」
 スポーツバッグを床に置いた要は、疲れたぁ、と気の抜けた声を出してソファに沈みこんだ。ビールかけ中継を終えてからも東京スワンズ特集を流し続けていた東テレのチャンネルでは、今シーズンのスーパープレー集が始まったところだった。劣勢の場面で見せた、丹羽と要の意表を突くダブルスチール。自分の姿を見た要はむくりと顔を上げ、「俺~」とキッチンの美澄にアピールしてきた。

 ビールを飲まなかったこともあり、かなりの空腹だったらしい。熱い熱いと言いながらミートドリアを頬張る顔は幸福感に溢れている。
「これ、俺めっちゃ好き」
「ありがとうございます。要さん、ミートソース好きですよね」
「うん。米にもパスタにも合うなんて、ミートソース神だわ」
「ところで、皆さん真っ赤な顔してましたけど、まっすぐ帰ったんですか?」
「何人かは飯食い行くって言ってたし誘われたけど、断って帰ってきた。美澄の飯のほうが絶対美味いし」
「そうですか?」
「うん。間違いない」
 悪い気はしなかった。
「あ、そうだ。帰ってきたら改めて言おうと思ってたんですけど」
「うん」
「リーグ優勝、おめでとうございます」
「ありがと。とりあえず無事にリーグ三連覇ってことでひと安心かな。ま、ラストシリーズに日本選手権って続くから、気は抜けねーんだけど」
 ラ・リーグのペナントレース終了時点での上位三チームによるトーナメント戦、ラストシリーズ。それを勝ち抜いて初めて、レ・リーグ王者と日本一をかけて戦う日本選手権への挑戦権を得る。日本一への道はまだまだ遠い。
「さっき、ビールかけのライブ中継見てたんですけど」
「うん」
「要さん、満面の笑みで新川監督の頭にビールそそいでるから、こっちが緊張しました」
「許されてんだから、やらなきゃ損だろ。俺、いっつも怒られてるし」
「新川監督も、現役時代はキャッチャーで強打者でしたもんね」
 日本代表にも選ばれていたのを、美澄も覚えていた。打てるキャッチャー。まるで要のような立ち位置の選手だった。
「そ。小学生の頃にテレビで観てた人が監督って、変な感じだよな。野球始めた時からキャッチャーだったから憧れてたけど、あの頃の俺に教えてやりたい。お前、あの人にめちゃくちゃ叱られるから覚悟しとけよって」
「タイプが似てる分、期待されてるんですよ」
「だといいな。ま、あと二回ビールかけのチャンスあるから、次は背中からそそいでやろうと思う」
「あはは、頑張ってください。ちなみに、デザートはいちごパフェです」
「マジ!? やった」


 ペナントレースの全試合が終了した。毎年、夏の弱さが課題と言われていた要は打率、打点、本塁打数、盗塁数に盗塁阻止率など、可視化される項目のほぼ全てにおいてキャリアハイを残していた。つい数日前に始まったばかりのラストシリーズでも絶好調。連日その活躍が新聞やテレビ、ネットニュースでも報じられている。
「美澄ぃ、何見てんの?」
 風呂から上がってきた要が、不思議そうに目を丸くした。ソファに腰かけてスマホを見ていた美澄は、画面の上部に表示された見出しを読み上げる。
「――キャリアハイの間宮要、今日も打った! 五打数四安打の大爆発! という記事です」
「うわ、恥ずかし。俺の記事かよ」
「他にもたくさんあるんですよ。見ます?」
 どの記事の写真も素敵だ。プレー中、どの瞬間を撮られても整った顔を崩さない要は、女性人気もかなり高い。
「あー……いや、いいかな」
「え、たくさん褒められてるし、カッコイイのに……」
「自分の記事読んで「俺カッコイイー!」とはならねーだろ」
 キャッチャーミットを手に隣に座った要が、モゾモゾと手入れを始めた。寝ている時と並んで静かになる瞬間だ。
「……昨シーズンまでは夏に失速していたが、今シーズンはむしろ上り調子で駆け抜けた。誰もが認めるその活躍の裏には…………え?」
「どした?」
 突然動きを止めた美澄に、要がミットに向けていた視線を上げた。寄りかかるように肩を密着させ、手元を覗き込んでくる。
「アンチ記事でもあった?」
「いえ、でも、コレ……」
「んー? なになに……誰もが認めるその活躍の裏には、とある女性の存在か……あはは、ようは彼女ってことだろ? え、俺が調子いいのってそんな理由なの?」
 ツボに入ってしまったのか、要はミットごと腹を抱えて大笑いしている。シャンプーの甘い香りが鼻腔をくすぐって、目眩がしそうだ。
 今まで、要のそういった噂は聞いたことがなかった。でも、話が出たって何も不思議ではない。プロ野球選手で、レギュラーで、日本代表にも選ばれている実績のある人だ。引く手あまただろう。
「い、いないですよね……?」
 思いのほか、縋るような口調になってしまった。邪魔はしたくないけれど、失恋する心の準備はできていない。
「いないよ。一番長くいるの美澄だし」
「……」
「あ、その顔信じてねーな。じゃあ、一番長くいるお前に聞くけど。俺にそんな時間あったと思う?」
「いや、思わないです……」
 思い返してみれば、そんな時間は全然なかった。試合後はどちらかの家に帰って食事をして、ケアをして、次の日は一緒に球場へ行く。それが生活の一部になっているから気にもとめていなかったが、一日のほぼ全てを共にしている。誰かが介入するすき間なんてない。
 記事のコメント欄には、よく野球選手の取材を担当しているアナウンサーの名前や、始球式に登場して話題になった朝ドラ女優の名前などが好き勝手に書き込まれ、予想合戦が繰り広げられていた。要はそれを目で追いかけながら、まともに喋ったこともねーよ、と笑う。
「俺の周りで、去年までと変わったのはお前だよ。美澄」
「俺、ですか」
「うん。夏から、お前が一緒に飯食ってくれたじゃん? 毎年、暑くなると全然食えなくなって体重落ちてたのに、今年は全然落ちなかったし。身体のケアもしてくれたしな」
「身体のケアは、球団のトレーナーがいるじゃないですか」
「俺が素直に、どこが痛いそこが痛いって言えればな」
「あっ……」
 わざわざ隣県の接骨院に勤めていた後輩の元へやってくるような意地っ張りなのを忘れていた。
「ってことは、どういうことだか分かる?」
「え………わかんないです」
「つまり、俺の今シーズンの好成績はお前のおかげってことだよ、美澄ぃ~」
「おわっ」
 ミットをテーブルに置いた要は、美澄の腹にしがみついてきた。ぎゅーっと抱きしめられると温かいが、苦しくはない。
「……なあ、美澄」
「はい?」
 美澄の腹にじゃれついたまま喋りはじめた。服越しに伝わる呼吸がじんわりと温かくてくすぐったい。
「高校の頃、俺の学年にいた山田って覚えてる?」
「覚えてます。要さんと同室だった山田先輩ですよね」
「アイツ、中学校の先生やってんだよ。数学の教師で、野球部の監督してんの」
「そうなんですね。俺、たまに勉強教えてもらってました。要さんが自主練から戻ってくるの待つ間とかに」
 ピッチングについての相談をしに部屋へ赴いた際、要がまだ戻ってきていないことがままあった。待たせてもらう間、丁寧に教えてもらった範囲のテストではいつも高得点だったから、教師と聞いて納得した。
「教え子が、多々良接骨院に通ってるらしくてさ。雪平っていう若い柔整師がいるって部員から聞いて、珍しい苗字だから美澄じゃないかって教えてくれたんだ」
 腹に巻きついた腕の力が強くなる。美澄はそっと、要の髪に触れた。
「腕のいい接骨院があるって言ってたのもホント。だけど俺は、どうしようもなくお前に会いたかったんだ」
「要さん……」
「また、会えてよかった」
 くぐもった声は、微かに震えていた。


 日本選手権、第七戦。ラストシリーズを勝ち抜いたラ・リーグ王者の東京スワンズとレ・リーグ王者のリングス神戸は、連日熱い戦いを繰り広げていた。
 最終戦までもつれ込んだ試合もいよいよ大詰め。九回表、東京スワンズの攻撃。ツーアウト一塁、一点ビハインドと後がない状況で打席に立つのは、四番の日下部だ。一発が出れば逆転。ヒットや四球で繋げば、ラストシリーズから絶好調をキープする要に回る。
 バッテリーがタイムを取り、内野陣がマウンドに集まった。スタンドからは、絶え間ない歓声が聞こえてくる。
 ベンチ裏で、美澄は音のないモニターを見上げた。画面越しに伝わってくる緊張感に手のひらが汗ばむ。ネクストバッターズサークルからバッターボックスを見つめる背中は、俺に回せと叫んでいるようにも見えた。
 
 甲子園球場が歓喜に包まれた。激闘の末、四万七千人のファンが見守る中で二年ぶりの日本一に返り咲いたリングス神戸の選手たちが、グラウンドの中央で監督を胴上げしている。
 最終回の攻撃で、東京スワンズは要まで打席を回すことができなかった。相手の守護神の気迫が四番のスイングを上回り、ファーストのミットに白球が収まった瞬間、要は悔しそうに天を仰いだ。最終スコアは三対四。ツーランとタイムリー。三点とも、要の打点だった。
 しばらくは球場全体を巻き込んだお祭り騒ぎが続くだろう。大歓声に居場所を奪われたスワンズの選手たちが続々とロッカールームに引き上げてくる中、最後まで攻守の要としてチームを引っ張っていた先輩捕手だけが戻ってこなかった。選手たちに聞いても知らないと言うし、一体どうしたのだろうか。
 どこかを痛めたか、急に体調を悪くして動けなくなったのかもしれない。心配になって捜索を開始したが、廊下はもちろん、シャワールームにもトイレにも姿は見当たらなかった。残るはベンチだけだ。他にいなければここだと分かってはいたが、本当にいるのだろうか。半信半疑で覗き見た美澄の目に映ったのは、勝者の胴上げを目に焼き付ける広い背中だった。
 要さん、汗が冷えますよ。もう戻りましょう。声をかけようと息を吸い、肩を叩こうと持ち上げた左手が、行き先を失くして宙をさまよった。茫然と立ち尽くす要のこぶしが、悔しさに震えていたから。
 美澄から見た要は、相手チームを含め、今日グラウンドに立っていた選手の誰よりも活躍していた。それでも、勝てなければ無かったことになる。どれだけいいピッチングができた試合でも、負けたら意味がないのと同じだ。
 少しの間、彼を一人にするべきだと思った。美澄は何も見ていない。だから、知らない。それが最適解だった。
 要の心は今、美澄が唯一踏み込めない場所にいる。手を伸ばしても、触れられない。


「ごめんな美澄。お待たせ」
「いえ。お疲れさまでした」
「ん。よーし、ホテル戻るかぁ」
 ベンチでたしかに滲んでいた悔しさは、彼がロッカールームから出てきた時にはもう微塵も感じ取れなかった。温厚で、ヘラヘラしていて、それでも憧れずにはいられなかった、いつも通りの間宮要がそこにいた。
「すごい試合でしたね」
「そーだな。でも、四点は取られすぎた。ピッチャーに悪いことしたよ。もっと組み立てようはあった」
 口調が軽いから、事情を知らない人から見たら日本一を決める戦いで敗れた直後だなんて思わないだろう。悔しい、悲しい、痛い、しんどい。そういった心に影を落とす感情を、要は誰よりも上手く隠せる。
「荷物、持ちます」
「いや、今日はいいや。もうこの先試合ないし」
「でも」
「持たせてよ。今日くらいは。な?」
 ぬっと伸びてきた大きな手が、ぽんぽんと頭を撫でた。まだ試合の熱が残っている手のひらに、美澄はきゅっと眉を寄せた。悔しくないはずがないのだ。たった一人、ベンチに残ってこぶしを震わせているような人が。
「要さん」
「ん?」
「あの、ピッチャーだった俺からの意見なんですが」
「うん」
「相手にツーランを打たれたあの球、逆球でしたよね」
「……なに、慰めてくれてんの?」
「はい。慰めてます」
「あはは、そんな落ち込んでるように見えた? 情ねーなぁ、俺」
 むしろ逆だ。全然落ち込んでいるように見えないから心配なのだ。誰よりも責任感の強い要が、平気そうに振る舞うから。ベンチであんな背中を見なかったら、美澄だって気づけなかった。
 通用口のドアを開けると、そこにはたくさんの人がいた。東京スワンズの応援ユニフォームを纏った大勢のファンがベルトパーテーションの向こう側に並び、姿を見せた要に温かい拍手の雨を降らせる。お疲れさま。ナイスプレー。聞こえてくる労いの言葉に、要は一瞬だけ戸惑いの色を見せたが、すぐに背すじを伸ばして立ち止まった。美澄は数歩下がり、その後ろ姿を見守る。
「皆さんの温かい応援に、日本一という結果で応えられず申し訳ありませんでした。来シーズンこそ、日本一を奪還できるよう励んでいきます。本当にありがとうございました!」
 深く頭を下げた要に、拍手が一層大きくなった。顔を上げる。一年間背負い続けてきた重圧から、ほんの少しだけ解放された瞬間だった。
「さ、行こっか」
「はい」
 ふにゃりと目元をゆるめて再び歩き出した要の半歩後ろを行く。拍手は止まない。自分に向けてではないと分かっているのに、誇らしい気持ちになる。世界中に、要のことを自慢してまわりたい。カッコよくて、努力家で、ヒーローで、みんなに愛され応援される先輩捕手を、世界中の人に知ってほしかった。

「いやー、惜しかったなぁ」
「ああ、すごい試合だった」
 見送りのファンの列が途切れる、少し前のことだ。人混みの後方で会話するおじさん二人組の声が、やけに鮮明に聞こえてきた。
「間宮はすごい選手なんだけどな。負けたのに全然悔しそうじゃないのがなぁ」
「あー、分かる。若いからかぁ? ハングリー精神が足りないというか、なんというか」
 あの、聞こえてますけど。視線を送ってみたが、会話に夢中で要が近くを通りかかっていることにも気づいてなさそうだ。美澄にも届いているのだから、きっと要にも聞こえてしまっているだろう。
 抱えた悔しさも、秘めているハングリー精神の強さも、本人にしか分からない。一つだけ言える確かなことは、要は負けて落ち込んでいるってことだ。常人にはコントロールできないような激情を強い精神力で押さえつけ、悟られないように強がって、ようやくまっすぐ立てているのに。敗戦が心に響いていないと勝手に決めつけられるのが、美澄はどうしようもなく悔しかった。東京スワンズが日本一を逃したことよりも、ずっとずっと悔しかった。
 要はすごい選手だし、性格上、飄々としているように見えるかもしれないけれど、負けて何も思わないわけじゃない。ハングリー精神が足りない人が、こんな大舞台で活躍できるわけがない。今すぐ駆け寄って口をふさいで訂正して復唱させてやりたかったが、そんな騒ぎを起こしたら美澄の首が飛ぶだろう。ああもう、もどかしい。
「あれ、美澄ぃ?」
「っ、すみません」
 いつの間にか、前を歩く背中との距離があいてしまっていた。足を止めて振り返った要に呼ばれ、スピードを上げる。隣に並ぶと、じっと目を覗き込んできた。少しカサついた指先が、頬に触れる。
「んな泣きそうな顔、しなくていいよ」
「……でも」
「ありがとな。でも大丈夫。ああいうこと言われるのは慣れてるから」
「っ」
 ほら、やっぱり聞こえていた。下唇を噛み締め、息を飲む。
「キャッチャーは気取られちゃいけないんだから。上手く隠せてんなら光栄だろ。お前が分かってくれるだけでいい。俺はそれ以上の贅沢なんて望まないよ」
 いつもより低く、甘やかな声音が鼓膜を震わせると、じわりと視界が滲んだ。悔しい。スワンズの敗戦も、要を分かってもらえないことも、全部。
「……うぅ~……」
「え、美澄、うそ」
「くやしいぃ……」
 涙のフィルターでぐにゃぐにゃに歪んだ要が、ああもう泣くなってぇ、と情けない声をあげた。


 ホテルの大宴会場で夕食をとった後、要はさっさと部屋に引き上げてしまった。シーズンの打ち上げを兼ねて盃を交わす人々も多い中、ずっと浮かない顔をしているのが気になっていたが、球団全体で集まっている場だったので、なるべく声をかけないようにしていた。
「すみません、お先に失礼します」
 周囲のスタッフに声をかけ、美澄は腰をあげた。宴会場を出て一階のフロント横にある売店に立ち寄り、アルコール類が並ぶ棚から取った見るからに甘そうな桃味のチューハイと自分用のストロング系を一本ずつ購入する。エレベーターホールでスマホのメッセージアプリを立ち上げ、「今からそっち行きます」と簡潔な文章を送った。
 宛先はもちろん先輩捕手。身体は疲れているだろうがしばらくは目が冴えてしまって眠れないだろうと踏んで、返事は待たずに選手たちが宿泊する部屋が並ぶフロアを目指した。静かな廊下に、ビニール袋の擦れる音が響いている。
 ノックを三回。待ち構えていたのか、すぐに鍵の開く音がしてドアが開いた。ひょこりと顔を出した要は、嬉しそうに目を細める。
「いらっしゃい」
「おじゃまします」
 手を引かれて中に入るとテレビはついておらず、代わりにスタンドに立てかけられたタブレットが試合の映像を流していた。東京スワンズ対リングス神戸。おそらく今日の試合だろう。
「一人で、反省会してたんですか」
「ん。鉄は熱いうちに打てって言うだろ。分析して、来シーズンに繋げねーと。意味のない負けにはしたくないしな。ま、美澄がきてくれたから今日はもう終わりにするけど」
 スツールに腰かけ、タブレットの電源を落とした要が美澄を手招いた。
「何買ってきたの?」
「お酒です。ストロングは俺ので、こっちのチューハイは要さん。甘そうだし、度数も低めなので飲めるかなと思って」
 近くにあった一人がけのソファに座り、ビニール袋から缶を取り出す。要はスツールを移動させ、美澄の隣に落ち着いた。
「おお、桃味だ」
「一番甘そうなのを選んでみました。普段は飲まないのも分かってますが、今日くらいはどうかなと思って」
「俺、酒とか久々に飲むわ」
 人にすすめるならまず自分からか。プルタブを引けば、要もすぐにそれに続いた。缶をぶつけ合う。
「あ、これ甘い!」
「飲めそうですか?」
「ん。美味い」
 要はくぴ、と喉を鳴らし、唇を舐めた。ちらりと覗いた厚く真っ赤な舌に目を奪われる。視線がぶつかると、要はくすぐったそうに目を細めて口角をあげた。あまり強くないのだろう。首がうっすらと赤い。

 おそらく、ささやかな乾杯をしてから三十分も経っていない。隣に座って三パーセントの低アルコールチューハイを飲んでいた先輩捕手は、すっかり赤い顔をしてテーブルに頬杖をついていた。ジュースみたいなものじゃないのか。そう思う美澄は酒には強いほうだった。
 先ほど電源を落としたタブレットは、再び日本選手権最終戦の映像を流している。酒の肴にするには随分と苦すぎると思うし、実際、要の目も据わっている。
「……美澄」
「はい?」
「勝てなかった」
「……はい。残念でしたね。でも、いい試合でしたよ」
「俺、大事な試合は、負けてばっかりだなぁ。甲子園の決勝も、負けたじゃん」
「……」
「ごめんなぁ、お前が頑張って投げてくれたのに、勝たせてやれなかった。四番なのに打てなかった」
「それは、俺だってクリーンアップを打ってたんだし、点を取られたなら自分で取り返すべきだったんです。要さんだけの所為じゃない」
「んー……でも、ほんと、ダメなキャプテンだったから……」
「ダメなんかじゃないですよ。俺、要さんにすごく憧れてたんですから」
 どうしよう。すごく酔っている。こんなに下戸だったとは思わなかった。いつにも増してふわふわと甘ったるい口調が並べるのは、いつもは頑丈な「理想の間宮要」のベールに隠れている、ネガティブな胸の内だった。
「なあ、美澄」
「はい」
 深い色をした虹彩が、ゆらゆらと揺れている。今日は元々話を聞くつもりで部屋まで訪れ、盃を交わしたのだ。一つも取りこぼすものかと目を合わせた。
「うちの母さんな、女手一つで俺のこと育てて、高校まで好きなように野球させてくれたんだ」
 私立で寮生活。特待生制度があるにせよ、費用はかかる。
「プロで活躍して、一日でも早く母さんに楽させてやりたかった。ドラフトでスワンズにくじ引いてもらって、さあこれから恩返しだって思ってたら、死んじゃってさ。これからどうしたらいいのか、本当に分からなくなった。葬式ん時に気の毒がってくる親戚の人たち、会ったこともないんだよ。俺が小さい頃に父さんが死んで、母さんが一人で頑張ってたのに、誰も手ぇ差し伸べてくれなかった。それを幼心にも理解してたから、母さんが死んで悲しむよりも「プロ野球選手の間宮要」ばかり見てくる大人たちに囲まれて、俺、だーれも信じられなくなった」
 色濃く濡れるまつ毛が、瞬きのたびに震える。要は美澄から視線を外すと、自嘲の笑みを口の端に浮かべて、流れ続ける試合映像をその目に映した。
 つらかったですね? 頑張りましたね? 浮かんできた自分の言葉の軽薄さに腹が立つ。全てをアルコールと共に飲み込んだ。
「後悔しかしてないんだ。でも、後悔しても独りぼっちだから。ああ、もし母さんが生きてても、恩返しできてないかも。大切なところで、いつも勝ちきれないんだもんな」
「そんなことないです。お母さんも、今の要さんの活躍を見て喜んでると思いますよ」
「でも、今日だって俺のリードで負けた。逆球だろうが結果論だ。俺がリードした試合で打たれて負けた」
「……」
「キャッチャーは楽しいし、生まれ変わってもキャッチャーしかやらないと思うけど、時々重い時がある。みんなが天才だなんだって言ってくれるほど、俺は頼れる選手じゃねーよ……」
 要はそう言って、テーブルに伏せてしまった。腕が缶に触れそうだったので、そっと遠ざける。半分も減っていなかった。
 想像していたより、ずっとたくさん抱え込んでいたのだ。その全てを胸に押し込めて、要は独りでプロという厳しい世界で戦っていた。
 美澄は要に救われた。もう投げるのが怖くないし、変化球だって投げられる。野球が好きだと、隠さずに胸を張って言えるようになった。要は恩人だ。高校の時、右も左も分からなかった美澄を導いてくれた。六年の時を経て再会してからは、暗闇から引っ張りあげて光を教えてくれた。
 自分には、何ができるだろう。美澄は悩んだ。カァン、と軽やかな打撃音がタブレットから響いた。決勝点となるツーランを打たれたシーンだ。要は少しだけ顔をあげて、痛そうな顔をする。
 美澄はそっと、要の手に己の手を重ねた。何万回とバットを振り、何度もマメを潰して、分厚く硬くなった手を握る。美澄も多少酔いが回っているのか、気恥ずかしさは少しもなかった。
「要さんは、あなた自身が思っているよりもずっとすごい選手ですよ」
「……美澄はやさしいなぁ」
「やさしさで言ってるわけじゃない。本気で思ってるんです。それに、独りぼっちじゃない」
「え……?」
「俺がいますから。要さんのこれからの野球人生を、一番近くで見るんです。一緒に歩んでいくんですよ。だから、独りぼっちになんかさせない」
 指を絡めて、ぎゅっと力を込めた。離れてくれと言われるまでは、意地でも離すものかと。
「はは……すげー心強いな」
「でしょう? それにチームメイトだっているじゃないですか。要さんが言ったんですよ、家族みたいだって」
「ん。言ったわ」
「みんながいますから。全部というのは難しいかもしれないですが、背負ってるもの、少しでも分けてください」
「……やっぱりお前はやさしいよ、美澄」
 熱を帯び、甘さを含んだ声だった。泣いているのかと思ったが、二つの瞳は潤んでこそいるものの、溢れてはいない。
 見つめ合っていた時間は、ほんの数秒だったかもしれないし数分だったかもしれない。視線がぶつかり、複雑に絡み合って、二人はそれが自然の理とでもいうように、引き寄せられた。
 唇が重なる。頬や鼻先に触れられた時には分からなかった生々しい柔らかさを脳みそが理解する間もなく、大きな手のひらが後頭部をそっと押さえつけてきた。どうするのが正解か分からずに、要の服をきゅっと掴んでみる。美澄とは対照的に肉厚な唇は、甘ったるくて桃の味がした。
「っ」
 口唇を割って咥内に入り込んできた舌が、蕩けそうなほど熱かった。歯列の裏側をなぞられ、口蓋をこしょこしょとくすぐられる。容赦なく襲いかかる快感と苦しさに、美澄はキャパシティを超えてパンクする一歩手前で踏みとどまりながら、必死で自らの舌を絡ませて応えた。嬉しかったのだ。要に求められるのが。
 酸素が足りなくてくらくらする。目の前の逞しい胸をトントンと叩いて限界を訴えると、要はすぐに離れていった。はふはふと肩を上下させて酸素を取り込もうとする美澄に対して、現役アスリートは少しも息を乱していない。
 酸欠でぼんやりとした思考が元に戻るにつれて、酔いも一緒に醒めていく。やってしまった。見つめ合って、何となくそういう流れになって、勢いでキスをしてしまった。
「す、すみません……」
 つい、勢いで。と弁解するのもおかしな気がして、とりあえず頭を下げて謝罪した。美澄はいいのだ。恋心を抱く相手で、キスをしてくれたのはむしろ嬉しかった。でも、要は違うだろうと考えたら血の気が引いた。
 謝罪に対する返答はなかったが、顔を上げた先のとろんとした表情に嫌悪の色はなかった。
「美澄、俺さ、ずーっと黙ってたことあって」
「……?」
 ぽす、と肩に頭がのせられた。力強い腕に、やさしく引き寄せられる。美澄も返事をするように、背中に腕を回した。
「ゲイなんだよね、俺」
 もちろんそれは初めて聞く事実だったが、驚きは少なかった。
「どうりで、女性関係の噂がなかったんですね」
「ん。でも公表はしてないから、女子アナが連絡先交換しようとしてきて困る」
「でも、公表していないことを、どうして俺に?」
「美澄なら、いいかなって思った。人には広めないだろうし、知ったとしても離れていかないと思ったから」
「信用されてるんですね、俺」
「……軽蔑した?」
「いいえ。全くしません」
 ずっと燻っていた期待の種が、心の中で芽を出した。憧れの人が進む道の邪魔にならないように、見ないふりをしてきた感情が、もてあますくらいの熱をもって暴れだした。
 俺は、この人の心が欲しい、

 太陽の光が視界を白く染める。まぶたをそっと持ち上げると、慣れない景色が広がった。
 ここが遠征先のホテルだというのはすぐに思い出した。どうやら、要と盃を交わした後、美澄は自分の部屋に戻らずそのまま寝てしまったらしい。
 まだ動き出すには早い時間だったが、二度寝をするには余裕がない。なんとなく落ち着かなくて寝返りを打っていた音がうるさかったのかもしれない。要がううんと唸って布団から這い出してきた。
「……みすみ?」
「すみません、起こしちゃいましたよね」
「……あさ?」
「はい。朝です。でもまだ早いですから、寝てて大丈夫ですよ」
「ん、いや、起きるわ……っつか、なんか頭いてー」
「ああ、昨日お酒飲んだからですかね」
 かなり弱い体質だったことが判明したから、少量でも二日酔いになる可能性は大いにある。
 要はゆっくりと起き上がると、手で口を押さえて大きなあくびをした。指のすき間からちらりと覗いた八重歯にドキッとする。厚めの唇に昨晩の口付けを思い出して、美澄は思わず目を逸らした。
「酒……あー、飲んだか。桃のやつ。あんまり覚えてないけど……美澄、俺大丈夫だった?」
「えっ……」
「ベロベロに酔って悔しくて大号泣とか、恥ずかしいことしてねーよな?」
「大丈夫です。泣いてませんでした」
 キスはしましたけど。しかも、ディープなやつを。よかったー、とふわふわ笑う要を横目に、心の中で呟いた。
「朝飯まで時間あるなぁ。シャワー浴びて、ちょっとランニングすっか。美澄も一緒に行こ?」
「あ、はい。付き合います」
「慣れない場所走んの、結構好きかも」
「俺もです。一旦部屋戻って、シャワー浴びて着替えてから戻ってきますね」
「あいよ」
 部屋の鍵を手に廊下に出ると、頬に熱が集まるのを感じた。心臓が大きな音を立てている。手でパタパタと頬を扇ぎながら、カーペット敷きの廊下を歩く。
 要の前では赤面しなかった自分を褒めてやりたかった。美澄だけに教えてくれた秘密。深い口付け。強さの中に秘めていた弱さも全て、美澄を魅了してやまない。まあ、本人は覚えていないのだけれど。
 どうしてキスをしたんですかと、本当は聞きたかった。だって、好きとは言われていないから。この人は、自分をどう思っているのだろうって。