帰宅の途につく人々から、勝利の余韻が伝わってくる。駅の方向へ歩く者、一般客用の駐車場へ向かう者。満員のドーム球場から一斉に移動する人々の波に乗っていた美澄は、途中で横道にそれて人の少ない道を歩く。
「こんばんは。お疲れさまです」
「こんばんは、雪平さん。いらしてたんですね。どうぞ」
 関係者用の通用口に立っていた警備員が、美澄の姿を見て相好を崩した。左にずれて道をあけてくれる。ぺこりと会釈して、中に入った。この道を進むと選手のロッカールームやシャワールームがあるが、そこまではいかずに近くにあったベンチの横で足を止めた。
 通用口周辺の通路は関係者専用なので基本的に人通りはないが、追っかけのファンが推し選手の姿をひと目見ようとやってくることがある。外で待つと何かと目立ってしまう。美澄の顔は目を引くのだ。先日、選手ではないのに数人の女性に追いかけられそうになって、名前を聞かれて……あの時は本当に怖かったので詳細は伏せるが、その事件をきっかけに要が美澄の入場証を発行してくれたので、最近は中で待たせてもらえるようになっていた。
 要が球団スタッフに「俺の後輩の雪平美澄。腕のいい、俺専属トレーナー的な?」と誰かとすれ違う度に紹介してくれたので、顔も名前も覚えられたようだ。何度か待たせてもらううちに、美澄も顔を覚えて挨拶や世間話程度はする間柄になった。こんな素性も知れない男によくしてくれるだなんて、要の信頼は相当厚いらしい。
 ここ一ヶ月ほど、休日を使って毎週のように試合を観にいっている。相手チームのホームで試合をする時は遠征になる為会えなかったが、ホームでの試合や同じラ・リーグに所属する埼玉ドルフィンズのホーム試合の際には、直接球場へ足を運んだ。
「美澄、お待たせ~」
「お疲れさまです。ナイスゲームでしたね」
「おう。美澄がきてくれたからな」
 試合中の真剣な表情とは一転したやわらかな雰囲気に、美澄もつられて頬がゆるんだ。その後ろからは、先日迷子の美澄を助けてくれたショートストッパーの丹羽と、丹羽と二遊間を組むセカンドの矢野が歩いてくる。
「丹羽選手、矢野選手、お疲れさまです」
「おー、お疲れ。要、お前美澄くんきてたからあんなに張り切ってたんか」
「えー、いつも通りっすよ」
「いやいや、お前ネクストであんな強振するの、美澄くんきた時くらいだろ。な、爽?」
「ですね」
 話を振られた矢野は、上品な笑みを浮かべて答えた。名前の通り、爽やかな雰囲気が眩しい二番バッターだ。
「要先輩、そんなに張り切ってるんですか?」
「いやいや、いつも通りだって。ちょっとホームラン打ったりしてみよっかなーとは思わなくもないけど」
「張り切ってんじゃねーか」
 丹羽の言葉に、美澄は声をあげて笑った。テレビ中継の際はあまりネクストバッターズサークルが見えないので、美澄には比較のしようがないが、チームメイトがそう言うのだからそうなのだろう。
 外へ出ると、夏の残滓が肌にまとわりついてくる。
 地下駐車場で二人と別れ、車に乗り込んだ。今日は接骨院が休みだったが、明日は通常通り仕事がある。このまま美澄の家に二人で帰り、いつも通り食事をしてマッサージとストレッチの補助をする予定だ。
「このまま美澄ん家な」
「はい。お願いします」
「ちなみに、今日の夕飯はなんですか」
「シチューです」
「嬉しいです」
「ふふ。要先輩は、なんでも喜んで食べてくれますよね」
「そう? 普通じゃね? だって美澄、辛いもんとか苦いもん作らないじゃん」
 車は地下駐車場を出て、地上に出た。運転中の要の横顔を眺め放題だ。鼻が高いなぁ、とか、まつ毛長いなぁ、とか。みんなが憧れる間宮要をひとりじめできるこの時間が、美澄は好きだった。
「な、美澄」
「なんですか?」
「美澄が休みの時さ、いつも観にきてくれるじゃん」
「ええ。毎回、チケットありがとうございます」
「それは全然いいんだけど。試合終わったらこうして一緒に帰ってさ、飯食わせてくれるし、マッサージまでしてくれるじゃん?」
「はい。それがどうかしました……?」
 微かな不安が芽を出した。一緒にいすぎて暑苦しい? この関係に飽きたからもう終わりにしよう? 浮かんできた続きの言葉候補があまりに悲しくて、美澄は目を伏せる。
「休みの日まで仕事してるみたいな感じでさ、美澄は嫌じゃない?」
「嫌じゃないです!」
「おお、食い気味だ。でもほら、マッサージだって疲れるだろ? 休みの日まで当たり前のようにしてもらってて、申し訳ないというか」
「俺がしたくてしてるんです。これ以上そういうこと言うと、怒りますよ」
「ごめん。ありがとな」
 言葉の真意が予想から外れていたことに胸を撫で下ろす。怒りますよ、ではなく怒らせたの思ったのだろう。大きくて温かな手のひらが頭にのせられ、わしゃわしゃと撫でられた。こうすれば美澄の機嫌が上向くと、要は知っている。
 元々美澄は野球が好きだし、常勝と呼ばれる東京スワンズを応援するのは楽しかった。勝てば喜び、負ければ悔しがる。接骨院で働いているだけではなかなか経験できない感情の起伏はいいリフレッシュにもなる。何より、好きな人の近くにいられるのは幸せだった。
「要先輩がうちの接骨院にきてくれてから、毎日が充実してます。お礼を言わなきゃいけないのは俺のほうですよ」
 頭にのせられたままの手を取って、運転席と助手席の間にあるコンソールボックスの上で手の大きさを比べてみる。身長が違う分要のほうが大きいけれど、指の長さは美澄も負けていない。多彩なボールの握り方を試せる、ピッチャーとして最適な手の形だとよく褒めてもらった。
 指を絡めてみる。なんだか嬉しくなってギュッと握れば、すぐ握り返された。
「なに可愛いことしてんの」
「手の大きさ、やっぱり違うなって思って」
「そりゃ身長違うしな。そういや、美澄は指長かったか」
「フォークを投げるのに最適な手です」
「今度キャッチボールする時は変化球も投げてみよーぜ」
「が、頑張ります」
「あはは、んな緊張しなくていいから。気楽にいこ、気楽に」
 夏空の下、河川敷で要とキャッチボールをしたのをきっかけに、少しずつ投げられる距離が伸びてきた。今では正式なマウンドとホームベースの距離である、十八.四四メートルだって余裕で投げられる。この上ない幸せだった。
「来週は連休だよな?」
「そうです」
「じゃ、試合前にキャッチボールしてから行こ」
「いいんですか?」
「ん。もっと頑張れる気がするから」
「……?」
 美澄とのキャッチボールで、どうして要がもっと頑張れるのかは分からなかった。けれど、見上げた端正な横顔が楽しそうだったから、まあいいか。

 いやぁ、観てるこっちが疲れた。と近くの席から聞こえてきて、美澄は心の中で激しく頷いた。東京スワンズ対埼玉ドルフィンズ。日本代表にも選出される両エースが先発する好カードは、前評判通り手に汗握る試合展開が九回まで繰り広げられた。
 キャッチボール効果というのは、たしかにあったらしい。前試合で完封負けを喫した相手チームのエースから四打数三安打一打点をあげた要は、文句なしのヒーローだった。
 勝った後の待ち時間は胸が踊る。要は負けたからといってピリピリしたり八つ当たりをする人ではないから、美澄の気持ちの問題だ。
 夕食の献立は何にしようか。今日は要の家に泊まるので、まだ何も決めていないけれど、今日のヒーローの好物がいい。エビフライ? ハンバーグ? お子様ランチならぬ大人様ランチにして、デザートのプリンにホイップとチェリーをのせたら喜びそうだ。
 すっかり定位置となった、通用口から入ってすぐのベンチの横に立ち、スマホでお子様ランチの盛り付け方を眺めていると、奥のほうからやけに大きな足音が聞こえた。こちらへ近づいてくるようだ。この空間には球団関係者しかいないので、挨拶をしようと顔をあげると、気の強いかんばせがじっと美澄を見ていた。背番号十八。今日の試合、圧巻の投球で相手打線をねじ伏せたエース、若槻真尋だ。
「お疲れさまです。ナイスゲームでした」
「……別に、敬語使わなくていいよ。あんたのほうが年上だろ」
 完投直後のひりついた空気を纏ったまま、大きなストライドで一気に距離を縮めてきた真尋の迫力に息を飲む。要の隣でヒーローインタビューを受けていた時は大きく見えなかったが、いざ目の前に来られるとしっかりと筋肉がついたアスリート体型だった。
 年上年下を気にする発言をしたが、本人は敬語で話すつもりはないらしい。少し高い位置にある大きな目が、じっとりと美澄を見下ろす。
「最近よく見る顔だけど……あんたは、要さんの何?」
「俺は、要先輩の高校の頃の後輩です」
「だから敬語はいらないってば」
「すっ、ご、ごめん」
「野球部だったってこと? ポジションは?」
「ピッチャーで……要先輩と、バッテリーを組んでた」
「ふーん……じゃあ、あんたが要さんの相棒だったわけだ」
「そういうことになる、かな……」
 蛇に睨まれた蛙の気持ちなんて分かりたくもなかった。いや、ネコに睨まれたネズミかもしれない。
「ま、俺は要さんの「現」相棒だけど!」
 真尋は胸を張って得意げに言った。
「知ってる。東京スワンズのエースピッチャーだもん。試合を観にきた人で、君を知らない人なんていないよ」
「そうなんだ。俺、有名人じゃん」
 若くして、球団エースの肩書きだけでなく、日本代表にも選ばれているのだ。プロ野球ファンなら、彼を知らない人はいないだろうに。本人のあまりにもあっけらかんとした口調に拍子抜けしてしまう。どうやら、傍若無人な態度の割に知名度には無頓着なタイプらしい。
「ま、そんなのはどーでもいいんだけど。最近、要さんにベッタリくっついてる奴がいるから気になっちゃって。チケット用意したり、入場証発行したりって、甲斐甲斐しくお世話してるみたいだし?」
「……」
 ゾーンど真ん中にストレートをぶち込まれた気分だった。遠慮のない視線が肌に突き刺さって居た堪れない。仮にこれが盛大に喧嘩を売られているのだとしたら、買った瞬間即ゲームオーバーだろう。彼らアスリートからしたら、美澄なんてモヤシみたいなものだ。
「元、相棒さんね。分かった。覚えといてあげる」
 腹を探る視線から一転、真尋は人懐っこい大型犬のような笑みを浮かべた。言ってることが嫌味百パーセントなのはわざとか否か。おそらく前者だ。野球では遥か上にいるすごい選手かもしれないけれど、突然こうも遠慮なしに絡まれる謂れはないはずだ。
 正直に言ってしまおう。なんだコイツ、と思った。
 「元」相棒。態度はアレだが、真尋の言ったことは何も間違っていない。現在、要が所属するチームのエースは真尋だ。バッテリーを組み、ピンチを幾度となく切り抜けてきたのは美澄ではない。
 胸の奥がちくちくと鈍い痛みを発していた。現相棒の目に余るほど、美澄は特別扱いをしてもらっている。とはいえ、恋心を抱いているのはこちらだけの話で、要には関係のない話だ。
――じゃあ俺は、要先輩の何? 
 自分に問いかけても、答えは出なかった。
 元エースの肩書きは、怪我をしてほんの数ヶ月で過去の産物となった。元相棒という肩書きなんて、波打ち際に作られた砂の城のよりも脆い。
「まーひろぉ。お前何してんだ」
「っ」
 ネガティブな思考を断ち切ったのは、角のない甘ったるい声だった。真尋が弾かれたように振り返る。
「げ、要さん」
「げ、じゃねーよ真尋ぉ。着替えは。帰る準備は」
「今からする!」
「ってか、俺の客人に何絡んでんだよ」
 そうか、客人か。ここは彼らの仕事場で、自分は招かれている立場。正しくて当たり前の話なのに、気分が晴れないのはどうしてだろう。
「だって、要さんのお気に入りがどんな奴か気になったんだもん」
「だからって絡むな。びっくりしてんだろ。お前より年上だかんな?」
「知ってる! 要さんの一個下でしょ!」
「そこまで分かってんなら、さっさと着替えて帰ること。んで、飯食って寝ろ。次の登板も期待してんだから」
「もちろん次も完封するし。楽しみにしててよ要さん!」
「おー。頼むぞエース」
「任された! 要さんもバッティングで俺を援護してよね。じゃ、お疲れさまでした!」
 きた時よりも大きな足音が廊下に響いた。元気すぎる。ロースコアの緊迫した空気の中、九回を一人で投げ抜いたのが嘘のようだ。
「さ、俺たちも帰ろーぜ」
「はい。あ、要先輩、お疲れさまでした。今日もカッコよかったです」
「おう。ありがとな」
 どちらからともなく歩き出す。扉の外に出ると、秋の風が頬を撫でた。


 車は地下駐車場を出て、すっかり慣れた要の家への帰路を行く。前を行く車のブレーキランプが、整った横顔をぼんやりと照らし出した。
「さっきはごめんな、うちの真尋が」
「いえ、少し驚きましたけど……九回を一人で投げ抜いたのに元気だなぁって」
「スタミナお化けだから、アイツ。ああ見えて、止められるまで走り込むタイプなんだよ」
「努力家なんですね」
「まーな。すげー気難しいけど」
 言葉とは裏腹に、要は楽しそうだった。
 二人の間に存在する確かな信頼関係に、美澄は羨望を抱いた。真尋が要を心から慕っているのは、ヒーローインタビューを見て知っていた。要は要で、若きエースを信用して尊重している。現相棒の地位は盤石だ。
 「元」相棒に、ここまで良くしてくれるのはどうしてですか? 思い切って聞いてしまおうかと思ったが、あと一歩の勇気が出ない。膝の上で組んだ手の親指同士を擦り合わせ、視線を落とす。
「真尋のヤツ、なんか昔の美澄に似てんだよな」
「……え? 俺あんな感じでした?」
 可愛げのある後輩ではなかったかもしれないが、さすがにあそこまで態度は大きくなかったはずだ。美澄の気持ちが伝わったのか、要はケラケラと声をあげて笑う。
「性格じゃなくてさ。ボールに気持ち全部のっけて投げてくるところとか、こっちが取れない可能性なんて一ミリも考えてねーところとか。美澄もそうだったろ?」
「要先輩が取れないなんてこと、なかったですし」
「ほら、そういうところだよ。ピンチの場面でワンバン覚悟のサイン出した時とか、最っ高に気持ちよかったもん」
 それってそんなに特別なことなのだろうか、とは思ったが、要がご機嫌だから良しとする。
「でも、アイツのほうがバカ。負けん気強すぎてすぐ泣くし」
「……負けん気の強さは出てますね、顔に」
「だろ? 甘いコースに抜けちまったボールをバックスクリーン運ばれた日なんて、不貞腐れて皮膚ふやけるまでシャワー浴びてたことあるし。百二十球投げて失投がその一本だけ。打った相手を褒めるしかねーのに」
「まあ、その一本が命取りになる可能性もありますからね」
 ふやけるまでシャワーを浴び続けたことはないが、気持ちは分かった。他が満点でも、その一本で負けたら悔やんでも悔やみきれない。
「でも、前に足つって降板した日は、試合後にリリーフ陣に目ェ真っ赤にして謝りにきてさ。最後まで投げられなくてごめんって。ま、バカだし態度はデカいけど、エースとしての責任感は人一倍強い。まだ二十歳なのに……って年齢のこと言うと、年齢は関係ないからって怒られるけどな。頼りになるよ、ホント」
 ここまで言ってもらえる真尋が羨ましかった。「バカ」も「態度デカい」も、彼らの関係性なら褒め言葉だ。
 ウインカー音が響き、車は速度を落としていく。辺りはもうすっかり暗いが、都会の夜空に星は見えなかった。もう間もなく家に着く。
 結局、聞けなかった。要が自分をどう思っているのかを。答えを突きつけられるのが、怖かったのかもしれない。知らなければ、ずっと期待したままでいられる。


 耳を澄ますと、話し声が微かに聞こえてくる。要と真尋の声だ。ヒーローインタビューで見せるコントのような会話ではなく、一歩踏み外したら喧嘩になりそうな、真剣なトーンで言葉を交わしている。
 接骨院の休みの日が連戦の頭になるので、美澄が観に行ける試合は真尋の登板日が多い。先日の試合後に突然絡まれて以降は挨拶程度しか顔を合わせていないし、どちらかと言えば苦手な部類の人だけれど、ピッチングは本当にすごい。惚れ惚れする。今日も二失点完投で、勝利数を一つ重ねた。
「五回裏の二人目。アウトコース低めをあそこまで運ばれた。納得いかない」
「たしかに変化は小さかったけど、あのコースに毎回決まるならホームランになることはねーよ」
「犠牲フライにはなったけどね……ねぇ、要さん。次もあのコースに構える?」
「あー……状況にもよるけど、俺だったら次はインハイ」
「うわ、それは最高。あと、七回の一点取られた時に――」
 ほぼ完璧と言ってもいい内容だったのに、真尋は全然満足していないようだった。球速や変化球の精度だけではなく、こういう気持ちの強さが真尋のエースたる所以なのだと美澄は分かっているから、何時間でも待つつもりだった。
 二十四歳という若さで日本代表の正捕手を務める要が相手だろうと関係ない。納得がいかなければ確認するし、時には反論もする。すごいなぁ、と思った。美澄にはできなかったことだ。ひとつの年の差さえ眩しくて、憧れが大きくて、なかなか自分から意見を言えずに喧嘩になったこともあるのに。
 試合後は中で待たせてもらえるだけでありがたいので、ベンチには座らないと決めていた。壁に背中を預け、真剣な会話に耳を傾ける。何もないこの時間が、結構好きだ。
「あのー」
「あ、はい、すみません、邪魔でしたか?」
 ぼんやりとしていた所為で、自分に近づいてきた人の気配に気がつかなかった。唐突に声をかけられ、慌てて壁から離れて一歩下がる。美澄より背の低い、スーツ姿の男が立っていた。
「いえ、違うんです。雪平美澄さんでいらっしゃいますよね?」
「え、あ、そうですが……」
「お話がありまして。少しお時間よろしいでしょうか?」
 声の主は、元々切れ長の目をさらに細めた。多々良よりは若いが、吉村よりは年上だろうか。球団スタッフの顔は覚えているから、その中の誰でもないのは分かっている。誰だろう、この人。
 要たちの反省会はまだ続きそうだし、話を聞くくらいならいいか。首肯すると、待ってましたと言わんばかりに差し出された名刺に目を落とした。
「みやこテレビ……?」
「ええ。私、都テレビの安中と申します。よろしくお願いします」
「ど、どうも……」
 都テレビと言えば、今日の対戦相手である「愛知キャメルス」のグループ会社だ。東京スワンズのキャップをかぶっている一般人の美澄に、一体なんの用だろうか。というか、どうして名前を知っているのだろう。
 仮面のような笑みを張り付ける安中は、美澄の怪訝そうな表情にも全く動じる様子はない。足の先から顔までをねっとりと視線でなぞられ、身体中に鳥肌が立った。
「日本球界史上最強捕手とも言われる間宮要選手と同じ、千里第一高校出身。間宮選手の一学年後輩で、雪平さん自身は一年の春からエースナンバーを背負っていた。お間違いないですね?」
「……ええ、まあ」
 戸惑いながらも肯定すれば、安中が笑みを深めた。
「甲子園準優勝の左腕。キレのある直球と多彩な変化球を操り、制球力も群を抜いていた。私も見てましたよ。あの夏の甲子園での活躍を」
「……どうも」
「プロ入り確実と言われた雪平さんの、甲子園での投げっぷりを覚えている人は少なくないでしょう。華やかなビジュアルも、当時は相当話題になりましたし。「消えた天才」として、番組で取り上げさせていただけないでしょうか?」
 え、普通に嫌です。すごく。美澄は心の中で即答した。たくさん練習して、悔しい思いもしてきたからこその甲子園準優勝だ。天才のひと言で片付けられるのは不服だし、勝手に消えたことにされるのは気分が悪い。センシティブな話題に出会って数分で踏み込んでくるのも、嫌。
 それに、散々迷惑をかけたあの頃のチームメイトがこの話を知ったら、不愉快極まりないだろう。他を当たってくれと言いかけて、ふと自分の立場を思い出した。
 首から提げる入場証。キャップのつばの裏側に書かれたサイン。ここは東京スワンズの本拠地だ。自分がこの話を断ったら、要の印象まで悪くなりそうな気がする。それは、絶対に嫌だ。
「お返事は今すぐでなくても大丈夫です。そちらに電話番号を記載してありますから、ご連絡をいただければ――」
「美澄悪い、シャワー浴びてくるからもう少し待ってて……って、誰その人」
「要先輩」
「間宮選手、お疲れさまです。私、都テレビの者でございます」
「都テレビ? キャメルス側のテレビ局が、こっちに何の用ですか」
 試合が終わって間もない上に真尋との反省会直後だからか、いつもの甘ったるい雰囲気は鳴りを潜めていた。あまり見ない鋭い眼差しに思わず見とれる。いつも向けられる笑顔も好きだが、キリッとした顔も好きだ。
 安中から差し出された名刺ではなく、美澄が持っていた名刺をひょいっと取り上げた要は、厳しい表情を崩さなかった。要を説得して外堀を埋めるほうが早いと思ったのだろう。安中が仮面の笑みを一ミリも動かさずに美澄にしたのと同じ説明を繰り返すと、最後まで聞くことなく名刺を突き返した。要が、安中に。
「返します、コレ」
「あ、でも電話番号が……」
「今ここで断ります。受けさせません」
「でも、もう一度スポットライトが当たるんですよ? 理由次第ではたくさんの視聴者に共感され、SNSでもバズるでしょう。悪い話ではないと思いますが……」
「美澄、お前SNSやってんの?」
「連絡用のNINE以外はやってないです。あまり興味がなくて……」
「だそうです。というか、失礼すぎませんか? そちらとしてはスポットライトを当てて「あげる」つもりなんでしょうけど」
「そ、そんなこと……」
 安中が言葉を詰まらせる。見たことも聞いたこともない先輩捕手の皮肉っぽい言い回しに、美澄はぽかんと口をあけた。
「偉いんですね、テレビ局って。まあ、ありがた迷惑ってヤツですよ」
「っ、それは……」
 狐のような顔が歪んだ。痛いところをつかれて言い返せなくなってしまったのか、下唇を噛み締めて黙り込んでしまう。
「美澄、帰んぞ。この話は忘れていいから」
「っ、はい、すみません」
「じゃ、失礼します」
 手首を掴まれ、引かれるがままに歩き出した。外へ出て、いつも行く地下駐車場への道とは反対へ進んでいく。少しだけ、ほんの少しだけ方向音痴だから、どこへ向かっているのかは分からなかった。
 外はすっかり涼しかったから、要の手をより熱く感じた。前を行くから表情は見えなかったけれど、怒っている。それも、かなり。
「要先輩……あの、どこへ……?」
 張り詰める背中に問う。答えはなかった。周囲の建物からこぼれる明かりだけが頼りの暗く静かな道。角を曲がってすぐに、冷たく固い壁に押し付けられた。現役選手の腕の力に勝てるはずもなく、身動きが取れない。
「なんで断らねーの?」
「っ」
「嫌だろ、あんなの」
「……そうですね。嫌でした」
「じゃあ、なんで突き返さなかったんだよ。嫌だって言えよ」
 ふつふつと沸き立つやるせなさが伝わってきた。温厚な人が怒ると怖いってことを、高校の頃に一度だけ要とした喧嘩で十分理解している。あの時も、ちゃんとこちらの話を聞いてくれた。言わないで一人で抱え込むほうが、この人は嫌がる。
「……高校の名前を出されて、俺、あの頃のチームメイトにこれ以上迷惑かけたくなくて嫌でした。それに、俺は天才なんかじゃない。練習して、要先輩に引っ張ってもらって、やっとの思いでマウンドに立ってたのに」
「うん」
「でも、要先輩にも関係する話だから、断って、先輩の評判まで悪くなったらって思うと、怖くて……」
「美澄」
「……っ」
 至近距離で低い声に呼ばれ、肩が跳ねた。相棒だった頃よりも精悍さを増したかんばせに、胸が苦しくなる。
「あのな、俺の中にはずっといるんだよ。消えてねーの、美澄のピッチングは!」
「え……」
「消えた天才だ? バカじゃねーの。雪平美澄はここにいるだろ。お前のすごさは、魂が震えるようなピッチングは、俺が全部覚えてんだから」
 それは慰めなんかじゃなく、心からの言葉だと思えた。怒りという鋭い圧を間近で受けているのに、美澄の胸を満たしたのは喜びだった。どうしよう、口角が勝手に上がってしまう。
「あーもう、ホントにあの人、思い出しただけでムカつくなぁ。出禁だ出禁。名前覚えたからな」
「……ふふ」
「ちょ、なんで笑うんだよ!」
「すごく、褒められてるなぁと思って」
 怒りながら褒めるという高等技術に、思わず笑ってしまった。予想もしていなかった反応だったらしい。要の凛々しい眉がふにゃりと下がった。
「笑うなよ、もぉ……」
「だって、嬉しくて」
 ぐいっと身体を引き寄せられた。背中の冷たさは一転、ぎゅーっと抱きしめられて温かくなる。試合後なのも相まって、熱いくらいだ。
「もー……ごめんな美澄。壁に押し付けたりなんかして。背中、痛くなかった?」
「全然痛くなかったです。腕の力は強くて、全然動けなかったですけど」
「ごめん~……」
 背中を摩る手がやさしい。
「怒ってないです。というか、怒ってくれてありがとうございました」
「……うん」
 美澄を掻き抱く腕の力は弱まらない。要の中のぐちゃぐちゃした感情を消化し、整理しているのだろう。
 きっと安中は言うだろう。雪平ってヤツは生意気だ。こっちがせっかく取材しやるって言っているのに、と。でも、外野になんと言われようが構わない。要が見ていてくれるなら。
 シャワーに行く前だと言っていたから、いつもは感じない汗の匂いがした。意識した途端、心拍数が急上昇して顔が熱くなる。
「……先輩」
「なに」
「もう少し、このままでいたいです」
「ん、いいよ」
「……ありがとうございます」
「どーいたしまして」
 背中に手を回してみる。さらに上がった密着度にドキドキがバレたらどうしようと思ったけれど、要から伝わってくる心音も速かった。許されるのならば、ずっとこのままでいたいなぁ。ふわふわと甘やかな幸せに染まった心に身を任せ、肩に顔をうずめた。

 シーズンも後半に差し掛かり、東京スワンズの優勝マジックは順調に数を減らしていた。この日美澄が観戦した試合の先発は、志麻朔太郎投手。要と同い年の二十四歳で、多彩な変化球を武器に先発ローテーションを支える右腕だ。
 一点ビハインドのまま試合が進み、幾度か訪れたチャンスを掴みきれないまま九回の裏の攻撃が始まった。打順は一番から。一人でも塁に出られれば、今日レフトスタンド上段に突き刺さる本塁打を放っている四番の日下部まで回り、打率が高い五番の要、六番の小嶺へと続く。
 一番の中堅手、大戸翠がフォアボールを選び出塁すれば、応援の熱が一気に高まった。が、二番の矢野がセンターフライに倒れると、スタンドはため息に包まれる。応援が大きい分、落胆も大きい。要が「打てない時が続くとマジで胃が痛い」と言うくらい、心にくるらしい。
 三番の丹羽の打席で大戸が盗塁を成功させたが、続く二球目でフォークボールを引っかけてファーストゴロ。ツーアウトと後がなくなったスワンズの次の打者は、今日一発を打っている四番の日下部だ。塁上には俊足の大戸。内野の頭を越えれば同点だ。
 試合後に挨拶をする時はとてもやさしい空気をまとっている主砲も、打席に入ったら勝負師の顔になる。絶対に打つという強い意志を滲ませた眼差しが、バックスクリーンに映し出された。
「あー、くそ、やっぱり敬遠だ」
 斜め後ろのおじさんが悔しそうな声をあげた。応援の一部がブーイングの声に変わる。相手チームの監督が審判に敬遠を申告したのだ。次のバッターは要だが、いかんせん今日の彼は当たっていなかった。四打数無安打。チャンスの芽をことごとく摘んでいる五番との勝負を選ぶのは、なんら不思議なことではない。
「頑張れ、要先輩~……」
 美澄は膝の上で両手を組み、祈るようにバッターボックスを見つめた。要の表情は、観客席から見ても硬く険しい。コイツならば打ち取れると判断されての申告敬遠だ。悔しくないはずがなかった。
 一球目は大きく外れてボール。二球目は要らしからぬ大振りでストライク。今すぐ駆け寄って、ほっぺたを全力でむにむにしたい。リラックスです。そのひと言を伝えるために。
 ダメかぁ、と誰かが呟いた。ダメじゃない。要なら絶対に打つ。ファンが信じないで、誰が信じるのだ。
 二球続けて外れ、その後の二球をファールにした。タイミングが合っていないように思えるが、狙っている球があるのだろうか。
 一度タイムを取って打席から離れた要が、顔を上げて大きく息を吐いた。目が合った気がする。大丈夫。絶対打てますと、美澄は大きく頷いてみせた。九回裏、一点ビハインド。ツーアウトランナー一、二塁でフルカウント。さらには今日四打数無安打と、誰から見ても絶対絶命の場面で、要は不敵に笑った。


 前方から歩いてきたのは、今日の先発で九回二失点と好投したピッチャーの志麻だった。目が合ったので、ぺこりと頭を下げる。
「あ、要の後輩だ。美澄くん、だっけ?」
「そうです。志麻さん、お疲れさまでした」
「ありがとう。勝ててよかったよ、ホント」
「ナイスピッチングでした」
 やさしげな双眸をきゅっと細めた志麻が、美澄の前で足を止めた。要よりも高い場所に目があるが、声や表情がやわらかいので威圧感はない。
「最後、要が打ってくれたおかげで勝ち星が増えたよ。後でご飯奢ってやらないとなぁ」
 九回裏ツーアウト、ランナー一、二塁。スリーボールツーストライクと追い込まれた要はその後、値千金のサヨナラ二点タイムリーを放った。心理戦が得意なキャッチャーなのに、普段は子どもみたいな喜び方をする要が、悔しさを押し殺しグッと喜びを噛み締める姿に、美澄の涙腺は崩壊寸前だった。
「どうだった? 先輩のサヨナラタイムリーは」
「カッコよかったです。日下部選手が敬遠されて、すごく悔しそうな顔を見た後だったので、余計に」
「だな。アイツのあんなに悔しそうな顔、初めて見たかも」
「ずっと敬遠される側でしたからね、高校の時から」
「あー、そういやアイツ、甲子園準優勝チームのキャッチャーで四番か」
「あと、キャプテンでした」
「詰め込んでんなぁ……要なら大丈夫そうだけど。ところでさ、高校の頃ってどんなキャッチャーだったの?」
 この手の質問は大好きだった。美澄は胸を張って生き生きと答える。
「最高のキャッチャーです。なんと言っても捕球音が世界一だと思ってますし、構えた時にビタッと止まってくれるのも的が大きく見えて投げやすいし、どんなピンチの場面でも絶対後逸しないで止めてくれて……調子が上がらない時でも、実は俺今日めちゃくちゃ調子いいんじゃ? って勘違いさせてくれるというか」
「あはは、スーパーマンじゃん」
「スーパーマン、ですね」
 今も昔も。美澄にとって、要はそういう存在だ。歩みを止めた思い出は、時を経るごとに美しくなる。
「やっぱ、昔からそんな感じだったんだなぁ。今だって、真尋から崇拝されてるし」
「そうなんですか?」
 要をとても慕っているのは雰囲気から伝わってきたが、崇拝レベルとは。
「そ。強火担って感じ」
「つよびたん……?」
 小首を傾げた美澄に、志麻はでもな、とお構いなしに続ける。プロで活躍するような投手は、自分の世界を突き進みがちだ。
「そんなスーパーマン要、俺にはマウンドでも容赦ねーんだよ。同級生だからかなぁ」
「え、想像つかないです」
「例えば、さっきのフォーク落ち方甘くね? とか、今のコース、俺なら場外ホームランだわ、とか。朔ちゃん緊張してんのー? とか。今日言われたのは「五点までは計算済みだから」だって。アイツ、すげー煽ってくんの。あわやゼロ点ゲームだったのにな」
 想像以上の煽り方で驚いたが、志麻の性格には合っているのだろう。楽しそうに笑っているし、実際に成績を残している。
「美澄くん、後で要に言っといて。朔太郎に、もう少しやさしくしろーって」


 要が支度を終えて美澄の元へ歩いてきたのは、志麻と別れてすぐのことだった。サヨナラタイムリーを打った喜びと、あの場面で四番を敬遠されて勝負を選ばれた悔しさが入り混じる複雑な表情をしていた。
「要先輩、お疲れさまでした!」
「おー、ホント疲れた……」
 駆け寄って荷物を持とうと手を伸ばす。いつもは断られるが、今日は持たせてくれた。憧れの人の大切な仕事道具が入ったスポーツバッグの重みに感激しながら、地下駐車場への道を要より半歩先に行く。さすがにもう迷子にはならない。
「俺、要先輩が打った瞬間、感動して泣きそうになりましたよ」
「俺は麗司さんが敬遠された時に泣きそうになった……今日全然当たってなかったし、仕方ねーんだけど。うわ、俺舐められてるって思ってさ」
「それでも、最後に打つのが要先輩のすごいところですから。終わりよければ全てよしということで。今日の夕飯は何がいいですか? サヨナラ賞です。何でも受け付けますよ」
「……ホットケーキ。メープルシロップいっぱいかけたい」
 思わずかわいいと言いかけて、分かりましたと言い直した。
 車に乗り、帰路を行く。まだまだ車通りの多い夜の大通り。いつも要が好んでかけている洋楽が、二人きりの空間に満ちている。今は喜びより悔しさが勝っているのだろうか。ちらりと盗み見た横顔は、いつもより強張って見えた。
「……ほんと、打ててよかったよ」
 ぽつりとこぼされた言葉は、美澄の返事を求めない類のものだった。言葉尻に滲んだ安堵が、重圧の大きさを物語る。
「打線が援護してやれない状態で、朔が頑張って投げてたからさ。どーしても打ってやりたかった。キャッチャーの俺が決めたかった。全然打ててなかったけど、俺が」
 どんな関係性であろうと、要は投手想いの女房役だ。同い年の気安さで遠慮がなかろうと、心の中ではいつだって投手の為を考えている。
 今の言葉を志麻が聞いたら、どんな反応をするだろう。想像しただけで口角が上がった。
「さっき、志麻選手に挨拶しました。ナイスピッチングでしたって」
「ああ、帰んの早かったもんな。何か言ってなかった? アイツ」
「やさしくしろーって言ってました」
「やっぱり? 今日なんて俺、朔が取られる五点は計算済みだとか言っちゃったよ。二点で抑えてても負け投手にしちまいそうだったのに」
「笑ってましたよ、それ」
「はは、笑って許してくれんだ。やさしいからなぁ、朔は」
 横顔が赤信号に染まる。車が完全に動きを止めると、要は左を見た。夜と同じ色をした瞳が、まじろぎもせずに美澄を捉える。敬遠がよほどこたえて落ち込んでいるのかと思ったのだが。よく見てみれば、緊張の面持ちと表現するほうがしっくりきた。
「なあ、美澄」
「はい」
 何か大切なことを言おうとしていると、空気で察した。背すじを伸ばし、美澄もまっすぐに要を見る。
「あのさ……俺の、専属トレーナーになってほしいんだ」
「え……?」
 一瞬だけ、世界が時を止めた。信号が青に変わって、思い出したように動き出す。要は前を見てブレーキから足を離し、アクセルに足をのせた。
「専属トレーナーとして、俺と契約してほしい。もちろん、今までみたいにどっちかの家で一緒に飯食いたいし、給料とは別に食費も出す。給与額も、今美澄がもらってるよりも上げられる。遠征費は俺持ちで、球団から補助も出るから心配いらない。今の仕事との折り合いもあるだろうから、今すぐじゃなくていい。来シーズンからでも構わないから、考えてみてほしい」
「……どうして、このタイミングで?」
 喜びと戸惑いが一緒くたになって美澄を包み込んだ。今までの関係だって施術はしてあげられたし、遠征先には球団のマッサージトレーナーが同行している。ちゃんと冷静でいられたことに安堵して、訊ねた。
「今日の最後の打席で、これ打てたら言おうって思ってたんだよ。言いたいなら打つしかねーぞって。専属になってほしいなっていうのは、ずっと前から考えてたんだ。とにかく、今すぐにとは言わない。答えが出たら、聞かせてくれ」
「分かりました。ひとつ、いいですか?」
「なんでしょうか」
「なんだか、プロポーズみたいだなぁって思って」
「……ま、そう受け取ってもらってもいいけど」
「え?」
「いや、何でもねー」
 不意打ちでは聞き取れないくらい小さな声で何かを呟いた要は、へらりと笑ってオーディオの音量を上げてしまった。先ほどまでの硬さが嘘のような上機嫌な横顔で、ホットケーキの唄(作詞作曲・間宮要)を口ずさみ始める。少し……いや、かなり下手っぴだ。そうだ、歌はこの人の唯一の弱点だった。甲子園で歌った校歌。隣から聞こえた歌声の衝撃は、多分チームメイト、それも近くにいた一部の人間しか分からないだろう。
 要の歌声に対抗するような洋楽のベース音が、ズシンズシンと腹の底に響いている。


 メレンゲをたてて作ったふわしゅわホットケーキにパウダーシュガーを振りかけ、たっぷりのメープルシロップをかけてバターものせた。トロリととろけて、甘い芳香が辺りを満たす。我ながらいい出来だ。カフェで出てきそうな完成度に、頬がゆるんだ。
「要先輩、お待たせしました」
 リビングでそわそわしながら待っていた要の元へ持っていく。平皿に盛り付けられた念願のホットケーキに、要の目がこぼれ落ちそうなほど見開かれ、光を当てられた宝石みたいに輝き出す。その幼い表情は、つい数時間前に執念のサヨナラタイムリーを放った男前と同一人物だとは思えない。
「これ、食べていいの……?」
「ええ、もちろん。冷めないうちにパクッといっちゃってください」
 キッチンへ戻り、自分の分を焼きながら要に言った。
 要は雪をかぶったキツネ色にそおっとナイフを入れ、追いメープルをつけてひと口頬張る。美味しいですか? と聞かなくても、言葉にならない感激の声が答えだった。
「やべー。マジで打ててよかった……」
「喜んでもらえて何よりです」
「美澄はどうすんの? 甘いの好きじゃないよな?」
「俺はしょっぱいバージョンです。ベーコンと半熟卵」
 今しがた焼き上がった生地の上に、別のフライパンで焼いていたベーコンエッグをのせる。皿に盛りつけリビングへ向かうと、要の視線が痛かった。
「……美澄ぃ」
「はーい?」
「そっちも食べたい……」
 甘えたな声色。美澄は得意げに眉を上げた。
「そう言うと思って、先輩の分も作りました」
「さっすが美澄!」
 ホットケーキ一つでここまで喜んでもらえるなんて、本当に作りがいがある。

 順番に入浴を済ませ、いつも通りマッサージを終え、ソファに並んでニュースを眺める。笠井アナウンサーのハキハキとしたタイトルコールで始まったスポーツコーナーが野球の話題に差し掛かるより早く、隣から寝息が聞こえてきた。起きている時はコロコロと目まぐるしく変わる表情は、目を閉じていると随分と幼く見える。
 一点もやれない緊迫した展開でのリードに、一点ビハインドの九回裏ツーアウトで回ってきた打席。プロの世界は美澄の想像を遥かに超えるプレッシャーばかりだろうが、今日は素人目に見ても盛りだくさんだった。さすがの要もヘトヘトだったのだろう。ソファで寝てしまうだなんて珍しい。
 ぐらりと身体が傾いて、肩にもたれかかってきた。脱力した筋肉質の身体はずしりと重く、温かい。髪が首すじをくすぐる。
「要先輩、寝るなら寝室行ってください。身体痛めますよー……せんぱーい」
 何度か肩を揺らしたり叩いたりしてみたが、目を覚ます気配はなかった。変な体勢は身体に悪いが、かといって寝室まで運んであげられる体格も筋力もない。どうしようかと悩んだ末、頭を支えてそおっと膝まで誘導し――いわゆる「ひざ枕」の体勢で落ち着いた。
 頭の重みが心地いい。サラサラとした髪の感触を少しの間楽しんで、触れるだけのキスを落とす。頬や鼻先にされたことがあるのだ。髪くらいは許してほしい。
「……好きです、先輩」
 自覚してからというもの、日を追うごとに恋心の輪郭が鮮明になっていく。このまま成長を続けたら、いつか破裂して溢れてしまいそうだ。
 自分は、どうしたいのだろう。想いを伝えて、両想いになりたい? なれたらいいとは思うけれど、最適解かと考えたら違う気がする。今、要の最優先は間違いなく野球だ。要は野球を愛していて、要は野球に愛されている。憧れた人の進む道。邪魔はしたくない。
 ほぼ牛乳のコーヒー牛乳も、美澄のブラックコーヒーも、すっかり冷めてしまった。二つのマグカップは仲良さげによりそい、見下ろした先の整った寝顔は穏やかで、ゆっくりと流れる二人きりの時間は幸せだ。今の関係が心地いい。要もきっと、そう思っているだろう。
――俺の、専属トレーナーになってほしいんだ。
 そう切り出した時の、緊張で強張った顔を思い出す。要が美澄に託そうとしているのは、安易に「はいやります」とは答えられないような大切な役割だ。プロスポーツ選手の専属トレーナー。柔整師や指圧師の資格を持つ人間の中でも、ほんの一部の選ばれた者だけが辿り着ける狭き門。美澄は今、その門戸の前に立っている。それだけでも身に余る光栄だ。
 一人の野球人生を背負う。たった一人だけど、要の全てだ。責任の大きさは果てしない。今までとは比べ物にならないほどに。でも、責任の大きさを盾にして逃げるつもりは毛頭なかった。返事はすぐじゃなくていいと要は言ったが、答えは最初から出ていたのだ。
 俺は、要先輩の力になりたい。
 ひざの上の丸い頭をなるべく揺らさないように、テーブルのマグカップへ手を伸ばす。すっかりぬるくなったコーヒーを啜りながら、美澄は決意した。