誰かを祝福するような真っ青な空が、二人を見下ろしている。まだ朝早くだからか、近くの河川敷公園には犬の散歩やウォーキングをする人が時折通りかかる程度で、野球をしようなんて人はいない。
「こういう所で野球すんの久しぶりだー……って、美澄、顔かてーよ」
「っ、すみません」
 両手でグローブを抱え、要の後ろをヒヨコみたいについてきた美澄は、強張った頬を無理やり持ち上げた。要先輩とキャッチボールがしたい。自分で言っておきながら、不安の海で溺れかけている。
「緊張してんの?」
「……ビビってます」
「貴重だなぁ。お前、ホントに緊張とは無縁だったし」
「……すみません」
「謝んなくていいから。気楽にいこうぜ、気楽に。あ、懐かしいことしてみる?」
「懐かしいこと?」
「深呼吸~。吸ってー、吐いてー」
 ピンチになると要がタイムを取って、マウンドに集まってきた内野陣みんなで深呼吸をした。息を大きく吸って吐くだけの簡単な動作。ベンチから見ていたチームメイト曰く「なんかアレ、シュールだよな」。それでも、肩の力がよく抜けた。
 何度か深呼吸を繰り返して、軽くストレッチをして、三歩分の距離をとる。蝉の声が騒がしくなってきた。夏の太陽は、朝から燦々と降りそそぐ。
「いくぞー」
 要の手を離れ、ふわりと小さな弧を描いた白球が、右手のグローブにぽすっと収まった。
「と、取れた……!」
 口をついたのは、まるで野球を始めたての子供みたいな言葉だった。要は少しも揶揄う様子はなく、しっかりと頷いてくれた。
「よし、じゃ、投げてみよ」
「っ、はい……!」
 この距離なら、振りかぶる必要はない。手首のスナップを効かせてボールを投げ返す。無事に要の元まで届いて、心底ホッとした。
「いいね。もう何球かこの距離な」
「はい!」
 要が投げて美澄が受ける。美澄が投げて要が取る。距離は短く、威力もない単純な動作を一球一球噛み締めて、繰り返すこと十球。
「っし、もう少し距離伸ばすかぁ」
 後ずさりながら肩をぐるぐると回す要が足を止めたその場所は、ピッチャープレートからホームベースまでの距離と比べてかなり短い。
 要はその場でしゃがみこむと、こぶしで一度ミットを鳴らした。くるくると左腕を回しながら、美澄は訊ねる。
「もっと離れたほうがいいですか?」
「いや、この距離でいいよ。なんなら、もう少し近くでもいい」
「なら座らなくてもいいんじゃ……」
「いいんだよ。俺の気持ちの問題だ」
 先輩捕手は、なんだかとても楽しそうだった。ちらりと覗く八重歯がまぶしい。
 キャッチャーミットをゆっくりと胸の前で構えた要が、ビタッと動きを止めた。纏う空気が僅かにひりつく。ここと決めたらミットを動かさない構えは、昔からちっとも変わっていない。投げるべき場所が大きく見えて心強い。学生時代は何人ものキャッチャーへ向けて投げてきたが、要ほどの安心感は誰一人としてなかった。
 サインはない。ど真ん中に真っ直ぐ。さあ来いと、視線が告げた。
 グローブの中でボールを握った手が震えている。背中を冷たい汗が伝った。大丈夫。でも、怖い。不安で膝が笑いそうだ。いや、できる。やらなくちゃ。入り乱れる感情に、息が浅くなる。
「美澄」
「っ」
「俺のミットだけ見て、信じて腕振れ。大丈夫。お前なら、ここに投げられる」
 要は動かなかった。美澄が「ここ」に投げてくると信じて疑わなかった。応えたい。だって、美澄はピッチャーで、エースで、要の相棒だから。
 走者がいない時のワインドアップは美澄の代名詞だった。大きく振りかぶり、右足を上げ、踏み出す。ここはマウンドじゃない。傾斜がなくて硬い地面だけれど、今だけは高校二年のあの夏に戻って。美澄は久しぶりに腕を振れた。
 染み付いたフォームは、五年半の時を経ても忘れないらしい。体重の移動を指先からボールに伝えて弾き出す。球速も回転もダメダメなヘナチョコボールが、真っ直ぐに要のミットに吸い込まれる。パァン、と辺りに響いた乾いた音が、美澄の心を震わせた。この音だ。世界で一番好きな音。
「ナイスボール」
 ニヤリと笑った要が投げ返してきたボールを受け取る。投げられた、と放心状態になる間もなく、次はここだと要求された。
「右打者想定。美澄の一番得意なコース」
「……覚えてて、くれたんですね」
「当たり前だろ。俺が一番、雪平美澄を知ってるんだ。忘れるわけねぇよ……さあ、もう一球。最高のをくれ」
 静かに頷き、振りかぶる。右打者に対するインコース高め。要が言った通り、美澄が一番得意としていたコースだ。
 要が一球目にいい音を立ててくれたから、不安や恐怖感は薄れていた。ずっと心を覆っていた雲が晴れて顔を出した青空は、今日の空と同じくらい美しい。
 今出せる全力で、腕を振った。指先を離れたボールは寸分違わず要のミットに吸い込まれていったが、距離が近いのだから当たり前のこと。思わず飛び出しそうになったガッツポーズをギリギリのところで引っ込めると、要はボールを受け止めた形のまま、不敵な笑みを浮かべた。
「バッターの胸元を抉るクロスファイヤー。プロでもこのコースに投げ込める奴は少ねーよ。さすが」
 いいコースに投げ込めると、普段より強いボールが返ってくる。昔から変わらない要の癖だが、本人は気づいているだろうか。グローブ越しの右手の衝撃が、美澄の全てを肯定してくれた気がした。
「……っ」
 じわりと滲んだ視界。咄嗟に上を向くよりも前にこぼれ落ちて頬を伝った、熱い雫。ひく、突然しゃくりあげた美澄に、要は目をまん丸にして立ち上がり、駆け寄ってきた。
「ど、どした? 肘、やっぱり痛むか?」
「ち、がいます、っ、すみませ、ん」
 ぼろぼろと溢れる涙は止まらない。突然泣き始めた美澄を、要はそおっと抱き寄せた。大きな手のひらが背中をさすってくれたが、今は多分逆効果だ。安心する匂いに包まれると、涙の勢いが加速する。
「俺、なんか嫌なことしちゃった?」
 大好きな顔が覗き込んでくる。心配の色が甘ったるい目の奥で揺れていた。
「ちがうん、です、嬉しくて」
 泣き顔を至近距離で見られるのが照れくさくて、要の肩に顔を押し付けた。広い背中に腕をまわし、キュッと服を握って縋る。
「な、投げられました」
「ん。ナイスボールだったよ」
「要先輩の、おかげです」
「投げたのは美澄だ。俺はお前を信じて構えてただけ」
「でも、っ、要先輩がいたから、俺は投げられた」
 距離は短いし、球速も回転も全然足りない。きっと、小学生でも簡単に打ててしまうようなボールだったけれど。美澄にとっては甲子園の決勝で投げたボールと同じくらい、大切な一球だった。
「怖かったよな。よく頑張った」
「っ、怖かったけど、だいじょぶって、おまえなら投げられるって、言ってくれた、から」
「言ったろ? 俺が一番、雪平美澄を知ってるって」
「っん」
「あまり泣くと、目ぇパンパンになるぞ? 明日仕事だろ?」
「要先輩に、泣かされたって、いいます」
「いやいやいや、俺虐めてないし! 誤解されちゃうだろ!」
「っふふ……」
「もー……そうやって俺のこと揶揄うの、美澄くらいだからな?」
 今、要はどんな顔をしているのだろう。知りたくてそっと顔を上げた先の先輩捕手は、愛おしそうに美澄を見ていた。鼻先に唇が触れる。泣いている幼子をあやすような淡くやさしい感触が心地よくて、目を細めた。
「またキャッチボールしたくなったら、いつでも言ってよ。何球でも付き合うからさ」
 心に負った深い傷は、日常生活に揉まれて薄くなっていた。それでも消えない暗い影を照らしてくれた、憧れの人。分かってしまった。自分には、この人が必要だと。
 憧れが甘酸っぱさを孕んだ瞬間、恋に落ちる音がした。
 要先輩が好きだ。大好きだ。自覚した途端、世界がほんの少しだけ鮮やかになる。




 朝一番に鍵を開けて準備を始める。軽く掃除と換気をし、備品の数をチェックして、治療器具の点検をおこなう。開院まで三十分。入り口から人の気配がした。
「吉村先生、おはようございます!」
「おー。おはよう……って、どうした? 目ぇ腫れてるぞ」
「すみません、なるべく冷やしてはきたんですけど……」
「体調悪いのか?」
「いえ。すこぶる健康です。昨日、少し嬉しいことがあって」
「嬉しいことか。まあ、嬉し涙ならいいんだ」
 少し遅れて出勤したのは、院長の多々良だ。いつも通りニコニコとやさしい笑みを浮かべていたが、吉村同様、美澄の腫れぼったいまぶたを見て神妙な顔をする。
「だ、誰に泣かされたんだい……?」
「ご心配をおかけしてすみません。嬉し涙なので大丈夫です」
「ああ、それならよかった。僕の予想だと、間宮さん関連かなって思うんだけど。吉村くん、どう思う?」
「自分もそう思いましたね」
 そんなに分かりやすかっただろうか。両手でおさえた頬が、じわじわと熱を持つ。
「要先輩……えっと、間宮選手と久しぶりにキャッチボールしたんです……というか、ボールを投げること自体、俺は高校ぶりで、感極まって涙出ちゃって……」
 並んだテーピングの順番を入れ替える。視線を感じて顔を上げると、二人は生暖かい目をして美澄を見ていた。
「まぶたは腫れてるけれど、すっきりした顔をしてるね」
「そ、そうですか?」
「たしかに、間宮選手がくるようになってから、美澄は表情が明るくなった気がする」
 吉村の言葉に、多々良が何度も頷いた。まるで子どもの成長を喜ぶ親と兄のようだ。なんだか照れくさい。
 心の奥底にしまいこんで見ないフリをしていた傷を、要はむき出しにしてしまった。むき出しにした上で、救ってくれた。要は美澄にとって影を照らしてくれる太陽のような存在で、憧れで、大好きで――
 要に抱いた感情を思い出して、身悶えそうになる。すっかり赤くなってしまったであろう顔を手であおぎながら時計を見上げると、開院時間の五分前になっていた。