祖母が父の住む九州へ行くことになった。鈴内家の恒例行事だ。
 盆暮れ正月にも帰ってくることのない父親は、どれほど仕事が大事なのだろうか。母も仕事命だけれど。父も同じように仕事にかこつけて、この家に戻ることはない。忙しい母は父の住む九州へ行くなんて無理だろうし、私も学校があるからと何かしら理由を付けて会いに行ったことはない。けれど、ここは自分の家なのだから、お盆やお正月くらい顔を出してもいいのではないか。単身赴任をしてからというもの、一度だって帰ってきたことのない父親の生存確認は、祖母一人の手にかかっていると言っても過言ではない。
 父と過ごしたのは、四年生の時が最後だ。リビングには、私を抱く父の写真が一枚だけ飾られている。写真の中の父は、小さな小さな私を危なげに抱え、嬉しそうに口の両端を持ち上げていた。その姿はとても若く、しわ一つない。おかげで私の中の父親というものは、写真立ての中にいる父で、若い状態を維持していた。メッセージのやり取りはあるものの、写真が送られてくることもないし。送って欲しいと頼んだこともない。私の写真。主に卒業式や入学式のものは、祖母がわざわざフィルムの写真を撮り現像をして、九州へ行った時に渡しているようだった。
「真白。何かあったらすぐに電話してね」
 つい最近ガラケーからスマホに替えた祖母は、文字が大きく映し出されている画面を私に向けて念を押す。
「大丈夫だって。高校生になったんだから、平気だよ」
 応えると、冷蔵庫と冷凍庫には十日分の作り置きがあることや。お金が必要になったら、リビングにあるチェストの抽斗に封筒があるから、そこから使うようにだとか。使ったら、レシートとお釣りは必ず封筒に戻しておくようにとか。制服のシャツには、ちゃんとアイロンをかけなさいだとか。学校からのお手紙は九州から帰ったら確認するけれど、急ぎのものがあるならお母さんに頼みなさいだとか。とにかく、細かいところまで気にかけて心配をする。
「響子さんにもお願いしてあるからね。何か困ったことがあったら、お母さんに相談するんだよ」
 私を残して家を空ける時、祖母は何時もこんな感じでとても過保護だ。まるで一年も二年も家を空けるみたいな仰々しさなのだ。幼い頃は、近所のおばさんがやって来て面倒を見てくれたこともあったけれど、もうそんな年齢ではない。お腹が空けば自分でどうにかできるし、掃除も洗濯もできるようになった。寧ろ、困ったことが起きたからと、母に相談することの方が難易度は高い。
 今朝は、まだ母と会っていない。朝早くに仕事へ出かけたのかもしれないし、まだ寝ているのかもしれない。あの人は常に忙しいし、疲れている。
 家の前に呼んだタクシーに祖母が乗りこみ、東京駅へ向かうのを見送った。母の姿がないことに、祖母は特に何か言うでもない。何か月も留守にするわけでもないし。私も、居るのか居ないのか解らない母の寝室に行き声をかけるのは気が進まない。万が一まだ家にいたとしても、遅くまで仕事をしていることを知っているから起こすのは忍びない。いや、違うか。寝ているところへ声をかけることに躊躇してはいるけれど、それだけじゃない。挨拶くらいしかしない他人のような接し方をしてきた母に対し、声をかけるという行為自体、極力避けたいのだ。見かければ、なんとなく頭を下げる程度の顔見知り相手に、どんな言葉をかければいいのか解らなかった。
 タクシーを見送った後、素足に引っ掛けてきたサンダルをズリズリと引き摺って門扉を潜る。玄関ドアを開けると、慌てたような顔をした母がすぐ目の前にいて、お互いにキャッと声を出して驚き飛びのいた。
「おっ、おはよう」
 驚きながらも母が挨拶をしてきた。
「お、おはよう……」
 お互いに戸惑いを隠せない。まさかこのタイミングで会うとは思っていなかったし。そもそも、母は寝ているか、とっくに仕事へ行ったと思っていたから、突然の挨拶にオウム返しするしかなかった。
「お義母さん、行っちゃった?」
 訊ねられて反射的に頷いた。
「そう……」
 何か伝えたいことでもあったのだろうか。母はパジャマの上にカーディガンを羽織っただけの姿に、私のローファーを引っ掛けていた。私がサンダルを履いて出てしまったせいで、他に急いで履けるようなものに目がいかなかったのだろう。母の靴と言えば、高いヒールのものばかりだから、慌て急いでる場面には向かない。
 祖母に会えなかった母は、髪の毛を緩くかき上げてローファーを脱いでから、それが私の靴だと初めて気がついたのか、はっとした顔をしてこちらを見た。
「ごめん……」
 何かとても酷いことをしてしまったみたいに謝る。大したこともないのに、ものすごくすまなそうな顔をする。
「別に……」
 気の利いた言葉が浮かばなくて、そんなつもりはないのに感じの悪い言い方になってしまって居心地が悪くなる。自分が稼いだお金で買ったローファーだ。謝る必要などない。
 パジャマにカーディガンを羽織った姿のまま玄関に立ち尽くし、すまなそうに見つめてくる母といつまでも対峙していられず。サンダルを乱暴に脱ぎ捨て横を通り過ぎた。
 もっともっと感じが悪くなってしまったことに心がガサガサと嫌な音を立てるのに無視してリビングへ行く。
溜息が出た。祖母がいなくなった途端にこのありさまだ。険悪な状況を作り出したのは自分の態度のせいだとは思っても、どう改善すればいいのか解らずモヤモヤとイライラが綯交ぜになる。きっとお腹が空いているせいで、こんな態度しかできないんだ。
 何も悪いことをしていない母に、あんな態度をとる自分が嫌なのに、素直に謝ることもできず、冷蔵庫を乱暴に開けて牛乳パックを取り出した。とにかく何かお腹にいれよう。少し満たされれば気持ちも落ち着いてくる。そしたら母に「さっきはごめん」と言えるはずだから。
 グラスに牛乳を注ぎ、立ったまま飲んでいたら母もリビングへやって来た。
「朝ごはん、食べた?」
 話しかけるのに少しの躊躇いを見せながら、顔色を窺うように訊ねる。仕事のできる人間だと聞いているけれど、今目の前にいる母親という人物は、オドオドとしていてどう考えてもうだつの上がらない平社員のような態度だ。
「食べてない」
 短く応えると「そう」と小さく呟き洗面所へ行ってしまった。応えた瞬間に、一緒に食べようとでも言われるんじゃないかと身構えたからホッとした。一対一でご飯なんて無理だ。母の姿が見えなくなり、ストンと椅子に腰かけた。母に対し、どう接すればいいのか解らないモヤモヤが渦巻いて、再び大きく息を吐く。こんな風に考えてしまうのは、やっぱりお腹が空いているせいだ、椅子から立ち上がり、トーストを食べようと棚から食パンを取り出してトースターに入れた。冷蔵庫からマーガリンと、一度しまった牛乳のパックを取り出す。ダイニングの椅子に着いてから、トースターのスイッチを入れ忘れていたことに気がつき立つと、着替えを終えた母がまたリビングに現れた。
「たまには、一緒に外にいかない?」
 さっきまでうだつの上がらない平社員に見えた母親は、身支度を整えると自信に満ちた態度でバリバリのキャリアウーマンに変身していた。そして、一対一の朝食よりも難易度の高い「お出かけ」という難題を突き付けてきた。
 母と二人きりで出かけるなんてこと、生まれてこの方経験したことなどない。母がいる時には、いつも祖母がそばにいたし、二人で出かけるなんてことが起こることはなかった。
 母はいつも着ている戦闘服のようなスーツではなく、ラフなパンツスタイルに薄手のニットを着てストールを羽織っていた。足元は仕事に行く時の高いヒールではなく、ローヒールで歩き易そうだ。カジュアルな靴も持っていたのだと初めて知った。私はボーイフレンドデニムを履き、コンバースの起毛トレーナーを着た。足元は紺色をしたお気に入りのコンバーススニーカーを履く。
 玄関を出ると、いつの間にか母はタクシーを呼んでいた。母が運転手に行き先を告げたあとの車内は当然のように静かで無言だった。お互いに何を話せばいいのか解らず、後部座席に母と並んで座り窓の外にばかり目を向けていた。玄関先での態度を謝りたいのに、できなかった。
 電車やバスに乗ることはよくあるけれど、車に乗ることは少なかった。家にはミニバンが一台あるけれど、母が仕事で使うものだ。祖母は運転免許を持っていないし、当然私は免許取得の年齢にさえ達していない。父がいたなら、休日に家族でドライブなんてこともあったのかもしれない。
 ぼんやりと考えていると、タクシーは大きな通りを行き、暫くして高級そうなホテルの前に停車した。タクシーを降りると、ドアマンというのだろうか。こんな小娘にも丁寧にお辞儀をして出迎えてくれた。
「ここのモーニングなら、好きなものを選んで食べられるから」
 仕事でよく使うのか、母は行き慣れた様子でホテル内に入り颯爽と歩いて行く。こんな場所に来ることなどない私は、小さな子供みたいに母の背中を小走りで追いかけエレベーターに乗った。
 広い箱の中には他の人も乗っていて、二人きりにならなかったことに安堵した。ぐんぐんと上昇していくエレベーターの奥面はガラス張りになっていて、東京の街が見下ろせた。高所恐怖症なら失神するほどの高さと景観だろう。
 高層階の四十一階にあるレストランに着いた。好きな物を選べるというだけあって、案内された店は、バイキング形式のモーニングを提供していた。母は窓際のテーブル席を選んだ。
「好きなものを選んできてね」
 持っていたバッグを隣の空いている椅子に置くと私を促した。慣れない高級ホテルのバイキングというものに緊張して、言われるがままコクコクと頷きテーブルを離れた。
 料理は、主に洋食だった。数種類の焼き立てパン。卵料理にハムやベーコンも数種類ある。もしかしたら、パンに乗せたり挟んだりして、サンドイッチやハンバーガーなどにするのかもしれない。想像しただけで美味しい。フルーツやヨーグルトもたくさんあるし、数種類の飲み物も用意されていた。目の前でシェフがベーコンを焼いてくれて、その香りがたまらない。デザートも豊富で目が迷う。
 迷い箸はいけないと祖母に躾されてきたけれど、これだけあっては迷わない方がおかしい。食べられる量には限りがあるのに、ついあれもこれもと皿に乗せてしまった。焼いてもらった厚切りのベーコンから肉汁が滴っている。テーブルに戻ると、私の皿を見て母が目を丸くしたあと笑みを浮かべた。
「食べ盛りだものね」
 それだけ言って席を立ち、母が手にして戻ってきたのは、カプチーノと焼き立てのクロワッサン。それにサラダとヨーグルトだけだった。足りるの? 咄嗟に口から出そうになったけれど、目の前に座っているのは気軽に話してきた祖母ではなく。会話に苦戦してしまう母親だと認識した瞬間に、喉元で言葉がとまった。
 黙々と料理を口に運んだ。焼きたてのクロワッサンはバターが効いていて美味しいし。ハムや厚切りベーコンも、家で食べるような安い加工品の味などしない。オムレツはとてもふわふわだし、二口ほどで食べられるサイズにカットされたキッシュも美味しい。どちらも卵だなって思ったら、普段から健康に気を遣ってくれる祖母の少し笑みを浮かべつつする渋い顔が浮かんで口元が緩んだ。その表情のまま目の前の母を見たら、カップを手にしたまま窓の外のビル群を眺めていた。
 こうやって一緒にいるから今日は休日なのだろうと思っていたけれど、本当は仕事があるのかもしれない。外の景色を眺めながら、頭の中では家に戻ってすぐに出かける準備をしなくてはならないと、優先順位を考えているのかもしれない。
 母の都合を思うと、さっきまで美味しいと夢中で口にしていた目の前の料理は一気に味気なくなり。玉子ばかり食べて、と注意する頭の中の祖母の笑った口元も口角は下がってしまう。
 手に持っていたクロワッサンを一気に口に放り込み、ハラハラと落ちる沢山のパンくずを気にしながら母と同じように窓の外へ視線を向けた。そそり立つようなビルは、競い合うように空へ手を伸ばしているようだ。
 空……。
 高いビルは、まるで松下空のようだ。一生懸命に手を伸ばしても、届かないような高さ。先日、少しだけ話す機会ができたけれど、私と松下はそれ以上近づくこともなく。授業中に松下の背中を眺め、ノートに「空」と書く日常は変わらないまま続いていた。同じ教室にいるというのに、とても遠い存在だ。松下は、誰とでも愛想よく話をしているようでいて、どこか一線を引いているみたいに見えた。唯一心を許しているのだろうとわかるのは、池田正人一人だけだった。私は、松下の引いた境界線の内側に入ることはできるだろうか。
 高いビルが立ち並ぶ空を、カラスが悠々と飛んで行った。松下を思う気持ちに、はい、ここまで。と線を引かれた気分になる。
 思考を元に戻し、丁寧にヨーグルトを食べる母をチラリとみる。母の働くオフィスは、ここから見えるビルの中にあるのだろうか。母の会社の場所を知らない私は、なんとなく一番高くてきれいなビルに焦点を合わせた。あの中で、母は毎日せわしなく動き回っているのだろうと妄想する。テキパキと仕事をこなし、部下に指示を出し、軽やかにヒールの音を鳴らす。そんな母を思い浮かべる。
 祖母が出かけてしまったことで、私に気を遣っているだろう母を解放してあげるべきか。普段から会話さえしない娘と、無駄な時間を費やすよりも、好きな仕事に打ち込んでいた方かいいのかもしれない。食べ終わったから、帰ろう。そう言うつもりで口を開きかけたら、それよりも先に母が話し出した。
「買い物に、行かない?」
 母が話すなんて予想もしていなかったし。まして買い物に行こうなんて誘われるとも思っていなかったから、咄嗟に言葉が出なかった。
「真白に似合う服、選んであげるよ」
 母が私の名前を呼ぶ。「真白」と躊躇いもなく呼ぶ。私に似合う服を選ぶと笑みを見せる。
 今私の目の前にいるのは、誰?
 会話もなく家ですれ違うだけの人が、気さくな表情を浮かべていることにとても戸惑った。
 私の中に膨らむよく分からない感情は、ブクブクと歪に広がっていき。今自分がどんな顔をして母を見ているのか解らなかった。ただ複雑な感情が波うち、嬉しいのか悲しいのか。切ないのか楽しいのか。とにかくわからない。グラスを持ち上げて、三分の一ほど残っていたリンゴジュースを一気に飲み干した。一〇〇パーセントだろう果汁が、頬をキュッと締め付けた。
 渋谷の109に来るのは初めてじゃない。麗華と一緒に何度か来たことがあるからだ。けれど、まさか母親と来ることになるとは思いもしなかった。
 賑やかな階層。並ぶショップの前を通るたびに、それほど変わらない年齢のショップ店員が明るく「いらっしゃいませ」と声をかけてくる。
「本当にここでいいの?」
 母が考えていたショッピングは、デパートのちょっと高級な店をイメージしていたのだろう。多分、銀座辺りに出るつもりでいたに違いない。例えば私が大学生だとか、二十歳を過ぎた成人ならそちらの方が断然よかっただろう。けれど、今の私が欲しい物は、この縦に細長いショップの中にひしめき合っている、安くて可愛らしくて、今この瞬間に流行っている物なのだ。
 たっぷりとしたオーバーオールにミニスカート。レイヤードに古着スウェット。デパートに売られている商品に比べれば、生地も縫製もチープで簡易なものばかりだ。母は、こんなに安いの? と値段を見て驚いている。プチプラな商品は、高校生のお小遣いでも買えるものが多い。
「あ、可愛い」
 足を止めたところにあったのは、ビーズのアクセサリーだ。リングとブレスレットのセットは、麗華とお揃いにしたい。
「それも買う?」
 母が、買ってもいいというようなニュアンスで訊く。私は頷いたけれど、麗華の分もとは言えずちょっと戸惑った。手に取り、うまく口にできず、まるで小学生のようにもじもじとしてしまう。
「お友達にも買いたいの?」
 どうしてわかったのだろう。母と買い物に来たことなどないし、麗華の存在を知っているのかもわからない。
「どれとどれがいい? 一つはラッピングしてもらおうか」
 母はにこやかに笑みを浮かべ、一緒にビーズを見て選ぶ。
 いつも険しい顔をしているか、寝起きのぼんやりした顔しか見たことがなかった。こんな一面があるなんて知らなかった。これが母親の顔というものなのだろうか。初めてのことに戸惑いながらも、胸の中ではリズムのいい音符が軽やかなメロディーを奏で始めていた。聴こえてきたメロディーが心を弾ませていく。ラッピングしてもらったビーズのアクセサリーを大切に手に持った。