雑草コンクリート事件で負傷した膝のかさぶたが小さくなり治り始めていが、傷は関節にあるので動くたびに引き攣ってまだ少し痛い。
 体育の授業中。竹内先生の前に整列した一年生女子の私たちは、準備運動と称した屈伸運動をしていた。上下、上下と二、三度したところで膝のかさぶたがぱっくりと破れ、そろりそろりと言うように血が滲み浮き上がってきた。
「あ……」
 竹内先生が声を上げて屈伸の数を一二、一二と数える隙間に漏れた私の声は、すぐ隣にいた同じクラスの子には聞こえたがそれだけだ。屈伸をやめて血の出る膝を見ていたら、回りがざわついてきた。みんなが上下に伸びて縮んでと動いている中で、一人だけポツンと突っ立ったままでいるのだから目立って当然だ。
「鈴内さん。何やってるのっ」
 竹内先生は、更年期なのかいつも怒っている。生徒が自分の予測しない態度や、授業に集中できていないことがとても我慢ならないと言うように言葉にはいつも怒気を含んでいた。
「ちゃんとやりなさいっ」
 どうして立ったままなのか、という疑問を口にするよりも先に竹内先生は怒鳴りつける。まるで恐怖政治だ。怖がらせていうことをきかせようなんて、教育委員会はどうしてこんな人を野放しにしているのだろう。
「血が出ました」
 膝から垂れ始めた血を見ながら応えると、呆れたような溜息を吐かれた。どうして私の授業で血なんか流してるのよっ。とばかりに竹内先生の表情は憤慨している。竹内先生の中に、生徒を労わる気持ちや心配するといった感情は存在していないようだ。こういう時に余計なことを言うと、更なる怒りを買うのは解っていたから、みんなは。あーあ。また面倒臭いことになったなんて顔をしつつ黙っている。
 竹内先生が怒りもあらわに生徒の間を縫ってドスドスと向かってきた。その迫力に、逃げなければやられると反応した。さっきまでの、とろとろと屈伸運動をし、流れ出る血をぼんやり見ていた動きとは大違いだ。
「保健室行ってきます」
 クルッと背を向けてさっと出入り口に向かうと諦めたのか、深い息を吐いて「早く戻って来なさいよっ」とやっぱり怒ったような剣のある言い方をして屈伸の続きを始めた。私もいつかはあんな風になってしまうのだろうか。だとしたら、女という生き物はなんと恐ろしいのだろう。
 カラカラカラと軽い音を立てて、保健室のドアを開ける。中はいつも通りの静けさで、グラウンドから生徒や先生の声が聞こえてきた。
「藤原先生」
 首を覗きこませ入りながら声をかけたのだけれど返事はなかった。酷いケガを負ったわけでもなく、以前の怪我から血が出ただけだ。先生の手を煩わせるほどではない。絆創膏の収まる抽斗を開けて中から一枚貰った。椅子に腰かけて膝を見ると、絵の具で描いたみたいな赤い血が渇き始めていた。近くにあったティッシュの箱から一枚引き抜き、水道の水で湿らせ血を拭いた。絆創膏を貼ると、まだ止まるには惜しいというように血が滲んできたけれどそのまま貼り付けた。
 窓辺に近寄り、外を見る。一年の男子がサッカーをしていた。グラウンドの端に設置されている、走り幅跳び用の砂が強い秋風に巻き上げられている。砂埃にまみれて体中がジャリジャリになりそうだ。
 体育のサッカーは、上手な人と下手な人との差があり過ぎた。ボールは勢いづいてゴールを目指す時と、あちらこちらにぼてぼてと転がって、ゴールってなに? とやる気のなさを見せる時があった。視線を巡らせると、沼田のことを昭和感満載だと言っていた木下は、やる気のない方に分類されていた。蹴っても蹴ってもボールはぼてぼてとおかしな方向に飛んでいる。
 松下の姿はない。入学当初、バスケの授業で華麗なシュートを見せていたけれど。あれ以来、私の知る限り体育で松下の姿を見かけていない。もしかしたら運動部に誘われることが鬱陶しくて、身体能力の高さを隠しているのかもしれない。
 しばらく男子のサッカーを眺めていたら、藤原先生がやって来た。
「あら。鈴内さん、どうしたの? 具合悪くなった?」
 心配するように傍に来てから、膝に貼られている新しい絆創膏に気がついた。
「松下君と来た時よりは、軽症みたいね」
 微笑む藤原先生に頷き訊いた。
「先生。松下が体育の授業に出てないの」
 窓の向こうにあるグラウンドへ視線をやってから、藤原先生を見た。その時、ほんのちょっと。間なのかどうなのかもわからないくらいの時間を空けてから、先生が窓の向こうを見た。僅かな不自然さがあった。
「本当ね。どうしたのかしら? 気になる?」
 確かに気になっている。松下空という存在を、あの日からずっと気にしている。
「シュートがね。凄かったから」
 バスケの華麗なシュートが脳内に浮かぶ。
「松下君、サッカーが得意なのね」
 藤原先生が勘違いする。先生の思い違いを訂正することもなく絆創膏のお礼を言って保健室を出た。廊下をなるべくゆっくりと歩く。少しでも体育の授業に参加する時間を短くしたかったからだ。
「サボりたいなぁ……」
 静かな校内で呟いたら、玄関から音が聞こえてきた。それとほぼ同時に声をかけられた。
「あ。鈴内」
 松下だった。遅刻だろうか。上履きに履き替えそばに来る。一対一で話すことなど、あの保健室以来だ。心なしか緊張してしまう。
「今来たの?」
「ああ、うん。鈴内は? 今って授業中だろ?」
 玄関の正面に飾られている壁掛け時計を確認する。
「傷が開いちゃったから」
 松下は私の膝を見て、ごめんと呟く。
「え? どうして?」
「俺がぶつかってできた傷だから」
 そうか。言われてみれば、そうなのかも。でも、どちらかというと、「竹内先生が強制した屈伸運動のせい」という方が私としてはしっくりくる。
「体育出るの?」
「……いや。教室行く。鈴内は?」
 少し考えて、私も教室へ行くことにした。
「サボりだな」
 片方の口角を上げて、ニッと笑った松下に驚いた。麗華ではないけれど、教室ではぼんやりしているところを多く目にしていたから、とても新鮮だった。私も松下を真似てニッと笑いを返した。
「鈴内もそんな風に笑うんだな」
 驚いたというように、松下が私を見ている。お互いにお互いの意外な表情に驚くというのもおかしなものだ。
「遅刻なんて珍しいよね」
 言った後に、そういえば前にもこんなことがあったと思い出した。夏休み前だったかな。いや、もう少し前かな。朝、担任が出席を取った時に「松下は遅刻」と空いた席を見て一言呟いた。その日松下は、一時間目の授業が始まっても教室には来なかった。けれど、気がつけばいつの間にか松下は席に着いていて。具合の悪い様子もなくその後の授業を受けていたから、単に寝坊したのかと気にもしなかった。
「ああ、うん。……平行線て、やつかな」
 よく意味の分からない、歯切れの悪い返答をする。平行線の意味は理解できなかったけれど、以前と同じように具合が悪そうには見えないから、また寝坊をしたのかもしれない。
松下は、首元のネクタイを少しだけ緩めると階段を上った。私もあとについていく。誰もいない教室は不思議な雰囲気だ。放課後の誰もいない時間とは違って、他のみんなは授業を受けているせいか罪悪感があるのかもしれない。自分の席に鞄を置いた松下が「そういえば」と話し出す。
「さっき変な奴見かけた」
 未だ少しだけ残る緊張感を抱いたまま松下の顔を見た。
 変な奴? 朝から変質者でも出たのだろうか。しかし出会ったのが松下なら、あまりに大きくて、圧迫感に驚きすぐに退散したのではないだろうか。
「ときわ商店街知ってる?」
 訊ねられて頷く。家の近所の商店街だ。
「挙動不審な感じでウロウロしてる男がいたから、じっと見てたらすぐにいなくなった」
 やっぱり。こんなに大きな人にロックオンされたら、逃げ出したくなるのもわかる。
「どんな人?」
「四十歳か五十歳くらいの男。浅黒い顔をしてたから、日雇いみたいな仕事してんじゃないのかな。ほら、工事現場とか、そういうやつ。なんかキョロキョロして、あちこち窺ってるみたいだった」
 その瞬間、麗華の父親のことを思い出し心臓が大きく跳ね上がった。
 まさか……ね。
 嫌な想像が駆け巡り、どうか麗華の前に現れたりしないでと願った。
「あっち行くとき、気を付けた方がいいよ」
 ドクドクと鳴る心臓に顔を引きつらせながら頷いた。
「鈴内はさ、体育嫌いなの?」
「体育というより、竹内が嫌い」
 苦笑いを浮かべると松下が笑った。つられるように笑みが浮かぶ。些細な会話なのに、鼓動が少し早る。商店街に現れた男のことを考えてドクドクしたのとは明らかに違う心臓の高鳴りだ。
 松下を気にしている自分の気持ちが、クルクルクルクル円を描くように回っている。まるでドレスを着て舞踏会の真ん中へ躍り出ているみたいだ。とても心が浮ついている。これは、どんな感情なのだろう。端的には言い切れない複雑さが、ドレスのふわふわに紛れてよく見えない。
「たまにさ、突然走りだしたくなる時があって」
 フワフワとした心地でいるところへ、ちょっと頬を歪めながら松下が呟いた。幼い子がイタズラを咎められやしないかと、親の顔色を窺っている時のような表情をしている。
「青春?」
「んー、まあ。そんな感じ」
 松下は笑みを浮かべた後に、少しだけ考えてからまた口を開く。
「けどさ。迷惑になるかもなって考えてやめる」
「迷惑って。走りながら叫んだりするの? わーーーっ! て」
 面白がると、そうそう。なんてのりよく笑った。
「田舎だとさ。海とか川とか。叫んでも問題ないところがあるからいいよな」
「やっぱり叫ぶんだ」
 クスクス笑うと「田舎もいいかな」なんて少しだけしんみりとした雰囲気を出すから、もしかして引っ越ししてしまうのだろうかと不安になった。
 同じクラスになって半年。漸く話す機会ができたというのに、遠く離れてしまうのはとても残念だ。何より、根付き始めたこのふわふわとする感情のやり場がなくなってしまう。考えたら居ても立っても居られなくて、気持ちが焦りに追い立てられるのに「引っ越すの?」なんていう確信的な一言は口から出なくて、気持ちとは裏腹にヘラヘラと笑い続けてしまった。訊きたいことを口にできないもどかしさが、体の中でゴワゴワと嵩張る。
 松下がいなくなった教室は、きっと味気ないだろう。この教室に松下がいなくなったら、私はもっと体育の従業に出なくなるかもしれない。膝の傷がずっと治らないように、竹内先生の目を盗んで一人屈伸運動をするかもしれない。ぱっくりと傷が割れたら、その血を眺め松下のことを考えることができるから。
「なぁ」
 自分の机に鞄を置いた松下はゆっくりと窓へ近づくと、グラウンドをちらりと見てから私を振り返る。
「いつかさ。俺が走り出したくなった時に、鈴内も一緒に走ってよ」
 松下からのお願いに、もちろんだよと笑顔で頷いた。