麗華の言葉を思い出していた。松下空のことだ。やたらと身長が高くてぼんやりしていて、グレーのイメージ。
 初めて松下空を見たのは、高校の入学式前日だった。明日から高校生だと思うと、まるで小さな子供が翌日の遠足を楽しみにしているみたいに、どこか緊張し落ち着きをなくしていた。子供の頃は、いつだって不安なことを考えていた。歩いている途中に躓いて膝を擦りむかないだろうか。お昼のお弁当の蓋を開けるときに、勢いあまってひっくり返し、全てダメにしてお昼抜きにならないだろうか。友達とはぐれて迷子にならないだろうか。
 その片鱗は今も残っていて、高校という新たな場所へ行くことに、この上もない緊張感を抱いていた。クラス表に自分の名前だけ記入漏れになっていて、途方にくれないだろうか。友達はできるだろうか。いじめにあわないだろうか。担任に意味もなく目を付けられないだろうか。次々に不安なことを思い浮かべては、布団の中でモゾモゾと寝返りを打っていた。ベッドの中でじっと朝を迎えることは苦痛でしかなかった。
 何度か寝返りを打ち。モゾモゾとしてため息を吐き、うぅっ。なんて声を出したあと、ムクリと起き出しパジャマの上に上着を羽織った。上着の丈はお尻が少し隠れる程度だから、その下からは小さなキリンのイラストがたくさんプリントされたパジャマが否応なく見えてしまう。キリンの数と同じくらいパジャマの至る所にgiraffeと書かれてもいた。これは、祖母が知り合いの衣料品店のおばさんから、可愛いからお孫さんに買ってあげてと勧められて購入してきたものだ。大人の付き合いは大変だ。子供は子供で気を遣い。この派手なパジャマを愛用する羽目になるのだから、こちらも大変だ。
 夜だし。誰に会うわけでもない。そう思っても、明日から女子高生になるのだから、そこはそれ。キリンのイラストとgiraffeの文字が散りばめられたパジャマを晒して歩くのはいかがなものか。ズボンだけでもとジーンズに履き替えた。スマホと家の鍵を手に玄関でスニーカーを履こうとして、裸足だったことに気がつく。パジャマの柄に気を取られ過ぎた。
「まー、いっか」
 女子高生うんぬんと言っていた、さっきの自分はなんだったのか。素足に履いたスニーカーは、いつもより少しだけガサガサと足をいじめてきた。
 深夜に家を出るなんて、反抗期みたい。
玄関を出たすぐ先にある煌々と灯る街灯を見上げたあと、月が綺麗に出ていることに気がついた。幼い頃、祖母と公園に行った時、まだ明るい空に白く丸いものが見えて、太陽! と指をさしたら、月だと教えてもらいとても驚いた。だって、月は夜に出るものだと思っていたから。絵本の中でだって、月は真っ黒な空や濃い青の中に描かれている。夜でもないのに目の前に現れている白く浮かぶ丸いものに心底驚いた。
 月を眺めながら歩く。少しでも近くに行きたくて、足を前へ前へと出す。スニーカーと素足が擦れて少し痛い。靴下って結構大事、なんて思ってちょっと笑った顔を、キリンが袖口からチラリとのぞき見していた。
 近所には、小さな公園がある。パンダなのかアシカなのかわからないバネのついた乗り物と、二つしかないブランコ。雲梯とベンチが二つ。慎ましやかな公園だ。砂場はない。祖母が言うには、昔はあったらしい。けど、野良猫や野良犬が尿や糞をするから不潔だと、近所の住民から苦情が来て区が埋め立ててしまったらしい。
 なんてことだ。糞でもなんでも、それが自然の姿じゃないか。埋め立てるって何? 子供が砂遊びできないなんて、それ公園なの? 手に触れたり臭いを嗅いだりして、子供って学んでいくんじゃないの。
 どの辺りに砂場が存在していたのか全く分からないけれど、公園の入り口付近で立ち止まりぐるりと中を見回して、突如湧き出した憤りに鼻息を荒くする。マダムチック風なママさんたちが苦情を言っている姿を想像して、文句だけは一丁前だよね、なんて自分のことは棚に上げてフンッと鼻息を吐き出した。夜空を仰ぐと、月は変わらず私の先にいて、傍へ行ったつもりでもちっとも近くにはいなかった。不意にどこかから、ターンターンと間のある音が聞こえてきた。少し先には高架下がある。子供達が野球のボールをコンクリートの壁目がけて投げ、一人キャッチボールをしている姿や。コンクリートの壁にチョークで描いた丸に向かって、サッカーボールを蹴って練習していることがあった。
 公園を出て、高架下に足を向けた。相変わらず続く、ターンターンという音に導かれるように近づいていく。歩くにしたがって音はどんどん大きく、反響するように聞こえてきた。昼間はそれほど気にしたこともなかったけれど、深夜の高架下というのは物騒な雰囲気を醸し出している。犯罪のニオイがプンプンすると言ったら、麗華は刑事ドラマの見過ぎだと笑うだろうか。
 音の出所には誰かがいるようで、気づかれないように首を伸ばして窺い見ると、街灯と月の灯りを受けて大きな大きな影がこちらに向かって伸びていた。まるで絵本の中のガリバーみたいだ。大きな陰に見惚れて、視線が本人にたどり着くまでに少しの時間がかかった。だからか、ガリバー自身に視線が向くよりも先に、ターンターンと鳴る音の方へと目がいった。
 音の出どころは、バスケットボールだった。ガリバーは、バスケットボールをコンクリートの壁に向かって投げていた。いや投げていたというより、シュートするように放物線を描き柔らかく放っていた。ターンターンと鳴っていたのは、ドリブルする時の音だ。
 ガリバーの放ったバスケットボールは、やたらと綺麗に弧を描き。誰かがチョークで描いた丸。それは一つじゃなくて。上や下や斜めにいくつも描かれていて。その中の、真ん中の一番上にある丸に向かって、吸い込まれるように飛んでいた。あまりに華麗なボールの流れやシュートスタイルが絵になっていて、脳内で突如歓声が沸いた。
「華麗なシュート!」っと熱く叫ぶ、スポーツ実況者の声が頭の中に響いてきた。興奮気味に称賛しつつも、冷静に実況を続けようとする解説者の声はとても熱く。触発されるように「うわっ。凄いっ‼」という言葉と同時に拍手をしたくなったのだけれど。はっと我に返れば、こんな深夜に見ず知らずのガリバーに向かって拍手なんて危険極まりない行為だ。ガリバーがいい人とは限らない。さっき感じたように、高架下には犯罪のニオイがするのだから。気づかれた瞬間にボールを投げつけられ、追い回されるかもしれない。それ以上のことだって起きかねない。明日から、生涯のうちでたった三年間しかない女子高生になるのだ。こんなところで万が一危険な目にあって、この先の人生をダメにするわけにはいかない。
 何度も何度も放る華麗で素敵なシュートを、陰に隠れながらあきもせずこっそりと眺めていた。それが松下空だと知ったのは、翌日の入学式のときで。正確には、クラス分けを確認し、式が始まるまで待機していた教室でのことだった。因みに、心配していたクラス表には「鈴内真白」としっかり氏名が記載されていた。当然だ。
 教室に入った途端、昨日見たあの大きな体に目がいった。大声で騒いでいたわけでも、何人もで固まり目立っていたわけでもない。なのに、目は吸い寄せられるように注目していた。
 あっ、ガリバー!
 危うく声に出しそうになったところで麗華に「おはようっ。同じクラスになったね」と嬉しそうに話しかけられて飲み込むことができた。おかげで、初日から「奇怪な言葉を発する女」というレッテルを張られずに済んだ。三年間続く高校生活が、暗澹たるものにならず麗華に感謝した。
 ガリバーとして認識したことで、松下空のイメージは華麗なシュートを決める大男だった。その後体育館でも見惚れてしまうくらい綺麗なシュートを目撃したこともあってイメージは定着したと思っていた。けれど、雑草コンクリート事件からの(これは麗華が名付けた)青木昆陽(あおきこんよう)の青。そして空への連想以来、彼に持っていたイメージは全く別のものに変わった。ガリバーだった松下空は、雪の中から生まれた優しい空に変わっていた。