真白という名前を褒めてくれたのは、祖母が最初だったと思う。思うというのは、私が知らないところや、私が褒められていると認識してないところのことはわからないからだ。
 祖母は、父の時のようにはいかないと言いながらも、母親のように私のことを育ててくれている。歳をとって体がいうことをきかない分、思いを伝えようとしてくれる。特に、挨拶や感謝の気持ちは煩く言われてきた。相手が言われて気持ちの良いことは、極力言葉にしなさい。それは必ず自分にも返ってくるからと。そして、相手が嫌な気持ちになる言葉は、飲み込みなさい。同じように返ってくるからと。もっともだと思う。嫌な気持ちになるような言葉をありがたがる人などいない。
 うちには両親がいない。いや、正確には両親は共にいる。父親は別の場所で暮らしているので、私はこの家で母と祖母と三人で住んでいた。母は仕事が忙しすぎて、同じ家にいても殆ど顔を合わせることがない。役職がついているらしく、家のことに気を回す時間はないようだ。母のおかげで、うちは食べるに困らないのだと祖母が話していた。
 物心がついたころから、母と過ごしたと思える時間は少なくて。傍にいるのはいつだって祖母だった。おかげで、幼い頃は私の母親は祖母だと思っていたくらいだ。お祖母ちゃんと呼んでいたのに、母親と認識していたというのもおかしな話だろうけれど。所詮、呼び名などはあだ名と同じ感覚だった。
 時々見かける女性は、どうして家にいるのかと首を傾げたこともある。親しげに「おはよう」と声を掛けられても戸惑うことが多く。時々。本当に時々、一緒にテーブルに着いてご飯を食べると「美味しいね」と笑いかけられた。幼い私はどんな顔をしていいのか解らず、祖母の顔を窺い見たものだ。すると祖母は、大丈夫という顔で一つ頷いて笑顔を見せるから。私は安心して「美味しい」と口にして笑みを返すことができた。
 風邪で高熱を出した時も、水疱瘡や風疹にかかって苦しんでいた時も。上級生の男子にふざけて足を引っ掛けられ、転んで乳歯を折った時も。傍についていてくれたのは、いつだって祖母だった。因みに、足を引っ掛けた男子の家に乗り込んでいき、有無も言わさぬ勢いで抗議したのも祖母だ。後日、その家の両親と子供が菓子折りを持って謝りに来た。
 一緒に住む女性を母親だと認識したのは、いつのことだっただろう。
「お母さんは、ちゃんと真白のことが好きだからね」
 そんな風に言われたことがあって。ちゃんとってなんだろうって考えて。そのすぐ後には、お母さんという言葉に気がついて。ああ、この人、私のお母さんだったんだ。じゃあ、お祖母ちゃんは、私のお母さんじゃなかったんだねと思ったら、心臓がキリキリと嫌な音を立てたのを覚えている。
「響子さんのおかげで、いい暮らしをさせてもらっています。いつもありがとう」
 祖母は時々、母にそう言って頭を下げる。そんな時母は、ちょっと複雑そうでいて、困ったような顔をする。祖母と母の間にギスギスとした感情があるのかどうかわからない。ただ、いがみ合っているような様子を見たことはないし、嫌味のある言動を目にしたこともない。嫁姑という関係は、それなりに良好なのだろう。そういうわけで、母が稼いでくれる鈴内家は、食うに困るようなことはない。
 父も母と同じように、仕事に邁進している。父は、私が小学校四年生の時から九州へと単身赴任をしていて、ずっと離れて暮らしていた。おかげで、父親という存在はこの鈴内家の中でとても希薄だ。仕事命の母は、父の仕事について九州へ行くなどという選択などかけらもなかったのだろう。だから父は、一人九州で暮らしているのだ。時々祖母が様子を見に行っているけど、最近は足腰も弱くなってきているから、遠い九州まで行くのはしんどいらしい。ここ一年ほどは、訪ねる回数が減っていた。
 いい大人とはいえ、祖母にしてみれば父は大切なひとり息子だ。九州で単身生活していることを心配するのは当然というもの。今では半年に一度となってしまったけれど、祖母は九州に住む父の元へと赴く。一度行くと十日ほどは帰ってこないから、その間この広い家で祖母が作り置きしていった料理をおかずにご飯を食べていた。
 祖母のおかげで、簡単な料理くらいならできるようになっていた。カタカナのついた料理。例えば、グラタンだとか、カルボナーラだとか。ビーフストロガノフなんていうものは、祖母のレシピにはないので作ることはできない。あ、でも。ハンバーグは教えてもらった。要するに、私が作れるものと言えば、一般家庭の食卓に並ぶような煮物や焼き物だ。筑前煮や肉じゃが、魚の煮つけ。魚の焼き方も教わった。
「海は、身から。川は、皮から焼くんだよ」
 海の魚は身から焼き、川の魚は皮から焼く。教えてもらった時は、なんてわかり易いんだと目から鱗だった。魚だけに、なんていうしゃれではけしてない。
 時々、母は私の存在を認識しているのだろうかと思うことがある。気がつけは、一ヶ月ほど前に「おはよう」と言葉を交わしたきり、会話らしい会話もなく。廊下や玄関ですれ違うことはあっても、いつだって母は忙しそうにセセコマと動いているものだから、声をかけるタイミングを失ってしまう。そんな時は、幼い頃に言われた「ちゃんと」という言葉を思い出す。きっと母の中で私は「ちゃんと」認識されているはずだ。
 父からは、時々メッセージや電話が来る。忙しい仕事の合間なのか、内容は簡単なものが多いし。電話も、かかってくるのは年に一度、あるかないかだ。父は時々、こっちに遊びにこないかと訊ねることがあった。こっちというのは、もちろん九州のことだ。訊ねられるといつも「そうだね」と応えるが実現したことはない。博多の屋台が並ぶ光景を想像すると、飲んだくれた大人の酒臭さに紛れるのは嫌だと苦い顔になる。父の住む場所が屋台の通り近くかどうかは知らないのにだ。
 結局、一度も父の住む九州へ行ったことがない。祖母に言えば連れて行ってくれるのかもしれないけれど、どうしてかそうしてこなかった。高校生になった今は、父親に会いに行くという行為がとても気恥ずかしいものになっていた。四年生の時に離れて以来、ずっと会っていないせいかもしれない。家の中にいるのは女性ばかりのせいかもしれない。とにかく、父親という存在にどう接すればいいのか、まったくわからない。だから、顔の見えないメッセージや電話というコミュニケーションは妥当だ。何となく感じていることだけれど。こっちへ遊びに来ないかと誘う時、父には躊躇いがみえる。簡素なメッセージから読み取れるのか、と言われてしまえば答えに詰まるけれどそう感じるのだ。言葉にするのはとても難しいし、他の人が父のメッセージを読んだところで、ありきたりな文に見えるのかもしれない。けれど、私には伝わる。遊びに来ないかと誘う父の、心の奥に潜む本心ではないものを。きっと、社交辞令だ。だから返事は、いつだって「そうだね」で終わり続きはない。
 母がつけた私の名前を、私は気に入っていた。何がどうと訊かれるとうまく応えられないけれど、下手なキラキラネームをつけられなくてよかったと思うし。逆に古風な名前にされたところで、それに見合った性格でもない。麗華みたいに、見た目通りなら胸も張れるだろうけど、容姿に見合った名前にならなかったら地獄だ。
 祖母は、私の名前は柔らかくて、あったかいという。その表現に幼い頃は首を傾げた。名前に柔らかいとか硬いとか。冷たいとかあったかいとか、考えたこともなかったからだ。麗華のように、綺麗だとか。近所の飼い猫のチロちゃんみたいに可愛らしいはわかる。だけど、柔らかいってなんだろう。あったかいってどんなだろう。チロちゃんの体みたいにモフモフした柔らかさだろうか。それとも祖母の手のような温かさだろうか。どちらにしろ、嬉しい気持ちになったのは間違いない。
 雪国生まれの祖母は、当然雪に親しみがあって。冬は雪かきをしない日なんてなかったというくらい雪と共に生きてきた。
「知っているかい? 雪はね、本当はあったかいのさ。しんしんと降り積もった雪の中は、静かで優しくて、とてもあったかい」
「えぇ、雪って冷たいんじゃないの?」
 冷たくて寒いイメージしかなく訊き返すと、祖母は目をクシャッと細めて私を抱きしめた。
「雪は、真白みたいにとっても優しくて、あったかいのさ。だから、真白の名前はとても素敵で優しい名前なんだよ。お祖母ちゃんの大好きな名前だよ」
 幼い頃は理解できなくて、祖母が大好きなら私も大好きだと抱きついた。祖母の膝に乗ると背中を優しくトントンと叩かれて、幸せな気持ちになった。
「真白。太陽を浴びた雪の中は、綺麗な空の色をしているんだよ」
「雪は白いのに、空の色?」
 不思議に問うと、祖母は優しい瞳で見つめ返す。
「いつか真白にも見せてあげたいねぇ」
 謎かけみたいな祖母の言葉に、一面真っ白な雪国の地を踏む光景を思い浮かべた。