秋の始まりの空はどんよりとしていて、太陽は面倒なのか仕事を放棄するみたいに雲の影に隠れている。空の色に反して気温はまだ高い。高校生になって買った黒のローファーは、いつの間にか小指の辺りやつま先に傷がついていた。傷ついたローファーは、痛いなんて愚痴をこぼすこともなくとても我慢強い。人間なら当に瘡蓋になって痕が残っていることだろう。授業道具が詰まった鞄は、なんの罰ゲームなのかやたらと重く。ズルリと肩から落ちるのを何度も直していた。
 高校へ向かう歩道は、人が一人すれ違えるくらいの狭さだ。道の端には等間隔に銀杏の木が植えられている。四角く切り取られた土の中で、ここが自分の居場所なのだというように生えている。歩道のコンクリートはだいぶガタがきていて、滑らかさなど微塵もなくあちこちが凸凹としていた。ひび割れたコンクリートを突き破るように雑草が生えている。ローファーの先っちょの少し向こうにニョキッと顔を出している。あんな硬いコンクリートをどうやって突き破り生えてくるのか。昭和のスポ根では雑草魂なんていう言葉が流行っていたと、国語の沼田がずり落ちるメガネを直しながら話していたことがあった。それほどに、雑草というものの根性は座っているのだろう。
 国語教師の沼田は、見た目は五十代くらいに落ち着いていて、白髪も多いから老けて見えるが実はまだ三十歳半ばらしい。老けて見えるのは、話すことが全部昭和感満載だからだと隣の席の木下が言っていた。私からすれば、だらしのないダブダブのズボンと、少しくすんでいるシャツをハードサイクルで着回しているあか抜けないスタイルが老けて見せている原因なのだと思っている。要するに、センスなど皆無ということだ。
 コンクリートなんて屁でもないというように、雑草は硬い表面を突き破り、涼しげな顔をして風を受けていた。見た目は華奢で千切れてしまいそうな緑色の植物が、気持ちよさそうにサワサワと揺れるのをじっと見つめていた。吹く風の心地よさや、学校までのだるい道のり。沼田の昭和話。それらのことが視線を雑草へと向けさせる。授業なんて面倒だなぁという感情を抱え、歩道の真ん中に突っ立っていた。背中に衝撃を受けたのは、そんな時だった。背後から突然ぶつかってきた何かに体が前のめりになる。身構える余裕もなく、強引に身体が押し出された。おかげで、雑草によってかち割られたコンクリートの上に勢いよく膝をついてしまった。
「痛いっ」
 凸凹のコンクリートが、むき出しの膝に突き刺さる。自分のローファーの擦り傷よりもひどい傷を作った膝の痛みに顔を顰めてうめき声をあげた。スクスクと育った雑草を膝で踏みつけたことに対する罪悪感を抱えながらも、ギスギスとしたコンクリートが膝を砕くみたいに痛みを運んだこと顔か歪む。同時に、膝を擦りむくなんて小学生以来のことに羞恥心も湧き上がった。
 痛みに顔を歪ませたまま、ついた膝をどうにもできなくてそのまま動けずにいると、深く息を吐き出すような呼吸が聞こえてきた。嫌味な溜息というのではなく、気持ちを整えるかのような深呼吸に聞こえた。
「……ごめん」
 遥か上から聞き覚えのあるかすれ気味の声がした。同じクラスの松下空だ。瞬間、体がふわりと浮き上がり、割れたコンクリートについていた膝が細かい土やコンクリートの破片を地面に零しながら空気に触れた。松下が転んだ私を後ろから抱え上げ、立たせたのだ。松下はどこか焦点の合わないようなぼんやりとした表情をしながらも、膝に傷を負った私を心配した。
 少しだけ焦ったような顔をした松下空の身長は、高校一年生にして一八〇センチを超えていた。バスケ部にしつこく勧誘されているらしいけれど、運動系の部活には一切興味がないのか私と同じ帰宅部だ。いつだったか。体育の授業で綺麗な弧を描いたシュートを決めた瞬間を一度だけ見たことがあった。あんなにうまいなら、バスケをやればいいのにと見惚れたくらいだ。そう言えばその一度きりだけで、松下空を体育の授業で見かけたことがない。授業は男女別だから、体育館とグラウンドに別れてしまえば、出欠の有無は判らない。その時は、たまたま体育館を半分に分け、男女別に授業を受けていた。確か女子の体育は、器械体操だった。開脚前転をクルクルやり過ぎて、酔ったのを覚えている。三半規管は、あまり強くない。
「歩けるか?」
 松下に訊ねられて、言葉を発することもなくただコクコクと頷いた。痛めた右足を前に出そうとしたら、あんまり痛くて力が入らずまた転びそうになってしまった。結局松下に支えられながら、あと一〇〇メートルほどもある学校までの道程を、ひょこひょこと足を引きずりながら時間をかけて登校することになった。完璧に遅刻だ。でも、あのままぼんやりと雑草を眺めていても、多分同じような結果だっただろうから別にいいか。そう考えたあとに、松下を遅刻の巻き添えにしてしまうことに心苦しさを感じた。通学路の真ん中で立ち止まり、ぼんやりと雑草なんか見ていた私のせいでこんなことになっているのだ。私など置いて、さっさと学校へ向かった方がいい。そうは思っても痛みでうまく歩けないから、支えてもらえるのはありがたい松下の手はやたらと冷たくて、冬はまだ先だというのにクーラーの効き過ぎた部屋から出てきたばかりかと思うほどにひんやりしていた。
「手、冷たいね」
 心で思っていたことがスルリと口から飛びだした。同じクラスとは言え、挨拶以外まともに口をきいたことのない相手だった。松下は、突然フランクに話しかけられて少しばかり驚いたようだった。
「今日は、たまたま……」
 応えた松下はそれ以上何も言わず、私を支えながら黙々と学校を目指した。
 たまたま冷たくなる時とは、どういう時なのだろう。たまたまというのは、いつもは冷たくないということだろうか。考えてみたけれどよく分からなかった。何より、膝の痛みに気を取られて、頭は正常に働かない。
 保健室の藤原先生は、膝の傷を見て驚く。
「これは、豪快にやったわね」
 藤原先生は、三十代のちょっと綺麗な先生だ。口元は上品で、柔らかそうな少し茶色の髪の毛の先を綺麗にカールしている。そこに顔を埋めて眠ったら、きっと幸せだろう。だからか、保健室は男子生徒に人気があった。何もなくても度々やってくる生徒もいて、藤原先生は追い返すのに苦労していた。
「松下君は、もういいわよ。授業に行って」
 教室へ戻るように指示された松下は、よろしくお願いしますと保護者のように頭を下げて保健室を出て行った。
ドアを閉める松下の手を見る。たまたま冷たくなった手は、室内に入ったことで体温を取り戻しただろうか。
 保健室は、静かだった。授業中の教室や、使われていない教室の静けさとは違う。藤原先生が持っている、長閑やかさがあった。窓にかかっている生成色のカーテンは、先生の髪の毛と同じくらい柔らかい印象がある。カーテンじゃなかったら、包まって眠ってしまいたい。先生の髪の毛とセットなら、スヤスヤと眠りにつけそうだ。
 藤原先生は、消毒液を染み込ませた綿球をピンセットでつまみ、丁寧に傷を消毒してくれた。
「痛い? 今日は体育ある?」
 授業の心配をする先生に、雑草のことを聞いて欲しくなった。
「コンクリートが割れていて」
 どうやったらあんなに硬いものを突き破れるのか。どうして、コンクリートの下だったのか。土のある柔らかい場所の方がいいのに。そんな風に考えてから、まるで小学生の質問みたいだと言葉が止まった。
「ん?」
 藤原先生が問う様な顔をする。私は喉の奥の方で止まった言葉を飲み込んだ。次に松下が身体を支えてくれたことが頭に浮んだ。雑草を見ていたら、うしろから松下がぶつかってきてと言おうとしたけれど。それでは支えてもらった感謝の気持ちよりも、非難めいた感情の方が目立ってしまうなとまた言葉が止まってしまう。結局どれも言葉にできないまま、ただジンジンとする膝の痛みを感じていた。風でふわりとカーテンが浮いたのを見て、子供の頃の宙に浮く懐かしい感覚を話したくなったけれど、また言葉は出なかった。今日の私は、どうもうまく言葉を口にできないらしい。寝起きのぼんやりとした思考のまま覚醒していないようだ。
「ガーゼ。家に戻ったら、新しいものと替えてね」
 結局、話したいと思っていたことは何一つ口にできないまま礼を言い、カラカラと鳴るドアを開けて保健室を出た。ひょこひょこと足を引きずって、二階にある一年生の教室に向かおうとしたけど、階段を一段上る毎に傷がジンジンとして痛みが走る。
「階段て、こんなに辛かったっけ」
 三段目まで上ったところで立ち止まり息をついた。教室に行くまでにはまだ何段も上らなければならない。途中の踊り場で方向転換して更に上らなければならないのかと考えたら、三段下の床の誘惑には勝てなくて踵を返した。保健室とは逆の廊下を行き、上履きのまま体育館へ通じる渡り廊下から外に出る。さっきまで曇っていた空は、いつの間にか少しだけ明るくなっていた。ようやく太陽が仕事をする気になったらしい。
「空」
 今まで幾度となく口にして来たし、ノートにだって書いたこともある言葉だった。さっき体がふわっと浮いてから「空」は頭上に広がっている「空」とは別の「空」に変わっていた。別の「空」が触れた体の一部が膝とは違う、ジンジンするみたいに反応していることに気がついた。ジンジンと痛む膝と「空」が触れた場所のジンジンする感覚が心臓を少しだけ騒がしくした。
「空」
 もう一度口にすると、太陽がなんだよっていう顔をして、こちらを照らしていた。