祖母が亡くなって、丸一年が経とうとしていた。苗字が母方の相澤となり、母と二人今も、元は鈴内家だった家で暮らしている。祖母の部屋はそのままで、仏壇には祖父と祖母の写真が飾られたままだ。時折、祖母が愛用していた桐箪笥をあけて、譲り受けた大島紬を陰干しする。たとう紙から丁寧に取り出し、祖母が生きていた時と変わらず、話しかけながら大島紬に触れた。いつかこの着物が似合う年齢になったら、お祖母ちゃんに見てもらいたいと語りかけた。
納骨は、まだしていない。四十九日が過ぎた時、母から北海道へ行く話が上がったけれど、来年の一月まで待って欲しいとお願いをした。行くなら冬と決めていた。
 祖母にも祖父にも兄弟はおらず、両親もとうに他界している。そのため遠縁にあたる親戚筋からの面倒なやり取りは少ないと母が言っていた。祖母の骨が収まる骨壺は、この家の仏壇の前に置かれていた。
「お祖母ちゃん。もう直ぐだからね」
 朝、仏壇の祖母に声をかけ、前日に用意したキャリーバッグと骨壺を入れて歩くバッグを手にする。少しだけ取り分けた祖母の骨を、小さな骨壺に移し替えたのは焼骨の時だった。母は葬儀社に、通常サイズのものと小さなサイズのものを依頼していた。小さな骨壺は仏壇に残し、もう一つをバッグへと入れる。
「真白。時間よ」
 母が玄関先から声をかける。
「向こうはとても寒いからね。あったかい格好していってね。セーターや手袋も持ったわよね」
 数日前から何度も同じことを訊く母は、心配性だった祖母に似ていると可笑しくなる。血がつながっていなくても、祖母と母は確かに家族だった。
 羽田空港に着くと、麗華と池田がすでにいて私と母を待っていた。
「搭乗手続きは?」
 麗華が母と私に手続きを済ませるよう促す。いつもしっかり者の麗華だ。
「空のやつ。首を長くして待ってんだろうな」
 そう言う池田の方が、松下に会えることを心待ちにしている様子だ。もちろん、麗華や私も、松下に会いに行けることが嬉しくてたまらない。
 飛行機に乗り込み一時間と少し。千歳空港に着くと、白い世界が待っていた。ブルリと身震いをして、はぁっと白い息を吐く。二、三日前まではあまりいい天気ではなかったようだけれど、この中に晴れ男か晴れ女でもいるのか。北海道の空には、眩しい太陽があり私たちを照らしていた。
 母の運転するレンタカーに乗り、ホテルにチェックインして手荷物を置いたあと松下の住む町へと向かった。札幌は東京と同じくらい栄えているのに、東京よりもゴミゴミとしていない。広い道路と人々の朗らかな表情のせいだろうか。しかし、せかせかと歩くのは、道民特有のものだろう。雪が降り積もっているのに、誰も滑ったり転んだりしていないのは流石だ。因みに、千歳空港からホテルに着いた時、池田は荷物を持ったまま私たちの視界から一瞬で消えた。もちろん、雪に滑り、手荷物と一緒に地面に転がっていたのだ。私と麗華は声を上げて笑ったけれど、慎重に歩かなければ池田の二の舞になるのは必然だろう。
 前日までにできていたアイスバーンの上に、昨夜静かに雪が降り積もったらしく、道路もかなり滑りやすい。いくらスタットレスタイヤを装着しているとはいえ、雪道に不慣れな母の運転は、かなりの慎重を期していた。
 東京ではマンション住まいの松下だったけれど、訪ねた家は大きな二階建ての一軒家だった。こんなに広い家に住んでいるなんてと驚くと、北海道ではこれが普通なんだと笑っていた。言われてみれば、ここへ来るまでに見た家々も隣近所を見渡してみても、どれも松下の家と同じように大きかった。玄関には、東京にはないサンルーフがついていることも、家が大きく感じるひとつかもしれない。雪が降り積もった時にドアが開かなくなるため、サンルーフは大事なんだと松下が言う。それに水道管が凍らないように、凍れる日は夜通しチョロチョロと水道の水を出しっぱなしにすることや。暖房器具のパワーは東京とは比べ物にならないくらい強く北海道仕様になっているから、家の中はとても温かいらしい。松下が聞かせてくれた話に、彼がこの町に馴染んでいることがよく分かった。変わらない松下の静かな笑みは、懐かしくてとても愛しい。
 北海道へ行って一年。専門医のもとで体調管理をしてもらっているせいか。それとも、隠れてバスケをしないせいか。松下の体は、随分と落ち着いているようだった。検査は度々あるようだけれど、体調を崩して学校を休むことはほとんどないという。
 バスケができないのはつまらないだろうけれど、健康であってのものだから、今は私たちからのメッセージで宥めたりすかされたりして自分の病気と向き合っている。
 松下を乗せた車は、祖母の住んでいた実家を目指す。祖母が東京に嫁いで十年ほどした頃、家は他人の手に渡っていた。誰も住まないまま放置しておくこともできないと、売ってしまったようだ。知らない誰かの住む祖母が暮らしていた生家は、平屋の大きな造りだった。幼かった父は、この広い家に来たことはあったのだろうか。膝の上に抱えていた祖母の骨壺を、少しだけ持ち上げる。
「お祖母ちゃんの実家、大きいね」
語り掛けるように、窓の外に広がる景色を見せる。
 父は葬儀のあと、また九州へと戻った。すぐには無理でも日雇いではなく定職を見つけ、一人で生きていくと母に約束したらしい。助けてくれる祖母がいなくなってしまったことが、漸く引きこもり続けていた意気地のない父を変える切っ掛けになったのだろう。今更だと、周囲は言うかもしれない。取り返しのつかない状況になってからでは遅いと。私だって、祖母が亡くなってからでは遅いっと、あの日までは怒りに震えていたくらいだ。けれど、誰しも間違いはおこすものだ。それが大きいものか小さいものかなんて、わからないし。大きい小さいなんていう概念で括っていいものなのかもわからない。けれど、やり直すんだという決意さえしっかりと強く持ち続けられていれば、人はきっと前を向いて生きていける。
 今は父に会う気なんて起きないけれど。いつか、しっかりとした足取りで前に進み、あの写真立てのような表情になったのなら、会ってあげてもいいかなと思っている。
 こんな話を池田にしたら、上から目線とからかわれるだろうか。でも、池田に笑い飛ばしてもらえるくらいが私には丁度いい。
 祖母の生家を離れ寺にやって来た。広い敷地に降り積もった雪を踏みしめ車が止まる。事前に連絡していた母は住職に挨拶をし、祖母の納骨をお願いする。松下に会いに来ただけの麗華と池田。それに松下本人も、祖母の納骨に付き合ってくれた。鈴内のお祖母ちゃんに挨拶しておかないとな。なんて笑う松下に、麗華も池田も快く頷いてくれたのだ。それから、もう相澤だったよな、なんて苦笑いを浮かべるから、どっちで呼んでもいいよって笑みを浮かべた。私は、祖母の苗字も大好きだから。
 お寺の周りを覆う降り積もった雪は、キラキラと輝く太陽の光を浴びて眩しい。駐車スペースの周りには雪がかき上げられ、こんもりと山になっていた。骨壺を抱えたまま、自分の背丈以上に積もった雪に近づいた。手袋をした片手をさし込み穴を掘る。
 真白。太陽を浴びた雪の中は、綺麗な空の色をしているんだよ。
 いつか祖母が語ってくれた声が蘇る。
「本当だね。すっごく綺麗だよ」
 雪の中を覗くと、そこには特別な空があった。