松下のいなくなった教室は、やっぱり酸素が薄い。高い山の上に登ったら、こんな感じなのだろうか。小さな機械を通しての繋がりが続いているとはいえ、すぐそばにいないのは寂しい。目の前にあった大きな背中を見ることはもうないのだと思えば、涙は否応なく目の前を歪ませるからハンカチを手放すことができない。松下がいなくなったことで、池田がまた机に伏せたままになってしまうんじゃないかと心配していたけれど、背筋を伸ばしシャンとしていた。
「落ち込んでなくてよかった」
ぼそりと零すと、授業中だというのに隣の席の木下が「へ?」なんて間の抜けた声を出して反応をするものだから、気持ちよくうんちくを語っていた沼田が少しだけ不機嫌になっていた。
教材室に松下の姿はなくなってしまったけれど、池田は以前と変わらず購買で買った昼食を持って現れていた。三人のお昼は少し寂しいけれど、松下の近況を話してはほっとしたり、笑いあったりした。メッセージのやり取りなんて薄っぺらいつながりだと思っていたけれど、繋がってみるとここで逢っていた時よりも頻繁に会話するようになっていた。実際に会えない寂しさの裏返しなのかもしれないけれど嬉しかった。
「今度さ、リモートで昼飯してみるか」
「リモート?」
「そう。空が家にいる時を狙って、俺のスマホでフェイスタイム」
「それいいね。と思ったけど、松下が家にいるってことは、体調がよくないってことじゃん。それって、嬉しいようで悲しいよ」
麗華がちょっぴりため息を吐く。
「定期の検査日なら、午後から空いてるだろ」
「ああ、それならいいね」
「やるじゃん、池田」
麗華が持ち上げると、得意気な顔をする。池田は、麗華に褒められると本当に嬉しそうにするから、もしかしたらもしかする。もしもそうなら、素敵なことだ。
「鈴内は、連絡取ってるのか?」
何気ない風を装い訊く池田に素直に頷いた。グルーブで会話をする以外に、松下と私は二人だけで直接会話をすることがあった。他愛のない話ばかりだったけれど幸せだった。近所のおばちゃんがする挨拶みたいに、お天気の話をしたり、食べ物の話をしたり。松下の通う新しい学校のことや、勉強のこと、自分を診てくれる担当医のことだったりした。些細な日常の中にある、松下の優しいところやちょっと抜けている天然なところを見つけることが好きだった。
「ニヤニヤしすぎだろ」
池田が面白そうに突っ込んできて、初めて自分の顔が緩んでいたことに気がついた。思い出し笑いなんて、めちゃくちゃ恥ずかしい。
「松下が引っ越した北海道は、お祖母ちゃんの故郷なんだよね。松下から話を聞いた時、遠く離れることにショックを受けたのと同時に。なんていうか、こう胸の中があったかくなるような、不思議な感覚にもなったの」
あの時、松下がいなくなることがわかってとても落ち込んだ。こんなにも仲良くなり、四人での旅行も計画していたのに、どうして離れなくちゃならないんだろうと。だけど、北海道に行くと聞いた時、すぐに祖母を連れて、一緒に松下のところへ行くと決た。父のせいで北海道とは真逆の九州にばかり足しげく通っていた祖母に、自分の故郷である北海道を懐かしんで欲しかった。
父が生まれて間もなく、祖父は病気で他界していた。嫁いでから、祖母は帰郷することなどあったのだろうか。知らない土地で、父と二人だけの暮らしの中、たくさんの苦労をしてきたに違いない。その祖母が帰ることもできず生きてきたというなら、どうしても北海道へ連れて行きたい。
「もっと金貯めてさ、空に会いに行こうぜ」
池田が誓いを込めるような力強い瞳をする。麗華と私は、大きく頷いた。
祖母の二回目の入院が決まってから、覚悟をしなくてはいけないと思い続けてきた。なのに、心がいつまでも未練がましく嫌だと首を振り続けている。
二月を少し過ぎた頃、祖母の体調が急激に悪くなった。現実を突きつけられる日が来てしまった。
すぐに病院へ来るようにと母から連絡がきたのは、学校に着いて間もなくのことだった。既に机の中にしまっていた授業道具もそのままに、お弁当と少しの私物しか入っていない軽い鞄を手にして教室を飛び出した。担任の沢山が駆け寄って来て何か言っていたことも。麗華と池田の心配そうに見送る顔も、はるか遠い場所のことみたいに通り過ぎていく。
「おばあちゃっ。おばあちゃんっ。おばあちゃん」
廊下を駆けている時も。脱ぎ散らかした上履きがひっくり返っても。ローファーがうまく履けないもどかしい瞬間も。必死に祖母を呼んでいた。
お願い。いかないでっ!
すぐに来ないバスを待つことなく走った。こんなに必死に走ったのはいつ以来か。呼吸もままならなくて、苦しくて。朝食べた食パンが、せりあがってきそうだった。それでも必死に足を前に出した。
おばあちゃっ!
悲痛に叫んでも、願いは聞き入れてはもらえなかった――――。
黒、黒、黒。視界に入るすべてが黒ばかり。目の前に現れる黒の気配に、母と一緒に頭を下げることの繰り返しだった。お辞儀をするたびに、座っているパイプ椅子が僅かに軋んだ。ギシリ、ギシリ。鳴る音は、葬儀に現れた人たちの代わりに何かを言っているみたいだ。何度も何度も頭を垂れ、いつから握っていたかわからないハンカチにはくっきりと皴がついていた。
アイロン、かけなくちゃ。
くしゃくしゃになったハンカチを見ながら、いつも祖母が丁寧にかけてくれていたアイロンがけをぼんやりと思い出していた。
隣に座る母は、気丈にも僅かに目元を湿らせているだけで取り乱してはいない。たくさんの白い花に囲まれた祖母の写真は、私の大好きな笑顔だ。
「お祖母ちゃん」
ポツリと漏らした時、肩にそっと手が置かれた。
「真白」
麗華が瞳を潤ませながら私を見つめていた。その後ろには池田もいて、なんだ、来てくれたんだ。嬉しいななんて思う自分がいた。
「笑わなくてもいいんだよ……」
麗華が掠れくぐもった涙声を出す。言葉の意味が解らなくて、少しだけ首を傾げた。手の中のハンカチは益々皴を強く刻む。
ふと麗華の手に何もないことに気がついた。いつも肌身離さず持ち歩いているはずの緑色のポーチがない。今日は、あの中に潜む鋭いナイフをおいてきたのだろうか。それとも、斎場のホールに並ぶパイプ椅子に置いてあるのだろうか。顔を上げて、規則正しく並び、黒い服のほとんど顔も知らない人たちが座る場所を眺めた。空いている席を一つ一つ確認していくけれど、座っている人の陰に隠れて、ポーチの存在を認めることはできない。
「麗華、ポーチは?」
麗華が首を振った。焼香だから椅子に置いてきたと言っているのか。今日は、持ってきていないと言っているのか解らなかった。ただ、私と麗華だけに理解できる会話は、後ろに並ぶ焼香者によってそれ以上続かない。麗華はただ頷き、切なげな表情をして焼香へ向かい池田と共に下がっていった。
たくさんの黒い人たちがいなくなり、ホールはとても静かになっていた。祖母が横たえられているがらんどうになった場所で、入り口奥の方にあるパイプ椅子に腰かけた。今日の仕事がきつかったと言わんばかりに、椅子はミシリと疲れた声を上げる。祭壇は綺麗に飾り付けられていて、祖母の棺桶が安らかな灯りに照らされていた。絶やすことのできない蝋燭の炎を眺めていると麗華がやって来た。
「真白」
とうに帰ってしまったと思っていた麗華は、均等に距離を置かれているパイプ椅子を私の椅子に近づけ坐り、膝の上に置いていた手に手を重ねる。温かかった。考えてみれば、二月のとても寒い季節だ。ホールの中が温度調整されていてあまり寒さを感じることなどなかったから、冬だということを忘れていた。
病室の窓から幾度となく眺めた、色の薄い中庭の風景が過る。
「病院の窓から中庭が見えるんだけど、そこにいくつか桜の木があってね。お祖母ちゃん、まだ蕾もない枝だけの木を見て、花見がしたいって言ってたんだ。だから、私。こんな狭い箱の中の桜なんかじゃなくて、広い場所に咲き乱れる桜を見に行くって決めていたの。お祖母ちゃんが教えてくれた料理の腕を披露したいから、お弁当も作って持っていこうって。なのに、桜、まだ咲かないじゃんね」
麗華の温かな手に力がこもる。力強さが心地いい。
「そうだ。ポーチは?」
麗華は後ろ手にしていたポーチを見せる。癒されるような緑色を目にしてほっとした。麗華に危険なことをして欲しくないと思っていたはずなのに、いざ見当たらないとなると縋りつくものを失ったように不安な心持ちになっていた。こんな時に会いに来るなんてことはないのかも知れないけれど、麗華の父親にとって今日という日がこんな時には当てはまらないのだから関係ないだろう。
膝の上に置いた小さなポーチは、危険なものを入れているという自覚があるようにその存在を強く主張しているみたいだった。さっきまで黒で溢れていた場所に、安らぎのある緑色が異質でいて日常を知らしめる。
「真白、これね……」
ポーチに視線を落として麗華が口にした時、ホールの入り口に立つ男に気がついた。くたびれた紺色の作業着のズボンに、着古したダウン。浅黒くこけた頬と目深にかぶった帽子。この場にそぐわない姿は、情けないほどにみすぼらしい。男は祖母の写真を一心に見つめ力なく佇んでいる。斜め背後の私たちからは、帽子で目元まで隠れている男の表情までは窺えない。二、三歩中に進み入った男は、帽子を力なく取り握りしめた。男の顔がはっきりと見えた。その瞬間、脳内が一瞬にして鮮烈な赤を散らし目が見開く。この男は、松下が商店街で目撃しただろう怪しい男。私が、カフェの外で観たあの男だった。咄嗟に麗華の視線を辿ると、ポーチに注がれたままだった。麗華の身体は、入り口に背を向けている。不安と恐怖が胸の内を支配する。震える手でナイフを握る麗華の姿が、脳内に広がる。鋭利な切っ先を男に向け、悲しみと怒りのこもった目で、勢いをつけて刺す瞬間が想像できる。ナイフを持つ麗華の手も、男のお腹辺りも、血が飛び散り真っ赤に染まる。叫び声と床に広がる血だまり。想像はリアルすぎて、背中がゾワリとした。
麗華は、男の存在に気がついていない。見てはいけない。気がついてはいけない。心臓がバクバクと激しく鳴る。呼吸が速くなる。焦りにじわじわと急き立てられ汗が滲む。動揺している私の視線に気がついた麗華が、入り口を振り返ろうとする。その行動を止めなくちゃと焦りが込み上がる。麗華が振り返るのと同時に、彼女の膝の上に置かれていたポーチを奪い取った。この中のものを触らせてはいけない。麗華にナイフを握らせるわけにはいかない。
咄嗟に奪ったポーチの存在に、麗華が驚いた顔をする。
「真白」
どうしたのかと、不思議そうに見つめる整った瞳。その目を見たまま、私は勢いよく立ち上がりポーチを後ろ手に隠した。瞬間、パイプ椅子が音を立ててうしろに倒れた。静かなホール内に響く音。祭壇を見つめていた男がこちらを向いた。麗華が慌てて、椅子を立てようと手を伸ばしているその時、男の瞳に溢れる涙に心臓が締め付けられた。見覚えのある瞳だった。もう何年も、変わることなくずっとリビングに飾られ続けていた、あの写真立ての瞳だ。
スーツを着ていなくても。どんなに浅黒く日焼けしていも。くたびれた作業着を着ていても。その人物を私は知っている。
「おとう……さん……」
こぼれ出た自身の言葉と見開く男の瞳。
「ましろ……」
男は私の顔を認めると名前を呼び、とても不安で怯えた目をした。
写真に写る父親は、引き締まった顔つきと優しい瞳をしていた。パリッとスーツを着こなし、平穏が武器なのだというほどに、平和な日常を強く主張していた。しかし、今目の前にいるこの男からは、そんなものなど微塵も感じられない。けれど浅黒い皮膚の色をしたこの男は、まぎれもなく父だった。写真立ての中で何年も見続けてきた、優しく穏やかで、幸せを絵にかいたような雰囲気など一つもない。ただ汚らしく。ただ情けなくみすぼらしい男は、紛れもなく私の父親だ。瞬間、祖母が入院した時から今までのことが目まぐるしく思い起こされ、感情を激しく揺さぶり、怒りが込み上げてきた。
自分だけ楽な道を選び、家族を捨て、のうのうと母の稼いだ金を使って生き延びてきたこの男が許せなかった。祖母が病気になったのも、父が心労を与えたせいに違いないっ。
祖母が。母が。今までどんな気持ちで生きてきたかっ!
あの日、誰にもぶつけることなく閉じ込めてきた怒りの塊が一気に爆発した。家族を壊した目の前の男を、絶対に許すことなどできない。
体が自然と動いていた。パイプ椅子をなぎ倒し、立ち尽くす父の傍に吠えるような声を上げて向かった。麗華から奪い取ったポーチのジッパーを乱暴に開ける。迷いなんて一つもなかった。祖母の話を聞いたあの日から。怒りが収まらなかったあの時から、こうしてやりたいと思っていたのかもしれない。会ったら殺すよ。そう言って笑っていた麗華のように。祖母と母を苦しめた父を刺し殺したいと思っていたのかもしれない。
泣き叫びながら父に向かって走り寄る私を、麗華が叫び止める。次々となぎ倒されるパイプ椅子。倒れた椅子に時折足を絡めとられながらも、身じろぎ一つしない父に向かって泣きながらポーチの中に手をさし入れた。殺意の塊はどす黒く。私を止める全てのものを拒絶する。
許さない。許さない。許さないっ。
見舞いにさえも来ないでのうのうと生きてきたこの男を、絶対に許さないっ。
なんでっ。どうしてっ。自分だけ逃げだすなんて、狡いっ‼
吠えるような咆哮と共にポーチのものを握り、ハッとする。潜んでいると思っていた硬く冷たいナイフはどこにもなかった。私が手にしたのは、温かく優しい思い出になったカエルのキーホルダーと、松下がくれたバスケットボールのキーホルダーだった。
「どう……して」
勢いづいていた足がゆるゆると止まり、手にしたものを凝視し、思い出の詰まったものから伝わる温かな感情に項垂れた。
言葉にならない声が嗚咽になってホールに漏れる。両掌に乗せるようにして二つのキーホルダーを見つめ続けた。涙は止まらず、私は子供のように声を上げて泣き出した。走り寄った麗華が私を抱きしめ何か叫んでいる。母がホールに入ってくる気配が解る。けれど、音は何一つ耳に入ってこない。目の前の父は、同じように膝をつき、土下座するように泣き伏していた。血の塊が広がるはずった床には、涙の雫がいくつも散っていた。
背中を優しくトントンと同じリズムで叩く感覚に、うっすらと意識が戻る。ぼんやりとする視界に映るのは、見慣れない壁や天井だった。斎場の控室だろうか。畳敷きの場所で横になる私の頭は、二つに折られた座布団の上に横たえられていた。
「目が覚めた?」
静かに問いかけられて視線を向けると、母が切ない表情をしていた。丸まるように横になっていた背中からリズムが消える。背に触れていた母の手が止まったのだ。その瞬間、記憶が蘇る。浅黒く情けない父の姿を思い出し跳ね起きた。
「お父さんがっ」
叫び訴えかけ、辺りに視線を向けてもそこはただ静かで、私と母以外の存在は認められない。
「大丈夫、大丈夫」
母は祖母と同じように言って私を抱きしめると、今度は背を撫でる。そうされていると、さっきのできごとは夢だったのかと思えるほど現実味を失っていった。日常から離れた異質なこの場所と雰囲気。たくさんの見知らぬ人たちに会ったことで、疲れが出たのかもしれない。
「麗華ちゃん。とても心配していたわ。あとで連絡してあげてね」
再びぼんやりとなった思考に届いた母の言葉で、パイプ椅子をなぎ倒し、父に向かっていったことがまじまじと蘇る。夢ではなかった。あれほど、麗華がナイフを握らないように止めなくてはいけないと言い聞かせていたのに。私自身がその行動を起こそうとしていた。ポーチの中にナイフがあったら、どうなっていただろう。きっと麗華は悲しみに泣き叫び、祖母を喪ったばかりの母を更に追い詰め苦しめていたことだろう。
力なく切なげに見つめる母の瞳を見返し、麗華に感謝をした。血の色を染め上げるナイフではなく。優しい思い出を詰め込んでいてくれた麗華に心からありがとうと。
「お父さんは……」
訊ねる声が掠れた。父とは思いたくもない相手だけれど、他にどんな風に呼べば母に伝わるのか解らなかった。母はしばらく思い悩むようにして黙り、考えをまとめているようだった。
「ねぇ。真白」
母が私の目を真っすぐ見る。仕事に疲れた時のぼんやりした瞳でも、キャリアウーマンのようにきびきびとした鋭さでもない。幼い頃に何度か見たことのある母親の目をする。
「苗字を、変えようと思うの」
母は、そこで一旦息を吐く。父と離婚するということだ。祖母の口から父が犯してしまった間違いを聞いてから、今までどうしてそうしてこなかったのか不思議だった。あんなに酷い思いをさせてきた相手の名前を名乗る必要などないと。けれど、父の母親である祖母のことを考えると、口にすることはできなかった。
「お祖母ちゃんは、どうなるの?」
「実はね、頼まれていたの」
母は祖母から、亡くなったあとのことをお願いされていたという。北海道にある祖母の田舎に行き、実家の墓に自分の骨を埋めて欲しいということ。私が嫌でなければ、祖父のいる仏壇をそのままに、自分の骨もほんの少しでいいからそこへ納めて欲しいということ。この先も母と私の傍に居させて欲しいということ。
「嫌なわけないっ」
力強く言って首を振る。できるなら、母方の墓に入って欲しいくらいだ。ただ、それができないだろうことは、高校生の私でも理解できる。血縁関係でないものを墓に入れるなんて、親戚一同大反対をすることだろう。息苦しい思いをさせてまで、祖母を母方の墓に入れるのはむしろ可哀相だ。あの家でこの先もずっと祖母と居られるのなら、一も二もなく賛成する。
「真白なら、そう言ってくれると思ってた」
母は、そこで初めて大粒の涙をぽろぽろと流し声を震わせた。私の前で泣く母を初めて見た。鼻の頭を赤くして、何度も洟をすすり、嗚咽を堪えることもなく泣く姿を初めて目にした。父のことがあり、祖母が病に倒れてもずっと踏ん張り続けてきた母の気が、漸く緩んだ瞬間だった。
「お祖母ちゃん、優しかったよね」
母が涙ながらに目を細め、笑みを作ろうとする。
「うん。大好きだった」
「お母さんも、とても大好きだった」
斎場に控える係の人が恐縮するように声をかけに来るまで、室内に置かれていたティッシュを二人で何枚も使い、目や鼻の周りをヒリヒリさせながら涙を流し続けた。小さなゴミ箱の中でこんもりと盛り上がるティッシュの山を見て、何度も祖母のことが大好きだと話した。
「落ち込んでなくてよかった」
ぼそりと零すと、授業中だというのに隣の席の木下が「へ?」なんて間の抜けた声を出して反応をするものだから、気持ちよくうんちくを語っていた沼田が少しだけ不機嫌になっていた。
教材室に松下の姿はなくなってしまったけれど、池田は以前と変わらず購買で買った昼食を持って現れていた。三人のお昼は少し寂しいけれど、松下の近況を話してはほっとしたり、笑いあったりした。メッセージのやり取りなんて薄っぺらいつながりだと思っていたけれど、繋がってみるとここで逢っていた時よりも頻繁に会話するようになっていた。実際に会えない寂しさの裏返しなのかもしれないけれど嬉しかった。
「今度さ、リモートで昼飯してみるか」
「リモート?」
「そう。空が家にいる時を狙って、俺のスマホでフェイスタイム」
「それいいね。と思ったけど、松下が家にいるってことは、体調がよくないってことじゃん。それって、嬉しいようで悲しいよ」
麗華がちょっぴりため息を吐く。
「定期の検査日なら、午後から空いてるだろ」
「ああ、それならいいね」
「やるじゃん、池田」
麗華が持ち上げると、得意気な顔をする。池田は、麗華に褒められると本当に嬉しそうにするから、もしかしたらもしかする。もしもそうなら、素敵なことだ。
「鈴内は、連絡取ってるのか?」
何気ない風を装い訊く池田に素直に頷いた。グルーブで会話をする以外に、松下と私は二人だけで直接会話をすることがあった。他愛のない話ばかりだったけれど幸せだった。近所のおばちゃんがする挨拶みたいに、お天気の話をしたり、食べ物の話をしたり。松下の通う新しい学校のことや、勉強のこと、自分を診てくれる担当医のことだったりした。些細な日常の中にある、松下の優しいところやちょっと抜けている天然なところを見つけることが好きだった。
「ニヤニヤしすぎだろ」
池田が面白そうに突っ込んできて、初めて自分の顔が緩んでいたことに気がついた。思い出し笑いなんて、めちゃくちゃ恥ずかしい。
「松下が引っ越した北海道は、お祖母ちゃんの故郷なんだよね。松下から話を聞いた時、遠く離れることにショックを受けたのと同時に。なんていうか、こう胸の中があったかくなるような、不思議な感覚にもなったの」
あの時、松下がいなくなることがわかってとても落ち込んだ。こんなにも仲良くなり、四人での旅行も計画していたのに、どうして離れなくちゃならないんだろうと。だけど、北海道に行くと聞いた時、すぐに祖母を連れて、一緒に松下のところへ行くと決た。父のせいで北海道とは真逆の九州にばかり足しげく通っていた祖母に、自分の故郷である北海道を懐かしんで欲しかった。
父が生まれて間もなく、祖父は病気で他界していた。嫁いでから、祖母は帰郷することなどあったのだろうか。知らない土地で、父と二人だけの暮らしの中、たくさんの苦労をしてきたに違いない。その祖母が帰ることもできず生きてきたというなら、どうしても北海道へ連れて行きたい。
「もっと金貯めてさ、空に会いに行こうぜ」
池田が誓いを込めるような力強い瞳をする。麗華と私は、大きく頷いた。
祖母の二回目の入院が決まってから、覚悟をしなくてはいけないと思い続けてきた。なのに、心がいつまでも未練がましく嫌だと首を振り続けている。
二月を少し過ぎた頃、祖母の体調が急激に悪くなった。現実を突きつけられる日が来てしまった。
すぐに病院へ来るようにと母から連絡がきたのは、学校に着いて間もなくのことだった。既に机の中にしまっていた授業道具もそのままに、お弁当と少しの私物しか入っていない軽い鞄を手にして教室を飛び出した。担任の沢山が駆け寄って来て何か言っていたことも。麗華と池田の心配そうに見送る顔も、はるか遠い場所のことみたいに通り過ぎていく。
「おばあちゃっ。おばあちゃんっ。おばあちゃん」
廊下を駆けている時も。脱ぎ散らかした上履きがひっくり返っても。ローファーがうまく履けないもどかしい瞬間も。必死に祖母を呼んでいた。
お願い。いかないでっ!
すぐに来ないバスを待つことなく走った。こんなに必死に走ったのはいつ以来か。呼吸もままならなくて、苦しくて。朝食べた食パンが、せりあがってきそうだった。それでも必死に足を前に出した。
おばあちゃっ!
悲痛に叫んでも、願いは聞き入れてはもらえなかった――――。
黒、黒、黒。視界に入るすべてが黒ばかり。目の前に現れる黒の気配に、母と一緒に頭を下げることの繰り返しだった。お辞儀をするたびに、座っているパイプ椅子が僅かに軋んだ。ギシリ、ギシリ。鳴る音は、葬儀に現れた人たちの代わりに何かを言っているみたいだ。何度も何度も頭を垂れ、いつから握っていたかわからないハンカチにはくっきりと皴がついていた。
アイロン、かけなくちゃ。
くしゃくしゃになったハンカチを見ながら、いつも祖母が丁寧にかけてくれていたアイロンがけをぼんやりと思い出していた。
隣に座る母は、気丈にも僅かに目元を湿らせているだけで取り乱してはいない。たくさんの白い花に囲まれた祖母の写真は、私の大好きな笑顔だ。
「お祖母ちゃん」
ポツリと漏らした時、肩にそっと手が置かれた。
「真白」
麗華が瞳を潤ませながら私を見つめていた。その後ろには池田もいて、なんだ、来てくれたんだ。嬉しいななんて思う自分がいた。
「笑わなくてもいいんだよ……」
麗華が掠れくぐもった涙声を出す。言葉の意味が解らなくて、少しだけ首を傾げた。手の中のハンカチは益々皴を強く刻む。
ふと麗華の手に何もないことに気がついた。いつも肌身離さず持ち歩いているはずの緑色のポーチがない。今日は、あの中に潜む鋭いナイフをおいてきたのだろうか。それとも、斎場のホールに並ぶパイプ椅子に置いてあるのだろうか。顔を上げて、規則正しく並び、黒い服のほとんど顔も知らない人たちが座る場所を眺めた。空いている席を一つ一つ確認していくけれど、座っている人の陰に隠れて、ポーチの存在を認めることはできない。
「麗華、ポーチは?」
麗華が首を振った。焼香だから椅子に置いてきたと言っているのか。今日は、持ってきていないと言っているのか解らなかった。ただ、私と麗華だけに理解できる会話は、後ろに並ぶ焼香者によってそれ以上続かない。麗華はただ頷き、切なげな表情をして焼香へ向かい池田と共に下がっていった。
たくさんの黒い人たちがいなくなり、ホールはとても静かになっていた。祖母が横たえられているがらんどうになった場所で、入り口奥の方にあるパイプ椅子に腰かけた。今日の仕事がきつかったと言わんばかりに、椅子はミシリと疲れた声を上げる。祭壇は綺麗に飾り付けられていて、祖母の棺桶が安らかな灯りに照らされていた。絶やすことのできない蝋燭の炎を眺めていると麗華がやって来た。
「真白」
とうに帰ってしまったと思っていた麗華は、均等に距離を置かれているパイプ椅子を私の椅子に近づけ坐り、膝の上に置いていた手に手を重ねる。温かかった。考えてみれば、二月のとても寒い季節だ。ホールの中が温度調整されていてあまり寒さを感じることなどなかったから、冬だということを忘れていた。
病室の窓から幾度となく眺めた、色の薄い中庭の風景が過る。
「病院の窓から中庭が見えるんだけど、そこにいくつか桜の木があってね。お祖母ちゃん、まだ蕾もない枝だけの木を見て、花見がしたいって言ってたんだ。だから、私。こんな狭い箱の中の桜なんかじゃなくて、広い場所に咲き乱れる桜を見に行くって決めていたの。お祖母ちゃんが教えてくれた料理の腕を披露したいから、お弁当も作って持っていこうって。なのに、桜、まだ咲かないじゃんね」
麗華の温かな手に力がこもる。力強さが心地いい。
「そうだ。ポーチは?」
麗華は後ろ手にしていたポーチを見せる。癒されるような緑色を目にしてほっとした。麗華に危険なことをして欲しくないと思っていたはずなのに、いざ見当たらないとなると縋りつくものを失ったように不安な心持ちになっていた。こんな時に会いに来るなんてことはないのかも知れないけれど、麗華の父親にとって今日という日がこんな時には当てはまらないのだから関係ないだろう。
膝の上に置いた小さなポーチは、危険なものを入れているという自覚があるようにその存在を強く主張しているみたいだった。さっきまで黒で溢れていた場所に、安らぎのある緑色が異質でいて日常を知らしめる。
「真白、これね……」
ポーチに視線を落として麗華が口にした時、ホールの入り口に立つ男に気がついた。くたびれた紺色の作業着のズボンに、着古したダウン。浅黒くこけた頬と目深にかぶった帽子。この場にそぐわない姿は、情けないほどにみすぼらしい。男は祖母の写真を一心に見つめ力なく佇んでいる。斜め背後の私たちからは、帽子で目元まで隠れている男の表情までは窺えない。二、三歩中に進み入った男は、帽子を力なく取り握りしめた。男の顔がはっきりと見えた。その瞬間、脳内が一瞬にして鮮烈な赤を散らし目が見開く。この男は、松下が商店街で目撃しただろう怪しい男。私が、カフェの外で観たあの男だった。咄嗟に麗華の視線を辿ると、ポーチに注がれたままだった。麗華の身体は、入り口に背を向けている。不安と恐怖が胸の内を支配する。震える手でナイフを握る麗華の姿が、脳内に広がる。鋭利な切っ先を男に向け、悲しみと怒りのこもった目で、勢いをつけて刺す瞬間が想像できる。ナイフを持つ麗華の手も、男のお腹辺りも、血が飛び散り真っ赤に染まる。叫び声と床に広がる血だまり。想像はリアルすぎて、背中がゾワリとした。
麗華は、男の存在に気がついていない。見てはいけない。気がついてはいけない。心臓がバクバクと激しく鳴る。呼吸が速くなる。焦りにじわじわと急き立てられ汗が滲む。動揺している私の視線に気がついた麗華が、入り口を振り返ろうとする。その行動を止めなくちゃと焦りが込み上がる。麗華が振り返るのと同時に、彼女の膝の上に置かれていたポーチを奪い取った。この中のものを触らせてはいけない。麗華にナイフを握らせるわけにはいかない。
咄嗟に奪ったポーチの存在に、麗華が驚いた顔をする。
「真白」
どうしたのかと、不思議そうに見つめる整った瞳。その目を見たまま、私は勢いよく立ち上がりポーチを後ろ手に隠した。瞬間、パイプ椅子が音を立ててうしろに倒れた。静かなホール内に響く音。祭壇を見つめていた男がこちらを向いた。麗華が慌てて、椅子を立てようと手を伸ばしているその時、男の瞳に溢れる涙に心臓が締め付けられた。見覚えのある瞳だった。もう何年も、変わることなくずっとリビングに飾られ続けていた、あの写真立ての瞳だ。
スーツを着ていなくても。どんなに浅黒く日焼けしていも。くたびれた作業着を着ていても。その人物を私は知っている。
「おとう……さん……」
こぼれ出た自身の言葉と見開く男の瞳。
「ましろ……」
男は私の顔を認めると名前を呼び、とても不安で怯えた目をした。
写真に写る父親は、引き締まった顔つきと優しい瞳をしていた。パリッとスーツを着こなし、平穏が武器なのだというほどに、平和な日常を強く主張していた。しかし、今目の前にいるこの男からは、そんなものなど微塵も感じられない。けれど浅黒い皮膚の色をしたこの男は、まぎれもなく父だった。写真立ての中で何年も見続けてきた、優しく穏やかで、幸せを絵にかいたような雰囲気など一つもない。ただ汚らしく。ただ情けなくみすぼらしい男は、紛れもなく私の父親だ。瞬間、祖母が入院した時から今までのことが目まぐるしく思い起こされ、感情を激しく揺さぶり、怒りが込み上げてきた。
自分だけ楽な道を選び、家族を捨て、のうのうと母の稼いだ金を使って生き延びてきたこの男が許せなかった。祖母が病気になったのも、父が心労を与えたせいに違いないっ。
祖母が。母が。今までどんな気持ちで生きてきたかっ!
あの日、誰にもぶつけることなく閉じ込めてきた怒りの塊が一気に爆発した。家族を壊した目の前の男を、絶対に許すことなどできない。
体が自然と動いていた。パイプ椅子をなぎ倒し、立ち尽くす父の傍に吠えるような声を上げて向かった。麗華から奪い取ったポーチのジッパーを乱暴に開ける。迷いなんて一つもなかった。祖母の話を聞いたあの日から。怒りが収まらなかったあの時から、こうしてやりたいと思っていたのかもしれない。会ったら殺すよ。そう言って笑っていた麗華のように。祖母と母を苦しめた父を刺し殺したいと思っていたのかもしれない。
泣き叫びながら父に向かって走り寄る私を、麗華が叫び止める。次々となぎ倒されるパイプ椅子。倒れた椅子に時折足を絡めとられながらも、身じろぎ一つしない父に向かって泣きながらポーチの中に手をさし入れた。殺意の塊はどす黒く。私を止める全てのものを拒絶する。
許さない。許さない。許さないっ。
見舞いにさえも来ないでのうのうと生きてきたこの男を、絶対に許さないっ。
なんでっ。どうしてっ。自分だけ逃げだすなんて、狡いっ‼
吠えるような咆哮と共にポーチのものを握り、ハッとする。潜んでいると思っていた硬く冷たいナイフはどこにもなかった。私が手にしたのは、温かく優しい思い出になったカエルのキーホルダーと、松下がくれたバスケットボールのキーホルダーだった。
「どう……して」
勢いづいていた足がゆるゆると止まり、手にしたものを凝視し、思い出の詰まったものから伝わる温かな感情に項垂れた。
言葉にならない声が嗚咽になってホールに漏れる。両掌に乗せるようにして二つのキーホルダーを見つめ続けた。涙は止まらず、私は子供のように声を上げて泣き出した。走り寄った麗華が私を抱きしめ何か叫んでいる。母がホールに入ってくる気配が解る。けれど、音は何一つ耳に入ってこない。目の前の父は、同じように膝をつき、土下座するように泣き伏していた。血の塊が広がるはずった床には、涙の雫がいくつも散っていた。
背中を優しくトントンと同じリズムで叩く感覚に、うっすらと意識が戻る。ぼんやりとする視界に映るのは、見慣れない壁や天井だった。斎場の控室だろうか。畳敷きの場所で横になる私の頭は、二つに折られた座布団の上に横たえられていた。
「目が覚めた?」
静かに問いかけられて視線を向けると、母が切ない表情をしていた。丸まるように横になっていた背中からリズムが消える。背に触れていた母の手が止まったのだ。その瞬間、記憶が蘇る。浅黒く情けない父の姿を思い出し跳ね起きた。
「お父さんがっ」
叫び訴えかけ、辺りに視線を向けてもそこはただ静かで、私と母以外の存在は認められない。
「大丈夫、大丈夫」
母は祖母と同じように言って私を抱きしめると、今度は背を撫でる。そうされていると、さっきのできごとは夢だったのかと思えるほど現実味を失っていった。日常から離れた異質なこの場所と雰囲気。たくさんの見知らぬ人たちに会ったことで、疲れが出たのかもしれない。
「麗華ちゃん。とても心配していたわ。あとで連絡してあげてね」
再びぼんやりとなった思考に届いた母の言葉で、パイプ椅子をなぎ倒し、父に向かっていったことがまじまじと蘇る。夢ではなかった。あれほど、麗華がナイフを握らないように止めなくてはいけないと言い聞かせていたのに。私自身がその行動を起こそうとしていた。ポーチの中にナイフがあったら、どうなっていただろう。きっと麗華は悲しみに泣き叫び、祖母を喪ったばかりの母を更に追い詰め苦しめていたことだろう。
力なく切なげに見つめる母の瞳を見返し、麗華に感謝をした。血の色を染め上げるナイフではなく。優しい思い出を詰め込んでいてくれた麗華に心からありがとうと。
「お父さんは……」
訊ねる声が掠れた。父とは思いたくもない相手だけれど、他にどんな風に呼べば母に伝わるのか解らなかった。母はしばらく思い悩むようにして黙り、考えをまとめているようだった。
「ねぇ。真白」
母が私の目を真っすぐ見る。仕事に疲れた時のぼんやりした瞳でも、キャリアウーマンのようにきびきびとした鋭さでもない。幼い頃に何度か見たことのある母親の目をする。
「苗字を、変えようと思うの」
母は、そこで一旦息を吐く。父と離婚するということだ。祖母の口から父が犯してしまった間違いを聞いてから、今までどうしてそうしてこなかったのか不思議だった。あんなに酷い思いをさせてきた相手の名前を名乗る必要などないと。けれど、父の母親である祖母のことを考えると、口にすることはできなかった。
「お祖母ちゃんは、どうなるの?」
「実はね、頼まれていたの」
母は祖母から、亡くなったあとのことをお願いされていたという。北海道にある祖母の田舎に行き、実家の墓に自分の骨を埋めて欲しいということ。私が嫌でなければ、祖父のいる仏壇をそのままに、自分の骨もほんの少しでいいからそこへ納めて欲しいということ。この先も母と私の傍に居させて欲しいということ。
「嫌なわけないっ」
力強く言って首を振る。できるなら、母方の墓に入って欲しいくらいだ。ただ、それができないだろうことは、高校生の私でも理解できる。血縁関係でないものを墓に入れるなんて、親戚一同大反対をすることだろう。息苦しい思いをさせてまで、祖母を母方の墓に入れるのはむしろ可哀相だ。あの家でこの先もずっと祖母と居られるのなら、一も二もなく賛成する。
「真白なら、そう言ってくれると思ってた」
母は、そこで初めて大粒の涙をぽろぽろと流し声を震わせた。私の前で泣く母を初めて見た。鼻の頭を赤くして、何度も洟をすすり、嗚咽を堪えることもなく泣く姿を初めて目にした。父のことがあり、祖母が病に倒れてもずっと踏ん張り続けてきた母の気が、漸く緩んだ瞬間だった。
「お祖母ちゃん、優しかったよね」
母が涙ながらに目を細め、笑みを作ろうとする。
「うん。大好きだった」
「お母さんも、とても大好きだった」
斎場に控える係の人が恐縮するように声をかけに来るまで、室内に置かれていたティッシュを二人で何枚も使い、目や鼻の周りをヒリヒリさせながら涙を流し続けた。小さなゴミ箱の中でこんもりと盛り上がるティッシュの山を見て、何度も祖母のことが大好きだと話した。