冬休みに入ったその日の昼間。私たち四人は、ささやかながらクリスマスパーティーを開くことにした。体調の落ち着いた松下は、あの翌日から学校に顔を出していた。冬休みに入る前のギリギリだった。あのまま休みに突入してしまっていたら、松下はクラスのみんなの顔を見ることなく、北海道へと旅立つことになっていただろう。そう思うと、たった数日でも学校に来られたことはよかったと思う。大袈裟なことが得意じゃないと、みんなにさよならを言うことはなかったけれど、その数日間の松下は、クラスのみんなととても丁寧に接していた。
麗華のママから許可を貰い、私たちは昼間のアヤメにやって来た。
「立花の家って、スナックだったんだ」
お嬢様然としている麗華からは想像していなかったのか、池田は驚いたような顔をしている。薄暗い店内に踏み込み照明をつけると、池田はカラオケがあることにテンションを上げた。テーブルの上には、麗華のママが用意してくれた商店街で売られているケーキやクリスマス料理もあった。ワイングラスを借りてジンジャーエールで気分を出す。
「メリー・クリスマス」
グラスを合わせるや否や、池田は早速マイクを握った。どうやら、歌うことが大好きのようだ。馬鹿みたいにノリノリで熱唱する池田に、私たちは笑いあった。声を上げて笑うことの少ない松下も、まるで池田みたいに今この四人でいる瞬間を楽しんでいた。本当は、ずっとこうやって素直な気持ちで、楽しさや嬉しさを表したかっただろう。けれど、いつか離れてしまわなければいけない、そう思うと感情を曝け出すことができなかったんだ。
大丈夫だよ。私たちになら、どんな姿を見せたった大丈夫。松下の全部を私たちは受け止めるし、受け止めたい。
料理やケーキを食べ、歌を歌い。プレゼント交換をすることになった。麗華からは、手作りのクッキーを貰った。
「手作りとか、マジ嬉しいんだけど」
サンタやツリー、星の形をしたクッキーに池田が目を輝かせている。
「初めて作ったから、塩と砂糖を間違えたかもしれないんだよね」
愁傷な顔をする麗華の冗談を本気に捉えた池田と松下は、一瞬黙り込んでマジマジとクッキーを見てから顔を上げる。しかし、麗華のイタズラな目に気づいて、ほっとしたあとに笑っていた。
池田からは、小さな額縁の中に入れた、四人の似顔絵をイラストにしたものを貰った。
「池田って、絵が上手だったんだね」
驚く私に、本人は照れくさそうにしている。
「正人は昔から絵が得意で、ノートはいつも落書きだらけなんだよな」
「オイッ、ちょっ、空。それは語弊があるだろう」
松下へ突っ込み、池田が笑う。麗華もクスクス笑っている。池田が描いてくれた私たちの表情はとても楽し気で、背景はあの教材室だった。絆を深めたあの場所が描かれていたことに、四人が四人とも堪らないくらいの幸せな顔を見合わせた。
私は祖母から習っていた鍵編みで、カエルの顔を模したキーホルダーを作ってきた。
「可愛い」
麗華は頬ずりするようにして頬の近くに持っていき、きゅっと嬉しそうに目を瞑る。対照的に、池田と松下が首を傾げて私を見た。
「確かに可愛らしいけど」
「なぜカエル?」
松下の言葉を引き継ぐように、池田が言ってマジマジと私を見る。
「こじつけになるんだけどね。帰る場所ってことで、カエルにしたの。私たちそれぞれがいる場所が、みんなの帰る場所。だから、離れてしまったとしても、どこかでまた会った時、それが私たちの帰る場所だよって」
本当にそうなって欲しいと願っていた。私のいる場所も、麗華や池田、そして松下のいる場所も。自分以外の三人がいる場所が、帰る場所であって欲しい。いつか何かに躓いて、苦しくて不安になったとしても。みんなが必ずどこかで自分を迎えてくれる。そう思えれば、きっと両足を地面につけて歩いて行ける気がしたんだ。
「ありがと、鈴内。すごく嬉しい」
包み込みようにして手にしてくれた松下を見ていたら、みんなの瞳が潤んできて、池田が元気づけるように明るく声を上げた。
「残るは、空だ。なに用意したんだよ」
「うん。鈴内と、その……ちょっとかぶっちゃうんだけど」
すまなそうに笑いながら、松下がみんなにくれたのは、バスケットボールのキーホルダーだった。
「かぶり過ぎだろ」
池田がクツクツと笑う。だよな、って松下が恥ずかしそうに頭をかく。
「けどさ、真白のカエルと一緒にぶら下げてたら、いつでもそばにいるみたいな感じしない?」
麗華がカエルとバスケットボールの二つを持ちあげる。池田が満更でもないような顔をして納得した。
「これ持ってたら、勉強も頑張れるかも」
そう言った私を見て、三人が三人とも、ホントかよ~なんて笑う。
これが四人で集まることのできる最後の時間だった。次に会えるのは、松下を見送る時だろう。休みが明けて教材室へ行っても、そこに松下の姿を見ることはもうできない。もしかしたら、池田も遠のいてしまうかもしれない。それでも、こうやって一緒に過ごした時間はとても尊い。きっと、私たちはこの瞬間をずっと忘れない。
夜には、身内だけのクリスマスを過ごした。とはいえ、祖母は入院しているので当然病室でのことだ。病院に許可を貰い、ほんの一時間だけ家族で過ごすことになった。忙しい母も、何とか仕事を抜け出しやって来た。病室内は、私が飾り付けし派手になっている。椅子を使って、手作りのペーパーリングやモールを高い位置に貼り付けている間、祖母は何度も「賑やかだねぇ」と嬉しそうな顔をしていた。リクライニングを立てたベッドの上で、祖母が目じりを垂らして微笑えんでいると私も嬉しくてたまらなかった。
窓や壁、戸口に飾り付けたキラキラのモールや赤と緑の折り紙で作ったリングの飾りつけ。家にあるのは大きすぎるからと、母が新しく買ってくれた三十センチほどの小さなツリー。窓に貼り付けたゼリー状の「Merry Christmas」とサンタに雪の結晶。私が用意した手作りのピザやチキン。母が買ってきてくれたホテルのケーキ。病室という場所でなければ、いつもと変わらないクリスマスだ。
「今年のケーキはノエルにしたわ」
箱から出したケーキの上には、可愛らしいサンタとトナカイ。それを見上げるように小さな雪だるまがいくつか飾られていた。祖母が食べられないからといって、ケーキをサイズダウンはしなかった。いつものクリスマスにするために、私たちは変わらない用意をした。
「可愛い」
ノエルを見てはしゃぐと、祖母も母も嬉しそうに笑った。
少しずつしか食事を摂れない祖母は、私たちが食べているところを見ているばかりだった。それもあって、初めは料理やケーキを用意して病室に来ることはやめようとしていた。ただ静かにクリスマスという日を過ごそうと考えていた。けれど、祖母がどうしても美味しそうな料理やケーキ、それに毎年見てきた私の飾りつけを楽しみたいというので実行することにした。その時、私と母は決めた。祖母が願ったのだから、遠慮して気が引けるような態度はとらないこと。美味しいと声を上げ、楽しいと笑おうと。
祖母は笑っていた。美味しそうだと頬を緩めていた。病室ということもあって、あまり大きな声を出すことはできないけれど、私たち家族はクリスマスを楽しみ、家族団らんというものの温かさをひしひしと感じていた。
忘れてはいけない大切な思い出が増えていく。この大切な瞬間を、目にも心にも、しっかり焼き付けておかなければ。
祖母のいない鈴内家の正月は、とても静かなものだった。いつもなら大晦日もぎりぎりまで起きて、三人でテレビを観ながらのんびりと過ごし。年が明けたと同時に、「おめでとう」を言い合い床に就く。翌朝リビングで顔を合わせれば、ぼんやりとしたまだ眠っている脳みそのまま、祖母の作った御節を摘まむのだ。今年も祖母の傍で年を越したかったのだけれど、さすがにそこまでの許可は下りず。面会時間ぎりぎりまで病室に居座り。翌日の面会時間にはすぐに母と逢いに行った。軽くドアをノックし中に入ると、祖母は横になったまま迎えてくれた。
「あけましておめでとう」
「あけましておめでとう。響子さん、真白」
イベントが続いて疲れてしまったのか、今日の祖母は背もたれを立てて欲しいと言わない。いくらお願いされたとはいえ、クリスマスをした上に、昨夜も面会時間ぎりぎりまで居座ってしまったことが体に触ってしまったのだろうか。不安を覚えていると、祖母が備え付けの棚にある小抽斗を開けて欲しいと指をさした。抽斗を開けると、中にはうさぎのイラストが描かれたポチ袋が一つ入っていた。
「お年玉だよ」
寝たきりだというのに用意してくれていたことに驚きと嬉しさが湧き上がり、すぐに手を伸ばすことができない。
「遠慮はなしだよ。子供は子供らしく、受け取りなさい」
諭すように、けれどとても優しく祖母が微笑む。ポチ袋に描かれた、ピンク色をしたうさぎの頬を見つめながら手にした。
「ありがとう、お祖母ちゃん。大切に使うね」
ポチ袋を手にして礼を言うと、母もバッグの中から海外の有名なキャラクターのイラストがついたポチ袋を取り出しくれた。
「これは、お母さんから」
「ありがとう」
今年手にしたこのお年玉を、私はずっと使わない気がする。大切にしまい、何度も手にしては、この日のことを思い返すだろう。そうしなければいけないような、そうしたい気持ちになっていた。
正月になっても、やはり父はこの家に帰ってこなかった。病室にあった盛り籠は、父が持ってきたものではなかったのだろうか。病室を訪ねてきたのは、別の誰かだったのだうか。祖母から真実を聞いて以来、父のことは考えないようにしてきた。帰ってこないのは毎年のことだし。母や祖母を散々困らせ、自分だけ逃げて楽な道を選んだ父が、今更帰ってきたところで怒りに火が点くだけだ。母の口からも、父の話題は何一つ出てこない。対照的に、父からは年末にメッセージが届いていた。けれど、そのメッセージを見る気にはならなかった。どんなことが書かれているにせよ、私たちを捨てて逃げ出した父の相手などしたくなかった。
祖母のことを思うなら、メッセージなどよりもこの病室にだけでも顔を出すべきなのではないか。父にとって、祖母は母親なのだから。自分をこの世に生み落としてくれた、大きな存在なのだから。祖母のそばについていてあげるべきだ。
会いに来て欲しくないと願う反面。祖母の気持ちを考えると、そうも思っていた。
父が今どうしているのか、私には全く想像ができない。母からの資金援助で生活をしているのだから、溌剌とした表情でスーツを着ているはずがないのはわかる。あれから六年だ。年を取り皴も増え、体型だって変わっているかもしれない。けれどそれでいい。いつかどこかですれ違ったとしても父だと気づきたくもない。
毎年祖母が用意していたおせちを見様見真似で作ってみたけれど、味も見た目も到底及ばず。作り方を傍で見てきたはずなのに、この程度しかできない自分にとてもガッカリしていた。病室のテーブルに小さな重箱を広げると、母は優しくて真白の味だねと食べてくれた。祖母は少しずつしか口にすることができないけれど、それでも塩の匙加減や、煮る時のポイント。材料の選び方などを、ゆっくりだけれど丁寧に教えてくれた。教えて欲しいことはまだまだたくさんあるけれど、あまり長く話すことは負担になるから無理強いはできない。話の途中で何度も休憩をとるようにして口を閉じる姿に、祖母が確実に弱ってきていることを知る。
心の中にいる自分が問う。
覚悟はできている?
唇を噛み、拳を握る。
お願い、まだもう少し待って――――。
三が日も過ぎ。早朝、三人で松下の住むマンションに向かっていた。一月の空気はとても冷たくて、コートを着てマフラーをグルグルに巻き、手袋をし、頬を赤く染める。
「雪だるまみたいじゃん」
途中で合流した池田が私を見て笑う。
「だって、寒いんだもん」
寒さが苦手な私は、ブルブルと震えるようにして身を縮める。
「コロコロしてると抱きしめたくなるよぉ」
気膨れしたコートの上から、麗華がぎゅっと抱きついてくる。それに応えるように、私も麗華に抱きつく。すると。
「俺も~」
池田が麗華の上から更に抱きつこうとしてきた。けれど、私たちからひと睨みされ、すんでのところで止まり、調子に乗り過ぎたことにたじろいでいる。ふざけ合いケタケタと笑いながら三人で並んで歩き、松下の住むマンションを目指した。
マンションのエントランス前に着くと、テレビのコマーシャルでよく見かける大手引っ越し業者のトラックが止まっていた。作業をしている人が、せわしなく出入りしている。 部屋まで行くべきか、エントランスで待つべきか迷っていたら松下が中から出てきた。
「おはよう。あ、あけましておめでとう」
松下が言い、みんな笑顔で挨拶を返した。
「ごめん。まだ、バタついてるんだ」
「いや、俺らこそ。こんな時に。なんか手伝えることあるか?」
池田が訊くと、殆どを業者に任せているから、特にすることはないらしい。
「もう少しかかるみたいで、母さんが近くのファミレスに行って待っててくれって」
松下の母親が気を遣ってくれたのだろう。私たちは、マンションから程近くにあるファミレスに向かった。歩いている間、松下が笑みを浮かべて私を見る。
「鈴内、めちゃくちゃ寒そうだな」
「池田が雪だるまみたいだって」
少し拗ねたような顔をすると、松下はクツクツと笑った。
そんなに着膨れしているだろうか。もう少し薄手のニットにするべきだったかな。でも、寒いのは苦手なんだよね。
歩きながら、ショウウインドウに映る自分の姿をチラチラと確認した。池田が言うように、コロコロしている姿に苦笑いが浮かぶ。
ファミレスに着き、店内の暖かさにほっとする。窓際のテーブル席に着いたあと、四人ともドリンクバーを注文し席を立った。私と松下は、早々に温かいカフェオレを持って向かい合わせに席に着いた。湯気の上がるカップで手を温めるようにしていると、目の前の松下が穏やかな表情をする。
「ほんと、寒がりなんだな。俺の手、あったかいよ」
カップを握る私の手に、松下の手が重なった。手袋をしていても尚冷え切っていた手の甲に、松下の温もりが伝わってくる。
登校途中でぶつかったとき、松下の手はとても冷たかった。あれは、病気のせいで血圧が下がっていたためなのかもしれない。今触れた手はとても温かくて、頬に引き寄せてしまいたいくらいだ。
松下の大きな手。バスケットボールを持ったり、お弁当の箸を握ったり。授業中は、ペンや消しゴムを手にし、時々池田とじゃれついていた松下の手。大きくて、頼りがいのある手。
麗華とは違う、少しゴツゴツとしていて節くれだった手は、掌も指も私より大きくて長い。こうやって男の人の手に触れる瞬間など今までなかったからとても新鮮だった。
このままずっとこうしていたいな。
麗華も池田も何を飲むのか迷っているみたいで、ドリンクバーの前に立ったまままだ戻ってこない。そのわずかな時間がもう少し続いてと願う。
「女の子って、小っちゃくて、細い指してるんだな。俺はずっと守られてばかりいたけど、鈴内のことは俺が守りたかったな。もっと鈴内のこと、こうしてあっためてあげたかった」
私もだよ。この手を放して欲しくない。松下とずっとこうして手を握り合い、そばにいたかったよ。
お互いが握りあう手を見つめ、ゆっくりと瞳を合わせる。松下の目は優しくて寂しそうだ。
静かに話しているところへ池田が戻ってきて、触れ合っていた手を慌てて放した。
「見てくれ。俺のウインナーコーヒーを」
池田が手にしてきたグラスには、注がれたコーヒーの上にソフトクリームがこんもりとのっていた。
「それって、コーヒーフロートじゃないの?」
池田のすぐあとに戻ってきた麗華が突っ込む。
「ウインナーコーヒーは、ホットに生クリームだよ」
松下に言われて、ああそっか。なんて天然みたいにボケる池田をみんなで笑った。
私たちは、残されている限られた時間の中で、出会ってから今日までのことを話した。
「立花は、マジ目立ってたよ。入学当初は誰が落とすかなんて、すげー話題になってたけど。結局、立花のそばにいられる奴なんて、鈴内くらいのもんでさ」
池田は、チューッと音を立てて自作のコーヒーフロートを飲んだあと、スプーンでソフトクリームを掬い美味しそうに口にした。
「私だけの麗華だもんね」
隣の麗華に笑みを向けると「私だけの真白」と、さっき外でした時のように抱きついてくる。
「君たち、仲良すぎでしょ」
池田はやっぱり仲間に加わりたそうな顔をしている。
「松下と池田だって、ちょー仲いいじゃん。実は、二人ってできてるでしょ」
悩ましげな顔をして訊く麗華に「バレちまったか」と池田がふざけて松下に抱きつくから可笑しくてたまらない。
「ほんと、ありがたいよ」
松下がしみじみと呟くと、場が少しだけしんみりとした。その空気を弾き飛ばすように池田が声を上げる。
「あのさ。これだけは言っておくけど。俺、空の病気のことなんて、一ミリだって拘ってないからな。空とは気が合うと思ってるし、一緒にいるのが楽しいんだ。だから、今までずっと付き合ってきた。だから、そんな言い方すんな。だいたい、それを言うなら。俺だって、いつも付き合って貰っててありがたいよ」
「うん」
池田の言葉に一瞬の間が空き、寂しいけれど温かな空気が四人の間に流れていく。早朝のファミレスは、流石に正月早々ということもあるせいか客は疎らだ。おかげで、近くの席に座っている人はいなくて、私たちだけの空気感や仲間意識を誰に咎められることもなくいられた。
「そういうのって、いいよね」
麗華がしみじみと呟く。
二人が突然教材室にやって来たあの日。私も麗華も、イヤな気持ちなんて一つもしなかった。相手を思い遣り尊重し合う二人の関係を、心のどこかで感じ取っていたから、麗華とだけいることに拘らず四人でいる時間を大切にできたんだ。教材室に現れたのが池田と松下だったから、共に時間を過ごすことができた。
「ありがとう」
松下がポツリと言った。
「ありがとう」
麗華も言った。
「ありがとう」
池田も言った。
「ありがとう」
私も言った。
四人の瞳は湿り気を帯びていたけれど、泣くにはまだ早いと、それぞれが笑みを浮かべていた。この先も、私たちはずっと四人のままだ。どんなに遠くに離れたって、尊い時間を共有してきた繋がりは途切れることなんてない。
マンション前に戻ると、駐めてあった車の運転席から男性が降りてきた。松下によく似た背の高い人で、きりっとした目元が印象的だ。松下の父親だ。同時に、母親も助手席から降りてくる。
「みなさん。今まで空と一緒に居てくれて、ありがとうございました。池田君、今まで本当にありがとうね」
松下の母親は、深く頭を下げる。その隣で、父親が目元を緩め、私たち三人のことをしっかりと見つめて言った。
「空は、病気になってから今までで、一番楽しそうに過ごしていたよ。あの高校に通わせてよかった。君たちのおかげだ。本当にありがとう」
松下の父親も頭を下げた。
本当に最後となるこの瞬間に、松下は我慢できなくなったのか目に涙を滲ませる。
「連絡して来いよ」
池田がガシッと空に抱きつく。
「ありがとう、正人」
少し震える声で応える松下に、池田の方が号泣してしまった。
「きっとさ。また会えると思うんだよ。私の勘は、当たるんだから」
麗華は涙でいっぱいの目で得意気な顔をし、松下と握手をする。
「うん。俺もそう思う」
松下が笑みを浮かべる。
私の涙腺もどんどん緩んで、目の前がゆらゆらしてくる。
「鈴内」
松下が私の前に来る。
「手、貸して」
手袋をしたまま手を出そうとしたけれど、慌てて取りコートのポケットにしまった。冷たい風を感じながら、また冷えてしまった手を差し出す。松下が、両手で私の手握る。
「手袋してたのに、やっぱり冷たいんだな」
クシャリと笑うと「これ」と言って何かを取りだし握らせた。
「俺の宝物」
見ると、五百円玉よりも大きな空色のビー玉だった。透き通った中に、雲のようなふわりとした白い色がほんの少しだけ混ざり込んでいる。まるで、このビー玉の中に、小さな空が存在しているみたいだった。
「家の中にいなくちゃいけない時、いつもこの中を眺めていたんだ」
大好きなバスケをすることも。思いっきり走り回ることもできなかった松下は小さな空を見続け、心の中で元気に動き回っていたのかもしれない。
「鈴内に持っていて欲しいんだ」
松下が見せた意志の強く真っすぐとした視線に頷きを返した。
「大切にする」
両手の中に包み込むようにして持つと、松下の手が重なった。ボールを握る大きな手が私に触れる。温かくて大きくて安心する松下の手。この手を持つ松下が、ずっと遠い場所に行ってしまう。そう考えると涙が止まらなくて、笑ってサヨナラしようと思っていたのにうまくいかない。
松下は私の涙を隠すように、頭を胸に引き寄せる。洩れる嗚咽に震える体が大きな腕の中に包まれる。松下の匂い。松下の胸の広さ。ガッチリとした骨格。温かな体温。本当は、ずっと好きだった。確信が持てないなんて心を誤魔化していたけれど。松下とぶつかったあの日から。ううん。高架下で華麗にバスケのシュートを決めていたあの光景を見た時から、ずっとずっと松下を好きだった。そばにいたいと思っていた。好きって気持ちに気づけたのに、離れなくちゃいけないなんて。寂しくて、悲しくて、やりきれない。
「空……」
遠慮がちに名前が呼ばれた。車の中に戻っていた母親が、心苦しさを滲ませつつ促すように声をかけてきた。車を振り返った松下が頷くとエンジンがかかった。松下がゆっくりと離れていく。私の頬にも松下の頬にも涙が伝っている。離れがたい感情を必死に堪えながら車に乗り込む松下の姿を見つめた。
後部座席に乗り込んだ松下が窓を開けた。
「着いたら連絡してよ」
麗華が声をかける。
「うん」
「あっちは美味いもんが多いから。食いすぎんなよ」
池田も言葉をかける。
「うん」
麗華と池田が別れを惜しむ間、込み上がる嗚咽を堪えるのに必死だった。
「鈴内……。出会えてよかった。ありがとう」
その瞬間、私は泣き叫んだ。
「約束っ。まだ、約束したこと叶ってないんだから。一緒に走るんでしょっ。私、忘れないよっ。松下と一緒に走るの。絶対に忘れないっ」
体育をさぼった日。松下が遅刻をしてきた教室で約束をしたんだ。いつか一緒に走ると約束を交わしたんだ。
貰った空色のビー玉をきつく握りしめ、涙をこぼし訴える私に向かって、松下が大きく頷き泣きながら笑った。
松下を乗せた車がいなくなっても、私たちはしばらくその場を動き出すことかできなかった。
麗華のママから許可を貰い、私たちは昼間のアヤメにやって来た。
「立花の家って、スナックだったんだ」
お嬢様然としている麗華からは想像していなかったのか、池田は驚いたような顔をしている。薄暗い店内に踏み込み照明をつけると、池田はカラオケがあることにテンションを上げた。テーブルの上には、麗華のママが用意してくれた商店街で売られているケーキやクリスマス料理もあった。ワイングラスを借りてジンジャーエールで気分を出す。
「メリー・クリスマス」
グラスを合わせるや否や、池田は早速マイクを握った。どうやら、歌うことが大好きのようだ。馬鹿みたいにノリノリで熱唱する池田に、私たちは笑いあった。声を上げて笑うことの少ない松下も、まるで池田みたいに今この四人でいる瞬間を楽しんでいた。本当は、ずっとこうやって素直な気持ちで、楽しさや嬉しさを表したかっただろう。けれど、いつか離れてしまわなければいけない、そう思うと感情を曝け出すことができなかったんだ。
大丈夫だよ。私たちになら、どんな姿を見せたった大丈夫。松下の全部を私たちは受け止めるし、受け止めたい。
料理やケーキを食べ、歌を歌い。プレゼント交換をすることになった。麗華からは、手作りのクッキーを貰った。
「手作りとか、マジ嬉しいんだけど」
サンタやツリー、星の形をしたクッキーに池田が目を輝かせている。
「初めて作ったから、塩と砂糖を間違えたかもしれないんだよね」
愁傷な顔をする麗華の冗談を本気に捉えた池田と松下は、一瞬黙り込んでマジマジとクッキーを見てから顔を上げる。しかし、麗華のイタズラな目に気づいて、ほっとしたあとに笑っていた。
池田からは、小さな額縁の中に入れた、四人の似顔絵をイラストにしたものを貰った。
「池田って、絵が上手だったんだね」
驚く私に、本人は照れくさそうにしている。
「正人は昔から絵が得意で、ノートはいつも落書きだらけなんだよな」
「オイッ、ちょっ、空。それは語弊があるだろう」
松下へ突っ込み、池田が笑う。麗華もクスクス笑っている。池田が描いてくれた私たちの表情はとても楽し気で、背景はあの教材室だった。絆を深めたあの場所が描かれていたことに、四人が四人とも堪らないくらいの幸せな顔を見合わせた。
私は祖母から習っていた鍵編みで、カエルの顔を模したキーホルダーを作ってきた。
「可愛い」
麗華は頬ずりするようにして頬の近くに持っていき、きゅっと嬉しそうに目を瞑る。対照的に、池田と松下が首を傾げて私を見た。
「確かに可愛らしいけど」
「なぜカエル?」
松下の言葉を引き継ぐように、池田が言ってマジマジと私を見る。
「こじつけになるんだけどね。帰る場所ってことで、カエルにしたの。私たちそれぞれがいる場所が、みんなの帰る場所。だから、離れてしまったとしても、どこかでまた会った時、それが私たちの帰る場所だよって」
本当にそうなって欲しいと願っていた。私のいる場所も、麗華や池田、そして松下のいる場所も。自分以外の三人がいる場所が、帰る場所であって欲しい。いつか何かに躓いて、苦しくて不安になったとしても。みんなが必ずどこかで自分を迎えてくれる。そう思えれば、きっと両足を地面につけて歩いて行ける気がしたんだ。
「ありがと、鈴内。すごく嬉しい」
包み込みようにして手にしてくれた松下を見ていたら、みんなの瞳が潤んできて、池田が元気づけるように明るく声を上げた。
「残るは、空だ。なに用意したんだよ」
「うん。鈴内と、その……ちょっとかぶっちゃうんだけど」
すまなそうに笑いながら、松下がみんなにくれたのは、バスケットボールのキーホルダーだった。
「かぶり過ぎだろ」
池田がクツクツと笑う。だよな、って松下が恥ずかしそうに頭をかく。
「けどさ、真白のカエルと一緒にぶら下げてたら、いつでもそばにいるみたいな感じしない?」
麗華がカエルとバスケットボールの二つを持ちあげる。池田が満更でもないような顔をして納得した。
「これ持ってたら、勉強も頑張れるかも」
そう言った私を見て、三人が三人とも、ホントかよ~なんて笑う。
これが四人で集まることのできる最後の時間だった。次に会えるのは、松下を見送る時だろう。休みが明けて教材室へ行っても、そこに松下の姿を見ることはもうできない。もしかしたら、池田も遠のいてしまうかもしれない。それでも、こうやって一緒に過ごした時間はとても尊い。きっと、私たちはこの瞬間をずっと忘れない。
夜には、身内だけのクリスマスを過ごした。とはいえ、祖母は入院しているので当然病室でのことだ。病院に許可を貰い、ほんの一時間だけ家族で過ごすことになった。忙しい母も、何とか仕事を抜け出しやって来た。病室内は、私が飾り付けし派手になっている。椅子を使って、手作りのペーパーリングやモールを高い位置に貼り付けている間、祖母は何度も「賑やかだねぇ」と嬉しそうな顔をしていた。リクライニングを立てたベッドの上で、祖母が目じりを垂らして微笑えんでいると私も嬉しくてたまらなかった。
窓や壁、戸口に飾り付けたキラキラのモールや赤と緑の折り紙で作ったリングの飾りつけ。家にあるのは大きすぎるからと、母が新しく買ってくれた三十センチほどの小さなツリー。窓に貼り付けたゼリー状の「Merry Christmas」とサンタに雪の結晶。私が用意した手作りのピザやチキン。母が買ってきてくれたホテルのケーキ。病室という場所でなければ、いつもと変わらないクリスマスだ。
「今年のケーキはノエルにしたわ」
箱から出したケーキの上には、可愛らしいサンタとトナカイ。それを見上げるように小さな雪だるまがいくつか飾られていた。祖母が食べられないからといって、ケーキをサイズダウンはしなかった。いつものクリスマスにするために、私たちは変わらない用意をした。
「可愛い」
ノエルを見てはしゃぐと、祖母も母も嬉しそうに笑った。
少しずつしか食事を摂れない祖母は、私たちが食べているところを見ているばかりだった。それもあって、初めは料理やケーキを用意して病室に来ることはやめようとしていた。ただ静かにクリスマスという日を過ごそうと考えていた。けれど、祖母がどうしても美味しそうな料理やケーキ、それに毎年見てきた私の飾りつけを楽しみたいというので実行することにした。その時、私と母は決めた。祖母が願ったのだから、遠慮して気が引けるような態度はとらないこと。美味しいと声を上げ、楽しいと笑おうと。
祖母は笑っていた。美味しそうだと頬を緩めていた。病室ということもあって、あまり大きな声を出すことはできないけれど、私たち家族はクリスマスを楽しみ、家族団らんというものの温かさをひしひしと感じていた。
忘れてはいけない大切な思い出が増えていく。この大切な瞬間を、目にも心にも、しっかり焼き付けておかなければ。
祖母のいない鈴内家の正月は、とても静かなものだった。いつもなら大晦日もぎりぎりまで起きて、三人でテレビを観ながらのんびりと過ごし。年が明けたと同時に、「おめでとう」を言い合い床に就く。翌朝リビングで顔を合わせれば、ぼんやりとしたまだ眠っている脳みそのまま、祖母の作った御節を摘まむのだ。今年も祖母の傍で年を越したかったのだけれど、さすがにそこまでの許可は下りず。面会時間ぎりぎりまで病室に居座り。翌日の面会時間にはすぐに母と逢いに行った。軽くドアをノックし中に入ると、祖母は横になったまま迎えてくれた。
「あけましておめでとう」
「あけましておめでとう。響子さん、真白」
イベントが続いて疲れてしまったのか、今日の祖母は背もたれを立てて欲しいと言わない。いくらお願いされたとはいえ、クリスマスをした上に、昨夜も面会時間ぎりぎりまで居座ってしまったことが体に触ってしまったのだろうか。不安を覚えていると、祖母が備え付けの棚にある小抽斗を開けて欲しいと指をさした。抽斗を開けると、中にはうさぎのイラストが描かれたポチ袋が一つ入っていた。
「お年玉だよ」
寝たきりだというのに用意してくれていたことに驚きと嬉しさが湧き上がり、すぐに手を伸ばすことができない。
「遠慮はなしだよ。子供は子供らしく、受け取りなさい」
諭すように、けれどとても優しく祖母が微笑む。ポチ袋に描かれた、ピンク色をしたうさぎの頬を見つめながら手にした。
「ありがとう、お祖母ちゃん。大切に使うね」
ポチ袋を手にして礼を言うと、母もバッグの中から海外の有名なキャラクターのイラストがついたポチ袋を取り出しくれた。
「これは、お母さんから」
「ありがとう」
今年手にしたこのお年玉を、私はずっと使わない気がする。大切にしまい、何度も手にしては、この日のことを思い返すだろう。そうしなければいけないような、そうしたい気持ちになっていた。
正月になっても、やはり父はこの家に帰ってこなかった。病室にあった盛り籠は、父が持ってきたものではなかったのだろうか。病室を訪ねてきたのは、別の誰かだったのだうか。祖母から真実を聞いて以来、父のことは考えないようにしてきた。帰ってこないのは毎年のことだし。母や祖母を散々困らせ、自分だけ逃げて楽な道を選んだ父が、今更帰ってきたところで怒りに火が点くだけだ。母の口からも、父の話題は何一つ出てこない。対照的に、父からは年末にメッセージが届いていた。けれど、そのメッセージを見る気にはならなかった。どんなことが書かれているにせよ、私たちを捨てて逃げ出した父の相手などしたくなかった。
祖母のことを思うなら、メッセージなどよりもこの病室にだけでも顔を出すべきなのではないか。父にとって、祖母は母親なのだから。自分をこの世に生み落としてくれた、大きな存在なのだから。祖母のそばについていてあげるべきだ。
会いに来て欲しくないと願う反面。祖母の気持ちを考えると、そうも思っていた。
父が今どうしているのか、私には全く想像ができない。母からの資金援助で生活をしているのだから、溌剌とした表情でスーツを着ているはずがないのはわかる。あれから六年だ。年を取り皴も増え、体型だって変わっているかもしれない。けれどそれでいい。いつかどこかですれ違ったとしても父だと気づきたくもない。
毎年祖母が用意していたおせちを見様見真似で作ってみたけれど、味も見た目も到底及ばず。作り方を傍で見てきたはずなのに、この程度しかできない自分にとてもガッカリしていた。病室のテーブルに小さな重箱を広げると、母は優しくて真白の味だねと食べてくれた。祖母は少しずつしか口にすることができないけれど、それでも塩の匙加減や、煮る時のポイント。材料の選び方などを、ゆっくりだけれど丁寧に教えてくれた。教えて欲しいことはまだまだたくさんあるけれど、あまり長く話すことは負担になるから無理強いはできない。話の途中で何度も休憩をとるようにして口を閉じる姿に、祖母が確実に弱ってきていることを知る。
心の中にいる自分が問う。
覚悟はできている?
唇を噛み、拳を握る。
お願い、まだもう少し待って――――。
三が日も過ぎ。早朝、三人で松下の住むマンションに向かっていた。一月の空気はとても冷たくて、コートを着てマフラーをグルグルに巻き、手袋をし、頬を赤く染める。
「雪だるまみたいじゃん」
途中で合流した池田が私を見て笑う。
「だって、寒いんだもん」
寒さが苦手な私は、ブルブルと震えるようにして身を縮める。
「コロコロしてると抱きしめたくなるよぉ」
気膨れしたコートの上から、麗華がぎゅっと抱きついてくる。それに応えるように、私も麗華に抱きつく。すると。
「俺も~」
池田が麗華の上から更に抱きつこうとしてきた。けれど、私たちからひと睨みされ、すんでのところで止まり、調子に乗り過ぎたことにたじろいでいる。ふざけ合いケタケタと笑いながら三人で並んで歩き、松下の住むマンションを目指した。
マンションのエントランス前に着くと、テレビのコマーシャルでよく見かける大手引っ越し業者のトラックが止まっていた。作業をしている人が、せわしなく出入りしている。 部屋まで行くべきか、エントランスで待つべきか迷っていたら松下が中から出てきた。
「おはよう。あ、あけましておめでとう」
松下が言い、みんな笑顔で挨拶を返した。
「ごめん。まだ、バタついてるんだ」
「いや、俺らこそ。こんな時に。なんか手伝えることあるか?」
池田が訊くと、殆どを業者に任せているから、特にすることはないらしい。
「もう少しかかるみたいで、母さんが近くのファミレスに行って待っててくれって」
松下の母親が気を遣ってくれたのだろう。私たちは、マンションから程近くにあるファミレスに向かった。歩いている間、松下が笑みを浮かべて私を見る。
「鈴内、めちゃくちゃ寒そうだな」
「池田が雪だるまみたいだって」
少し拗ねたような顔をすると、松下はクツクツと笑った。
そんなに着膨れしているだろうか。もう少し薄手のニットにするべきだったかな。でも、寒いのは苦手なんだよね。
歩きながら、ショウウインドウに映る自分の姿をチラチラと確認した。池田が言うように、コロコロしている姿に苦笑いが浮かぶ。
ファミレスに着き、店内の暖かさにほっとする。窓際のテーブル席に着いたあと、四人ともドリンクバーを注文し席を立った。私と松下は、早々に温かいカフェオレを持って向かい合わせに席に着いた。湯気の上がるカップで手を温めるようにしていると、目の前の松下が穏やかな表情をする。
「ほんと、寒がりなんだな。俺の手、あったかいよ」
カップを握る私の手に、松下の手が重なった。手袋をしていても尚冷え切っていた手の甲に、松下の温もりが伝わってくる。
登校途中でぶつかったとき、松下の手はとても冷たかった。あれは、病気のせいで血圧が下がっていたためなのかもしれない。今触れた手はとても温かくて、頬に引き寄せてしまいたいくらいだ。
松下の大きな手。バスケットボールを持ったり、お弁当の箸を握ったり。授業中は、ペンや消しゴムを手にし、時々池田とじゃれついていた松下の手。大きくて、頼りがいのある手。
麗華とは違う、少しゴツゴツとしていて節くれだった手は、掌も指も私より大きくて長い。こうやって男の人の手に触れる瞬間など今までなかったからとても新鮮だった。
このままずっとこうしていたいな。
麗華も池田も何を飲むのか迷っているみたいで、ドリンクバーの前に立ったまままだ戻ってこない。そのわずかな時間がもう少し続いてと願う。
「女の子って、小っちゃくて、細い指してるんだな。俺はずっと守られてばかりいたけど、鈴内のことは俺が守りたかったな。もっと鈴内のこと、こうしてあっためてあげたかった」
私もだよ。この手を放して欲しくない。松下とずっとこうして手を握り合い、そばにいたかったよ。
お互いが握りあう手を見つめ、ゆっくりと瞳を合わせる。松下の目は優しくて寂しそうだ。
静かに話しているところへ池田が戻ってきて、触れ合っていた手を慌てて放した。
「見てくれ。俺のウインナーコーヒーを」
池田が手にしてきたグラスには、注がれたコーヒーの上にソフトクリームがこんもりとのっていた。
「それって、コーヒーフロートじゃないの?」
池田のすぐあとに戻ってきた麗華が突っ込む。
「ウインナーコーヒーは、ホットに生クリームだよ」
松下に言われて、ああそっか。なんて天然みたいにボケる池田をみんなで笑った。
私たちは、残されている限られた時間の中で、出会ってから今日までのことを話した。
「立花は、マジ目立ってたよ。入学当初は誰が落とすかなんて、すげー話題になってたけど。結局、立花のそばにいられる奴なんて、鈴内くらいのもんでさ」
池田は、チューッと音を立てて自作のコーヒーフロートを飲んだあと、スプーンでソフトクリームを掬い美味しそうに口にした。
「私だけの麗華だもんね」
隣の麗華に笑みを向けると「私だけの真白」と、さっき外でした時のように抱きついてくる。
「君たち、仲良すぎでしょ」
池田はやっぱり仲間に加わりたそうな顔をしている。
「松下と池田だって、ちょー仲いいじゃん。実は、二人ってできてるでしょ」
悩ましげな顔をして訊く麗華に「バレちまったか」と池田がふざけて松下に抱きつくから可笑しくてたまらない。
「ほんと、ありがたいよ」
松下がしみじみと呟くと、場が少しだけしんみりとした。その空気を弾き飛ばすように池田が声を上げる。
「あのさ。これだけは言っておくけど。俺、空の病気のことなんて、一ミリだって拘ってないからな。空とは気が合うと思ってるし、一緒にいるのが楽しいんだ。だから、今までずっと付き合ってきた。だから、そんな言い方すんな。だいたい、それを言うなら。俺だって、いつも付き合って貰っててありがたいよ」
「うん」
池田の言葉に一瞬の間が空き、寂しいけれど温かな空気が四人の間に流れていく。早朝のファミレスは、流石に正月早々ということもあるせいか客は疎らだ。おかげで、近くの席に座っている人はいなくて、私たちだけの空気感や仲間意識を誰に咎められることもなくいられた。
「そういうのって、いいよね」
麗華がしみじみと呟く。
二人が突然教材室にやって来たあの日。私も麗華も、イヤな気持ちなんて一つもしなかった。相手を思い遣り尊重し合う二人の関係を、心のどこかで感じ取っていたから、麗華とだけいることに拘らず四人でいる時間を大切にできたんだ。教材室に現れたのが池田と松下だったから、共に時間を過ごすことができた。
「ありがとう」
松下がポツリと言った。
「ありがとう」
麗華も言った。
「ありがとう」
池田も言った。
「ありがとう」
私も言った。
四人の瞳は湿り気を帯びていたけれど、泣くにはまだ早いと、それぞれが笑みを浮かべていた。この先も、私たちはずっと四人のままだ。どんなに遠くに離れたって、尊い時間を共有してきた繋がりは途切れることなんてない。
マンション前に戻ると、駐めてあった車の運転席から男性が降りてきた。松下によく似た背の高い人で、きりっとした目元が印象的だ。松下の父親だ。同時に、母親も助手席から降りてくる。
「みなさん。今まで空と一緒に居てくれて、ありがとうございました。池田君、今まで本当にありがとうね」
松下の母親は、深く頭を下げる。その隣で、父親が目元を緩め、私たち三人のことをしっかりと見つめて言った。
「空は、病気になってから今までで、一番楽しそうに過ごしていたよ。あの高校に通わせてよかった。君たちのおかげだ。本当にありがとう」
松下の父親も頭を下げた。
本当に最後となるこの瞬間に、松下は我慢できなくなったのか目に涙を滲ませる。
「連絡して来いよ」
池田がガシッと空に抱きつく。
「ありがとう、正人」
少し震える声で応える松下に、池田の方が号泣してしまった。
「きっとさ。また会えると思うんだよ。私の勘は、当たるんだから」
麗華は涙でいっぱいの目で得意気な顔をし、松下と握手をする。
「うん。俺もそう思う」
松下が笑みを浮かべる。
私の涙腺もどんどん緩んで、目の前がゆらゆらしてくる。
「鈴内」
松下が私の前に来る。
「手、貸して」
手袋をしたまま手を出そうとしたけれど、慌てて取りコートのポケットにしまった。冷たい風を感じながら、また冷えてしまった手を差し出す。松下が、両手で私の手握る。
「手袋してたのに、やっぱり冷たいんだな」
クシャリと笑うと「これ」と言って何かを取りだし握らせた。
「俺の宝物」
見ると、五百円玉よりも大きな空色のビー玉だった。透き通った中に、雲のようなふわりとした白い色がほんの少しだけ混ざり込んでいる。まるで、このビー玉の中に、小さな空が存在しているみたいだった。
「家の中にいなくちゃいけない時、いつもこの中を眺めていたんだ」
大好きなバスケをすることも。思いっきり走り回ることもできなかった松下は小さな空を見続け、心の中で元気に動き回っていたのかもしれない。
「鈴内に持っていて欲しいんだ」
松下が見せた意志の強く真っすぐとした視線に頷きを返した。
「大切にする」
両手の中に包み込むようにして持つと、松下の手が重なった。ボールを握る大きな手が私に触れる。温かくて大きくて安心する松下の手。この手を持つ松下が、ずっと遠い場所に行ってしまう。そう考えると涙が止まらなくて、笑ってサヨナラしようと思っていたのにうまくいかない。
松下は私の涙を隠すように、頭を胸に引き寄せる。洩れる嗚咽に震える体が大きな腕の中に包まれる。松下の匂い。松下の胸の広さ。ガッチリとした骨格。温かな体温。本当は、ずっと好きだった。確信が持てないなんて心を誤魔化していたけれど。松下とぶつかったあの日から。ううん。高架下で華麗にバスケのシュートを決めていたあの光景を見た時から、ずっとずっと松下を好きだった。そばにいたいと思っていた。好きって気持ちに気づけたのに、離れなくちゃいけないなんて。寂しくて、悲しくて、やりきれない。
「空……」
遠慮がちに名前が呼ばれた。車の中に戻っていた母親が、心苦しさを滲ませつつ促すように声をかけてきた。車を振り返った松下が頷くとエンジンがかかった。松下がゆっくりと離れていく。私の頬にも松下の頬にも涙が伝っている。離れがたい感情を必死に堪えながら車に乗り込む松下の姿を見つめた。
後部座席に乗り込んだ松下が窓を開けた。
「着いたら連絡してよ」
麗華が声をかける。
「うん」
「あっちは美味いもんが多いから。食いすぎんなよ」
池田も言葉をかける。
「うん」
麗華と池田が別れを惜しむ間、込み上がる嗚咽を堪えるのに必死だった。
「鈴内……。出会えてよかった。ありがとう」
その瞬間、私は泣き叫んだ。
「約束っ。まだ、約束したこと叶ってないんだから。一緒に走るんでしょっ。私、忘れないよっ。松下と一緒に走るの。絶対に忘れないっ」
体育をさぼった日。松下が遅刻をしてきた教室で約束をしたんだ。いつか一緒に走ると約束を交わしたんだ。
貰った空色のビー玉をきつく握りしめ、涙をこぼし訴える私に向かって、松下が大きく頷き泣きながら笑った。
松下を乗せた車がいなくなっても、私たちはしばらくその場を動き出すことかできなかった。