父の真実を知った夜。あらゆるものにイラついていた。玄関ドアの鍵穴に、鍵がスムーズに入らなかったこと。冷蔵庫の中の牛乳が残りわずかだったこと。作った夕食の味付けがうまくいかなかったこと。部屋干ししていたお気に入りのパジャマがまだ乾いていなかったこと。それらはすべて、普段の自分からしてみれば本当に些末なことで、イライラするに至らない物事ばかりだった。なのに、その日の私は総てが赦せず、いちいち苛立ちを覚えていた。普段、これほどまでに怒りを感じるなどということはなかったのに、父に対する思いに胸をかきむしられていた。救いだったのは、母が残業で遅く、不在だったことだ。もしも母が帰っていたなら、母に対してそのイラつきをぶつけていたに違いない。何故そこまでして働くのかと。もう父のためにお金を用意する必要などないではないかと。父は、勝手に出て行ったのだ。母も我慢などせず、父を捨ててしまえばよかったのだ。そう食って掛かっただろう。
 今まで必死になって私たちのために働いてきた母に対して、そんな態度を取らずに済んだことはよかったと、深夜遅く布団の中で母の帰ってきた足音を耳にしながら未だ続く怒りをお腹の中に抱え込んでいた。

 冬休みを前にした頃。ボールがぶつかってできた目の痣は、ほとんど分からなくなっていた。松下は、また休みがちになっていた。大きな背中のない教室はやはり息苦しくて、酸素を求めるように日に何度も深く呼吸を繰り返していた。池田が机に伏せている姿が目について、麗華が一日のうちに一度口にする松下を心配する言葉に感情が引きずられた。松下が休みの日、池田は昼休みも放課後も教材室には現れなかった。どこで食事を摂っているのか知らないけれど、私たちと一緒に過ごすことはなくなっていた。
「旅行の計画。こんなだと実現は難しいかもしれないね」
 小さなハンバーグを口にした麗華が、寂し気にぽつりと零した。松下がどんな理由で休んでいるのか麗華は話題にしない。本人の口から聞くまで、何を話したところで単なる憶測にすぎないからだ。きっといつか、松下の方から話してくれる。私も麗華も、そう信じていた。ここで過ごした四人の時間は、私たちをしっかりと繋とめてくれているはずだから。
今日も教材室の窓からは、冷たい風の吹くグラウンドで上級生が楽しそうに遊んでいる姿がうかがえた。近くに池田はいないかと視線を巡らせてみたけれど、見つけることはできなかった。
「池田も元気ないよね」
 麗華がまたぽつりと言う。
「松下がいないと、折角仲間になって楽しく過ごせていた四人が崩れていくみたい」
 麗華と同じことを感じていた。松下の休みが続き。池田が教材室に現れなくなったことで、寂しい気持ちは必然的に生まれてくる。麗華と二人でいた頃に戻るだけだ。そう思おうとしたけれど、一度知ってしまった楽しい時間を、なかったことになどできない。四人でいたあの時間の尊さを、私たちは知ってしまったのだから。
 麗華と静かな昼休みを過ごし、空になったお弁当箱を片付けていたところで、突然教材室のドアが開いた。相変わらず、私たち以外この教室を利用する人などいないから、突然の物音に麗華と二人でとても驚きドアを振り仰ぐ。今度こそ先生に見つかってしまったと、どぎまぎしながらドア口に立つ人物を見た。
「池田」
 勢いよくドアを開けて立ち尽くす姿に向かって、麗華が驚かさないでよというように、ほっとため息を吐きながら呟いた。松下が休んでいるのに、ここへ池田が来るなんて初めてだ。
「おっす」
 池田は、ここに集まっていた時と何ら変わらない軽い調子で進み入った。以前のように傍へやってくると、不自然な笑みを向けてくる。焦りに飛びあがったままの心臓をなだめながら池田を見た。
「なあ。みんなで行く計画していた、四人だけの旅行。あれ、早めないか」
 池田は、突然やって来たかと思えば、計画の繰り上げを提案してきた。自分の旅費もなんとかなるところまで貯めることができたし、待てないという。
「けど。松下、また休みがちじゃん。体調が悪いんじゃないの?」
 麗華が訊ねると、池田は僅かに口籠る。その様子に、私は不安を覚えた。麗華の問いを否定しないということは、本当に体調を崩して休んでいるということなのだろうか。考えなかったことではないけれど、わかり易い池田の様子に不安の色は否応なく濃くなっていく。
池田は取り繕うように、さっき教材室に入って来た時と同様の明るい調子になる。
「大丈夫だって。んなことねぇし。ほら、いつもの引きこもり癖だよ。あいつ、一人で黙々と勉強して、トップ目指してるんじゃねぇの」
 学校で教わるより、マンツーマンの個別授業を受けた方が学力は上がるだろと付け加えた池田の話し方はどこか落ち着きがなく、何かに急かされているようだ。
 その後も。空だって、勉強ばっかじゃなくて息抜きも必要だとか。今滅茶苦茶遠出したいんだとか。池田は、必死に説得を試みた。
「そんなに焦る必要ある?」
 強引に旅行の計画を進めようとする池田に、麗華が冷静になってよと制止した。
「松下が戻って来てから、四人で話し合おうよ」
「そんなの、待てねーんだって!」
 突然池田が声を荒げた。驚いた私たちが池田を見返すと、バツの悪い顔をして口籠り複雑な表情を浮かべる。
「あのさ。何をそんなに焦ってるのか知らないけど。池田を見てると、松下に何かあるんじゃないかって、すごく心配になってくるじゃん」
 不安と憤りが混在したような顔で、麗華は私に同意を求めるような視線を向ける。私も麗華も、この教材室で会う以外二人と話す機会はほとんどない。教室で挨拶くらいはするけれど。休み時間ごとに集まって話をするわけでも、放課後にどこかへ出かけるわけでもない。教材室に来れば、絶対に会えるし話ができる。それがとても重要に思えていたからだ。この場所に四人が集まることを大切していた。周りがしているように、些細なメッセージのやり取りを細かに気にして、落ち着かない日常を過ごすようなことはしてこなかったし。小さな機械に縛られるんじゃなくて、ここに来ればそれだけで心の繋がりがあると信じることができた。
 松下が遅刻をしている理由や休みがちな訳を知らないまま、ただ心配するしかなかったけれど。それでも松下が登校してくれば、この場所で一緒に過ごし、笑いあえるのだから大丈夫だと思っていた。話したいことがあれば、こちらから訊ねなくても言い出すだろうし。人にはそれぞれ誰にも知られたくないことだってあるだろう。それを無理強いするつもりもなかった。でも、そんなのは綺麗ごとだったのだろうか。もっと深く入り込んで、松下が今どんな風に過ごしているのか、訊ねるべきだったのだろうか。
 池田が声を荒げたのは、松下にとって何かとても大変な事態が起きているということなのか。けれど、池田は私たちに対して誤魔化すように笑い、真意がどこにあるのか話そうとしない。それがとても悲しくて、寂しかった。四人の繋がりが強固だと思っていたのは、勝手な思い込みだったのだろうか。希薄な文字だけの繋がりでも、持っておくべきだったのだろうか。
 何かを隠すような池田の態度に、繋がっていたはずの糸が脆さをみせる。あれほど強いつながりを感じていたはずなのに、頼りなくなってしまった糸を必死に繋ぎ止めたいと震える手で握っていた。
「松下に連絡して」
 麗華が急に鋭い声を上げて池田に詰め寄った。
「今すぐ電話して」
 気迫ある麗華の顔に池田は怯み、一歩あとずさると困った顔をした。
「ここに来れば四人の時間を過ごせるし。外で会うことがなくたって、楽しいからいいやって思ってた。それぞれの深い事情なんて知らなくたって、お互いに強い絆があるって思ってた。けど、こうも松下が休んでばかりいて、池田も元気がないし。そうかと思えば、今すぐ旅行へ行こうなんて。いくらなんでも、私たちが何も知らないままお気楽でいられるなんてことないからね。私たちだって、松下が心配なんだよっ。何かあるんでしょ。だから池田も旅行を早めたいなんて言い出したんだでしょ。松下から直接理由を聞きたい。だから、今すぐ連絡して」
 麗華の緊張感ある緊迫した態度に、池田が観念したようにポケットの中からゆるゆるとスマホを取りだした。池田の様子をじっと見ていた麗華は、早くかけなさいと鬼気迫る形相をする。根負けしたように、池田がスマホを操った。耳に当てるスマホから、小さく呼び出し音が聞こえてくる。一回、二回、三回。四回目の呼び出し音の途中で通話が繋がったことが分かった。
「あ、空。俺――――」
 池田が話し出したその瞬間に、麗華の手が池田のスマホに伸び奪い取った。
「あっ、おい。ちょっとっ」
 奪い返そうと手を伸ばす池田を交わしながら、麗華が通話口に向かって松下に話しかけた。
「松下。あんた今、何やってんのよ。なんで学校に来ないのよ。あんたが来ないと、教材室が寂しいじゃん。池田なんて寂しすぎて、ここに来もしないんだからね。私だって、休みがちのあんたが出席してくるたびに平気な顔して挨拶してるけど。これでもめちゃくちゃ心配してんのよっ。真白だって、いつもあんたの席ばっかり見てんだからっ。いつまでも私たちがダンマリ決め込んでるなんて思わなでよっ。私たちが、どれだけ松下のことを考えてるのかわかってるでしょっ」
 叫ぶようにして一気に吐き捨てたところで、池田が麗華からスマホを取り返した。
「悪い、空。……え。うん。わかった」
 息を切らすようにして憤慨している麗華に少しだけ背を向け話していた池田が私を見た。
「松下が話したいって」
 電話に出た麗華ではなく、私に向かってスマホを差し出されたことに驚いたけれど、手を伸ばし耳に当てた。
「もしもし」
「鈴内」
「うん」
「学校行かなくて、ごめん」
「うん」
「話したいことが……あるんだ」
「うん」
「今日、三人でうちに来られる?」
 躊躇うようにして話しかけてくる松下の問いを二人に告げると大きく頷いた。
「じゃあ、待ってるから」
 落ち着いた松下の声はいつもと同じで、具合の悪そうな感じがない事に少しだけほっとした。けれど、松下が抱えるものがなんなのかわからない不安は大きくて、放課後までが途轍もなく長く感じた。
永遠のような時間の中でこなす授業は苦痛でしかない。教室の壁にかかる時計の針が少しずつでも進んでいることを確認して、何度も息を吐いていた。
 長かった授業をすべて終え、三人で校門を抜けた。半歩先を歩く池田についていくと、松下の家は意外にもうちからそれほど遠くなかった。バス停で言えば、一駅先にも満たない場所に松下の住むマンションはあった。入学式前日、近所の公園でバスケをしている姿を目撃していたのだから近所であることは考えればわかるようなものなのに、そこまで頭が回っていなかった。
「なんだ、うちからわりと近いじゃん」
 商店街の裏手に住んでいる麗華にしてみても、当然近いと言える距離だ。エントランスを潜った池田が、十五階建てのマンションの真ん中。八一〇のボタンを押す。程なくして、解除された自動ドアが静かに開いた。
 家には、松下のお母さんがいた。スラリとした細身の女性で、目元が松下と似ていた。瞳には力がなく、少し疲れたような表情をしている。私たちが訪ねてくることを聞いていたようで、やつれた表情に笑みを浮かべ快く案内してくれた。部屋に入ると、いつも通りの松下が普段着姿でベッドに腰かけていた。
「いらっしゃい」
 笑顔で迎え入れられ、麗華と私は心配していた感情に肩透かしを食らったように、すとんとローテーブルの傍の床に坐った。
「元気そうじゃないよ」
 麗華は、鞄を床に置くと開口一番そう言って口角をキュッと上げると嬉しそうな顔つきをした。心底ほっとしたように表情を緩めている。私も、万が一松下がベッドに横になり寝込んでいるようなら、どう接したらいいだろうと考えていたから安堵した。入院してはいなくても、起き上がるのさえ辛そうな姿を目にしてしまったら、動揺せずにいられないだろう。笑みを見せることだって、できなかったかもしれない。程なくして、松下のお母さんが麦茶の入ったグラスを部屋に持ってきた。
「ゆっくりしていってくださいね」
 松下よりも母親の方が体調を崩しているのではないかと感じるほど儚げな表情だ。松下が休んでいた理由は、体調のすぐれない母親を一人にしておけなかったせいなのだろうか。
 ローテーブルに置かれたグラスの麦茶には、氷が入っていた。一口貰うと冷えた飲み物は、冬の寒さを飛び越え今ここが真夏だと無理に主張しているみたいだった。目の前にある現実を、どうにか捻じ曲げようと必死になっている。そんな気がした。
 部屋の中は、とても綺麗に整理整頓されていた。机の上も本棚も、無駄な物がない。単に綺麗好きというのとは少し違う。祖母が二度目の入院を前にした、あの大掃除のあとのようだった。綺麗すぎる松下の部屋は、不要なもの全てを処分し、いつ何があってもいいようにと整えられているように見えて心がザワザワとする。
「来てくれてありがと」
「別にいいよ。うちらの家も近所だし」
 サラリと応えた麗華に向かって、松下が少し驚いた顔をした。
「松下も知らなかったの? 真白の家も私の家も、商店街の近くだよ」
 松下は驚き顔をそのままに、嬉しそうな顔をした。
「なんだよ。俺だけ遠いのかよ」
 池田は、自分だけがバスで五駅も先だとぼやきながら、麦茶を一気に半分まで飲み干した。それから、この家は茶菓子の一つも出ないのかよ、とわざとドラマに出てくる嫌味な男然とした言い方をする。ベッドに腰かけていた松下は、相変わらずな池田の態度に、クツクツと肩を揺らし笑った。
「元々は、池田と同じ町に住んでたんだけど。高校に入る前にここへ越してきたんだよ。ここからの方が学校は近いから」
 幼馴染の池田とは、五駅先の町で幼少期から過ごしてきたのだろう。こんなに近所なら、いつでも会うことができたはずなのに。それに気がつかなかった自分が恨めしい。近所だと知っていれば、学校以外でももっと松下と一緒に居られただろうし。もっとたくさん話をすることだってできたのだ。そう考えてから、これから先はそうすればいいだけのことだと思ったけれど。そのすぐ後には、そんな未来がうまく想像できなくて、やっぱり心はザワザワとしてしまう。
「池田がね、四人だけの旅行を早めたいって言いだしたんだけど。それって、松下と何か関係があるんじゃないの?」
 早速というように、麗華がズバリと本題に踏み込んだ。探るような目をした麗華は、真剣な面持ちで松下をじっと見据えている。松下は、その目を真っすぐ見返し。注目を浴びていない池田が、とても困ったような表情をしていた。
「池田、俺のこと好きみたいだから」
 松下はふっと表情を崩すと、少しだけ冗談交じりに笑みを見せたけれど、そこには硬さがあった。松下は座った膝の上にある自分の両手を軽く組み、その中に何か答えがあるみたいに何度も組み換えては見続けていた。幾度か手を組みなおしたあと、顔を持ち上げ私たちを見る。
「俺さ。バスケが好きで、マイボールを持ってるくらいで」
 松下が、デスクの横に転がっているバスケットボールを見た。視線を辿るように私もボールを見てから。ああこれって、あの日高架下でシュート練習をしていた時の物だって気がついた。
「海外の試合を見るのも好きで、父さんに言ってケーブルテレビをいれて貰ったくらい。それに、レアなグッズ。ユニフォームとかシューズか。そういうのもネットで買ってさ。わがまま、いっぱい言ってきたんだよ……」
 松下は寂し気に頬を緩める。池田は、床に転がっているバスケットボールを手にすると、手首のスナップを効かせるようにして、松下へと柔らかくパスした。ボールを手にした松下は、ベッドの上で右に左に軽く動かしてから膝の上に置く。松下の目は、悲しそうで寂しそうで、私のザワザワが強さを増していった。このままこの雰囲気にのまれてはいけない。そんな気持ちになって、松下を元気づけるようにあの夜のことを話した。
「松下がバスケをすごく好きなこと知ってるよ」
 入学式前日のあの日。ガリバーみたいに大きくて、深夜の高架下の不穏さにドキドキして。弧を描くボールと、ふわりと高くジャンプする松下にくぎ付けになったことを大袈裟なくらい身振り手振りをつけて話した。いつもの私らしくないと思っても、そうやってはしゃぐようにしていないと、さっき松下が見せた切なさが、この部屋に充満してしまう気がしたんだ。
「鈴内に見られてたんだ」
 あの日のことを知っていた私に、松下は照れくさそうにしながらも、とても嬉しそうに頬を緩めて笑った。
「うん。こっそり見てた」
 上着の下にキリンのパジャマを着たままだったことは、内緒にした。
「それにね。体育の授業でも、一度だけバスケのシュートを見たことがあるよ。松下の手から離れていくボールが、意思を持ったみたいにゴールへ吸い込まれるところ。その瞬間を私。何度も何度も見たいって思ったよ。凄く綺麗で。私なんかには到底真似できないから。もっともっと見たいって思った」
 憧れの先輩に話しかけるみたいに、あの時のことを思い出しながらうっとりと。そして、はっきりと羨ましさを湛えて松下を見た。
 松下は、無言になり更に悲しそうに目を伏せてしまった。視線が合わなくなってしまった瞬間、とんでもないことを言ってしまったんだと心臓がドクリと嫌な音を立てた。視界の端では、池田が唇の端を噛みしめて俯いてしまったのがわかった。
 心臓がドクドクといっている。祖母の弱っていく姿を目にした時と同じくらい、心は普段なら絶対にしないような音を立てて、目の前の光景を黒く染めようとしていた。
 ダメ。やめて。そんな風に落ち着きのない音を立てないで。色のついた世界のまま、そのままでいて。
 酸素が足りないみたいにうまく呼吸ができなくて、必死にもがいていたけれど、松下に悟られちゃいけないと身動きができなくなる。
 どのくらいの時間が経ったのか。たっぷりと何時間も経ったような気さえする不安な沈黙の間を松下が静かに破った。
「ありがと、鈴内。俺、嬉しいよ。鈴内が俺のシュートを見て、そんな風に感じてくれていたこと。嬉しくて、嬉しくて……。ごめん……」
 松下の語尾が震えていた。泣くことを我慢するように言葉が続かず、最後には俯き言葉をなくしてしまった。私は自分自身を激しく呪った。調子に乗って軽口をたたいてしまったことを後悔し、今話した総てを撤回したいと強く思った。松下が左右の手でボールを動かしていたさっきまでの時間に戻して欲しい。そうしたら、もっと別の。例えば、ここへ越してくる前の、池田との楽しい思い出だとか。映画やテレビの話だとか。バスケとは無縁の話題を口にするのに。けれど、一度言葉にしてしまったことは、二度と元に戻るはずもなくて。どうにもできない、この暗くジメッとした空気を変えるすべもわからないまま、ただじっと背を丸めて口を閉ざすことしかできなかった。誰も何も言わなかった。ただ、涙を堪えるような松下の苦しそうな呼吸が部屋に満たされていった。何とか呼吸を整えようとする松下に代わって、見かねたように池田が口を開く。
「俺もさ。こいつのバスケは、マジスゲーって思ってんだよ。SNSに投稿したら、何万回再生しちゃうかわっかんねぇくらいじゃね」
 池田はおどけたように話し、この場の雰囲気を明るくしようとする。
「俺と空と組んで、ユーチューバーになって儲けたら。君たち二人にも恩恵を授けようではないか」
 わざと神々しさを演出する池田に、松下が漸く顔を上げた。
「正人。ありがとな。いつも、ほんと、ありがと」
 心から感謝しているんだと告げる松下に、今度は池田が涙を堪えるように俯いてしまった。そうして、ゆっくりと。言葉を探すように、松下は再び話始める。
「高架下でバスケをしてた日も。体育の授業でシュートを決めた日も。……親に内緒だったんだ」
 松下は、諦めたような顔で口の端を持ち上げ皮肉な顔をする。
「そのせいで、鈴内には申し訳ないことにもなっちゃったしな」
 申し訳ないということがなんなのかわからず、不安に震えながら松下の言葉を待った。
「鈴内にぶつかって怪我させちゃったろ。あれは、自棄になってやったバスケで、一瞬意識が飛んだせいだったんだ」
 自棄になった? 意識が、飛んだ……?
 謎かけみたいな松下の話は続きがとても気になるのに、耳を塞いでしまいたくなるほどの不安に駆られる。
「俺ね。不治の病ってやつなんだって」
 松下は息を吐き、全てを諦めたように力なく零した。その瞬間、この部屋に抗えないほどの重く暗いベールが下りてきて。それをよけることも、はぎとることもできない私たちは、ただその薄暗い中に閉じ込められてしまった。
 松下の病は、突然だったいう。小学校四年生の頃だと言った。私が父と離れ離れになった年と一緒だった。それまで普通にできていたはずの運動をすると体調を崩し、しばらく寝込むことが増えたという。バスケのスポーツクラブに所属していた松下は、休みがちになり。一年後には辞めざるを得なくなってしまった。父がいなくなったことで私が記憶を封印してしまった時。松下は、思うようにならない体のせいで、大好きなバスケを封印しなくてはいけなかったのだ。
 原因は、不明だったという。どんなにたくさんの検査を受けても、なかなか原因は解らず。静かに暮らすことしかできない日々の中。漸く判明し告げられたのが治る見込みのない不治の病では、やりきれなかったことだろう。運動の制限。治療の目処もないけれど、通院は強いられる。体調の悪い日は眩暈を起こし、ベッドから起き上がれなくなることもあるという。
 私にぶつかったあの日。松下は、少し前から投げやりになっていたという。どこが悪いのかもわからないまま、検査や入院を繰り返し。大好きなバスケもできず、親に心配や迷惑しかかけることのできない自分に嫌気がさしていたのだと。私にぶつかった前日。松下は、息が切れるほどにドリブルをし、シュートを繰り返し。この後どんなことになってもいいと開き直り、大好きなバスケをしたという。結果、私の目の前で意識を失い、ぶつかってしまった。
「意識が飛んだ時。自分の人生が終わった気がしたんだ。もうこれでお終いって。大好きなバスケはできなくなるかもしれないけど、もう親に心配かけることも迷惑をかけることもなくなるならよかったって。これで全部おしまいにすることができるって。けど、鈴内の痛いって声が急に耳に飛び込んできて。少しずつ意識が戻って、視界がクリアになった時。目の前で蹲ってる姿と膝から溢れている血に驚いて本当に慌てたんだ。自分だけのことじゃなくなった状況に、心臓が止まるかと思った。投げやりになった先で人を巻き込んでしまった自分が、途轍もなく最低な人間に思えたんだ。気がついたら鈴内を抱え上げて保健室にいた。何度も頭を下げて、藤原先生に鈴内のことを必死でお願いしている自分に。俺、まだこんなに必死になれるんだってハッとした。自分の為じゃなくても、誰かのために必死になるって、こういうことなのかなって。鈴内に怪我させたのに、それに気づいたことに不謹慎だとは思っても、なんだか少し嬉しかったんだ」
 そこで松下が麦茶のグラスを手にして口に含む。冷たさが喉を通る瞬間を味わうように喉仏が動いていた。
「教材室に鈴内がいたのは偶然だったけど。なんでかなぁ。この偶然を大事にしなくちゃいけない気がしたんだよ。今までは、正人だけでいいと思ってた。小さい頃から一緒だったし。俺がどんな時でもずっと一緒にいてくれたのは正人だけだったから。繋がりってさ、一度持っちゃうと、大変だろう。俺の場合は特に……」
 松下は、俯き加減で切なげに話す。
 人と接すること、繋がることは、松下にとって普通のことではなかったのだろう。自らの病を考えれば、いつだって最悪のことを考え行動してきたに違いない。人との関わりを断つというのは、どんなに願っても叶わないことばかりの中で生きていくための防衛手段だったんだ。
「四人で過ごしていくうちに、この繋がりを大切にしてよかったって本気で思ったよ。バスケができなくても、この四人でいたらこんなに幸せな気持ちで笑えるんだって。正人だって、鈴内や立花といると楽しそうだったから。ここに居る意味みたいなのを感じることができた。学校に行くのって、こんなに楽しみなんだって知った」
 小学生みたいだろって、松下ははにかんだ。私も麗華も。もちろん池田も、そんな松下に応えるように笑みを返した。
「この四人で、ずっといたかったな」
 松下は、再び泣きそうな声で呟いた。
「なによ、それ」
 麗華がグズッと一度洟をならし、訴えるように言う。
「いればいいじゃん。この先もずっと、一緒にいればいじゃん。あの教材室で、会えばいいじゃん。家だって、近所だってわかったんだし。冬休み中だって、会おうよ。池田なんて、旅行の計画張り切り過ぎてんだよ。それ、叶えようよ」
 声を震わせる麗華に、私も大きく頷いた。
「立花、ありがとう。でも、ごめん。俺、年が明けたら引っ越すんだ。俺と似たような症状を診ている有名な先生が北海道にいるんだって。その先生が勤める病院の近くに、越すことになったんだ」
 整理整頓された無駄のない部屋の理由に、私は何も言うことができなかった。