二時間続く体育の授業は、いつも通りにだるい。竹内先生の不機嫌が相変わらずのせいもあるし、単に今日の授業であるバスケットボールが得意ではないせいかもしれない。先ほどからクラスをバラバラにしてチーム分けをし、ミニゲームをしていた。運動部に所属している子たちの動きは明らかに違っていて、よどみなく快活だ。私みたいな帰宅部や文科系の部活に所属している子たちは、自分に向かってボールが飛んでこないことを願ってばかりいた。
 木下ではないけれど、ドリブルをすればファウルだと笛を鳴らされ。シュートをさせないように手を伸ばせば、また笛を鳴らされた。ボールを持ったままちょっと迷って止まっていても笛を鳴らされ。つくづく自分は、バスケットボールに向いていないと思う。竹内先生にもファウルばかりだと叱られた。敢えてファウルを狙っているわけではないし。頑張った結果のファウルなのだ。一生懸命にやっても叱られるだけの体育に、やる気など出るはずもない。
 松下だったら、華麗なフォームでどこからでもゴールするのだろう。スリーポイントシュートだって、迷うことなくボールはネットに吸い込まれていくに違いない。
 男子の体育は、陸上だと聞いている。百メートル走のタイムを計るのだと池田が話していた。松下は、授業に参加しているのだろうか。私と走るために、引きこもりから脱したと冗談交じりに笑っていたけれど、今日の授業はどうするのだろう。バスケットボールであれだけ華麗な動きをするのだから、きっと足も速いに違いない。
 私は想像する。先生の鳴らす笛を合図に、他の生徒を振り切って長い足を前へと繰り出し、颯爽と一番にゴールする松下の姿を。キラキラとした笑顔で走り切る松下を。それは、あまりに眩しくて、胸を高鳴らせた。
 体育館とグラウンドでは場所が離れていて、男子の体育の様子はうかがえない。以前のように、膝の擦り傷がぱっくりと割れて保健室へ行くなどということもないだろう。膝の傷は、すでに塞がってしまっているからだ。
 キラキラと走る松下の姿が見たい。
 他のチームが試合をしている間、体育館の床に座り込み壁に寄りかかりながらぼんやりと時間を潰していた。今は、麗華のいるチームが試合をしている。麗華は頭もいいが、運動もそれなりにできる。運動部ではないが、ボールを怖がってこちらに飛んでこないように願う側ではない。声を上げてパスを要求する側の人間だ。麗華の軽やかな動きを少しの間眺めてから、体育館から外に通じる開け放たれたドアの向こうに視線をやった。
 十二月の空気は冷たさを増していて、少しだけ暖房の効いている体育館でも寒さに身が縮まる。生徒は寒くても、体育の授業中運動着以外着てはいけないことになっていた。なのに教師の竹内は、運動着の上にしっかりと上着を羽織り、手袋までしている。生徒が寒さに手をポケットに入れようものなら、ものすごい剣幕で怒るくせに、自分はしっかりと温かな格好をしているのだから、生徒が言うことをきくはずなどない。ドアの向こうを眺めつつ、竹内がファウルのたびにピーピー鳴らす笛の音を耳障りに感じながらぼんやりとしていた。
「あぶないっ」
 切迫した声が降りかかった。声に反応して徐に顔を向けたと同時に、顔面と後頭部に衝撃が走った。ゴンという鈍い音と、熱いのか痛いのか解らない感覚が襲う。
「真白っ」
 試合中だった麗華が、慌てて駆け寄ってきた。どうやら、戦っていた相手チームのパスを、私の近くに居た同チームの子が受けそこなったらしい。いや、受けそこなったというより。文化部のその子が、飛んでくるボールに恐怖を抱き、ひょいっと体ごと避けたのだろう。受け手を失ったボールは、壁に寄りかかり座り込んでぼんやりしていた私の顔面にヒットした上に、ぶつかった衝撃で後ろの壁に後頭部も打ち付けたのだ。
「いったぁ……」
 目の辺りにヒットしたボールのせいで、グワングワンと脳内が揺れている。プロボクサーは、殴られた瞬間にこんな感じの眩暈を覚えるのだろうか。
「先生っ。鈴内さんを保健室に連れて行きますっ」
 試合中だった麗華がまっすぐ手を上げ、目を押さえて俯く私を有無も言わせず抱え上げる。肩を貸し、支えるようにして立ち上がる素早い麗華の対応に、ざわついていた他の生徒は微動だにせず。竹内に至っても、文句を挟む余地もない。早く戻りなさいよ、と不満そうに漏らすのが精いっぱいのようだ。竹内の声を背に二人で体育館を出る。背後では、ミニゲームの続きが始まった。
「大丈夫?」
 心配そうに声をかけてくれる麗華だけれど、松下のことが気になっていた私としては、顔面の痛みよりもそちらに比重が傾いていた。
「寧ろ、ありがとう」
 麗華が驚く。
「竹内の授業、受けたくないし」
 麗華が納得顔をする。
「あとね。松下の走ってるところが見たかったんだ」
 麗華は、心得たとばかりに黙って頷いた。私たちは、保健室ではなくグラウンドの見えるあのベンチへと向かった。寒空の下並んでベンチに腰かけると、冷たい風に体が震えた。
「目、大丈夫?」
「うん」
「上着欲しいね」
「ほんと、それ」
 カタカタと足を揺らしながら、麗華が自分の体を抱くようにしている。私は、ボールがぶつかった目元を片手で押さえながら、もう片方の目でグラウンドから松下の姿を探そうとした。
 校舎の向こう側にある直線コースに、生徒たちの塊が見える。他のクラスの生徒もいる中、松下を探すのは難儀だった。身長が高いから見つけやすいはずだと目を細め、固まりの中にいるだろう松下を探したがいない。片眼しか使えないから、余計に見つけられないのだろうか。押さえている手を取り、両目を使おうかと考えていると麗華が指をさした。
「あ、池田」
 ここからでは距離があり過ぎて、指をさされても直ぐに確認できない。目を凝らすと、はしゃぐような動きをしている人物がいた。池田だ。池田がわかれば、松下は近くにいるはずだ。しかし、更に目を凝らしたけれど見当たらない。
「ねぇ、あそこ」
 次に麗華が指をさしたのは、グラウンドから離れた校舎そばにあるコンクリートが低く段々になっている場所だった。松下が制服の上にダウンを羽織った姿でそこに腰かけていた。どうやら、授業を受けずに見学をしているようだ。
 走らないんだ……。
 ボールがぶつかる前に想像した、キラキラする松下の走りを見ることができないのだとわかりテンションは急激に下がっていった。タイムを計る他の生徒を、松下はただ見つめていた。その目は、何も見ていないみたいに力のないものに感じられた。
「ダウン、いいな」
 麗華が呟く。松下は走らないし、寒さは厳しいしのでベンチを離れることにした。校舎内へ向かいながら背後のグラウンドを振り返ると、暖かそうなダウンを着ていた松下が一番寒そうに見えた。
 保健室へ行くと、藤原先生が私の目を見て驚いた。
「どうしたの⁉」
 保健室の壁に設え付けてある鏡を見たら、殴られたあとみたいに目の周りが青く内出血していた。ボールがぶつかった時に殴られたボクサーを想像したけれど、まさにそんな感じで。まるで試合でKO負けしたボクサーか、殴り合いの喧嘩でもしたみたいだ。パンダほどクッキリとしていないのが救いだ。
「女の子なのに、可哀相」
麗華は、以前の松下と同様に、藤原先生から授業へ戻るように促され保健室をあとにした。
 藤原先生は椅子に座り私と向き合うと、ボールがぶつかったところをまじまじと見たあと、冷たいタオルを用意し目元に当てながら病院へ行くことを勧めた。
藤原先生に言われた通り、病院へ行くため早退することにした。どうせならと、祖母の入院している病院へ行って診てもらうことにする。鞄を抱えて玄関から出ると、グラウンドでは二時間ある体育の授業がまだ続いていたけれど、松下の姿はもうなかった。寒さに負けて、教室へと戻ってしまったのかもしれない。
 病院では診察してもらうまでに、随分と時間がかかった。散々待たされても診察はものの一、二分だった。結果、軽い打撲と言われた。痛みや腫れは、二、三日もすれば引いてくるらしいけれど、青あざは薄いがなかなか消えないそうで、コンシーラーなどの化粧で誤魔化してみることを勧められた。痣を隠すための眼帯もしてくれる。軽く後頭部もぶつけたけれど、検査には時間がかかりそうだから黙っていた。
 祖母のいる階に行き、ナースステーションの前を通ってから手ぶらだということに気がついた。一旦病院を出て花を買おうかと考えたけれど、看護師さんに「今日は早いですね」と声をかけられながら少し驚いたように眼帯を見られたので踵を返し損ねそのまま病室へと向かった。
 静かにノックをして病室に入ると、祖母は眠っていた。静かに中へ進み、丸椅子を出して腰かける。祖母の規則正しい寝息。同じリズムで落ちる点滴。窓の外の薄い青。どれもがシンと静まり返っていた。ベッドわきの小さな棚には、果物の盛り籠が一つ置かれていた。誰かが見舞いに訪れたのだろう。籠に盛られた果物に手はつけられておらず、透明なセロファンが覆われたままになっていた。
 バナナ・りんご・みかん・ぶどう・桃・キウイ・メロン。形よく盛られた果物を眺めていたら祖母が目を覚ました。
「真白。今日は随分とはやいんだね」
 声をかけてから、眼帯に気がつき驚いている。
「どうしたんだい、それ」
 心配する祖母に、体育の授業でのことを掻い摘んで話した。
「それは災難だったねぇ」
 自分のどんくささに笑ってみせる。祖母は、はやく痣が消えるといいねと眼帯の上からそっと触れた。祖母の体調は、術後に比べれば少し良くなっていた。殆どなかったと言っていい食欲も、少しだけ戻り始めていた。
「誰か来たの?」
 盛り籠を見て訊くと、祖母は小さく首肯したけれどそれだけだった。
「家の方は、変わりないかい」
「うん。いつも通り」
「そうかい。それが一番だ」
 変わらず平穏でいられることが、何よりの幸せだと穏やかな表情をした。
「向上心や探求心を持つことは大事だけれど、欲を出し過ぎると大変なことになるからね。人には、見失っちゃいけないものがあるから」
 祖母は、盛り籠を見てから少しの間言葉を止めた。籠の中の果物は、選び抜かれた精鋭たちという顔をして瑞々しさを湛えていた。スーパーで安く売っている果物との違いを見せつけているみたいに精悍さもあった。
「食べる? 何か剥こうか?」
 声をかけると、祖母はクシャリと笑みを作った。
「家に持っていっておくれ。お祖母ちゃんは要らないから、響子さんと一緒に食べたらいいよ」
 気を遣って言ったというよりも、よくなってきていると感じたのは思い違いで、果物を口にすること自体が辛いのかもしれない。祖母の体は、それほどに弱っているのだろう。
「キウイなら、スルッと食べられるんじゃない。真ん中の白いところは、残せばいいよ。それともメロンにする。熟している真ん中の柔らかいところだけでも食べたら?」
 食欲を掻き立てようと丸椅子から立ち上がり、盛り籠の置かれている棚に手を伸ばすと緩く首を横に振った。
「お祖母ちゃんは、もういいんだ」
 静かに制する言葉が辛かった。生きることを諦めてしまったような言い方に聞こえて、胸が張り裂けそうになる。祖母は果物が大好きだった。なのに、要らないなんて……。
「……うん」
 悲しみに声が震えないよう必死に冷静さを装い、再び丸椅子に腰かけた。瑞々しい果物さえ喉を通らないなら、祖母の体はこの先どうなってしまうのだろう。脳内に浮かぶ想像を、振り払い遮断する。考えると辛さに深く息を吐き出しそうになるからだ。祖母の筋張ってしまった細い手首や、腕にささる痛々しい点滴のあとを目にしながら、込み上げる辛さを飲み込んだ。
 背もたれを立てて欲しいと言うので、いつものように手を貸した。傍に置かれた水差しで、少しだけ水を口に含む。カサついた唇がほんの少しだけ湿り気を帯びた。
「真白のお父さんのことだけどね」
 少し間を空けると盛り籠を見る。祖母のしぐさに、まさかこの果物を持って見舞いに訪れたのは父なのではないかと、突然そんな想像が湧き上がった。もしも父なら、祖母の容態がけしていい方へ向いていないということになる。背中がザワリとした。父がここへ来たのか訊ねたい反面、真実を突き付けられることが怖くて口にできない。胸の中に広がっていく暗雲に、盛り籠を持ってきたのが父ではないと願う。
 祖母は、少し息を吐くと昨日話した続きだけれどねと私を見た。
「響子さんが必死になって働かなければならなかったのは、義昭のせいなんだよ」
 父のせいとは、どういうことなのか。言葉にできない黒いものが迫りくるような感覚に襲われる。祖母は背もたれの心地を僅かに整えると、意識して幾度か呼吸をした。その仕種は。いいかい。話すよと意を決しているように見えた。
「真白のお父さんはね、響子さんが仕事でまだ上にいけずにもがいていた頃。本当によく働いていたんだよ。前にも言ったけれど、何においても器用な子だったからね。仕事もとても順調で、昇進もはやかったのさ。けれどね、義昭は間違えてしまったんだよ。間違えたことに気づきながら、あの子は正す勇気を持っていなかったんだ」
 父の間違いがなんなのか。祖母の話す様子から些末なことではないというのはありありとわかった。父がどんな間違いを起こしたのか想像できず。できるだけショックを受けないよう、大きな物体が容赦なくぶつかってきてもいいように体に力を入れて身構えた。
 祖母はため息まじりに、切なげな顔を向けると、父が間違えてしまったことについて訥々と話してくれた。
 父は母と結婚し私が生まれてからも、暫くの間は順風満帆に生きてきた。仕事も順調、家庭も順調。生きていればそれなりに困る些細なことを除いてしまえば、本当に絵に描いたように笑顔の絶えない幸せな生活を家族と送っていたのだという。それがある日、ほんのちょっとの欲を出したがために、家族との繋がりを絶つことになってしまった。
 その頃、父の勤める社内では能力の差から随分と格差が生まれていたという。父は能力のある側だったから、上司にも見込まれ頼りにされていた。その頃近くにいた、父より少し年齢の上だった同じ営業の社員が曲者だった。その人は、所謂能力の足りない社員という枠に入れられる人物だった。営業成績は上がらず、顧客を逃がすことも度々あったという。幾度か上司に呼ばれ、苦言を呈されてもいたらしい。順調に出世の道を歩んでいた父は、その辺りの事情には疎く、目の前にある仕事にだけ邁進していた。だから、近寄ってきたその社員が、お金に困っているなどとは露ほども知らなかった。その社員、仮にTさんとしよう。Tさんは、自らの能力不足で減給された給料を補うために株に手を出して失敗し、高額な借金を抱えていたという。父はその頃、株などというものに興味を抱いたことなどなかったものだから、全くの素人で何もわからず。Tさんの口の巧さに操られ、話にのってしまった。初めは少額だった。Tさんのアドバイスのもと、小さな額から始めた株は少しずつ利益を生み出した。それが癖になってしまったのだろう。次々に黒字を生んでくれる株というものに、どんどんのめり込んでいってしまった。欲に目がくらんだ父の状況を狙いすましていたかのように、ある日Tさんは今よりももっと儲けられる株があると言い出した。しかしその株は特殊なもので、一旦自分にお金を預けてもらい、とある証券会社を通して行うものだと説明した。人は欲に目がくらんでいると、正常な判断を失うものなのだろう。優秀なはずの父が、自分よりもずっと能力の劣るはずのTさんの口車に乗せられて、まんまと大金を渡してしまったのだから。それは、本当に大きなお金だった。鈴内家にあった貯金額総てを渡してしまったのだから。祖母も母も、父が大金を持ち出したことに気がつくことはなかった。父を信頼していたからだ。父はTさんにお金を持ち逃げされただけでなく、少し前に紹介された株も大暴落してしまったために膨大な借金を背負うことになってしまった。生活に困ることなく暮らしていける余裕のあった鈴内家は、あっという間に没落した。父は、この事実にショックを受けた。今まで挫折など経験したことがない父は、当然人にも恵まれてきた。誰かに貶められるという経験などしてこなかったのだ。借金を背負ったこと。人に騙されてしまったこと。その二つが、父の生きざまを狂わせた。あれほど仕事のできる人間だったはずの父は、あまりのショックにまともに会社勤めができなくなってしまった。仕事のできなくなってしまった父は、能力を買われていたというのに、Tさんと同じ立場まで落ちてしまった。上からは、自主退職するよう勧められてしまうほどにだ。その時、再び株で借金を帳消しにしようという考えが働いてしまい、退職金全てをつぎ込んだ。しかし、当然の如く。結果は火に油を注ぐことになり、益々立ち行かなくなる。一度金に狂わされてしまうと、藁をも縋る思いで大博打に出てしまうものなのかもしれない。結局、株で再び大損をし、完済できるどころか借金の額を増やすだけになってしまった。膨れ上がった金額に頭を抱えた父は、とうとう全てを投げ出してしまった。必死になってTさんを探し出し、一生懸命に働いて借金を返すことよりも。目の前の現実をすべて捨てて、逃げ出すことを選んでしまった。それが、私が小学四年生だったあの時だという。
 母も祖母も途方に暮れた。当然だろう。突然多額の借金を背負わされた上に、とうの父は逃げ出して行方が知れなくなってしまったのだから。しばらく父がどこにいるのかわからなかったという。捜索願は出したものの見つかることはなく。母と祖母は、小学生の私を抱えて腹をくくった。こういう時、女性というものは強い。祖母は、なけなしのお金をかき集めて弁護士に相談し。母は、暮らしを立て直すためにスキルアップをし、昼夜問わず働き続けた。働いて働いて、寝る間も惜しんで稼いだ。母が仕事にばかり邁進していたのは、したくてそうしていたわけではなかった。父の借金を返済するために、せざるを得なかったのだ。私たちを養うために、仕事をし続けるしかなかったのだ。
 母は、どんな思いで働き続けてきたのだろう。父を恨み、自棄になることはなかったのだろうか。父と同じように、私や祖母を置いて、逃げ出したい気持ちにはならなかったのだろうか。いや、きっと何度もくじけそうになったはずだ。誠実に生きてきたはずの人生を、突然狂わされてしまったのだ。恨まないはずなどない。悔しくて、苦しくて、何度も涙だって流しただろう。子供と触れ合う時間さえもなく、ただ馬車馬の如くお金を稼ぐしかなかった母の気持ちを考えると、悲しくて悔しくて、怒りに体中の血が沸騰してくる。
 弁護士の力と母が仕事を頑張ってくれたおかげで、鈴内家の平穏は少しずつ回復していった。弁護士は、少し時間はかかったもののTさんを見つけ出し、父がTさんから損害を負ったものを回収してくれた。しかし、全額というわけにはもちろんいかず、借金は減ったものの、貯金といえるものはゼロのままだった。それを補うために、母は働いて、働いて、必死になって私たちを守ってきてくれた。
 祖母がよく「響子さんのおかげです」と頭を下げていた理由が呑み込めた。あれは、父がしでかし、放置してしまったことに対する祖母からの謝罪だったのだ。深く感謝をこめた言葉を、祖母はどんな気持ちで母に伝えていたのだろう。それを受け取る母は、どんな思いでいたのだろう。私には考えも及ばない感情が、二人の間で行き交いしていたに違いない。
 一年のうちに、祖母が何度も九州へ行っていたのは、父をこの家に呼び戻すためだったという。九州にいることを弁護士から聞き、母と相談してこの家に連れ戻そうと、祖母は父が一人で住む小さなアパートを幾度も訪ねた。しかし、いくら説得に行っても父は頑なに戻るとは言わなかった。それはどうしてなのか。幼い私を残し、逃げ出してしまったことへの罪悪感からなのか。犯してきた過ちへの羞恥からなのか。家族と関わらず、責任などない一人の生活を気楽に過ごすためだったのか……。
向こうでの父の生活費は、母が稼いだものから出ていたという。母からそうして欲しいと祖母にお願いしていたというが、私にしてみれば両者ともに甘いの一言だ。母は、どうして自分を捨てたパートナーに情けをかける必要などあったのか。責任も取らず逃げ出しておきながら、どうして父は母から金を貪るなんて酷いことができたのか。それまで自分が稼いで家族を支えてきたのだから、この先は母の稼いだものを自分がどう使おうと自由だとでも思っているのだろうか。
 もしかしたら、母は願っていたのかもしれない。元のような父に戻って欲しくて、生活費と一緒に願いを託していたのかもしれない。小さな希望の光を消したくなかったのかもしれない。毅然として凛々しく真っすぐな母の、か弱い部分だったのかもしれない。
 祖母は、母が用意した金を父へと渡す時、どんな気持ちでいたのだう。声を荒げることなどしない祖母でも、不甲斐ない父の生きざまに大きな声を出しただろうか。涙ながらに説得したのだろうか。弱いところを見せない祖母のそんな姿を想像すれば、胸の中は憤りと悲しみと悔しさが湧き上がり堪らなくなる。
 逃げ出してしまった父は、今も家に戻ってこない。自分のしてしまったことで帰り難いからなのかもしれないけれど、戻ってくるべきだ。祖母と母に大変なことを背負わせたことを、戻って謝罪するべきなんだ。辛くても苦しくても必死になって、なりふり構わず前に進むべきだったんだ。
 今まで父が平気な顔でメッセージを送ってきていたことに、私の怒りは沸点を越える。どうして遊びに来ないかなんて気楽なことが言えたのか。母が母としての役目もできないほどに忙しく働き詰めだった事実を知らないはずはない。どうして立ち向かう勇気を持ってくれなかったんだ。私たち三人のために、何とかしようとは考えなかったのだろうか。
 父の不甲斐なさが情けないのか。私たち家族よりも、自分を大事にしたことが悲しいのか。平気なふりをして連絡してきたことに怒りを覚えているのか。もう何が何だかわからないほどに感情は攪拌され、豪雨の嵐の中にいた。悔しくて、悔しくて。祖母と母が堪え続けてきた苦労を思うと涙が滲んできた。
 気がつけば、制服のスカートをきつく握りしめていた。拳は震え、白くなっている。目の前では祖母が、静かに涙を流していた。私の眼帯も湿っていった。