期末テスト当日。松下の姿は教室にあった。池田が笑っていた。麗華が松下を見つけて駆け寄った。
「松下っ。久しぶりじゃん。どうしてたのよっ」
 麗華が明るく声をかけた。
「ちょっと引きこもってた」
 冗談めかして話す松下に、麗華がケタケタと笑う。
「期末テストがあることを思い出して、部屋から出てきたらしいぞ」
 池田も茶化す。
「気づくの、おそっ」
 麗華が突っ込みを入れて笑うと、池田は本当に嬉しいというように声高く笑ってはしゃいでいた。
「おはよう。松下」
「はよ、鈴内」
 二人みたいに嬉しさを表すことが照れくさくて、静かに言葉をかけた。やっと顔を見られたことに安堵し、ほっとした顔を向ける。
「心配したよ」
 素直な感情だった。祖母のこともあり、私の心は弱っている。そこへきて松下が登校しなくなるなんて、不安にならないはずがない。
「鈴内と走る約束したからな」
 そのために学校へ来たというように、松下が微笑む。担任の沢山が教室に来て朝礼が始まった。出席確認で名前を呼ばれた池田は、久しぶりに覇気のある返事をしていた。その後机に伏せることもなく、どれほど嬉しいかが伝わってきた。
 期末テストの最中に、祖母の手術は行われた。テストに集中しなさいという祖母からの激励に期間中は見舞いを休んだ。代わりに母が、仕事終わりの遅い時間にこっそりと病室を訪れているようだった。きっと、できる女然とした何食わぬ顔をして、面会時間外にナースステーションの前を通り過ぎているだろう母の様子を思うと、少しだけ笑みが浮かんだ。
 期末テストは、可もなく不可もなくの結果だった。松下は、本当に引きこもって勉強をしていたのかもしれないというように五本の指に名を連ね。元々成績の悪くない麗華も、いつもと同じように上位にいた。驚いたのは、意外にも池田の順位が上だったことだ。四人で教材室に集まる以前は、池田という存在を気にしていたわけではなかったから。池田が上位に食い込むほど勉強ができるとは知らなかった。学年で十二位という成績は、麗華よりも二つ上だった。
「池田って、頭よかったんだね」
 麗華がまじまじとした顔を本人に向かってすると、池田はただ笑っていた。頭がいいことをひけらかさないのは池田の人柄だろう。
 私は一人納得のいかない顔をする。三人が三人とも賢いなど、聞いていない。こんなに頭のいい人たちが集まっているのなら、三人から勉強を教わって、上位というキラキラしたところに名を連ねたかった。
「私だけ、中も中。フツーの成績」
 悔し気に頬を膨らませると、松下は可笑しそうにしている。
「普通でもいいじゃん。後ろから自分の名前探してるやつもいるんだし」
 池田が首を巡らせ促した。張り出された順位表の最後尾で、木下がおかしいなぁと腕を組んで首を傾げていた。こんな場所に自分の名前があるはずなどないのにと、張り紙の端の方でぼやいている。木下の姿に、私と松下は小さく笑みを漏らした。

 術後、祖母の体調は思わしくなかった。あんなに溌剌として、ハキハキと話していた祖母の声はあきらかに力を失っていた。呼吸がしにくいのか、言葉を発する時に辛そうにしている。それが術後すぐのせいなのか、今後もずっとそうなのか判断がつかなかった。
 その日見舞いに買っていった花は、スイートピーだった。ひらひらとフレアスカートみたいに柔らかく桃色を広げていて、春を待ち遠しくさせるような花だった。一輪挿しに活けてから、窓の外に視線を向ける。桜の木はまだまだ寒そうに枝を広げていた。ベッドで静かに呼吸を繰り返す祖母の点滴に繋がれた腕は、入院時よりも細くなっている気がした。手術前にはテンポよく弾んでいた会話も、今は静かに語らうようになっている。
「ご飯、ちゃんと作って食べているかい」
 変わらないのは、いつだって自分のことよりも私のことを気遣うところだ。
「うん。昨日は、筑前煮を作ってみた」
「それは頑張ったねぇ。真白の筑前煮、食べたいねぇ」
 祖母の食事はおかゆと、消化にいいほんの少しのおかず。それと点滴だ。そのおかゆも、残してしまう時があるらしい。規則的に落ちる点滴と祖母を交互に見て、ベッドの影で手をきつく握る。覚悟をしなければいけない気がして手を握る。強く強く握って、爪が食い込んでも。覚悟ができる気がしなくて胸が苦しくなる。
その日から祖母は、毎日少しずつ母と父のことを語るようになった。
「真白のお父さんの義昭は、お祖母ちゃんが言うのもなんだけど。昔からエリートでね。よくできた子だったよ」
 父のことを話しながら、愛しそうに笑みを浮かべる。
「勉強が得意で、スポーツもそれなりにできたから、学生の頃は女性から人気もあったのさ。あの子は、失敗なんて言葉を知らずにきたんだよ……」
「へぇ。お父さん、モテたんだね」
 父の若い頃の話は、何も知らない。私が知っている父は、小学校四年生までだし。それだって、年を追うごとに記憶は鮮明さを欠き、写真に残る姿だけが焼き付いていた。幼い頃の記憶はもちろんないから、私が生まれた時、父がどんな風に接していたのかも知らない。これだけ長い期間父親というものに会わずにいると、その存在はまるで他人ごとのようで、誰か別の人の話を聞かされているような気持ちになった。初めて聞く父の話を、遠い親戚のおじさんのことのような感覚で耳を傾ける。
「大学も一度で受かったし。就職だって、いいところに入ることができた。入社一年目から、本社勤務でね。英語や中国語。それにフランス語もできたものだから、海外赴任をしていた時期もあるんだよ」
「海外?」
 父が海外でバリバリと働いていたなんて驚きだ。母がそうだというなら簡単に想像はできるけれど。父が海外で働く姿は、上手く想像できない。
「自慢の息子だったのさ……」
 祖母は小さく息を吐いた。誇らしげに話していたはずなのに、悲し気に表情を曇らせる。会話が止まると、首を横に向け窓の外を見る。葉のない木々。薄い色をした空。枯れ気味の芝生。景色は、くすんだ色ばかりを纏っている。病院の窓という場所から見える光景がこれでは、治るもの治らない。そんな後ろ向きになるような気持ちにさせる。少しの間眺めてから、祖母は再び室内に目を戻し私を見た。
「七転び八起き」
 祖母が言う。
「人は、失敗して学ぶことが力になる。その時は辛いし苦しいけれど、それを乗り越えた時に、今までにない力を発揮できるようになるものなんだよ。響子さんは、そのタイプだね」
 話しは、母のことに変わっていた。
「お母さんと失敗って結びつかないけど」
 母が何かに躓き、落ち込む姿を私は知らない。いつだって胸を張り、自信に満ちていて、仕事のできる完璧な人だと思っていたからだ。
「響子さんはね、とても頑張り屋なんだよ。今はああやって仕事に邁進して、エリートなんて呼ばれるようになったけれど。それまでの道程は、本当に過酷で大変なものだったのさ。女はね、真白。いくら世の中が平等になったと言ったって、甘く見てはもらえないんだよ。いつだって、男と比べられて。何か少しでも失敗をすれば、これだから女はダメだと言われてしまう。同じ失敗をしても、男と女では責任の負わされ方も違うんだよ。だから真白のお母さんは、何度も何度も悔しい思いをしてきた。けどね、響子さんの凄いところは、けして諦めないところなんだ。必死にくらいついて、涙も悔しさも飲み込んで、前に進み続けた。そこまでしてでも、頑張り続けなくてはならなかったんだよ……」
 尻すぼみになった会話の続きはなく、少し疲れてしまったと、祖母は話しをやめてしまった。
花瓶に飾られた、ひらひらと踊るような花びらのスイートピーが、この病室には不釣り合いに思えた。祖母の話の先にあるものが、けしていいものではないだろう気がしたからだ。
少し眠りたいと、祖母が目を閉じる。また来るねと声をかけて病室をあとにした。外に出ると夕方の風は冷たくて、一瞬で体温を奪っていくようだった。

 試験日に登校してきた松下は、それが済むとまた遅刻してくるようになった。松下が遅刻する原因を、担任はもちろんのこと。本人も説明することはなかった。出席確認の時に、一応というように沢山は松下の名前を呼ぶだけだ。池田も何も話さず。松下が来ない朝は、机に伏せてしまい声もかけにくい。知らないところで、何か言葉にできないもどかしい現実が、松下という人間をからめとろうとしている気がしていた。麗華も、説明のできないキリキリとした空気に、理由を訊ねることができずにいた。
 松下がいない教室は、酸素が薄すぎる。池田が机に伏せているのは、息苦しさを感じているせいなのかもしれない。息苦しいまま二時間目や三時間目が過ぎ、松下の席が彼の大きな背中で埋まると呼吸は楽になる。松下がいることで、この教室は生きるための酸素を満たしてくれていた。

 今日も祖母の病室を訪れていた。制服姿のまま毎日のようにナースステーションの前を通り過ぎる私に、看護師さんが笑みをくれる。会釈をして廊下を進み、静かにノックをして病室に入る。さっきまで眠っていたのか、祖母はぼんやりとした視線を私に向けたあとに、真白と名前を呼んだ。ベッドの背もたれを立てて欲しいと言われリクライニングボタンを操作し、体を支えるために枕を背中に置いた。一輪挿しには、フリージアを活けた。スッとしている黄色い花は、母を連想させる。凛としていて、少し病室が明るくなった気がした。
 祖母は、今日も静かに父と母の話を聞かせてくれた。
「お父さんに、連絡はしているのかい?」
 祖母に訊ねられて、首を振った。
「お母さんが連絡しているみたいだし。お父さんと、……何を話していいかわからないから」
 説明する中で「特に今は」という言葉を飲み込んだ。普段から頻繁に話をしているわけではないけれど、今父に祖母のことで何か訊かれたとしても上手く返せる自信がない。祖母が入院したこと、手術をしたこと。あんなにシャキッとしていた祖母の姿を今はみられないこと。それらを話すのは苦しくて辛い。何より、父にとって母親である祖母の弱っていく病状など、娘から聞きたくないだろう。
きっと、母がうまく説明してくれている。うまくというのがどんな風なのかわからないけれど。父は、まだこの病室を訪れていないようだし、母から祖母のことを聞き、そうしなくてもいいと判断してのことだろう。その時が来たら、いくら仕事が忙しいからと家を離れ続けている父だって、きっと帰ってくるに違いない。その時、というのがどんな時なのか、考えるのはとても怖いから、できればこのまま父がここに現れることがないようにと願う。
「どのくらい、話していないんだい?」
「夏休みに入った時に連絡して以来かな……」
 連絡していないことを咎めるような言い方ではないけれど、ずっと話していないことが罪悪感を煽る。いつもなら微塵も考えたりしないのに、祖母の静かに話すさまに、良心の呵責というものが取り囲むように迫ってきた。
 親子なのにどうしてそう希薄でいられるんだ、と心の中にいるもう一人の自分が責め立てる。祖母と父のように、どんなに離れていても会いに行くくらいの絆はないのかと詰め寄ってくる。
無言のまま、私はそれらから目を逸らした。
 祖母は、窓の外へ視線を向けた。病院の中庭は、今日もぼんやりとした、はっきりとしない色を保っていた。
「真白がお父さんと会わなくなって、どのくらいになるかね」
 昔のことを思い出すように、祖母が目を細めて考える。
「四年生の時から、ずっとだよ」
「あぁ。そんなになるのかね。……寂しくはないかい」
 祖母に訊ねられて即答できなかった。確かに、今は父がいない家族の形に慣れている。けれど、いなくなった当初はどうだったろう。小学校の中学年という時期に、父親が家を離れ単身赴任してしまうなんて、普通に考えれば寂しいはずだ。どうして離れて暮らさなければならないかなんて、理解しようもなかっただろう。仕事なのだから仕方ないと言われても、家族の生活を脅かす権利があるのかわからない。
 祖母に問われたことで、過去を振り返った。父が家を出て、家族と離れて暮らすと言われた日からの出来事を思い浮かべる。
 考えないようにしていたわけではない。けれど、その頃のことを私はよく覚えていなかったし、思い出すこともなかった。祖母が目一杯私を愛してくれていたから、父の思い出に頼る必要がなかったんだ。満たされていた。けれど改めて訊ねられ、記憶の糸を手繰るようにあの頃のことを思い出す。
 ぼんやりとした当時の出来事。祖母と母と父、そして私。家族の笑顔が涙に変わったあの日……。そう。あの時祖母に宥められ、母の困った顔に泣きつき、どうして父と離れなくてはならないのかと、我儘ばかりを言っていたじゃないか。父がいたあの頃まで、私たち家族は、四人で食卓を囲み、会話をしながら食事をしていたのだ。ずっと忘れていた。幼い頃から祖母と二人だけで食事をし続けてきたと思い込んでいた。父がいて、母がいて、祖母がいて、私がいる。その形が突然崩れてしまったことに不安を覚え、自らの記憶を書き換えてしまったのだろうか。
 父がいなくなった翌日から、母とは一緒に食事をすることが減っていった。祖母のことは好きだったけれど、突然二人きりになった食卓が寂しすぎて、私は泣いてばかりいた。けれど、祖母を困らせるほどに涙を流しても父は戻ってこなかったし。遅い時間に帰ってくる母は疲れ切ってしまっていたのか、一緒に食事を共にすることはなかった。いつしか祖母と二人だけの食事が日常となり、涙を流すこともなくなった。今目の前にあるこの形が自然なのだと、受け入れ過ごしてきた。防衛本能だったのかもしれない。泣き崩れ、心を壊してしまわないために、自ら作り出した記憶の操作。バリアを張ることで幼い自分を守っていた。
「真白には、ずっと謝らなければいけないと思っていたんだよ」
「どうして?」
 確かに父のことで寂しい思いはしてきたけれど、祖母が謝るのは違う。
「響子さんにもね、とても苦労を掛けてしまったしね」
 祖母は息を吐き、再び窓の外へ視線を向けた。薄い色を纏う景色の中に答えでもあるのか、何かを探すようにじっと眺めている。それはまるで、以前松下が教室の窓から校庭の向こうを眺めていた目と似ていた。あの時私は、松下が探しているものへ近づきたいと思っていた。必死に何かを探すその目の中に映り込み、松下が探すものを知りたいと思っていた。
 祖母の瞳は、今同じ色をしている。祖母は、何に近づこうと手を伸ばしているのだろうか。何を探し求めているのだろうか。
「お父さんとの思い出は、あるかい」
 不意に訊ねる祖母を見て、記憶の中にある蓋をしてきた父との思い出を引っ張り出した。誕生日のケーキに立てた蝋燭を一緒に吹き消したこと。近所の公園のブランコに乗り、何度も背中を押してもらったこと。運動会の親子リレーで一緒に走ったこと。野球に興味のない私に、野球中継を見ながら熱くなってルールの説明をしていたこと。母と三人で、夏の海へ行ったこと。
 父と離れてから、共に積み重ねてきた思い出を、いつの間にか記憶の奥底にしまい込んでいた。あのダイニングで悲しみと寂しさを感じ続ける辛さに、思い出をしまい込むことで生きていけるようにしていた。父が傍にいなくても、辛いなんて泣くことのないように、思い出は存在していないのだと閉じ込めてしまっていた。
 父との記憶が一つずつ蘇るたびに、涙腺は緩み。喉はキュッと締まり、声が震えた。沢山あった笑顔の数だけ、涙が零れ落ちていく。
「お祖母ちゃん。思い出、いっぱいあったよ。私、お父さんとの思い出、たくさんあった……」
 涙で言葉を続けることができない。
「おいで、真白」
 祖母は点滴のチューブが繋がるやつれた手で私を抱き寄せる。寂しい時も、辛い時も。嬉しい時も、楽しい時も。何度もそうしてきてくれたように、祖母が私を抱き背中を優しく撫でてくれる。
「ごめんね、真白。真白にこんな思いをさせて。お祖母ちゃんも、お父さんも、謝っても謝り切れないよ」
 祖母の声が少し震えている。きっと同じように悲しい顔をしているのだろう。祖母の胸の中で首を横に振る。謝り切れないなんて、そんなことないと首を振る。どんなに寂しくても、祖母は何時だって傍にいてくれたのだから。
 父との思い出を振り返った日。病院から戻ったあと、自室にあるクローゼットの奥底から一冊のアルバムを取り出した。それは、父がこの家に戻らなくなってから隠してしまったものだった。コートやスカートや制服のずっと奥の、他の収納ボックスの更に下の奥底に、私は思い出を閉じ込めた。些細な瞬間に目にしてしまわないように、しまい込んでいた。ページを捲った先で、まだ若い父は私の頬に自分の頬を寄せ、とても優しくて穏やかな笑みを見せていた。