祖母が入院した翌日。いつも通りに学校へ行った。簡単だけれど、お弁当も自分で作った。母も祖母を病院へ送り届けたあとは、普段通りに仕事へと出かけて行った。以前、入院すると告げられた時の母と祖母の様子と同じだった。いつもの日常を過ごすことで、この先鈴内家を覆いつくしていくかもしれない黒いものを遠ざける手段に思えた。
変わらぬ日常なのだと言い聞かせて過ごす鈴内家のことなど、気にも留めないというように。家の中にある鬱々とするような影が濃くなっても、周囲には何の変化もなかった。空は青いし、冬を前にした風は冷たくなり始めていた。すれ違う小学生は元気だし、電車もバスも変わりなく運行している。祖母が病気になっても、世界が変わることなどない。どんなに心が不安にグラグラと揺れても、悲しい気持ちになっていても。世界は素知らぬ顔で変わらずそこにあった。普段ニュースで観ている、よその国の悲しい出来事と同じだった。誰かがどこかで、どんなにつらい目にあっていても、目の前にある自分に関わる生活の中で人は生きていくしかない。解っていたけれど、大好きな祖母のことを世界から見放されたような気持ちになって、悲しくて悔しくてたまらなくなる。神に祈ったことなどないのに、祈らずにいられない気持ちを初めて理解した。
 どうか祖母を元気にしてください。またこの家で、一緒に暮らせるようにしてください。毎日のように願い祈った。
 期末試験が控えているというのに、授業は上の空だった。沼田の授業に関してはいつものことだけれど。それ以外も、ただ機械的に板書をしているだけで、頭の中には何一つ入ってこない。
「行こう」
 昼休み。いつも通りに誘う麗華に、教材室へ向かう道すがら祖母のことを打ち明けた。
「今度は、長くなるかもしれない……」
 口にしただけで、喉がキュッと締まり目に涙がにじむ。お弁当の収まる保冷バッグの取っ手をきつく握り、誰にぶつければいいのか解らない憤りに肩が震える。麗華は私を引き寄せ抱き締めた。世界は見放しても、麗華は傍にいてくれる。そういう友達がいる。その事が誇らしく嬉しかった。
 祖母のことを松下と池田には、まだ言えずにいた。昼休みの楽しい時間を湿っぽくしたくないし、いつもの自分でいたかった。旅行へ行く話で盛り上がる池田。はしゃいで話す池田に相槌を打ちつつ、あっという間にお弁当を食べ終える松下。私の気持ちを察し、同じように普段通りに接してくれる麗華。
 高校生になって、何が一番よかったって。この三人と、こうしていられることだ。この時間は、私の宝物だ。三人が笑っているこの場所に居られたら、世界から見放されたことなんて些末に感じることができる気がした。きっとこの三人だけは見放したりしない。
 祖母が入院して数日間は、病院の夕食時に合わせて見舞いに訪れていた。一度家に帰り、自分の夕食を弁当箱に詰めて見舞いに行っていた。一人の食事はきっと寂しいだろうと思ったからだ。私も、ダイニングで食べる一人きりの食事は同じように寂しい。場所が違っても、祖母と食事をしたかった。数日して、食事時だけじゃなく、もっと長い時間を一緒に過ごしたいと思うようになった。
 放課後。教材室へ向かう麗華と廊下に出る。今日から放課後に教材室へ行くのはやめることにした。授業が済んだら、直ぐに見舞いへ行くと決めた。麗華が階段傍まで見送ってくれる。麗華が私の手をしっかりと握った。
「いっぱい話してきな。たくさんたくさん、いろんな話をしてきな。どんな些細なつまらないことでもいいから、お祖母ちゃんと話してきな」
 いつか、あんなこともこんなことも聞いておけばよかった。そう思う数が少なくて済むようにと。
麗華は、私なんかよりもずっと大人で頼りになる。
頷きながら麗華に目一杯の笑顔を向けた。目尻にたまり始めた雫を拭い階段を下り始めると、少し遅れて教室から出てきた松下と池田に声をかけられた。
「あれ。教材室いかねぇの?」
 池田が弾むようにして近づいてきて訊ねる。
「ごめん。私、しばらく放課後はいけない」
 一度目を伏せると、少しの沈黙ののち、池田の後ろにいる松下が口を開いた。
「毎日顔見せると、喜ぶと思う」
 松下は、図書館で話した時のような表情で私を見る。何の説明もしないのに、松下には全部わかってしまうみたいだ。
「うん」
 隣に立つ池田は、松下の言葉と表情から何かを察したように、わざとらしいほどの笑顔を浮かべた。
「鈴内、口角上げてけよ」
 ニッと見本のように口の両端を上げる。池田の無邪気でいて、気遣いのできるところに元気を貰った。
「ありがと」
 三人に見送られて、祖母の入院する病院へ向かった。途中、可愛らしいガーベラを一輪買った。道標のように少しだけ首を曲げた花を胸に抱き、白く無機質な建物に踏み込む。
 以前は六人部屋だった病室だけれど、今回は個室だった。ノックをして中に入ると、祖母はベッドの背もたれを立てて本を読んでいた。
「おや。今日は早いんだね。学校は終わったのかい?」
 祖母はかけていた眼鏡をはずし、本を閉じた。
「うん」
 丸椅子を引き寄せて、ベッドの傍に腰かける。
「やっぱり、個室なんて贅沢じゃないかね」
 遠慮する祖母だけれど、母も自分にできることをしたいのだ。
「ガーベラ買ってきた」
「可愛らしいね」
個室には、ある程度のものが揃っていた。シャワーに洗面所。小さいけれど冷蔵庫とロッカーもある。他の患者がいない分賑やかさはないけれど、変に気を遣う必要がなくて私はホッとしていた。祖母にしてみれば、話し相手がいないのは寂しいかもしれないけれど。
「お昼、何食べたの?」
「和食だよ。うどんに大根の煮物。つみれもあったね。どれも薄味で、柔らかくて消化に良さそうだったよ」
 こんな食事が続くのかと思うと、味気ないねと祖母は笑いながら、検査や治療もあるし仕方ないよねと寂しそうな顔をした。
 祖母は検査があると話したきり、病気について触れることはなかった。首を横に向け、窓から桜の木が見えると教えてくれる。私も視線を外に向けた。緑の芝生の上に、ところどころベンチがあり。いくつかの木が植えてあった。どれが何の木なのかよく分からなかったけれど、桜の木だけは理解できた。祖母の病室からは、横並びに植えられているのが見える。
「暖かくなって花が咲いたら、その下でお茶でもしたいねぇ」
窓の外を見ながら、祖母が目を細める。
 花が咲くまでには、まだ四ヶ月ほどもある。そんなに先まで、祖母はここに居ることになるのだろうか。この敷地から出ることもできず、過ごすことになるのだろうか。考えただけで、胸の辺りが苦しくなっていく。
「花見の時。私、お弁当作ろうかな」
 敢えてこの場所でという言葉を避けた。小さく囲われた病院の桜じゃなくて、もっと広くてたくさん咲くところで花見をするんだ。病気のことなんて気にもせずに、祖母の食べたいものを食べたいだけ口にしてもらうんだ。ずっと先の約束を少しでも明るいものにようと、池田が言った通り口の端を意識的に上げて笑みを作る。
「おや。本当かい。真白の料理を食べられるなんて、そんな幸せなことはないよ。ああ、楽しみだ」
祖母は嬉しそう笑った。再び窓の先に視線をやると、こうして寝てばかりいると身体がなまるから、散歩に出てもいいか看護師さんに訊いてみると話していた。
 許可が下りたら、祖母の散歩に付き合おう。これからもっともっと寒くなるから、家から厚手の上着を持ってこなくては。手袋も必要だし、祖母が気に入ってしているマフラーもだ。カイロも買おう。太陽の光を浴びて、外の空気を吸ったら、きっとすぐに元気になる。きっとそうなる。
しばらくすると勉強もあるだろうからと帰るよう促された。折角長くいられると思っていたから少し残念だったけれど、無理強いすると祖母に気を遣わせてしまうだろうと従うことにした。
 祖母が入院してから、母はいつにもまして忙しそうにしていた。仕事はもちろんのこと、この家。主に私のことを気にかけるようになっていたからだ。今まで祖母に任せていた母親という役割を、今ここでしなければいけないという使命に駆られているようだった。学校のこと、食事のこと、友達のこと。必要な筆記用具のことまで細かに訊ねる母の様子は、今まで経験したことのないもので戸惑いがあった。
「必要な文具があったら言ってね。学校から何かお手紙は来てない? 期末テストも近いのよね。何か必要なテキストがあったら言ってね。あ、今日は何が食べたい?」
 居間のテーブルにノートパソコンや書類を広げたままキッチンに立つ母に言われても、無邪気に応えられるはずもない。祖母が入院したのを機に、仕事が楽になるなんてことはないし。寧ろ、私のことを気にかける分、思考が分散されて集中できず余計に手間取っているような気さえしていた。
「大丈夫。スーパーに寄ってきたし。私が作るから」
 すまなそうに苦い顔を見せる母と交代しキッチンに立った。
 祖母はいつかこういう日が来るだろうことを考えて、私にあれこれと家のことを教えてきたのかもしれない。順番から言えば、祖母が最初にこの家からいなくなるのは当然の原理だ。突発的な事故や病気が降りかからない限り、私や母が祖母より先に去ることなどないのだから。祖母は、先を見据え。いつ何時何があっても、私や母がどうやって生きていけばいいのかと悩み迷うことのないように、日々着々と準備を整えてきたのだろう。そう考えると泣けてきた。
 祖母がいない食事は、とても寂しいものだった。以前入院した時にも同じことを感じたけれど。今度の入院は長く続くだろうし。もしかしたら、このままずっと二人だけになる可能性だってある。縁起でもないけれど、私には覚悟が必要だった。そうじゃないと、きっと耐えられない。
 いつもは一緒に食事をすることの少ない母と、珍しく向かい合わせで静かな夕食を共にした。
「幸代さんのところで。ロールパンでも買えばよかったかな」
 付け合わせの食パンは、市販のもので味気ない。ぽつりと呟いた言葉に、母も静かに「そうね」と応える。時折、カチャリと鳴る食器の音が、ダイニングでやけに響いた。二人分だけでいいはずのクリームシチューは、優に三人分はあって。鍋に残る作り過ぎたシチューを見ながら胸が苦しくなる。こんな思いをあと何日続けていけばいいのだろう。この先待ち受ける孤独がとても重苦しいものに思えて堪らなくなっていた。
 数日見舞いを続けていく中で、祖母の手術が決まった。病院からの詳しい説明については、母が総て医師から聞いていて私には詳しく教えてはくれなかった。
「お祖母ちゃんの手術、大丈夫だよね?」
 不安になって訊ねても、母は「心配ないわ」と言うばかりだった。
「真白は、お祖母ちゃんの話を聞いてあげて。真白と話せば、お祖母ちゃんの気も紛れるだろうし。嬉しいと思うから」
 解っている。麗華にも言われていたし、毎日見舞うことは少しも苦じゃない。そもそも、祖母が話し相手になって欲しいと思っている以上に、私の方がずっとそう感じているのだ。
 今まで、家に帰ればいつもいてくれた祖母がいないというのは、ほんの些細な出来事を話す相手がいないということだった。バス停がやたら混んでいたことも。テストの山が外れたことも。購買の自販機に新しい飲み物が加わったことも。近所のチロのことも。体育の竹内の鬼のような態度も。沼田の眠くなる授業のことも。
 母は仕事から帰ればいるけれど。家の中でも眉間にしわを寄せ、パソコンを睨み電話対応をしている姿に向かって、近所のおばちゃんがするような茶飲み話を聞かせるわけにもいかない。母の貴重な時間を、奪うわけにはいかない。他愛のない話を、嫌な顔一つせず。いつも変りなく耳を傾け聞いてくれた祖母がいないということは、孤独を感じさせるには充分すぎた。
 祖母の手術について知らされないのは、とても不安だった。反面、現実からほんの少しでも目を逸らすことができるというのも事実だった。もしかしたら、とても難しい手術なのかも知れないし。術後、今までのような暮らしに戻れるのかもわからない。それを詳しく聞いてしまったら、毎日見舞いに行く中で、池田から言われたように口角を上げ続けることができるかわからない。松下に言われたように、弱っていく祖母の顔を見ることが辛くて、毎日見舞うことさえできなくなるかもしれない。麗華や母が言うように、祖母と楽しく会話をすることができなくなるかもしれない。だから手術の話を濁されても、詳しく訊きだそうという勇気は芽生えなかった。私には、まだ覚悟ができていない。
 手術が決まってから、祖母は食べ物を口にできなくなった。点滴から栄養を摂り、胃を空にするらしい。これは看護師さんが話しているのを聞いて知ったことだ。
「簡単には、済ませられないらしくてねぇ。厄介なことだよ」
 おどけて肩を竦める祖母が笑みを作る。ドラマで見たことのある、内視鏡手術というのなら、きっと簡単に終わったことだろう。けれど、そうではなく、お腹を切るということだ。麻酔をかけ眠りにつき、祖母のお腹は鋭い小さなメスで切り開かれるということだ。想像しただけで背筋が寒くなり肩に力が入った。
「鈴内さん。お腹空きますけど、少しの間我慢してくださいね」
 点滴を確認しながら話す看護師さんが、手術前後について簡単に説明しようとしてくれたのだけれど祖母がその会話を遮る。
「すまないが、その話は少し後でもいいかい?」
 孫が帰った後にしておくれ。そう言うように目配せする祖母の気持ちを察して、看護師さんが一礼をして病室を出ていった。
 私を気遣ってそうしているのか。それとも、自分自身が触れて欲しくないと考えているのかはわからない。どちらにしろ、私のいる前で病気の話をしたくないというのなら祖母の気持ちを汲みたい。
 手術が終わったら源太さんのところの大福が食べたいねぇと、祖母がにこやかに頬を緩める。
「源太さんのところ、鶯餅が美味しいよね。私はあれが好き」
「そうだったね。響子さんは、どら焼き。しかも栗の入ったやつ」
 祖母は、クスクスと肩を揺らす。鈴内家のダイニングで緑茶を淹れ、三人で和菓子を食べている光景を思い描いているのだろう。今まで何度も見てきた祖母の幸せそうな表情に、私の頬も自然と緩む。
 三人で他愛のない話をして、美味しい和菓子を食べて。不安に心をグラつかせることのない穏やかな日常。早くそんな日が来て欲しい。
桜が咲く季節までなんて待てない。花見の時にはこの病院を出て、祖母とたくさんの料理を作り、お弁当箱に詰めて出かけるんだ。病院の庭で見る桜より、ずっとずっと素敵な花見をするんだ。ううん。その前に、クリスマスだって、お正月だってある。母が買ってくるホテルのケーキはいつも美味しくて、ほっぺたが落ちるねって笑みを見せあうんだ。それに、祖母が作るおせち料理を、私はまだ全部習得していない。黒豆を艶よくふっくら軟らかく煮る方法も。田作りをサクサクと軽く仕上げる方法も。伊達巻のふわふわっとして、花のようなあの形を上手に作る方法も。教えてもらいたいことは山ほどある。だから、こんな所にいつまでもいないで。早く元気になって家に帰ってきて。言葉にして伝えることができない願いが、心の中で渦を巻いていた。
 期末試験が近づいてきたころ、松下が遅刻するようになった。初めは、寝坊か何かだと思っていた。池田も、別段気にしている風もなくいつも通りだったせいもある。登校して来たあとは、教材室でも変わりなく松下は笑っていたし。池田も普段通りだった。それが三回ほど続いた朝。今日も又、教室には松下の姿はなかった。
「ねぇ。松下、また遅刻かな?」
 麗華は、器用にクルクルとペンを回しながら担任の目を盗み話しかけてきた。朝の出席確認をする段階になっても、前にあるはずの大きな背中はなくぽっかりと空間があった。
 松下は、どうしてしまったのだろう。体育の授業もない今日は、運動部に勧誘される心配もないのだから遅刻する理由などないはずだ。それとも学校で授業を受けるより、図書館で勉強する方がはかどると、そちらで机に向かっているのだろうか。もしかして、塾の個別授業を受け、勉強に邁進しているのだろうか。
 平行線。以前遅刻した時に言っていた松下の言葉が、不意に頭に浮かんだ。今回の遅刻は、平行線ではなくなったからなのだろうか。
「ねぇ。平行線の反対語って何?」
 すぐ隣の木下に訊ねると、不思議そうな顔をして応えた。
「垂直線かな? まっすぐ落ちてくみたいな」
 悪気なく応える木下の言葉に、心臓がドクッと大きく鳴った。
 落ちていく……。暗闇の奥深く、手探りでなければ何も感じ取ることのできない世界が脳内に広がる。
 平行線でなくなったとしたら、松下はどこへと落ちて行ってしまうのだろう。松下の傍に、這い上がるための何かはあるのだろうか。手を差し伸べ、引き上げてくれる人はいるのだろうか。
 私は私の手を握り、力を込める。松下を引き上げたいと願うように、自分の手をぎゅっと握る。いやなイメージを振り払うように力を込める。掌にジワリと汗が滲んだ。
 あいうえお順で早々に名前を呼ばれた池田は、自分の出席確認が済むと机に伏せてしまった。眠くてそうしているようにも見えるけれど、机に顔を埋めながら松下を引き上げるための手段を考えているようにみえた。机に伏せた池田の背中は、寂しげだった。
 その日から松下は学校へ来なくなった。遅刻だと思っていた松下は、そのまま姿を見せなくなったのだ。池田は教材室に顔を出さなくなった。放課後、俯き加減で一人校門を抜け帰っていく池田の姿があった。