母と出かけて以来、怪しい男を見かけることはなくなっていた。松下が言っていただろう男をSAKURAの外で初めて目にした時は、心臓が自分とは別の生き物のようにドクドクと激しく騒ぎ出した。麗華に気づかれたくなくて、脂汗が出そうなくらい嫌な気持ちになった。けれどそれ以降、怪しい男を見かけることはないし。さり気なく松下に訊ねても、見掛けていないという。
麗華の父親は、一目だけでもいいからと娘の姿を見にやって来たのだろうか。アヤメのママに対する未練が捨てきれず、チャンスを窺うように物陰に潜んでいたのだろうか。離れて暮らしていることで、母娘が寂しい思いをしているなどという勘違いをし、そばにいてやりたいと身勝手な愛情を芽生えさせたのだろうか。もしもそうなら、一言言ってやりたい。独りよがりだと。
 確信は持てないけれど、姿を見なくなったということはこの町を離れたのかもしれない。二人が明るく前向きに生きている姿を目にし、自分はもう必要のない人間と理解してくれているといいのだけれど。麗華の持つ緑色のポーチを見るたびに、私は苦しくてたまらなくなる。
 池田が、近所のコンビニでアルバイトを始めたことを明かした。土曜日と平日の週三日だけれど、頑張っていることを強調する。褒めて欲しいのか。やたらと麗華に向かって「俺。えらくねぇ?」とアピールしている。麗華はその度に面倒臭そうな顔をして「はいはい。その調子、その調子」と軽くあしらっていた。麗華の態度はぞんざいなようでいて、仲間に対する愛情というものが垣間見えるものだから、池田は嬉しそうにしていた。
「本当に行けるといいよね」
 麗華と池田二人のじゃれ合いを眺めながら、玉子焼きを口にする昼休み。あっという間にお弁当を食べ終わった目の前の松下が「そうだな」って頷いた。
 池田は麗華とはしゃぎながらも、隣に座る松下の首に腕を回して引き寄せる。
「俺はね、空と行けることが、何より楽しみなんだよ。だから、今度は絶対だ」
 笑う池田に松下も笑みを返している。仲のいい二人だ。
「何よ、今度はって。男同士でイチャイチャしないのっ」
 麗華が二人をからかい笑う。私も松下も声を上げて笑う。とても楽しい時間だ。ただ「今度は」と言った池田の言葉に反応した松下の顔は、ちょっとだけ泣き出しそうな切なさを含んでいた。。図書館で訊ねようとした問いが、また頭に浮かんだ。
 ねぇ。松下。君は、誰かにお見舞いをしてもらったことがあるのですか?
 浮かんだ質問は、喉元で止まる。これを言ってしまったら、松下がいなくなってしまいそうで怖くなる。
 祖母が退院してきた直後。母は、本当にほっとしたような顔を見せていた。私も不安だったけれど、母も同じように不安だったんだ。忙しいながらも、退院したばかりの祖母を気遣う姿を目にするたびに、まるで血のつながった本当の母娘のように見えた。実は父が婿養子で、祖母と母が血のつながった親子なのではないだろうか。そんな風に思えてしまう。そんな中、母の少し疲れたような表情は、仕事の疲れと安堵が混在していて、傍目にはとてもつらそうに見えた。まるで、つい先日まで病気をしていたのが、母の方だったのではないかとすら思える。それでも家に祖母がいる。という確固とした現実のおかげで、何とか耐えているという風に見えた。
 反して、祖母は元気だった。病室で家の掃除をするとはりきっていたように、帰って来るや否や。正月でさえしないような大掃除をし始めた。家族が使うリビングはもちろんのこと、納戸や自室に至るまで。こんなところにこんな物があったのか、というように。押入れの中や、抽斗の奥のものまで引っ張り出して、要不要を分け。処分したり、詰め直したりしていた。
「一気に働き過ぎじゃないの?」
 あまりにやる気になって仕事をする祖母に不安になってしまう。退院したばかりの体を酷使してしまったら、また入院なんてことにならないだろうか。いくら退院したとはいえ、祖母は高齢なのだ。万が一足を滑らせて転倒なんてことにでもなったら、また病院のお世話になるだろうし。そうすれば寝てばかりになり、筋力も衰え、思うように体の自由が利かなくなることもあるだろう。しかし私の不安もよそに、祖母はやる気に満ちていた。
「やると決めた時にやらないと、ダラダラと時間が過ぎてしまうからね」
 気合を入れるように袖をまくりなおし笑みを見せる。
「時間は、待ってはくれないよ」
 ニカッと笑う顔に気圧されながら荷物の整理を手伝った。祖母のテキパキとしていて、淀みない指示に従っていればいい私は、頭を使わない分楽だった。言われるままに、要不要を分け。コンビニへ粗大ゴミシールを買いに行き。粗大ごみの日は、不用品にシールを貼り早朝に運び出した。母は疲れを滲ませたまま、ただ静かに見守っていた。
そう言えば、父は祖母が入院していたことを知っているのだろうか。祖母から病気の話を聞いた時は、半ばパニックになっていたし。病院通いをしていた時も、祖母に会いに行くことや。大袈裟だけれど、祖母のいない家を守る、という大役に必死になっていて父の存在をすっかり忘れていた。それだけ父親という存在は希薄になっているのだろう。
 朝早くに仕事へ出かけようとしている母に廊下で会い、父のことを訊ねてみた。
「伝わっているわ」
 母は玄関先で、ストッキングを履いた足をスッとヒールに入れながら応えた。
 知っているのなら、いちいち話す必要もないか。祖母のことで父にメッセージを送らなくて済んだことに安堵した。普段の、素っ気ないくらいに短いやり取りだけで充分だ。
 放課後の教材室で、麗華と飴をなめながらグラウンドを眺めていた。サッカー部の練習している近くで、邪魔でもするみたいに池田がボールをリフティングしている。
「男親なんて、そんなもんでしょ」
 麗華は、池田の姿を目で追いながら応える。
「あいつ。サッカー部に嫌がらせでもしてんの?」
 ケタケタと笑い、口の中でカラリと飴を転がした。
歯に当たる飴の音が好きだ。ほんの少しだけ開いた唇の先から漏れる音は耳心地がいい。自分でも口内で転がしてみるけれど、麗華が立てた音には敵わない。もう一度麗華が飴を転がさないかと耳をそばだてていると、池田のはしゃぐ声がここまで聞こえてきた。反応した麗華が声を上げて笑う。同時に、ガリガリッと飴をかみ砕くから、ちょっとだけ残念な気持ちになった。
 麗華は明るい性格をしているし、よく笑う子だ。スタイルもいい上に、お嬢様然としている。なのに、その姿からは想像できないくらい豪快に口を開けて笑う。いっそ清々しいとさえ思えるくらいだ。ひょんなことから教材室で四人の時間を過ごすようになってから、麗華の明るさはさらに増した気がしていた。きっと、なんだかんだ言っても、池田と気が合うのだろう。
 池田は私達と同じ帰宅部なのに、器用にボールをリフティングしている。木下みたいに、運動神経が悪いわけではないらしい。こうやって遊んでいるくらいだからスポーツが嫌いなわけでもないようだ。なのに松下と一緒で、どの運動部にも所属していないことが不思議だった。
 バスケットボールを操る松下の華麗な姿を思い出す。ボールは友達なんて言ったアニメが昔あったらしいけれど(沼田情報)。松下にその言葉がピタリとはまるようにボールをドリブルし、ゴールを決めていた。あの高架下では、手書きされた丸い円の中に向かって。一度だけ見た体育の授業では、バスケットゴールに向かって。松下の放ったボールは、導かれるようにゴールへと吸い込まれていく。松下の動きは、華麗で優雅で輝いている。そんな松下も運動部に所属していないのは、池田の真似でもしているのだろうか。それとも、池田が松下を真似ているのだろうか。どちらにしろ、サッカー部もバスケ部も、貴重な戦力を目の前にして手に入れることができないもどかしさに歯噛みしていることだろう。
 池田の傍では、松下が楽しそうな表情でリフティングする様子を見ている。
 松下は、サッカーをしないのだろうか。考えてみれば、松下がバスケ以外のスポーツをしている姿を見たことがない。
「男親なんてさ。娘とどう接していいのか、いつも探り探りいるんだよ」
 松下のことを考えていた思考が、麗華の言葉で父の話に引き戻された。
 それは母親と二人きりの麗華の言葉なのに、どういうわけか納得してしまうから不思議だ。麗華の存在そのものが、言葉に説得力を持たせているのだろうか。
「変に長いメッセージを受け取っても。何か訊ねられても。どう返していいのか解らないんじゃないかな。だから、つかず離れず。今くらいの距離が、向こうにしては楽なのよ。たまにくる短いメッセージが、結構嬉しいんじゃない」
 まるで麗華が父親みたいになって答えをくれる。
「なんて。ドラマの観過ぎかな」
 もっともらしく言った後に笑った。
 坐ってリフティングを眺めていた松下が立ち上がった。池田よりも高い身長が青い空へと近づく。池田はボールを右足ではじき、靴底で押さえつけて地面に止めたあと、つま先で持ち上げ甲で受け、松下の胸元へと器用に放る。まるで、手のようにボールを操る華麗な足さばきだ。松下は、ボールを両手でキャッチした。二、三歩足を動かすと、ドリブルなしでスッと綺麗に真上へ飛び空に手を伸ばす。放ったサッカーボールが任せろというように、池田が空高く伸ばした両手に向かって放物線を描いた。吸い込まれるように、サッカーボールが池田に届く。サッカー部の何人かが二人の姿に見惚れるようにして立ち尽くし、顧問の先生からは「集中しろーっ」と怒号が飛んできた。
 十一月の半場に入ろうかという頃。祖母がせわしなく動き回っていたおかげで、鈴内家にあった不要な物たちは、すっかり姿を消していた。古くなって底が歪みカタカタ言い始めた鍋や。一体この片方は、どこへ行ってしまったのだろうという。下駄箱の奥底にしまっていた冬物の古いブーツや。一度だけ使ったっきりの、トイレの詰まりを直すシュポシュポする道具(ラバーカップというらしい)や。羽が欠けてしまった扇風機。三十秒ほどですぐに止まってしまうドライヤー。蓋が壊れた衣装ケース。宣伝目的で夏に配られる、数々の団扇。骨が曲がってしまった傘。古くなったコタツ布団。
 祖母のもったいないという口癖から、押し入れや下駄箱の奥に追いやられていたものが、退院してきた祖母の手によって一斉に処分された。入院をしたことで、祖母の中からもったいないというワードが排除されたのかもしれない。こうして取っておいても、結局何年も使われることはないし。私も母も、それらの物がこの家にまだあったのか、と驚くくらいだから、処分という形に行きつくのは当然だろう。
「ああ。すっきりした」
 粗大ごみ収集に出したあとの祖母のセリフだ。
 確かに、あれほど一杯だった押し入れも納戸も下駄箱の中も。とてもすっきりと片付いている。その簡潔なまでの整理整頓された家の中で、どうしてか言葉にできない息苦しさを覚えた。胸に手をやり、息を深く吸い込む。吐き出す時に、黒いものが体内から流れ出てくるような、イヤな感覚を覚える。それがどうしてなのかわからないまま、胸の中に渦巻くモヤモヤとした感情に不安を覚えていた。
「真白、ちょっといいかい」
 手招きされて、祖母の部屋へと呼ばれた。部屋は畳敷きの六畳間で、仏壇には私が生まれるずっと以前に亡くなってしまった祖父の遺影が飾られていた。祖母の部屋に入ると、まず仏壇の前に正座をして手を合わせることが習慣になっていた。凛々しい眉をした祖父の写真は肩から上しか映っていないのに、キリッとしていて背筋のスッと伸びた男性をイメージさせた。お線香の香りは、祖母のというよりも。祖父の匂いだと認識していた。小さなこたつの前には、座椅子が置かれている。座椅子の先にはテレビもあった。普段からセセコマと動いている祖母だから、テレビの前にいつまでも座っているなんてことはないのだけれど。それでも時々、相撲の中継やニュースが流れている時があった。畳はすでに色を失い、井草の香りなどしなくなっているけれど、フローリングや絨毯とは違う優しい雰囲気がある。畳の上にたとう紙に包まれた物が置かれていた。
「真白には、まだ少し大人っぽいのだけれどね」
 丁寧な動作で祖母がたとう紙を拡げる。中からは、黒っぽい色をした着物が現れた。
「大島紬というんだよ。これは、お祖母ちゃんがずっと大事にしてきた、とてもいいものでね。秋名(あきな)バラ柄というんだ」
 お祖母ちゃんは、大島紬を優しく手に取ると畳の上に広げてみせた。着物は、格子柄の中に十字がたくさんあって、とても落ち着いた雰囲気のものだった。母くらいの年齢の人が着たら、しっくりくるだろう。
「着物はね、子や孫に受け継がれていくものなんだよ。お父さんはほら、男だからね。女性ものの柄の着物じゃあね。真白が生まれた時にね。お祖母ちゃん、ああこの子にこの大島紬を渡したいって思ったんだよ。なんでかねぇ。真白を初めて抱いた時に、パッと、着物のことが頭に浮かんでね。まだ皴皴の赤ちゃんの真白なのに、成長し大人になった時の姿が想像できてしまったんだよ。この着物を淑やかに着ている姿をね。背筋が伸びていて、襟足が艶やかで、まっすぐ前を見て立つ芯のある姿が想像できたんだ。その時から決めていたんだよ。これは、絶対に真白へ受け継がせたいって」
 着物は体に合わせていくらでも仕立て直しができる。時々陰干しをして虫がつかないようにしていれば、何年も何十年も着続けられると祖母は穏やかな表情を見せる。
 私にこの着物を渡すために、祖母は何度陰干しを繰り返してきたのだろう。着物を広げながら、私のことを幾度となく思ってくれていたのかと考えると胸が熱くなった。
 祖母は、いつだって私に優しい。親がいるのにいないような暮らしの中で、私のことを一番に考え思い遣りそばにいてくれた。どんな時だって味方をしてくれた。眠れなくて祖母の布団に潜り込んだことも多々あるし。風邪で苦しくて、泣きながら抱きついたこともある。包丁の研ぎ方も、出汁の取り方も丁寧に教えてくれた。
 祖母が、私のためにとずっと大切に保管してきた着物には、愛情がたくさん染み込んでいる。それが充分に伝わってくるのだ。
「ありがとう、お祖母ちゃん」
 着物を手に取ると、祖母の香りがした。慣れ親しんできた大好きな匂いだ。
 大島紬は今までもそうしてきたように、祖母の部屋にある桐箪笥の中に大切に保管されることになった。桐箪笥は、湿気と乾燥を防ぎ、虫も防いでくれるという。
「箪笥がここにあるからといって遠慮せず、いつでも広げていいんだからね」
 祖母の言葉に頷きながら、熱くなる胸の奥に見え隠れしているモヤモヤとした感情が心を侵食していくようだった。少しずつだけれど、確実に広がり埋め尽くそうとしている。熱くなる胸と瞳に涙を滲ませながら、祖母の手を両手で握る。
「お祖母ちゃん。大好きだよ」
 それだけ言うのが精いっぱいだった。
 このわずか一週間後。祖母は、再び病院のベッドに着くことになる。気づいてしまった小さなモヤモヤは、たった一週間の間に大きく成長し影を濃くし、鈴内家に再び激震を起こした。今度の入院は、杞憂に終わることなどないだろう。不安な胸の内をどうしていいのか解らず、静かな夜に涙をこぼした。