十一月になり、師走の影が見え始めていた。家のことは、いつも通り祖母が全てしてくれる。母はいつにもまして仕事に邁進していた。私自身は特に何というわけでもないのに、なんとなく気忙しさがあり落ち着かない。近づいている期末テストという難関が原因でもある。普段よりは机に向かっている時間が増えてはいるものの、手ごたえのようなものも感じられず。なんとなく問題を解き。なんとなく歴史などを暗記しているような毎日だった。
 そんな鈴内家に、思いもよらぬ激震が走った。
「真白。ちょっといいかい」
 自室でテスト勉強をしていると、祖母がノックをして顔をのぞかせた。麗華に教えてもらっていた期末テストの予想問題は、習っているはずなのにわからないことが多くて頭を悩ませていた。巧くいかない勉強に苦戦していた私は、祖母のちょっといいかいに対して、あとにしてほしいな、なんて薄情な気持ちが芽生えた。けれど、ドアの傍に立つ祖母の顔を見た時に、あと回しにしてはいけないような雰囲気を感じ取り部屋に招き入れた。
「響子さんには、もう話してあることなんだけれどね」
 前置きをした祖母は、勉強机の椅子に座る私を見ながらベッドに腰かけると、座り具合を確認するように少しモゾリと動いた。
「お祖母ちゃん。明後日から少しの間、入院することになってね」
 突然の入院という言葉に、頭の中では一瞬にして負のイメージが巻き起こった。白いベッド。点滴。心拍モニター。味のしない病院食。たくさんの薬。弱っていく姿。それらが勢いよく覆いかぶさり、息ができなくなるような感覚に襲われる。
 今まで病に伏した身内がいたことはない。病院通いをしたことも、お見舞いに花を買って病室を訪ねたこともない。全ては想像だ。
 祖母が九州へ行き、母とSAKURAでお茶をした日のことを思い出していた。祖母からの電話に、母が飛んで帰ってしまったことだ。あの時母は、祖母に何かあったわけではないと言っていた。けれど、それからたったの一ヶ月ほどしか経っていない。その短い期間に、祖母の体の中で何が起きたというのか。やはりあの時、既に祖母は何かしらの病に侵され始めていたのではないだろうか。心配させないように話さなかっただけで、今も病が進行しているのではないだろうか。喉が渇いて深夜にリビングへ向かった時の、二人が静かに真剣な面持ちで語っていた光景は、祖母の病についてだったのではないのか。
 一瞬で竜巻のような感情に巻き込まれ、祖母がいなくなってしまうという短絡的な思考にいきつき血の気が引いていく。
「真白。そんな顔をしないで、大丈夫だからね」
 祖母は、私の手に皴皴の手を重ね優しく握る。
「ただの検査入院だからね。区の検査で引っかかってね。なんだかこの辺りに、小さなシコリができてしまってるみたいなんだよ。それをもう一度ちゃんと調べてもらおうと思っているんだよ」
 祖母は何でもないことのように話し、胃の辺りに手を置きながら笑顔を見せる。聞くと、簡易な検査ではなく。入院をしてしっかりと診てもらうらしい。
「三、四日か。もう少しかかるかもしれないけれど。ほら、九州に行っている時と変わりはないからね。食事も、作り置きできるものはしていくし。必要なものもがあっても困らないように準備していくからね」
 父のところへ行く時と、なんら変わらない。そう言うわりに、わざわざこうして話しに来たことが不安でならなかった。もし万が一のことになったら、鈴内家はどうなってしまうのだろう。一切合切を引き受けてくれている祖母がいなくなることなど、あってはならない家なのだ。全て祖母がいることでこの家は保ってきたのだから。祖母がいなくなってしまっては、この家は崩れてしまうに違いない。
 脳内で脆く崩れる鈴内家が容易に想像できた。祖母のいない静かな家の中で孤独に食事をし。母とは挨拶する程度にしか顔を合わすこともなく。寂しすぎて、食べ物を口にすることさえしなくなるように思えた。埃ひとつなく、常に清潔に保たれていた家のあちらこちらの四隅には、吹き溜まりのような埃が舞い。気力を失っていく自分が想像できた。考えれば不安で不安でたまらない。けれど、その不安を口に出してしまえば本当になりそうで何も言えず、祖母の顔を見ているしかできない。泣き出しそうな心細い感情を取り除こうとするように、祖母私をが抱きしめ背中をさする。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ」
 穏やかで優しい声と、温かな手に涙腺が緩む。しかしここで涙を流してしまえば、さっき必死になって止めた言葉と同じになる気がしてまた堪えた。祖母の大丈夫は優しすぎた。
 翌日の朝。洗面所で祖母と顔を合わせても。朝食を食べるためにテーブルに着いても、そこには普段と変わりのない日常があった。祖母の様子も、忙しく動き回っている母の様子も。そのどちらもが、どうにも取り繕っているように見えてならないほどの日常を着ている気がした。いつも通りを着たその日常たちに対峙していることが辛くて、朝食のあと発作的に勉強道具を詰め込んだ鞄を持って家を出た。
 外は秋風が吹いていて、通りの銀杏は黄色く色づいている。雨をたくさん抱え込んでいそうな重たい雲が遠くに見えた。肌寒さを感じたけれど、不安から前に出す足が速くなり。しばらくすると、感じていた寒さなど体のほてりにかき消されていた。ふうっと息を吐き、手に持っていた鞄の取っ手をきつく握る。心の中を行き交う不安の塊が右往左往していた。
 とぼとぼと商店街に入る。通りはとても賑やかで活気づいていた。幸代さんのところから漂うパンの匂いはいつもなら心躍るはずなのに、今は何の感情も呼び起こさない。吹く風が髪の毛を巻き上げて、とにかく鬱陶しい。度々顔に貼りつく自身の細い毛の数本を払いながら、再び黙々と歩いた。商店街を離れ歩いているとSAKURAが頭に浮かんだけれど、財布を持って出てくるのを忘れてしまったため、飲み物ひとつ注文できないことに嘆息する。空しさまでが欝々とした感情を煽り始めた頃、遠くに図書館の姿が見えた。まるでお菓子の家を見つけたヘンゼルとグレーテルみたいに駆け寄り中に入った。さっきまでの鬱陶しく吹く風が一瞬で消え、ほっと息を吐いた。 
 館内に入ると「喚起されています」という張り紙が掲示板の横の柱に貼られていた。それを横目に窓際の日の当たる席を探して奥に進むと、見知った背中を見つけて心臓が大きく反応した。
 広い背中を丸めることなく椅子に腰かけ、まっすぐノートへと視線を向けている。首をほんの少し俯かせている姿から目を逸らせない。
「空」
 漏れ出た小さな声に反応したみたいに、ノートに何やら書いていた松下のペンが止まった。瞬間、こちらを振り向いて気がつかれてしまったらどうしようという思いと。気づいて欲しいという対局の気持ちに緊張が走る。教材室に集まるようになってから、随分と仲良くなっていた。ただ「空」と下の名前で呼ぶほどにはなっていなくて、思わず口を突いて出た名前にドギマギとする。
 ペンを止めたまま、僅かに顔を上げた松下が眼鏡をしていることに気がついた。
 視力、悪かったっけ。
 疑問に思い。松下が普段からコンタクトをしていたかどうかさえ気がつかなかった自分を恥じた。
 松下の止まっていたペンが再び動き出した。呼んだ声が聞こえていたわけではなかったようだ。ほっとしながらも、少しだけ残念な気持ちにもなった。
 声をかけるべきだろうか。気づかなかったふりを装い、離れた席に着くべきだろうか。松下の座っている席は、私が望んだ陽の当たる窓際だ。午前中の光が松下の髪の毛をほんのり茶色に見せている。ペンを動かす手。眼鏡越しに見える輪郭や瞳。淡いベージュ色をした薄手のニットを緩く着て、細身のデニムを履いている。足元は、黒のスニーカーで全体をすっきりとさせていた。
 かっこいい。
 正直な感想が胸の中に湧き上がる。見たことのなかった普段着姿の松下に、長い時間見惚れていたのかもしれない。ノートに何やら書いていたペンが再び止まり、松下が徐にこちらを向いた。
「鈴内」
 静かな声だった。驚きよりも、優しさのこもったような柔らかな音だった。声に導かれ足を動かした。
「おはよ」
「はよう。鈴内も勉強?」
 訊ねられて一応頷いた。飛び出して来たとは言え、勉強道具は持ってきているのだから。
「期末の勉強をしようと思って」
 隣の机に鞄を置くと、そうかと微笑む松下の顔はなんだか菩薩みたいだ。松下もテスト勉強をしていたらしく、電子辞書や問題集などが広げられていた。人知れずの努力を知り、だから成績優秀なのだと納得する。椅子に腰かけノートや教科書を広げると、松下が勉強をみてくれた。私が苦手とする問題を松下はスラスラと解き、丁寧に教えてくれる。松下の教え方はわかり易く。学校の授業とは、比べ物にならないくらいよく理解できた。
 教えてもらった勉強に心底感心すると、可笑しそうに笑う。馬鹿にしたような笑いではなくて、単に反応が大袈裟だったことが面白かったみたいだ。しばらくの間、黙々とテスト勉強を続けた。松下の集中力は凄くて、隣に私がいることなど忘れてしまっているのではないかという程、ペンを走らせ調べものをし、問題を解いていく。ノートに文字の書かれる微かな音や、紙をめくる仕草。時々眼鏡を軽く押し上げる指。松下の全てに心を奪われる。時間が過ぎ、松下がちょっと息を吐いたのを機に話しかけた。
「休みの日は、眼鏡なんだね」
 眼鏡をしていることに気がついた時から、訊きたくて訊きたくてうずうずとしていた。図書館という場所柄、不埒な質問をいの一番にすることが恥ずかしく必死に堪えていたのだ。
「ああ、うん。視力、落ちてきてるから……。学校の席は前の方で、今のところ必要ないけどね」
 落ちてきているといった言い方が重く聞こえたけれど、必要ないけどねと言った声は僅かに弾んでいた。
「似合うね」
 本気でそう思ったし、カッコよさが倍増している気がしたけれど。真面目に伝えるには照れくさくて、ちょっとからかうような言い方になってしまった。
「鈴内がそう言うならよかった」
 鈴内が、のところに嬉しさが込み上がる。なんでもない風な表情の裏側で、スキップをするくらいにはしゃいでいた。
「いつも図書館で勉強してるの?」
 静かな周囲を気にしつつ会話を続けた。
「うーん色々かな。家や近くのファミレスでするときもある。鈴内は?」
 家と学校以外で机に向かうことなんてほとんどないので、曖昧に笑ってみせた。不意に祖母のことが頭を過る。モヤモヤと不安に駆られて家を飛び出してきことを、松下に聞いて欲しいと思った。松下なら、どうすればいいのか解らない不安な思いも、真摯に受け止め聞いてくれる気がした。
「あのね。少し聞いてくれる?」
 不安なまま訊ねると、いいよと体を少し斜めにしてこちらを見る。
昨夜祖母から伝えられたことを感情的にならないよう、努力しながら順を追って話した。平静を装っていなければ、泣き出してしまいそうな気がした。
「お祖母ちゃんが入院か」
「区の健康診断で、小さなシコリが見つかったから。もう一度ちゃんと検査して貰うんだって。けどね、心配なんだよ。私、お祖母ちゃん子だから」
 祖母に甘え過ぎている自分が恥ずかしいと思うよりも、大切な家族の健康を脅かすものの不安の方が大きかった。
「家族が入院するとなれば、心配だよな……」
 松下は、少しの間黙ってしまった。無言の時間は、どういうわけか教材室の時みたいな心地よさがない。凪いだようなゆったりとした雰囲気もないし。松下と二人きりなのだから心がウキウキとしてもいいはずなのに、さっきのように嬉々とした感情が少しも湧き上がらない。話している内容が内容だから、ウキウキというのもおかしな話なのだから、こんな風に感じるのも仕方ないのだろうか。けれど、この重いような、暗いような。言葉にするには少し難しい雰囲気が漂う中、何かが引っかかりを見せていた。その何かは、あまりに小さくて、米粒よりも軽くて。どこがどう引っ掛かるのか少しもわからない。気がつかないうちに取りこぼしてしまうほどに、小さくて軽い引っ掛かりだった。
「鈴内は、入院したことある?」
 引っ掛かりを見つけ出そうと考えこんでいたら、松下に訊ねられた。
「ないない。私、基本元気だから」
「うん。そんな気がしてた」
 松下がクツクツと静かに笑う。眼鏡の奥の瞳が垂れ下がって子供みたいだ。
「じゃあ、誰かの見舞いに行ったことは?」
「それもないんだよね。だから、どんな顔をして会いに行けばいいのかわからないし、とても不安」
 大したことはないと祖母は言っていた。九州へ行って帰ってくるのと変わらないと話していた。けれど不安は止まらなくて。万が一と、考えてはいけない方へ思考が向いてしまう。
 松下は、さっきと似たようにまた黙り込んでしまった。同じように無言になったはずなのに、ほんの数分前よりも空気が軽くなっていた。それがどうしてなのかと再び考えに没入しているところで松下が言葉を続ける。
「どんな顔でもいいんだよ」
 空気の軽さを考えていると、話の続きが始まった。
「どんな顔してたって、見舞いに来てくれるって嬉しいはずだよ。誰も来ない方が、ずっと悲しい」
 断定した言い方をした松下だけれど。それがきつい言い方だったかと言えばけしてそうではなくて。寧ろ、一生懸命に温めたような想いが見えた。切実に祖母の見舞いへ行くことを願っているような気持ちがうかがえた。
「入院するってさ、本人はもちろん不安だろうけど。自分のことよりも、家族のことを考えちゃうものもなんだよ。自分のせいで、辛い気持ちや悲しい思いをさせたくないってね……」
 松下の瞳は、眼鏡の奥でわずかに揺れていた。泣き出さないように平静を保っていたのは私の方だったはずなのに。松下の方が必死に波打つ感情を抑えているように見えた。
「ありがとう」
 話を聞いてもらい、気持ちが少し落ち着いていた。松下は、また机に目を落とし、勉強の続きを始めた。テスト勉強に飽きてしまった私は、他にすることがない。これだけたくさんの書物に囲まれているというのに、本に興味がないからだ。かと言って、勉強を続けようとしている松下を遊びに誘うこともできず。ひろげていたノートや教科書を片付ける。
「今日は、ありがとう。また学校でね」
 静かな笑みを向ける松下は、入院の話をした時の祖母と似ていた。どんなところが似ているのかと訊ねられてもわからないけれど。何かが似ていて、心がキュッと締め付けられる。
 松下は入院したことがあるの? 不意にそんな質問が頭に浮かぶ。口にしそうになって、唇が僅かに開いたのだけれど、声にならず消えてなくなった。見送る松下の瞳があまりに優しすぎて、どうしてか泣きそうになってしまったからだ。
 祖母が入院してから、松下が言ってくれたように私は毎日病院を訪れた。見舞いへ行く前に、最寄り駅に併設されている花屋に寄る。アネモネ・フリージア・ライラック。季節など関係なく、秋でも春の花が売られていることに気がついた。毎日一輪の花を買い、病室にある小さな棚にあった花瓶に飾ると、綺麗だねと祖母は目じりを垂らす。前日に活けた花は家に持ち帰り、リビングや玄関に飾る。花瓶の花に気がついた母が「綺麗ね」と忙しい中でも声をかけてくることがあった。花は綺麗なだけでなく、人の心に明るい変化をもたらすことを知った。祖母の代わりに必死で家の中を明るく保とうと咲く花たちが健気に見えた。
病床の祖母は、私が想像していた不安で暗い入院生活とは真逆に、とても元気に過ごしていた。食事制限があるから、常に色々な食べ物の話をしていて、退院したあとに何を食べようかと楽しそうに語る。普段は家中を掃除しながら動き回っているせいか、ベッドにじっとしているのは退屈だねとも話していた。帰ったら、そこいら中を掃除して回るからねと張り切っている。
元気な様子を見舞いながら、頭の中では祖母のいない鈴内家が頭に浮かんでいた。いつも祖母が着けているエプロンが、ダイニングにある椅子の背もたれに力なくかかっているのを思い出し。持ち主の帰りを、心から待っているような気がした。
 博多通りもん事件以来(これも麗華が命名した)、私達四人は度々教材室に集まっていた。見舞いの花のことを話すと、乙女が開花だなと池田が私をからかった。するとなぜか麗華が「もともと乙女だしっ」と代わりに言い返し、松下がそれを聞いて笑っていた。
 祖母は一週間もかからず退院してきて、あれほど不安に感じていた入院は杞憂に終わったようだった。