祖母が帰ってきたのは、父のもとへ行ってから十四日後のことだった。いつもより四日長い滞在だった。日程が長引いたことに対して不安はあったけれど、戻ってきた祖母はいつも通りに元気だったし、特に何か報告があったわけでもない。いつものように、嬉しそうに九州の土産をテーブルに広げている。私は、たくさんのお菓子や博多ラーメンセットやもつ煮セットに嬉々とした。
その日の深夜。祖母と母がダイニングで静かに真剣な顔を向き合わせている場面に遭遇してドキリとした。のどが渇いてリビングに向かおうとしていた私は、ドアにはまる窓ガラスから漏れ出る光に足を止める。何を話しているのか。どんな状況なのか。静かすぎる二人の声は、ドアのこちら側に立つ私にはわからなかった。けれど、その光景の中にいる二人は、私が知っている二人ではなかった。硬い表情と、切なげな目配せ。言葉少なに重い口を開くような様子。遠く手の届かないような、触れてはいけない場所にいる二人だった。今のこの状況の中に入り込んではいけないと瞬時に悟る。気がつかれないように息を殺す。一歩あとずさり、光から離れる。もう二歩離れたあと、二人にけして気がつかれないよう、静かに息を吐き出した。
 自室に戻ると、喉の渇きを覚えたままベッドに横になり目を瞑った。二人の真剣な面持ちが頭から離れない。どんな会話があったのか気になるも、考えが及ぶような緊迫した内容はうまく思い浮かばなかった。唯一想像できたのは、父のことだった。一瞬、母方の「相澤」の苗字が頭の中を過った。けれど、それを深く考えてしまうのは怖くて打ち消した。
 翌朝。学校へ行くとき、祖母の土産の中にあった「博多通りもん」を四つ鞄に忍ばせた。これは、毎回のことだった。祖母の土産は色々あるけれど、どういうわけか博多通りもんだけは必ず買ってくる。それを麗華にもあげたくて、中学の時にも鞄に忍ばせ持っていったことがあった。先生に隠れてこっそり食べた時、麗華はとても喜んでくれた。以来、祖母が九州から帰ってきた後は、博多通りもんを鞄に四つ忍ばせ、麗華とこっそり二つずつ食べていた。
「真白、おはよ。例のブツは」
 わざと悪い顔をしてふざけた麗華が、昇降口で問いかける。
「しっ。声が大きい」
調子にのって、こそこそと鞄の口を開いて博多通りもんの存在を麗華に知らしめる。麗華が片方の口角を二ッと上げる。二人でニヤニヤとしているところに、木下が通りかかった。
「お前ら、めちゃくちゃ悪い顔してるな」
 からかうようにして通り過ぎていった。傍目からしても、かなりあくどい雰囲気なのだろう。私たちは可笑しさに昇降口で声を上げて笑った。
 授業は変わらずつまらなかった。数学も英語も、右から左へと流れていった。国語に至っては、沼田の声が催眠術のようで、ほぼ半数以上の生徒が睡魔に襲われていたに違いない。その中には私や麗華だけでなく、松下空も含まれていた。
 大きな松下の背中は、眠っている人特有の呼吸をするように、背中や肩が規則的に上下を繰り返していた。後ろからとは言え、どう見ても起きて授業を聞いているようには見えなかった。それでもきっと、松下のテストの点数は私や麗華よりずっとよくて。期末テストの順位だって上のはずだ。どうやったらそんな神業ができるのだう。授業を聞かなくてもテストの点がいいなんて、生まれながらの秀才なのだろうか。勉強のコツがあるなら教えてもらいたいけれど、それを松下に訊ねられるほど親しい関係になることはできていない。
 昼休みはグラウンドの見える、今は使われていない教材室に忍び込んでランチにした。当然、博多通りもんを手にしている。
 使われていない教材室というか物置状態の教室は、事務員がカギをかけ忘れているのか。それとも生徒の誰かが故意に鍵を壊したのか。どちらにしろ、気がついた時からずっと鍵は開いたままになっていた。
 購買の傍に置かれている自動販売機で買った飲み物を持ち、静かな教材室の中に踏み込んだ。使われていない教室は少し埃っぽいし、物があちこちに雑然と置かれていて、正に物置という様相だった。
 教材室には、八人が座れるほどの大きな机がデンと置かれていた。教室の後ろに積み上げ片付けられている椅子を二つ持ちだして、その机の前に横並びに置いて腰かけた。窓からは、膝を怪我した時にぼんやりと座っていたベンチも見える。どれだけの早弁をしたのか知らないが、グラウンドではすでに三年生だろう男子が、サッカーボールを蹴って遊んでいる姿が見えた。進学や就職活動の気晴らしなのだろうか。それとも、諦め組の自棄サッカーだろうか。どちらにしろ、走り回る姿は近所の小学生と大差なく、楽しげで溌剌としている。
 早々にお弁当を食べ終えた麗華が「とおりもん」と弾むように言った。楽しげな顔に向かって頷き、空になった弁当箱を片付けてから持ってきた通りもんを麗華へ渡すと、さっそく包みを剥いで一口食べた。
「んっ。あまいっ」
 博多通りもんの甘さに唸り。この癖になるような甘ったるさがたまらないのだと笑う。麗華の「甘いっ」を聞いて笑っていた時、突然ドアが開いて私達はビクリと肩を震わせた。見つかってしまったという戦慄と、竹内や面倒な先生に見つけられたのでなければいいな、という希望的観測にビクビクしながら戸口に視線を向ける。慌て強張る感情で身構えていると、戸口に居たのは松下の親友。池田正人だった。
「あれ。君たち、ここで飯食ってたの?」
 私たちの慌てふためく感情など知る由もなく、池田は暢気な言葉をかけてくる。池田は、他の男子が女子のことをお前なんて言う中、君と呼び掛ける唯一の人物だった。
「池田もここでご飯?」
 さっきビクリと驚いたことなどすっかりなかったように、麗華がケロリとして訊ね返した。
「まーな。教室もだりいし。外は埃っぽいし」
 言いながら中に入ると、その後ろに背の高い松下もいて先生に見つかったと思った時よりも、はるかにビクリと肩を震わせた。それは咎められるとか、叱られるとか。そういう類のビクリではなく。まさか、こんな偶然て、ある? という、所謂少女漫画にありがちな、ときめきを含んだビクリだ。
「空が、静かな場所で飯が食いたいっていうし。前に、ここの鍵が壊れてることに気がついたから来てみたんだよ」
 どうやらこの二人も同じようなことを思ってここへ来たようだ。教室では、女子の話し声が煩いと感じる時がままあった。同性の私たちでさえ、ちょっと静かにして欲しいなと思うくらいだから。男子はもっとそう感じていても不思議ではない。
 池田は教室の後ろに積み上げられた椅子を手にしてきて、当然というように大きな机の前に置いた。それから徐に、購買で買ったパンとサンドイッチ。それとコーヒー牛乳を机に置く。池田の隣に松下も椅子を置き腰かけた。松下は、お弁当だった。向かい合わせで座ると、とても自然に昼食を共にすることになった。
「てか、何食っての」
 一口食べたまま麗華が手にしていた通りもんを見て、池田が問いかける。
「ああ。真白のお土産」
「え? 鈴内、どっか旅行に行ったの?」
「ああ、違う違う。正確には、真白のお祖母ちゃんが九州へ行った時のお土産」
 代わりに麗華が応えた。
「九州か」
 松下がぼそりと呟いて、ご飯を口にした。
「うまそうじゃん」
 あからさまに欲しいと言った目をする池田に、麗華が仕方ないなぁという顔を向ける。
「年に二回しかない、この博多通りもんイベントなのに。まー、でも、たまにはいいか。私の分、一個あげるよ」
 二つずつ食べるつもりでいた博多通りもんを麗華が一つ池田に渡した。
「いえーい」
 嬉しそうにホクホクとした池田の顔を見た後に松下を見て、自分の分を一つ手渡した。
「さんきゅ」
 松下のクシャリとした笑みを見て、一瞬にして顔が火照った。体温が五分くらい上がった気分だ。ちょっとした微熱だ。
 教室が煩いと言っていたくらいだからか、二人は黙々と食事をした。食後には、博多通りもんを食べる。口にすると、二人とも、甘っ。と笑っていた。それ以外は、グラウンドや廊下の向こうからする声を、まるで波の音でも聞くみたいにしていた。誰も会話が少ないことに苦痛を覚えることもなく。教材室には、とても静かな時間が流れていた。池田も松下も、無駄に騒いでいるイメージはなかったので、この静けさは自然なのだろう。
「そう言えば、二年生の修学旅行って延期になったんだよな」
 恒例の修学旅行は、季節外れのインフルエンザと胃腸炎が流行ったせいで延期になっていた。スケジュール調整が難しかったからなのか三月に行われるという。
「ギリギリってヤバくね。またなんかあったら、三年になってから行くのか?」
 池田は、食べ終えた博多通りもんの甘味を流すみたいにコーヒー牛乳を口にした。同じように甘いコーヒー牛乳に、ちょっと顔を顰めている。松下が、博多通りもんの包みに描かれているイラストを眺めてぽつりと零す。
「学校関係なく、旅行に行きたいな」
 池田が反応した。
「いいじゃん、旅行。修学旅行も楽しいだろうけど、仲間だけで行く旅行なんて最高じゃね」
 仲間。スルリと漏れ出た池田の言葉に心が反応する。たった今一緒にお弁当を食べただけの私たちを、仲間と言ってくれているのだろうか。
「それいいね」
 麗華がのってきた。
「二年の冬休みを利用して行くってのは、どう?」
 仲間の中には、当然自分も含まれているというように麗華がはしゃぐ。
「めちゃくちゃ魅力的な提案だけど。俺、金ねぇ」
 のってきたわりに、貯金がないと池田が嘆く。
「あと一年もあるんだから、今からバイトして貯めなよ」
 麗華が提案すると、よし。なんて結構本気な顔をしてみせた。
「この四人で行けたら、楽しそうだな」
 松下の言った四人という人数に、私も含まれているのかと嬉しくなった。
「どこがいい?」
 麗華が訊ねる。
「九州か北海道」
 松下が静かに提案した。
「私、北海道がいい」
 松下に向かって応えると、瞳が穏やかに伏せられ微笑みが返された。
 九州は、父がいるせいか気分が乗らないけれど。北海道は松下が生まれ出たイメージがあるし。なにより、祖母の生まれ故郷だ。雪の中の温かさや、その奥の空色を見たい。できることなら松下と一緒に見たいから、この旅行を必ず実現させたい。
「じゃあ。まずは、貯金するところからだね。特に、池田。今年のお年玉は、全額貯金すること」
 麗華からでた指示に、マジかぁ~と嘆きつつも、池田は嬉しそうにしていた。
 この日から私たち四人は、約束をしたわけでもないのに教材室に集まることが多くなった。お昼休みはもちろん、放課後もだ。用事で誰かが欠けることはあっても誰かしらがいた。麗華と私だけの時。麗華と私と池田の時。私と池田と松下の時。色々な組み合わせがあったけれど、どういうわけか私と松下の二人になることはなかった。それは少し残念で寂しい気持ちがしたけれど。麗華といることも、急激に親しくなった松下や池田といることも楽しくて。この時間がとても大切になった。教室の騒ぎ立てるような女子の話し声も。男子のくだらない下ネタも。廊下を走り騒ぎまわる音や声も聞こえてこない。波のような静けさが漂うこの場所が、とても好きになっていた。