エプロンを着けた紅が、キッチンで電話している。

 相手は草介のようだ。

 上機嫌に会話を続ける紅の様子に、面倒事の気配を察知した灯名は渋い表情になり、グラスの中の麦茶を飲み干した。

 からん、と氷が涼やかな音を奏でる。

 スマホの向こうから、くぐもった草介の声が、灯名の耳まで届き、話の内容は把握することができた。

『い、今駅なんだ。
 実は、家に連れて行きたい人がいて……大丈夫かな?』

「連れて行きたい人?
 草介が?
 まさか草介、早速友達が出来たの?
 何それ、マジ?
 もしかして女の子とか?
 いいよいいよ、連れてきな。
 みんな、もう帰ってきてるし、今日はパーティーするつもりで食料とか余分に買ってきてあるから、人数増えても大丈夫だよ」

 そうして、二言三言会話を続けると、電話を切った紅が案の定、興奮気味にまくしたてた。

「ねえ、聞いてよ、灯名! 
 草介が彼女連れてくるって!」

 ダイニングテーブルで、紅の夕食ができるのを待っていた灯名が、「聞こえてたよ」とうんざりといった調子で言った。

「まだ女の子かどうかわからないだろ」

「でも、だとしてもよ?
 あの草介が、大学入学初日で家に連れてくるほど仲良くなった友達ができたってことでしょ、すごい進歩じゃない?」

「確かに、すごい進歩ね」

 一足先にシャワーを浴びて、髪をタオルでわしゃわしゃと拭きながらやってきた璃来が、会話に割り込んできた。

 高校卒業直前から伸ばしている璃来の髪は、明るい茶色に染められている。

「そうよね、やっぱり!」

 キッチンと対面のダイニングテーブルへやってきて、灯名の向かいに座り、身を乗り出してなおも話したそうな紅を、「紅、鍋焦げる」と灯名がキッチンへと送り返す。

「ああ、本当だ、危ない危ない」

 紅は小走りで鍋の前に戻ると、慌てて火を止める。

 紅は注意力散漫なところがある。
  
 キッチンには、すでに大皿料理がいくつも並べられていた。

 スマホで検索したレシピとにらめっこしながら、紅が作り上げたものだ。

 4人が、一軒家で一緒に暮らし始めてから半月が経過しようとしていた。

 高校を卒業した3月中に池袋に引っ越した4人にとって、今日は特別な日だった。

 璃来の専門学校と草介の大学の入学式だったのだ。

 入学祝い、と称して紅が今夜はパーティーにすると宣言し、初心者ながら腕によりをかけて料理を作っていた。

 モデルになるべくレッスンに励んでいる灯名も、この日は早めに帰宅し、あとは草介の帰りを待つばかりだった。

 璃来の叔父さんの家は2階に3部屋あり、璃来以外の3人には個室が与えられ、璃来は1階にある和室を個人の部屋として使っている。

 1階にはキッチンと対面にダイニングテーブルがあり、LDKが一続きになったリビングには、大型テレビとコの字型のソファ、ガラスのローテーブルが置かれている。

 日当たりもよく、明るいまるでモデルハウスのような小洒落た家は、大学生が住むにしては、贅沢の一言に尽きた。

 家賃は必要ないため、食費や光熱費は4人それぞれの負担となるが、仕送りをそれに充てることで、アルバイトに時間を取られることなく学業に専念できる環境はありがたかった。


 うきうきと鼻歌を歌いながら、紅がテーブルに料理を並べていると、鍵の開閉音とともに、「ただいま」とか細い草介の声が聞こえてくる。

 その声に続いて、「お邪魔します」という女の子の声が響くと同時に、3人は即座に顔を見合わせた。

「う、うそ、まさか本当に女の子連れてきたの?
 嘘でしょ……」

 紅の気持ちはよくわかる。

 灯名も璃来も、あまりの驚きにあんぐりと口を開けたまま固まってしまったのだ。

 ぱたぱたと、ふたり分のスリッパの足音が近づいてきて、リビングへと繋がるドアが開いてスーツ姿の草介が顔を出す。

 臨戦態勢で自分を待ち受けていた灯名たちを見て、ぎょっとしながらも、草介は後ろの人物に向かって、「ど、どうぞ」と促す。

 ごくりと喉を鳴らして、草介の背後をじっと見守る3人の前に、小柄で華奢な、草介と同じように真新しいスーツを着た女性が姿を現す。

──女性、だった。

 その事実に、3人は目を疑い、とても信じることができず、硬直してしまったので、お客さんがいるというのに、部屋には如何ともし難い沈黙が降りてしまった。

「あ、あの、お邪魔、します……?」

 少し顔色の悪い女性が、再度戸惑いながら言ったので、我に返った3人は、同時に声を上げた。

『女の子だあっ!』

 3人の気迫に、草介が女性を庇うように立ち、「ご、ごめんね、原田さん」と、申し訳なさそうに謝罪する。

「ちょ、草介、だ、誰よ、一体、その娘……」

 一足先に状況を飲み込んだ紅が、言葉に詰まりながらも一同の疑問をやっと口にする。

「あ、ああ、彼女は、同じ大学の原田泉(はらだいずみ)さん」

「……で?」

「で、電車の中で……」

「で、電車の中でナンパしたの!?」

 紅と草介の言葉の応酬が始まる。

「ち、違うよ!
 た、ただ、ちょっと、原田さんが体調を悪くしてたから、最寄り駅うちのほうが近かったから、少し休んでいったらどうかなって思っただけで……」

「具合の悪い女の子を家に誘ったの?
 それ、一歩間違えたら犯罪の匂いがするんだけど?」

 紅がやや引いたように草介と距離を取ると、原田さんと呼ばれた女性は千切れんばかりに首を左右に振る。

「違うんです!
 私、本当に具合を悪くしてしまって、すぐにでも電車を降りたくて、そんな私に声をかけてくれたの、間宮さんだけで……。
 だから、お言葉に甘えてしまって……」

 澄んだ声で、たどたどしく話す様子は、どこか草介に似ていて、黒のボブヘアと大きな黒い瞳が、童顔を引き立たせている。

「あ、具合が悪いなら、とりあえず座って、泉ちゃん。
 しかし、よくあの草介と会話が成立したわね」

 泉をダイニングの椅子に座らせると、感心したようにうなずく紅に、灯名たちも賛同した。

 
 ──1時間ほど前。  

  
 大学の入学式を終え、着慣れないスーツに疲れを貼り付けた草介は、帰宅するため電車に揺られていた。

 心地よい揺れに眠気を誘われ、座りながら目を閉じる人が多い中、さきほどから視界に映る光景に、草介は静かに動転していた。

 夕焼けの中を突き進んでいく電車の扉の前で、真新しいシンプルな紺のスーツを着た若い女性がうずくまっていた。

 苦しそうに肩を上下させている彼女に気づいて声をかける人は、まばらな車内にはいない。

 草介は、話しかけるべきかどうか、ずっと悩み続けていた。

 彼の生まれ持つ厄介な吃音というコンプレックスが邪魔をして、彼女に話しかける勇気が出ない。

 言葉がつっかえてしまって、恥をかいたらどうしよう、彼女に変な人だと思われたらどうしようと、そればかりが、草介の頭の中を支配し、臆病な彼は一歩を踏み出すことが出来ない。

 しかし、至近距離の彼女は、明らかに具合が悪そうで、救急車を呼ぶ必要があるのかもしれないと危惧した草介は、震える脚でそっと、うずくまる彼女に近づいた。

「あ、あ、あ、あの……っ」

 やはり盛大につまずいてしまった。

 顔を真っ赤にしながら、恥ずかしさに耐え、それでも彼女に触れそうな距離まで近づくと、顔を伏せていた彼女が、がばっと草介にしがみついてきた。

 あまりの力強さに驚いた草介は尻もちをついてしまう。

「助けて……お願い、降ろして……電車を止めて!」

 草介のスーツを命綱のように握り込んだ彼女は、震える声で訴えた。

 床に尻をついたまま、どうすればいいかわかなくなった草介は車内を見回すが、誰も目を合わせようとはしてくれない。

 途方に暮れながら、草介は「だ、だ、大丈夫ですか」とこちらも震える声で尋ねる。

「怖いの……降ろして……」

 彼女は草介のスーツに顔を埋め、泣きそうなか弱い声で訴える。

 困り果てた草介が彼女の背中を恐る恐る撫でてひたすら困惑していると、駅に到着したとのアナウンスが流れてきて、いくぶんか希望を見出すことが出来た。

 やはり草介は恐る恐る彼女に声をかける。

「こ、こ、ここで降りましょう」

 電車がゆっくりと速度を落とした気配に気づいたのか、彼女が草介の言葉に顔を上げる。

 怯えを含んだ彼女の顔には、ナチュラルメイクが施されていて大きな瞳には涙が浮かんでいた。

 想像していたより、ずっと幼い顔立ちをしており、不謹慎ながら、可憐で可愛らしいな、などと草介は思ってしまった。

 電車が完全に停車し、ぷしゅう、と気の抜けた音とともに扉が開くと、草介は彼女の小柄な身体を支え、もつれるようにホームに降り立った。

 ベンチに彼女を座らせ、少し落ち着いたところで、自販機からミネラルウォーターを買ってきて手渡す。

 キャップを捻った彼女は、冷たい水を飲んで、人心地ついたようだった。

「あ、あ、あの、大丈夫ですか……?
 救急車、呼びますか?」

 そう尋ねると、彼女は蒼白だった顔に少しだけ体温を宿し、首を横に振った。

 「……大丈夫です。
 本当に、すみません……。
 少し休めば、大丈夫だと思います」

 流れゆく人波になんとなく目を向けながら、ベンチに並んで座っていると、だいぶ顔色が回復した彼女は、恥ずかしそうにうつむいて、ぽつりと言った。

「……もう、平気だと思ったんだけどな。
 しばらく、発作なんて出てなかったのに」

 誰にともなく呟いた彼女に、草介の顔が強張る。

「ほ、ほ、発作?
 どこか悪いんですか?」

 苦笑いを浮かべ、彼女が「パニック障害なんです」と告白した。

「パ、パニック障害……」

 草介は頭の中から、聞き覚えのあるその言葉が意味することを探り出す。

 パニック障害──呼吸困難などの発作が起こり、恐怖を感じて公共交通機関などを利用することが困難になる病気……草介は、そのくらいの知識しか持ち合わせていない。

 自分には関係のない病気だと思っていたし、草介は草介で、吃音という厄介なハンデを持っているから、自分がいかに『普通の人』になるかに意識が向けられていて、あまり興味を持ってこなかった。

「ほ、ほ、発作、大丈夫なんですか?」

「だいぶ落ち着きました。
 ご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした。
 一緒に、電車まで降りてもらっちゃって……」

「あ、大丈夫です、ここ、僕の最寄りの駅ですから」

「そう、ですか。
 お名前、訊いてもいいですか?
 あとでお礼したいし」

 「お礼なんて」と言ったのだが、彼女の大きな瞳に見つめられ、草介はしどろもどろになりつつも、やっとのことで自己紹介を始めた。

「え、えっと、間宮草介です。
 今日、東桜(とうおう)大学の1年生になって……」

 すると彼女が大きな目をさらに見開いて言う。

「私も東桜大学の学生です。
 今日が入学式で……間宮さんの学部は?」

「き、教育学部です」

「同じです!
 私も教育学部です」

「え、ぐ、偶然ですね……えっと……」

 すると草介の困惑を察した彼女が、あっと言って口を押さえる。

「すみません、私、自分の名前も言っていませんでしたね。
 原田泉(はらだいずみ)といいます。
 今日は本当にありがとうございました」

 ぺこり、と泉が小さな頭を下げる。

 それ以来会話が途絶え、ひっきりなしに行き交う人の流れと慌ただしく発車していく電車を眺めていた草介は泉に今年一番の緊張を抑えつけながら、何とか切り出した。

「あ、あ、あの……うちに来ませんか?」

「え?」

 肩につくくらいの黒髪を揺らしながら、泉が驚いた表情で草介を振り向く。

 草介は、あたふたと忙しなく手を振り、詰まりながらも説明を続ける。

「あ、あ、あの、変な意味じゃなくて……。
 また電車に乗るのは大変でしょうし、ここからうち近いから、少し休んでいったらどうかなって……」

「……はあ……」

 明らかに泉は草介の提案に困惑している。

「い、家っていっても、僕ひとりじゃないんです。
 シェアハウスに住んでいて、女の子もいるし、どうかなって……」

「シェアハウス……」

「で、電話で確認してみますね」

 そう言うと、草介はスマホをポケットから引っ張り出し、電話をかけ始めた。

 3回コールしただけで電話はすぐに繋がった。

 スピーカーをオンにして、泉にも会話が聞こえるようにする。
 
 紅と呼ばれた電話相手の女性は、草介の打診に矢継ぎ早に言葉を連ね、草介に喋る隙も与えない。

 しかし、どうやら泉を歓迎してくれているようで、通話が終わったあと、ほっと息をつく。


 草介も、さすがに苦笑を隠せずに、「さ、騒がしい人なんだ、ごめんね」と頭をかいた。

「原田さん、どうかな?
 悪い人たちじゃないし、うちでゆっくり休んでから、家に帰ったらどうかな?」

 「……お邪魔しても、いいですか?
 助かります、実は、私、すごく心細くて……。
 上京したてで知り合いもいないし……。
 発作、最近は出てなかったから、少し安心してたんですけど……」

 潤んだ瞳で自分を見上げる泉に、草介は内心たじろぐ。

 誰かに頼りにされた経験など、草介にはなかったことだ。

 忘れていた緊張が再び顔を出してきて、強張った表情のまましばらくフリーズしていたが、自分を叱咤するように深呼吸したあと、やはり詰まりながらも言葉を発した。

「い、い、行きましょうか。
 10分くらい歩かなきゃいけないから」

「はい、よろしくお願いします」

 はにかんだように、ふわりと柔らかい笑みを泉が浮かべ、草介の緊張はさらに高まる。

 紅を除いて同年代の女の子と話す機会など、ほとんどなかった草介に、向けられたその笑顔はあまりに眩しかった。

 ふたりは雑踏を横切って駅を出ると、夕暮れの住宅地を歩き、草介の住む家へと向かった。


草介が、泉と出会った経緯について説明する間にも、緊張した泉は身体を強張らせていた。

 ダイニングテーブルに座るふたりの男女があまりにも整いすぎたビジュアルをしているからだった。

 男性は、モデルか俳優かと見まごうほどの美形で、女性はファッション誌から飛び出てきたような洗練された美貌を誇っている。

 泉の人生で、出会ったことのない優れた見た目のふたりに、萎縮してしまった。

「泉ちゃん、もう平気なの?


 心配そうに泉を見遣るのは、電話で聞いた声で想像した通りの外見で、金髪を緩くカールさせ、綺麗にネイルを施し、ド派手なメイクにぎりぎりまで短いスカートと、おおよそ『ギャル』といって差し支えないも少女だった。
 
「あ、もう、大丈夫です」

「それなら良かった。
 せっかくだし、夕飯、うちで食べていって」

 どこまでも優しい少女に、これまで苦手意識を持っていたギャルという人種に対する偏見を自覚して恥ずかしくなる。 

「あ、ごめん、自己紹介がまだだったね、あたし、草介の保護者の五十嵐紅っていうの」

「ほ、保護者じゃないでしょ……」

 草介の紅に対する否定は、宙に浮いて黙殺される。

「そっちのイケメンが藤原璃来、隣の美少女が神林灯名」

 改めて泉は頭を下げる。

 泉が璃来と灯名を意識していることに気づいた紅は、意地の悪い笑みを浮かべて言った。

「泉ちゃん、璃来、すごい美形でしょ?
 でもね、実は璃来には秘密があるんだ」

「……秘密?」

 泉はまじまじと璃来を見つめる。

 すると、璃来は長身をくねらせ、照れたように笑った。


「やだー、そんな見つめないでよ、恥ずかしいじゃない」

「……え?」

 璃来が突然繰り出した女性言葉に、泉が呆けた声を出す。

「そう、璃来はオネエでしたー」

 愉快そうにネタばらしをする紅を軽く睨んで、璃来が口をとがらせる。

「ちょっと、オネエって呼び方やめてって言ってるでしょ。
 差別よ、差別、それ。
 あたしは、心は完全に女なんだから!」

 生まれた性と心が一致しない──性同一性障害というのだったか。

 存在は知っていたものの、身近にそういう人がいなかったので、どう接すればいいかわからず、泉は戸惑った。

 夕食が終わり、食後のコーヒーを飲んでいると、しみじみと草介を見た紅が言った。

「あの草介が女の子に声をかけるなんてねえ。
 言葉に詰まるし、すぐ顔を赤くするし、男の子らしくないんだから」
 

「原田さん、具合が悪いって言ってたけど、もう大丈夫なのか?
 持病とかあったりする?」

 灯名が気遣わしげに訊いてくる。 

「あの……私、パニック障害っていう病気で、電車とか、逃げ場がない乗り物とかだと怖くて呼吸が出来なくなるんです」

「パニック障害……。
 あたしの発達障害とは違うの?」

 首を傾げる紅に、草介が解説する。

「パニック障害と発達障害は全くの別物だよ。
 紅の発達障害は先天性のものだろう。
 パニック障害とはそこからして違う」

「ふうん……。
 ごめんね、あたしあんまり難しいこと理解出来なくて。
 でも、泉ちゃんも苦労してんのね。
 草介、やるじゃん、女の子を助けてあげるなんて。
 でも顔、真っ赤だったでしょ?」

 紅が泉にいたずらっぽい笑みを向ける。

 泉は、苦笑しながら「はい」と答えた。

「泉ちゃんも、将来は先生になるのよねえ?」

「はい、今の状況だと、まともに大学に通えるのか不安ですけど……」

「電車にも、乗るのつらいんでしょ?」

 泉の顔をじいっと見た紅が、璃来に向けて何でもないことのように告げる。

「今日はもう遅いから、ここに泊まって行ったら?
 ねえ璃来、泉ちゃんをここに住まわせてあげることってできない?
 泉ちゃん、ひとりきりで過ごすのは不安でしょう?
 ここにいれば、少なくともあたしは毎日うちにいるし、誰かと一緒にいたほうが安心じゃない?
 どうかな?」

「そ、それは……」

 紅の提案に、泉は面食らう。

 紅の心が広いことはよくわかった。

 本気で会ったばかりの泉を自分のことのように心配してくれる優しい人だとも。

 けれど、さすがにそれでは、迷惑をかけすぎる。

 ひとりが不安なのは、言うまでもない話だが、だからといって紅の提案に乗るのは、甘えすぎではないかと思うのだ。

「灯名は男だから、あたしと同室に住んでもらうことになるけど……。
 璃来、今からあたしの部屋に二段ベッド置けないかな」

「そうねえ、置けないこともないけど、叔父さんに報告してからになるかしらねえ」

 少し考え込んだ様子の璃来の返答に、紅は焦れたように璃来の肩を揺さぶる。

「今電話して訊いて!
 今日から泉ちゃんが一緒に住んでいいかどうか、叔父さんに訊いて!
 一晩だってひとりにしておくのは心配だわ。
 この話は待ったなしなのよ!」

 うーん、と唸る璃来に、紅が食い下がる。

「紅、まだ原田さんの答えも聞いていないだろ、ひとりで暴走するのはよせ。
 原田さん困っているじゃないか」

 灯名にとがめられ、噛みつくような勢いで紅は泉に、マスカラを塗り固めたまつ毛が縁取る瞳を向ける。

「泉ちゃん、悪いけど、これはもう決まりなの。
 泉ちゃん、絶対断るでしょ?
 でもね、あたしはそんなの絶対許さない。
 泉ちゃんがひとりで不安に震えているなんて、考えただけで居ても立っても居られないわ。
 だから、少し強引に話を進めるわ。
 いい?
 泉ちゃんは、今日からここに住むのよ!」

 拒否する間もなく、本当に強引にこの家で暮らすことが決まってしまいそうな状況に、泉は思わず席を立ち上がっていた。

「あの、紅さん、本当に私大丈夫なので……。
 そこまでしてもらうのは、ありがたいんですけど、申し訳なくて……」

 しかし、泉の消え入るような声は、紅には届いておらず、向かいの席で紅は璃来の耳にスマホを押し付けていた。

「ああ、叔父さん?
 悪いね、こんな時間に。
 実は、ちょっと相談したいことが出来て──」

 呆然と成り行きを眺めるだけの泉に、「原田さん、紅茶淹れるけど飲む?」と灯名がマイペースに訊いたのだった。


 
 草介に助けられ、シェアハウスを初めて訪れたあの日から、一週間が過ぎていた。

 結局、泉は根負けして、紅の言う通り、シェアハウスに
泊まることになった。

 新しい環境で出会った人達の思いがけない優しさに触れ
、紅のお節介を、強引だとか不快だとは思わなかった。

 翌日、紅に付き添われて引っ越したばかりの自宅アパートへ行き、まだ片付けられていないダンボールだらけの部屋から必要な物を持ち出して、シェアハウスに戻った。

 それから、泉はずっとシェアハウスの紅の部屋の床を借り、寝泊まりしている。

 手の空いた灯名が、病院まで付き添って、薬を処方してもらった。


 しかし、電車に乗るのは、やはりハードルが高かった。

 すぐに動悸が始まり、冷や汗が首筋や額を覆う。

 怖い、という思いに支配されないよう、泉は無意識に灯名の手を握りしめていた。

 灯名の手は、どこまでも優しく、泉の緊張を解こうとする様子が伝わってくる。

 処方された薬が入ったカバンをぎゅっと抱きしめ、お守りに祈るように、泉は車窓の向こうに視線を送った。
 

 5月に入り、灯名が帰宅すると、草介が泉に勉強を教えている機会が増えた。

 家から出ることが怖い、
 逃げ場がないところに行くのが怖い、外で発作を起こしたらどうしようと考えると一歩を踏み出せないという。

 ダイニングテーブルに座りながら、リビングで行われている授業を紅と微笑ましい思いで見守る。

  一歩踏み出すための勇気を与えてくれる草介という存在がいる泉を、人知れず羨ましいと思う。

 自分が本当にモデルになれるのか、未だに自信が持てなくて、レッスンにも身が入っていない。

 しかし、そんなときは思い出すのだ。   

 プロのモデルになった灯名をメイクするのが夢だと語った璃来の嬉しそうな真っ直ぐな眼差しを。

 その夢がある限り、灯名は頑張れる。

「き、今日はこんなところかな」

 ノートを閉じると、草介が講義の終わりを告げる。

「わ、わかりやすかった、かな?」

 やはり自信なさげに訊いてくる草介に、泉は笑顔でうなずく。

「うん、草介くん、本物の先生みたい。
 すごく教えるの上手だよ」

 泉に絶賛された草介は、照れながらも、満更でもなさそうな表情を浮かべる。

 ふたり分の炭酸飲料を注いだコップをリビングのガラステーブルの上に置いた紅が、泉の手元のノートを覗き込む。

「全然わかんないわ、やっぱあたしに大学は無理みたい。
 受験しなくて良かったわ。
 ま、どうせどこにも受からなかっただろうけどね」

 からからと笑う紅に、何と返していいものか泉が困惑の色を浮かべると、草介はぼそりと言った。

「紅はやる前から諦めすぎだよ。
 僕だって、何の自信もないのに頑張ってるんだから」

「あら、高校時代、あたしがあんなに褒めたのに、先生になることにまだ自信がなかったの?」

 目を丸くする紅の隣で、泉は溜め込んだ思いを言葉にする。

「草介くんにしか伝えられないこともあるよ、きっと。
 私は、先生になれるのかな……。
 普通の人にもなれないのに」

「『普通』?」

 草介が泉の言葉を復唱した。

 『普通』。

 それは、草介を始め、このシェアハウスに暮らす4人が目指してきた目標であった。


 いかに『普通の人』になるか。

 『普通』からかけ離れた4人が、常に意識してきた言葉。

 『男』になれない、『女』になれない、『座って』いられない、『吃音』が邪魔をする──。

 傍から見れば欠点ばかりで、傷を舐め合うように集った4人は、沈められた水中から顔を出して、酸素を貪るように『普通』を求めた。

 けれど、それは未だに達成されていない。

 4人は、未だに少数派なままだ。

「僕だって、『普通』じゃないし……」

 草介が眼を泳がせながら、言い募ろうとすると、今までに見たこともない、強い目つきで泉が言い放った。

「草介くん、『吃音』は、障害でも何でもないよ。
 草介くんは、『普通』だよ。
 外にも行けない、他の人と同じことも出来ない、私と比べたら、草介くんは何のハンデも持ってないのと同じだよ」

 力強い泉の言葉に、草介はたじろいでしまう。

「そ、そうかな……」
 
「そうだよ。
 私、大学にも通えないんだよ?
 草介くん、そんな心配ないでしょ?
 草介くんは、先生に向いてるし、事実教え方もうまい。
 もっと自信持っていいと思う」

「う、うん。
 ありがとう……」 

 草介は、やはり自信なさげに薄く笑うだけだった。

 

 

「でね、今日の授業で……」

 夕食の席で、いつになくテンションが高い口調で、璃来が話し続ける。

 心底嬉しそうで、その顔は華やいでいて、泉には眩しいほどだ。

 ヘアメイクの専門学校に通い始めた璃来は、周りの同級生たちに、一瞬で『オネエ』だとバレた。

 しかも、学校には、璃来と同じような『男だけど心は女』という生徒が、決して珍しい存在ではなく、璃来はすぐに同級生と打ち解け、素性を隠さなくていい環境で、居心地がとても良いのだと言い毎日楽しそうに通学している。

 寝不足でも、学校は楽しく、苦にならないと璃来はここのところ上機嫌だ。

 対照的に、灯名はどこか、わだかまる仄暗い感情を胸に宿していた。

「……楽しそうだな。
 僕といるより、学校にいるほうが楽しいか?」

 灯名の絶対零度の声音に、喋り続けていた璃来が、はっと口を閉ざす。

「な、何よ、何で怒ってるの、灯名?
 灯名といてつまらないわけないじゃない。
 ただ、自分を偽らなくてもいい環境が、初めてだから、つい興奮しちゃって……。
 灯名はまだ隠さなきゃいけないのよね、灯名の気持ちも考えなきゃいけなかったわね、ごめんね、灯名」 

 璃来が眉を下げて謝ると、灯名はふいと顔を反らしてしまうが、背けられた横顔の口元に、笑みが刻まれたのを見て、泉はほっと胸を撫で下ろす。

 璃来に対する灯名の、単純なやきもちだったのだろう。

 仲間が、新しい環境で、知らないうちに変わっていくことに、不安を抱くことには納得が出来た。

 しかし、まるで恋人のような会話だな、と泉は思った。

 灯名がやきもちを焼き、璃来が慌てて謝罪する。

 灯名が機嫌をやや回復させた横で、泉は、紅に視線をやる。

 いつも、璃来と会話の主導権を争っている紅が、やけに静かなのだ。

 他の人の話をにこにこして聞いている──ことは紅の性格上、中々想像出来ない。

 誰が話していても、紅は会話に割り込むし、茶化したりからかったり、とにかくいつも良くも悪くも口数が多い。

 泉も、正直、紅の明るさに助けられたこともあるが、騒がしいと思うこともある。

 そんな紅が誰の話にも口を挟まず沈黙していることは、泉から見れば異常事態だった。

 どうしたのだろう、と思いはしたが、尋ねる勇気が出なくて、結局夕食は終わり、キッチンを片付けた紅は風呂に行ってしまった。


 最後に風呂に入り、火照った身体を冷ますため、水を飲んでいた灯名は、そろりと音もなく近づいてきた紅にびくりとした。

「な、何だよ、びっくりさせるなよ、紅」

「話があるの、こっち来て」

 灯名の抗議を無視して、紅は間接照明しか点いていない薄暗いリビングのソファへと腕を引く。

 紅が力いっぱい灯名の身体を押す。

 ソファに倒れ込んだ灯名は、突然のことに目を白黒させる。

「べ、紅?
 どうしたんだよ、一体……」

 困惑する灯名の身体に被さり、涙声で紅がまくし立てる。


「みんな、あたしを置いてけぼりにして、ひとりにして、平気なんだ!
 みんなには夢があって、なりたいものがあって、みんな、どんどん進んでいって、あたしはひとり、誰の役にも立たなくて、いてもいなくても、灯名たちは構わないんでしょう?」

 涙まじりの甲高い声で、紅が感情的に叫び続ける。

「落ち着けよ、紅。
 紅がよくやってることくらい、みんな、わかってるよ」

 自分に伸ばされた紅の手を掴み、灯名は抱擁するように紅の身体を包み込む。

「だから、嘘!
 みんな、あたしのことなんかどうでもいいんでしょう!
 夢を叶えたら、忘れちゃうんでしょ、あたしのことなんて。
 あたしだけ、何者にもなれなくて、置いてけぼりで……。
 ねえ、灯名」

 紅が灯名にキスをした。

 唇を離すと、呆然とする灯名の胸に顔を埋めて、紅が悲痛な声で打ち明けた。

「……好きなのよ、あたし、灯名のことが……。
 女が女を好きだなんて、あたしにもわけがわからないけど、そうなの。
 止められないの、理屈じゃないのよ……気づいてよ……」

 いやいやをするように首を振りながら、紅は弱々しく灯名に抱きつく。

「ごめん、紅。ごめん」

「謝らないでよ、あたしが惨めじゃない……」

 灯名が身体を受け止めると、紅は声を上げて泣き出した。

 その丸まった背を、灯名の手が優しく撫でていく。

 少し落ち着いたのか、くぐもった声で紅が話し始める。

「わかってるんだけどね。
 灯名は、璃来を好きなんだってことくらい」

「……え?」

「自覚はないだろうけど。
 ふたりには、あたしが入り込めない絆があるって、わかってる。
 だから、灯名を好きなこと、黙っておこうと思ったのに。
 ダメだね、みんなが眩しく輝いてるから、置いていかれるって、怖くなっちゃって、焦っちゃった、あたしらしくないなあ、本当に」

 紅には、すっかりいつもの明るい表情が帰ってきている。


「あーあ、何で人を想う気持ちって、こんなに複雑なのかね。
 形に出来ない関係ばかり。
 誰を好きになるのが正しいなんて、決まってないかもしれないけどさ。
 苦しいものは、苦しいよね。
 あたしって、本当、とことん『普通』からかけ離れてるな。
 今夜のこと、璃来たちには言わないでね。
 明日からは、いつも通り灯名に接するつもりだし、振られたなんて知られたら恥ずかしいし。
 璃来に何て言われるかわららないし」

「わかった」

「じゃ、おやすみ」

 灯名から身体を離すと、ひらひらと手を振って、紅はリビングを出て行った。 

 放心した灯名は、呼吸をするのも忘れて、誰もいなくなったリビングで嵐吹き荒れる心を鎮めようと瞳を閉じた。


 翌朝、宣言通り、灯名と紅は昨夜のことなど、なかったかのように変わらず顔を合わせ、朝の挨拶をし、5人で朝食を摂って、家を出ていく3人を笑顔で見送る──つまり、いつもの朝と、何ら変わらない一日の始まりを迎えたのだった。

 朝食の席で、今日は早く帰るようにと、紅が高らかに宣言した。

「今日は全員早く帰るように」

 璃来は箸を口に運びながら、「どうして?」と疑問を呈する。 

「今日ね、所属モデルとして事務所のサイトに灯名の宣材写真、ていうのかな、それが載るんだって。
 レッスンを終えて、プロのモデルとしての第一歩の、めでたい日なの。
 だから、今日はお祝いのパーティーをします」

「また『めでたい日』?
 高校時代にもあったわよね、めでたい日」

「ああ、あったね!
 初めて4人が顔を合わせた日ね!
 とにかく、今日は早く帰ること、いいわね?」
 

 その日の夜、主役の灯名がテーブルにつき、ささやかなパーティーが始まった。

 テーブルには、スーパーのお惣菜と紅のアシスタントとして、泉が調理を手伝った料理も、堂々と並んでいる。

「お祝いまですること……?」

 灯名は目の前の豪勢な料理にやや面食らって呟いた。 

「決まってるじゃない!
 みんなの中で、一番最初に夢を叶えたのよ、すごいことじゃない!
 じゃ、乾杯しよ、乾杯!」

 紅は自分のことのように喜んで、グラスを頭上にかかげた。

 やれやれといった様子ながら灯名もグラスをかかげ、全員でカチン、とぶつけ合うと、自然と笑い声が生まれた。

 自分も、と泉は密かに灯名に憧れを抱く。

 先生になるという夢を叶えるため、大学受験という目標を突破した。

 夢に繋がる次なる道は大学への通学と、卒業だ。

 自分も灯名のように自信に満ち溢れ、ひたと目標を見据えてぶれない日々を過ごしたい。

 そうした日々を超えてこそ、自分の夢は叶うのだろう。

「モデルかあ……。
 灯名、本当にすごいわよね」

 紅がスマホを取り出し、今日何回目かの事務所のサイトを表示する。

 所属モデルとして灯名の写真が載ったサイトを、午前中から何度も眺めては、にやにやと笑いを浮かべている。

 変わり映えのしないスクリーンショットを、もう何回撮っただろう。

 食事中ですよ、と見かねた泉が注意しようとすると、突然紅が眉を寄せた。

「なにこれ……?」

 不穏な気配を孕んだ紅の声音に、隣の璃来がスマホを覗き込む。

「やだ、誰が……」

 璃来も口元を押さえて動揺を隠せないでいる。

 泉が、どうしたんですか、と尋ねようとしたとき、紅がスマホを灯名に手渡し、泉は隣から遠慮がちに覗き込み、息を呑んだ。

『モデルの《Hina》は性同一性障害』
『モデル仲間のみなさん、気をつけて!みなさんの着替えを《Hina》はエロい目で見ていますw』

 SNSへ書き込まれた匿名の投稿を読んで顔面蒼白になる一同をよそに、やはり来たか、と灯名はいつもの無表情で、スマホの画面を睨んでいた。

「これって……」

  灯名は《Hina》という名前でモデル活動をしている。

 しかし、一体誰がこんなことを……。

 灯名の足を引っ張るのが目的のような悪意のある書き込みに、紅たちにどす黒い怒りが湧き出す。

「……高校の同級生か、他の学年の誰かだろうな。
 顔をさらす職業に就いたときから、こうなることは覚悟の上だ」

 灯名は冷静そのもので、わたわたと慌てているのは、紅たち周りの人間だけだ。

「こんなのが拡散されたら灯名の将来はどうなるの?」

 不安顔の紅に、やはり灯名は淡々と答える。

「わからない。
 社長が僕をクビにするかどうかだ。
 僕に決定権はない」

「灯名……灯名、ごめん。
 本当にごめんね……」

 見ると、璃来が両手で顔を覆って、絞り出すように謝ったままテーブルに突っ伏して泣き崩れていた。

 そんな璃来に言葉をかけようとした灯名のスマホが着信を告げた。

「社長だ……」

 画面を見て、灯名が小さく呟く。

「はい……はい、わかりました」

 短い通話を終えると、灯名が立ち上がった。

「社長も書き込み見たみたい。
 話があるから今から事務所に来いって。
 ちょっと出てくる」

 さっさと玄関へ向かう灯名を追いかけながら、「大丈夫なの?」と紅が今にも泣き出しそうに表情を歪めて尋ねる。

「わからない。
 社長が何て言うかは、行ってみないと」

 灯名はタクシーを拾うと、事務所へと急いだ。

 そして、待ち受けていた生方俊子は、灯名の困惑を誘う提案をしてきた。


 結局、灯名が帰宅できたのは、日付をまたいだころだった。

 頭の中では先程、生方俊子から聞かされた話が渦を巻いている。

 本当に、生方社長の提案は上手くいくのだろうか?


 混乱とともに家に着くと、窓から灯りが見えた。

 リビングで待ち構えていた4人に、灯名はたじろぐ。

 泣きはらしたのか、璃来の瞳は真っ赤に充血している。

「僕を待ってたのか?
 寝てて良かったのに」

 ダイニングテーブルの料理は片付けられていたが、ひとりもソファを立とうとはせず、ひたすら灯名の帰りを待っていたようだ。

「で、どうだったの、灯名」

 紅が真っ先に立ち上がって灯名に問いただす。

「うーん、どうっていうか」

 灯名は煮えきらない返事をして、指定席に腰を下ろす。

「さすが生方社長って感じだな。
 転んでもタダじゃ起きないっていうかさ」

「ごめん、あたしのせいで本当にごめんね、灯名……。
 モデル、クビにならなかったの?」

 瞳に涙を溜めた璃来が、上目遣いで灯名に尋ねる。

「璃来……。
 ずっと言ってるだろ。
 璃来をいじめから助けたこと、後悔はしてないって。
 自分を責めるのは、いい加減にやめてくれよ」

 一拍置いて灯名は続ける。

「クビにはならなかったよ。
 さすがに社長も性同一性障害だって知ったときには驚いたらしいけど、本当なのかって訊かれて、本当だって答えたら、じゃあ、公表しましょうって」

「公表?」

 全員の視線が集まり、居心地が悪そうに身じろぎしながら、灯名がうなずいた。


「男の心を持つ女性のモデル。
 その事実を公表して、社会に一石を投じましょうってさ。
 話題も集められるし、名前を売るのには、ちょうどいい機会かもしれないって言われた」

「ちょうどいいって……。
 あの女社長、やるわね」

 紅は、一度会ったきりの、生方俊子の顔を思い出しながら、不敵に笑った。

「でも、マイナスに働くことはないのかしら?」

 目元を拭いながら、不安げに自分を見つめる璃来を見つめ返しながら、灯名は少し首をかしげる。

「どうだろうな。
 モデルって、あくまで服の引き立て役だろ。
 雑誌でもショーでも、主役は洋服。
 そのつとめさえ果たせば、モデルの心が女だろうが男だろうが、関係ないのかもしれない」

 誰からともなく安堵の吐息が洩れる。

「ただ……考えがあるから、明日からはしばらく休みでいいって言われたのは気になるな。
 何をするつもりなんだか」

「生方社長が、何かするってこと?」

「うん、何かよからぬことを考えてるみたい」

 灯名はやり手と噂の、生方俊子のいたずらを企む子供のような笑顔を思い出して渋い表情になる。

「紅、せっかく料理作ってくれたのに、悪かったな。
 何か、僕のせいでみんなに迷惑かけちゃったみたいで、ごめんな」

 心底申し訳なさそうにうつむいた灯名に、紅は殊更明るく言葉を踊らせた。

「なに言ってるのよ、最悪の結果にならなくて、本当に良かったわ。
 みんな、遅いし、簡単にシャワー浴びて寝よっか」

 紅の言葉につられるようにして、全員が席を立つ。

 

 誰も見ていないことを確認して、泉が草介へと近づく。

「草介くん、ちょっといいかな?」

 神妙な表情を固まらせたままの草介が、泉を振り向く。

「部外者の私が言うことじゃないことは、わかってるんだけどね……。
 その、あまり自分を責めないでほしいなって」

 ここ数時間、草介は思い詰めた表情で、一言も言葉を発していない。

 灯名が自分の秘密を暴露するに至ったきっかけは、草介へのいじめを璃来がとがめたことが発端だと、灯名が家を出ていったあと、紅が話してくれた。

 であれば、当然、灯名が陥ったこの窮地は、自分のせいだと、草介が自分を責めるのは目に見えている。

 自分は、4人が過ごしてきた地獄にも似た過去を知らない。

 口を出す資格がないのは承知の上だ。

 それでも、厚顔無恥のふりをして草介に告げる。

 苦しんでいるのなら、分かち合いたい。

 負担させてほしい。

 草介は優しい。

 自分を助けてくれた彼が、傷つく姿を見ていることは、何よりも苦痛だった。

 草介が沈んでしまいそうになったら、その手を掴んで、引っ張り上げなくてはならない。

 多少強引であろうとも、草介がそんなこと望んでいなくとも、それが自分の役目なのだと、泉は勝手に確信していた。

「ね、ひとりで背負い込まないで。
 つらかったら、その、私がいるから。
 話聞くことくらいしか出来ないけど、草介くんの味方だから、草介くんがどう思おうが、私は草介くんの味方だから」

 泉の言葉に、草介が顔を上げて、目を見開く。

 そのまま、呆然と泉を眺める。

 こんなに長い時間、目が合うなんて初めてだな、と思いつつ、泉は微笑みを草介に返した。
 
 ──気持ちが、伝わっていればいいけど。

「ありがとう」

 静かな部屋でしか聞き取れない小さな声で、草介がささやいた。

 思わず泉の顔が綻ぶ。

「うん、また明日ね、おやすみなさい」

 草介を見送り、照明のスイッチを落とすと、泉も自室へと戻っていった。



 翌日から、男の心を持つ美貌の新人モデル《Hina》の話題で、ネットは持ち切りだった。

 理由は、《Hina》を発掘した事務所の社長、生方俊子がネットの配信番組に次々出演したからだ。

 生方俊子は、《Hina》がいかに優れたモデルであるか語り、社会に向けて、問題提起して回った。

 他人のプライバシーをネットに書き込み、拡散させて、名誉を傷つけておきながら、投稿者は匿名で、何の責任も負わされない矛盾。

 性同一性障害であることを理由に、望んだ職業に就くことが出来ない社会の構造の問題。

 世界中で多様性が叫ばれる中での、理解と認識のズレ。

 そんな世の中にあって、《Hina》は社会の象徴であるということ。

《Hina》をどう扱うかで、今の日本の成熟度がわかると、生方俊子は熱弁を振るった。

 パソコンの前で、生方俊子が出演した番組を見ながら、灯名と泉、紅は苦笑するしかなかった。

 生方俊子の読み通り、《Hina》には、配信番組への出演や雑誌からのインタビューのオファーが相次いだ。

 しかし、生方俊子は、その全てを蹴った。

《Hina》はあくまでモデルであり、話題を集めるための道具ではない、と。

《Hina》が表舞台に出てこないことで、《Hina》の神秘性が高まり、《Hina》の容姿が注目されるようになった。

《Hina》の名前は売るけれど、一過性のタレントとして安売りはしない。

 それが生方俊子の戦略だった。

 無名の新人モデル、《Hina》は、早くも雑誌の専属モデルとして紙面に登場し、洗練された美しさで読者を魅力した。

《Hina》はどんな服も着こなした。

 その凛とした佇まいは涼しげで、他者を寄せ付けないカリスマ性に溢れていた。



 灯名が掲載された雑誌を閉じると、ほう、と泉は息をついた。

 灯名の活躍は目覚ましい。

 同じ家に住んでいることが信じられないほど、手の届かないひとになってしまったようだ。

 今だって、家に帰れば、飾り気のない灯名がいるというのに、まるで実感が湧かない。   


 もちろん、今も灯名を取り巻く環境は、無風ではない。

 男の心を持っていることを揶揄する人間は絶えないし、色眼鏡で見る人間もいなくなったわけではない。

 けれど、そんな世間の逆風に対して、一本軸を持って立ち向かっている灯名に憧れる同性の女性も確実に増えてきている。

 泉も、困難な中、好奇の目に潰されることなく自分を貫いている灯名に感化されたひとりだ。

 灯名から、数え切れないほどの勇気を与えてもらっている。

 灯名のように、自分も頑張りたい。

 『夢』に近づきたい。

 パニック発作は、未だに治まらないが、草介に手を握られ、電車に乗って大学に通う日が増えた。

 薬も定期的にもらい、完治は期待していないが、この厄介な病気と気長に付き合う決意を固めたばかりだ。

 それでも、『普通になれない』自分に、負けてしまいそうなときは、草介の手を頼ってしまう。

 泉の病気を、完全には理解出来ないだろうが、寄り添うようにそばにいてくれる。

 自分たちを形容する言葉はなんだろう。

『友達』『仲間』『恋人』。

 どれも当てはまりそうで、でもどこか違う。

 自分を拒否することが、見捨てることが絶対ないと断言出来る『理解者』。
 
 それが、一番自分たちを表すのに的確な表現のように思われる。

 泉は雑誌をカバンにしまい、席を立つと、大学の最寄り駅で電車から降りた。

 もうすぐ夏休みだ。

 遅れてしまった勉強と、出席日数を補うために長い休み期間を有益に使わなければならない。

 電車を降りる際、目に入った雑誌の中吊り広告の見出しが蘇る。

『マイノリティ──少数派であるということ』

 最近、こういう特集を目にする回数が増えた。

 灯名の件があってから、特に急増した印象だ。

 カバンにしまった雑誌に、目を落とす。

 灯名は確実に社会を変えている。

 『マイノリティ』の希望として、矢面に立ち、闘っている。

 認められようともがいている。

 シェアハウスに暮らす、自分を含めた5人は、間違いなく『少数派』だ。

 以前なら、その事実に萎縮していただろう。

 でも、今は違う考え方が出来るようになっている。

 マイノリティだって、いいじゃないか。

 それだって個性で『偽らざる自分』だ。

 生き方に優劣とか、正しさや間違いもない。

 一番重要なのは、自分が自分を認めてあげられるかどうかだ。

 自分や誰かを愛する心が持てるかどうかだ。

 それだけで、ゆとりも心の平穏も生まれてくる。

 もう一歩、踏み出そうという勇気が湧いてくる。


 つい最近、長い前髪を潔く切った草介に、泉は微笑みかけた。

「草介くん、いつもありがとう」

 そういうと、草介がじっと泉の目を見つめる。

 少し前まで、草介が真っ直ぐ目を合わせてくれることはなかった。

 泉をひたと見据えた草介は、少し不思議そうに首をかしげた。

 お礼を言われた理由がわからないらしく、草介の首はどんどん傾いていく。

「……感謝されるようなこと、僕、何かしたかな?」

「うん、いいの。
 草介くんは、変わらないで、ずっとそのままでいてね」

 燦々と照りつける太陽を仰ぎ、微笑んだ泉は、草介の背中に、そっと頬を寄せた。



 数千人の観客が集まった会場は、熱気で満ちていた。

 目立つのは、お洒落に敏感な若い女性だ。

「変じゃないかな?」

 最前列に座った草介は、自分の服を見下ろしながら不安げに隣の泉に耳打ちした。

 泉は苦笑いして、「大丈夫だよ」とうなずいた。

 紅は、金色だった髪をブラウンに染め、ギャルメイクもだいぶ落ち着いている。

 泉と草介は、この春大学を卒業し、小学校の新人教師として勤務することが決まっていた。

 就職前の最後の休みに彼らが訪れているのは、若い女性をターゲットにしたファッションショーの会場だった。

 お目当ては、モデルとして、ランウェイを歩く《Hina》だ。

 波乱の幕開けだった灯名のモデルとしての活躍は目覚ましく、逆風をものともしない凛とした佇まいで、強い女性の象徴として、同年代の若者から支持を集めている。

 性同一性障害だと公表したことも、多様性を重視する現代の風潮に合致して、《Hina》は唯一無二の存在感を放っていた。

 会場の照明が落とされ、レーザーが乱反射し、軽快なBGMが鳴り、ショーは開幕した。

 トレンドの、季節先取りの服に身を包んだ人気モデルたちが、ランウェイを歩くたびに歓声が上がる。

「来るわよ、灯名!」

 会場の誰より興奮した声で紅が叫び、拍手しながら目を輝かせた。

 一際大きな声援を受け、《Hina》がランウェイに登場した。

 人気ブランドの新作を着こなした灯名は、ランウェイを颯爽と歩き、ロングスカートを翻しながら最前列の前を通り過ぎるとき、泉たちに気づくと、いたずらっぽい微笑みでウインクし、堂々と役目を終えて去っていった。

「きゃあ!ウインクした!
 泉、見た?
 あたしたちにウインクしたのよね!?」

 立ち上がらんばかりに興奮した紅を宥めながら、泉は苦笑した。

「近くに座ってる人は、みんな、そう思ってるよ」

 実際、泉たちの付近に座る観客たちは、「Hinaと目があった!」「Hina、あたしたちにウインクしたよね!?」と大興奮していた。

 草介が、「恥ずかしいから」と紅を座らせる。

 灯名が出演するイベントを見に来たのは、これが初めてというわけではないし、家に帰れば灯名本人がいるにも関わらず、紅はイベントのたびに推しているアイドルのライブに来たかのように興奮する。

 そんな紅を落ち着かせるのが、いつからか泉の役割りになっていた。

 
 
「灯名、お疲れ!」

 舞台裏に帰ってきた灯名を、満面の笑みの璃来が迎えた。

 人目も憚らず、灯名にぎゅうっと抱きつく。

 灯名は目を白黒させながら、璃来を引きはがそうとする。

「璃来、みんな見てるから」


「なによ、やっと夢が叶ったのよ、余韻に浸らせてよ。
 プロのモデルになった灯名をメイクしてランウェイに送り出す……まだアシスタントだけど、こんなに早く夢が叶うなんて思わなかったわ……。
 感無量よ、本当に。
 かっこよかったわ、灯名」

 潤んだ璃来の瞳を、灯名は呆れたように眺めるが、目元は優しく笑みの形になっている。

「僕たちの夢は、まだまだ続くだろ、今から満足されちゃ困るよ。
 早く一流のヘアメイクになって、僕に追いついてよね」

「むー、言うわね、灯名。
 ま、確かにまだあたしはアシスタントだからね。
 プロの灯名を担当させてもらうには、しばらくかかりそうだし……。
 でも、待ってなさいよ、すぐに追いついて、引っ張りだこのヘアメイクになって、灯名の方からメイクしてくださいって言わせるんだから!」


「楽しみに待ってるよ」

 灯名は不敵に笑ってみせる。

「とにかく、今日はお疲れ様。
 客席にいた紅が、興奮してたから、帰ればまたうるさそうだけど」

「仕方ないわね、紅は。
 イベントのときは、ただのいちファンになるのよね。
 ひとつ屋根の下に住んで、毎日一緒にいるのにね」

「本当、不思議だよな」

 ふたりは顔を見合わせて噴き出す。

「でもそこが、あたしたちの帰る家なのよね」

「そう、ちょっと賑やかな僕たちの居場所だ」

 きらびやかなステージを舞台裏から眺めながら、灯名が感慨深そうに言った。

「どんなことがあっても、僕たちが帰る場所だ」

 明滅する照明に照らされた灯名の横顔を見て、「そうね」と璃来が笑った。


 ファッションショーが無事幕を下ろし、観客は雪崩れるように出入り口に殺到している。

 はしゃぎ疲れたのか、紅はしばらく観客たちをのんびりと眺めていたが、気怠そうに立ち上がりながら、泉と草介に声をかけた。

「じゃ、帰ろっか、あたしたちの家に。
 今日も、灯名のお疲れ会するわよ。
 腕によりをかけて夕飯作るんだから」

 泉が苦笑する。

「またパーティー?
 紅は本当、灯名が好きだよね」

「決まってるでしょ、あたしは灯名の一番のファン。
 それは永遠に変わらないの。
 買い出しして、灯名と璃来が帰ってくるの待つわよ」

 「私も手伝うよ」と言いながら泉も立ち上がる。
 
 

 そして、それが当たり前であるかのように、草介が泉に手を差し出した。

 泉がその手を握り、ふたりは手を繋いだ。

 それを見た紅が、微笑ましそうにくすりと笑う。

 3人は肩を並べて会場の外へ歩き出した。

 自分たちの、帰る場所に向かって。