——俺は、今のままでいたいんだ。
 変わりたくなんかない。
 変化なんて求めていない。
 本当は、小説なんて書き終わりたくなかった。毎日動画の中の彩葉を眺めて、彩葉との思い出に浸って、やさしい時間を過ごしていたかった。
 でも、それを彩葉は望んでいない。
 ……いや。
 今、彩葉の気持ちは関係ない。
 これは自分で決めることだ。
 誰に言われたからでもない。俺は、自分の意思で、変わることを決断するんだ。

「……陽斗は、決めたんだ。……彩葉の死を、受け入れて……自分の選んだ道を進もうと」

 涙がこぼれた。
 その涙を拭うことなく、うしろを振り返る。
 そこには、俺の左手の小指から伸びる、赤い糸の終着点があった。
 糸は宙に浮いたまま、途中で消えている。本棚と本棚の間に置いた椅子の上、座面から少し浮いた場所で、溶けてしまったかのように途絶えている。
 ——彩葉はこの三年間、ずっと俺のそばにいた。
 身体を失くしてもなお、俺を支え続けてくれた。
 姿は、見えない。声をかけても返事はない。それでも、大学から帰ってくると玄関で待っていてくれる彼女を、キッチンへ立てば横に寄り添ってくれる彼女を、想わない日はなかった。
 この生活が永遠に続くといい。
 ずっとふたりでいたい。
 でもそれは、彼女にとっていいことなのだろうか。
 俺は長い間、赤い糸にしばられて苦しんできた。なのに今、俺は逆のことをしている。彼女を赤い糸でしばり、本当は行くべき場所があるはずなのに、この場所に留めさせている。
 そして俺も、まだ立ち止まったままだ。

〈大好きなきみが、私を忘れて、新しい道を歩いていけますように〉

 俺だって、同じ気持ちだ。
 彼女のことを忘れることはない。それでも。
 ……俺は、俺たちは、前に進まなきゃ。
 ふと、赤い糸が動いて、ソファに座る俺の横に移動した。
 その先端が俺の顔に伸びてきて、頬を撫でる。そこにはなんの感触もない。けれど、たしかに彼女のあたたかな指先と、愛情に満ちた視線を感じる。
 それが最後の触れ合いなのだと、告げられたわけでもなくわかっていた。

「……彩葉」

 何度も呼びかけ続けたこの言葉も、きっと、これで最後だ。
 彩葉は俺のもとを離れるだろう。
 彩葉はずっと、俺がエピローグを書き切るのを待っていてくれた。
 俺がまた立ち上がる姿を、見届けようとしてくれていた。
 最後まで、彩葉は俺のことを考えて、信じていてくれていたんだ……。
 そんな彩葉に俺がしてあげられることがあるとすれば、俺自身が幸せになることしかない。
 そして。
 彼女が消えるその瞬間まで、変わらないこの想いを、伝え続けることなのだろう。

「彩葉。好きだ。……ずっとずっと、好きだよ」