「……彼女がいなくなり、浅見陽斗はしばらくの間、心に穴が空いたような日々を過ごしていた……」

 紙の束を手に取り、完成したエピローグを読みはじめた。
 声に出すのははじめてで、妙な恥ずかしさを覚える。
 まるで作文のような、へたくそな文章。小説の体裁すらとれていない。不規則な単語の羅列は、彩葉の書いたものと比べるとあまりに、幼い。
 それでも、何度も推敲をして形にしたそれは、短いものの、俺の大切な記憶の結晶となった。

「……彼女に託された小説には、続きを書いてほしいとメモが遺されていた。けれど、まるで手は動いてはくれなかった。小説なんて書けるわけがない。浅見陽斗という人間は、ときどき恋愛小説を読んでいただけの、ごく平凡な人間だ。もちろん小説なんか書いたことはないし、書き方も知らない。なにより、彩葉を失くした今、到底そんな気分になれなかった。……それでも陽斗は、つらい日々を過ごす中で、何度も彼女の言葉に救われることになる」

〝私だったら、我慢しないよ〟
〝じゃあ、浅見くんの今の気持ちはどうなるの?〟
〝この痛みが、いつか自分の支えになってくれるって信じてるから〟

 彩葉はいなくなってもなお、俺を支え続けてくれた。
 誰かと関わるたびに、彼女は助言をくれた。後押しをしてくれた。彼女はいつも俺のそばにいて、——俺と一体となって、俺を導いてくれた。
 そのことを、どんなにうれしく思っただろう。
 彩葉はいなくなったわけじゃない。
 俺の中に息づいて、ともに、生きていた。

「……そして、陽斗は思った。俺も、彩葉に向けて言葉を残そうと。そしてこれからは、彩葉のように、自分のしたいことに目を向けてみよう、と……」

 今までの、無気力に生きてきた自分はまやかしだ。俺の中には、たしかにやりたいことが眠っていたのだ。それは彩葉が気づかせてくれたことだった。花火のときのように、自分で企画して遊びに行くこと。異性と関わること。誰かを、笑顔にすること……。
 そして、その中でも興味を持ちはじめたのは小説だった。
 太宰治の小説を読み終わり、最後のページを閉じた瞬間、俺は自分の心が動いていることに気づいた。
 それは、恋愛小説の中に入り込み、現実から逃避したような感覚ではなかった。
 純粋に、文章の美しさを、ストーリーの起伏を、人間の心模様を感じ取った喜びだった。
 それから、俺は文芸部にあった小説を片っ端から読みはじめた。姉ちゃんの部屋にある恋愛小説をもう一度、意識を変えて読み直した。一文一文を汲み取るように、心の動きを味わうと、胸が震えるような感動があった。
 そして俺は、進路を変えた。
 大学に行くのは変わりないけれど、選んだのは——文学科だ。

「別に、将来作家になりたいとか、小説に関係する職業に就きたいとか、そういうわけじゃない。ただ、陽斗は自分の気持ちと向き合いたかった。自分の意思で道を決めたかった。彩葉のように、自分の好きなこと、自分が好きになれるものを知りたかった」

 そして、俺は大学を合格した。
 新しい日々は、楽しかった。新しい友達と話すことも、授業も、書店ではじめたアルバイトも、忙しいけれど充実した毎日を過ごすことができた。
 そして、大学生になって一年。
 俺はようやく、彩葉が遺した小説と向き合おうと思えたのだ。

「二年生になった春から、陽斗はエピローグを書きはじめた。陽斗は彩葉がいなくなってからどう生きたのか、振り返りはじめた。ほんの少しのエピローグだけれど、半年以上をかけ、何度も書き直して、彩葉の三年目の命日に書き終えた。陽斗は……」

 ……陽斗は。
 唇が、止まる。
 この先を、言葉にしたくなかった。
 でも、もう文章は完成しているのだ。目の前にある。印刷した文章は残り、数行しかない。
 それでも、声が出なかった。
 これを読んでしまえば、俺は本当に変わらなければいけなくなる。
 無気力に生きていた過去の自分も、彼女を失い泣いていた自分にも別れを告げ、新たな道を進まざるを得なくなる。
 それがずっと、怖くてたまらなかった。