ごめん。
 また、俺は桜庭に助けられている。
 なのに、まだ、なにも返せていないんだ。
 やさしさも。
 支えられたことも。
 強い、想いも。
 なのに、どうして桜庭は最後の最後まで、俺に与え続けるんだ。
 こんな状態になってもどうして、与えられるんだ。
 桜庭は、いつもそうだった。
 恋を諦めていた俺に、前を向かせて。恋することを、教えて。
 最後には、俺の未練にならないよう、突き放して……。
 頬に触れる桜庭の手を掴もうとして、ふと、桜庭が唇を懸命に動かしていることに気づいた。
 もう動かない筋肉で、それでも諦めず、なにかを伝えようとしている。
 必死な表情で、乾いた唇を横に広げ、声を出そうとしている。

「……〝い〟……」

 そう応えると、桜庭はほっとしたように微笑み、次の単語を表現する。
 唇を小さくすぼめる。
 そして次は、大きく開く。

〝い〟。
〝ろ〟。
〝は〟。

「……彩葉」

 名前を呼ぶと、桜庭はにっこりと笑った。
 いろは、と呼ぶ俺の声が、とてもあたたかく、部屋の隅々に広がった。

〝彩葉って呼んでね!〟

 名前で呼ぶのは、恋の証だった。
 ただそれだけのことが、俺にとっての、精いっぱいの愛情表現のように思えた。
 俺と彼女の恋は、今、ようやくはじまったんだ。

「彩葉……彩葉」

 繰り返す。彩葉は満足そうに笑って、小さく息を吐き出す。
 たった三文字の言葉が、愛おしい。
 この手を二度と、離したくない。

「好きだよ。……彩葉」

 足りなくて、何度も繰り返した。

「好きだよ。好きだよ、彩葉。好きだ。……だから……」

 唾を呑む。
 息を止める。

「ずっと、そばに、いてほしい」

 子どもみたいな願い。彩葉だって、そんなことは無理だとわかっている。
 それでも、彩葉は俺の言葉を受け入れ、頷いてくれた。
 桜庭の左腕が上がる。
 桜庭の口角が和らいでいる。
 俺の前に突き出されたのは小指だった。
 左手の、小指。
 その仕草は、普通の人にとっては〝約束〟の意味があり。
 ——俺たちにとっては、もうひとつの意味がある。

「……ずっと、そばに……」

 袖で目を擦り、涙を拭うと、俺は自分の左手に触れた。
 引きちぎった赤い糸は、短くなったけれどまだ小指についている。
 その先端を持ち上げ、同時に、彩葉の小指に触れた。