桜庭の家は、冴子さんがしっかり管理しているのか、隅々まできれいに整えられていた。
 リビングは落ち着いた色合いのソファやラグで彩られ、棚の上には家族写真が飾られている。そこ映っているのは冴子さんと桜庭だけで、父親の姿はない。……俺はやっぱり、桜庭のことをなにも知らないんだ。
 部屋は昼間だけれど照明がつけられ、カーテンも開け放たれている。なのに、どこか薄暗かった。
 きっと、この家を明るく照らしていたのは桜庭だったのだろう。
 桜庭は、自らが光を放ち、包み込む力があった。
 桜庭がそこにいるだけで、まわりの人を明るくさせる力があった。
 俺もきっと、その光に照らされ、救われたひとりだった。

「……桜庭」

 冴子さんに促され、桜庭の部屋をノックする。ドアを開けると、そこは真っ白でそっけない病室とは違い、生活感のある部屋があった。
 どこもかしこも、本棚で埋まっている。ずらりと並ぶのは文庫ばかりで、女の子らしいものはなにもない。はじめて桜庭の、内側に足を踏み入れたような気がした。
 その、自分だけの世界の中に、桜庭はいた。
 ベッドに静かに横たわり、ぼんやりと俺を見返していた。

「さく……」

 その顔を見た瞬間、無意識に押さえ込んでいたものがあふれ出てきた。
 目を逸らしてきた現実。
 自分に嘘をついていたこと。
 桜庭への、強い、気持ち。
 どんなに隠そうとしても、恋した人間の前ではすべてが(あら)わになってしまう。
 それはきっと、相手が運命の人であっても、そうじゃなくても、関係ないんだ。

「ごめん……」

 自然と言葉が出ていた。
 俺には、桜庭に謝りたいことがたくさんあった。
 桜庭は、気を抜くと閉じてしまいそうな瞼を懸命に開けて、必死に俺の目を見つめている。

「……ごめん。赤い糸を……切ったんだ。俺」

 桜庭は俺の唇を見ながら、ゆっくりと言葉を咀嚼している。
 そしてやがて、その表情が微笑みに変わった。
 足が自動的に動き、俺は桜庭の傍らにしゃがむと、横たわった左手を手のひらで包んだ。

「ごめん……。桜庭は、俺が、幸せになることを望んでたのに。だめだった。行けなかった。運命の人と恋に落ちるなんて、俺には、できない」

 桜庭の指が、ゆっくりと応える。
 柔らかい。
 あたたかい。
 桜庭は今、生きている。
 なにも変わることなく、懸命に、生きている。

「……好きだ。桜庭」

 ようやく言葉にした想いは、泣き声で震えていて、桜庭の求める王子さまとは程遠いものだった。
 ——桜庭の絵馬には、書いた日付が記されていた。
 はじめは気づかなかったけれど、付箋の下に書かれていたのだ。その日付は、一週間前。
 〝浅見くんのことが好きなわけじゃないの〟——桜庭がそう言った、あとのことだ。
 桜庭はそのころ、もう動けない状態だったと思う。だからきっと、冴子さんが代理で絵馬を持っていったのだろう。

〈大好きなきみが、私を忘れて、新しい道を歩いていけますように〉

 俺への想いを胸に留めたまま、切なる願いを、神さまに託すために……。

「桜庭。好きだよ。好きだ。だから、いなくなるな。桜庭がいなくなったら俺、どうしたらいいのかわからないんだよ」

 自分でも、情けないことを言っているのはわかっていた。でも言葉は止まらない。
 どうして俺は、こんなに弱いんだ。
 死の恐怖に怯えているのは、桜庭なのに。怖くて、泣いてすがりたいのは桜庭のほうなのに。
 どうしても、桜庭がいなくなることを受け入れられない。
 拒否したい気持ちを抑えられない。
 なんで俺は、最期まで、桜庭の支えになれないんだ……。
 ふと、桜庭の右腕が俺の手から離れ、ふわりと持ち上がった。
 緩慢とした動きで、その手が上がっていく。なにかを、しようとしている。そんな桜庭を邪魔することもできず、俺はじっとその指先を見つめた。
 腕はやがて俺の顔にたどり着き、頬に触れた。
 そして、ゆっくりと撫でる。濡れた頬を拭うように。力のない指先で、何度も。
 笑顔のままの桜庭は、一点の曇りのない、晴れ渡った空のような表情をしている。

「……さく……」