「……こんなの、捨ててよかったのに」

 桜庭は、この付箋をずっと持っていたのか。
 こんなもの、どうでもいい。ただの気まぐれで書いたものだったのに……。
 あの日、図書館で忘れ物の小説を見つけた俺は、勉強もそっちのけでそれを読んでいた。
 書かれていたのは、高校生たちが織りなす重い群像劇だった。ある生徒は家庭環境が悪く、ある生徒は素行が悪く、すべての生徒が苦しんでいた。——病気の生徒も、いた。
 それでも、生徒たちは互いに自分たちの思いを吐露し、どうにもできないこの現状にわずかな希望を見出して、前に進んでいくのだ。
 いつも俺が読んでいる恋愛小説と比べると重い内容だったけれど、読み進めれば進めるほどのめり込み、俺は二時間をかけて読み終えた。
 外を見ると、もう日は暮れていた。勉強をしにきたはずなのに、なにをしているんだろうと思う。でもそんな気持ちもすぐに吹き飛ぶほど、有意義な時間だった。
 いてもたってもいられず、俺はペンケースから付箋を取り出し、感想を書いて最後のページに貼り付けた。

〈おもしろかったです。感動しました。これからも、書き続けてください〉

「——なんで言ってくれなかったんだよ……!」

 涙が風とともに流れていく。
 桜庭は、ずっと俺を見ていたんだ。
 小説を読んでくれた俺を、ずっと見ていた。俺の残した付箋を、大事に取っておいてくれた。
 名前も知らなかったであろう俺のことを、もしかしたら、調べて。
 そして、俺たちは再会した。

〝——浅、見……くん……?〟
〝私ね、たぶんもう、浅見くんのこと好きだよ〟

「……桜庭‼︎」

 息が切れ、足が止まりそうになるのを気力で食いとどめた。
 桜庭はもうあの病院を退院している。今はどこにいるのかわからない。探すのなら、桜庭の家へ行くしかない。
 頭がぐらぐらし、足が痛む。
 涙で前が見えず、何度も転びそうになる。
 情けない。それでも、歩を止めることはできなかった。
 今、この瞬間にも桜庭の命は削られている。もしかしたらもう、……手遅れなのかもしれない。
 それでも、行かないと。
 一秒でも早く、辿り着かないと。

「——う!」

 その瞬間、急に体を引っ張られるような感覚がして足が止まりかけた。
 不自然に感じる引力に、走りながら振り向く。理由はすぐにわかった。
 赤い糸だ。
 俺のうしろを常にまとわりつく、赤い糸。それが不思議と、俺が進むのを阻むように、ぴんと張っている。
 なんだ?
 こんなこと、はじめてだ。
 今までなにがあっても、糸が動くことなんてなかったのに。俺に主張することなんてなかったのに。
 ……いや、ある。
 一度だけ。
 荒川で、赤い糸の彼女が現れた瞬間。俺を呼ぶように、糸で指を引っ張られたことを思い出した。
 ——近づいて、いるのか。
 赤い糸の先を見つめた。
 もしかしたら、彼女が近くにいるのかもしれない。
 理由はわからない。俺の場所をなにかで知って、会いにきているのか。それともまた、偶然か。
 なんにせよ、二度目の運命の再会が迫ってきているのかもしれない。
 そして俺たちは、抗うこともなく、恋に落ちる——。
 先ほどよりも大きく足を踏み出した。
 それでも、糸はあまりにも重く俺をしばりつける。先ほどの半分の速度も出ない。

〝お大事になさってくださいね〟

 俺よりも年上なのか、大人びた彼女の微笑みを思い出した。

「……ごめ、ん」

 走りながら、声を振り絞る。