〈大好きなきみが、私を忘れて、新しい道を歩いていけますように 桜庭彩葉〉
「……桜庭」
思わず呼びかけ、まるで夢の中にでもいるように、しばらくその絵馬を見つめていた。
いつ来たのだろう。
俺たちが神社を見つけたとき、桜庭もはじめてこの神社を見つけたような反応をしていた。ということは、あの日から今日までのどこかで、桜庭はここに来たということになる。
いや……それよりも。
大好きなきみ、って……?
いけないとわかりながらも、絵馬に手を伸ばし、手に取った。木の表面に書き手の想いが溶け出ているのか、ほんのりとしたぬくもりを感じた。
絵馬をじっと見つめる。
そこには願いのほかに、なぜか、小さな付箋が貼り付けられていた。青く細長い付箋で、なにかが書かれている。
その付箋に、どこか見覚えがあった。
……知っている。
俺は、この付箋を知っている。
これ、は……。
頭が急速に回転し、記憶を辿る。
走馬灯のように、過去のあらゆる行動が脳裏に蘇る。
何度も時間を行き来し、記憶の中を探り、ようやくそれを——見つけた。
「……桜庭……」
涙が落ちていた。
とめどなく流れる涙は、やがてそれだけでは留まらず、嗚咽となって唇からも吐き出される。
その場にしゃがみ、息ができないくらい泣いて、泣いて、泣いた。
境内の中に俺の声が響き渡る。
喉が痛み、涙で頬までも痛んでいる。
震える胸を押さえ、無理やりに呼吸を落ち着かせ、ようやく立ち上がった。
踵を返し、階段へと走り出す。境内の外に出て、そのまま道なりに走り続ける。赤い糸の続くほうではく……桜庭の、家へ。
——なんで、忘れていたんだ。
俺は前に、桜庭に会ったことがある。
いや。
桜庭の小説を、読んだことがあったんだ。
〝……忘れ物? ……〟
高校一年生の春。
入学して早々に暇を持て余していた俺は、よく図書館に勉強をしにきていた。
そのころは部室に出入りをしていなくて、俺の勉強場所といえば図書館、一択だった。
その日もVIP席を狙って席に向かうと、運よく人はおらず、確保できた。ただ、人はいなかったけれど珍しい忘れ物があったのだ。
A4の、紙の束。
中を覗くと小説のようなものが書かれていて、赤い字で〈ひらがなにする!〉〈ここ全部削除!〉と、修正が書かれていた。
プロの小説家か、それとも趣味で書いている誰かのものだろうか。どちらにしても、生の原稿を見るのははじめてだった。見てはいけないと思いつつも興味をそそられてしまう。
一ページ目に書かれている作者名を確認した。
俺はごく一部の恋愛小説家しか知らないから、そこにプロの作者名が書かれていたとしてもおそらくわからない。それでも気になって、見てしまった。
〝桜庭……アヤハ〟
彩葉、という漢字が読めなくて、俺は、桜庭があの小説の持ち主であることに気づかなかったんだ。
「——うあっ……!」
自転車が勢いよく曲がり角から飛び出してきて、危うくぶつかりそうになった。
避けたと同時に、手に持っていた桜庭の絵馬を落としてしまった。尻餅をついたまま、涙で滲む視界の中で、必死になって絵馬を探した。
「危ないよ、キミ!」
「……っ、すみません!」
自転車が通り過ぎるのを音で聞きながら、這いずるようにして絵馬を探した。
無意識に、持ってきてしまっていた。
必死になって、アスファルトの上を探す。その間にも、頭の中では桜庭の言葉がリフレインされていた。
——あっちにいい席あるよ! 帰ったらもったいないよ。
——私、邪魔しないから。離れてるから……。ね?
桜庭はきっと、俺が小説の束に触れているところを見ていたんだ。
もしかしたら、桜庭も一年のころから図書館に通っていたのかもしれない。図書館は、俺にとっては勉強をする場所で。桜庭にとっては、小説を書く場所で。
だから桜庭はあの日、図書館にいたのだろう。
桜庭と散歩デートをした、次の日。桜庭は、告白を拒否した俺がもう部室に現れないだろうと考えていた。そして、次の勉強場所として候補にあった、図書館に先回りしていた……。
地面に這いつくばっていると、側溝の近くに絵馬を見つけた。
表面を手で払うと、付箋が剥がれそうになっていることに気づく。落としてしまわないように付箋を剥がし、ポケットにしまい、もう一度走り出す。
「……桜庭」
思わず呼びかけ、まるで夢の中にでもいるように、しばらくその絵馬を見つめていた。
いつ来たのだろう。
俺たちが神社を見つけたとき、桜庭もはじめてこの神社を見つけたような反応をしていた。ということは、あの日から今日までのどこかで、桜庭はここに来たということになる。
いや……それよりも。
大好きなきみ、って……?
いけないとわかりながらも、絵馬に手を伸ばし、手に取った。木の表面に書き手の想いが溶け出ているのか、ほんのりとしたぬくもりを感じた。
絵馬をじっと見つめる。
そこには願いのほかに、なぜか、小さな付箋が貼り付けられていた。青く細長い付箋で、なにかが書かれている。
その付箋に、どこか見覚えがあった。
……知っている。
俺は、この付箋を知っている。
これ、は……。
頭が急速に回転し、記憶を辿る。
走馬灯のように、過去のあらゆる行動が脳裏に蘇る。
何度も時間を行き来し、記憶の中を探り、ようやくそれを——見つけた。
「……桜庭……」
涙が落ちていた。
とめどなく流れる涙は、やがてそれだけでは留まらず、嗚咽となって唇からも吐き出される。
その場にしゃがみ、息ができないくらい泣いて、泣いて、泣いた。
境内の中に俺の声が響き渡る。
喉が痛み、涙で頬までも痛んでいる。
震える胸を押さえ、無理やりに呼吸を落ち着かせ、ようやく立ち上がった。
踵を返し、階段へと走り出す。境内の外に出て、そのまま道なりに走り続ける。赤い糸の続くほうではく……桜庭の、家へ。
——なんで、忘れていたんだ。
俺は前に、桜庭に会ったことがある。
いや。
桜庭の小説を、読んだことがあったんだ。
〝……忘れ物? ……〟
高校一年生の春。
入学して早々に暇を持て余していた俺は、よく図書館に勉強をしにきていた。
そのころは部室に出入りをしていなくて、俺の勉強場所といえば図書館、一択だった。
その日もVIP席を狙って席に向かうと、運よく人はおらず、確保できた。ただ、人はいなかったけれど珍しい忘れ物があったのだ。
A4の、紙の束。
中を覗くと小説のようなものが書かれていて、赤い字で〈ひらがなにする!〉〈ここ全部削除!〉と、修正が書かれていた。
プロの小説家か、それとも趣味で書いている誰かのものだろうか。どちらにしても、生の原稿を見るのははじめてだった。見てはいけないと思いつつも興味をそそられてしまう。
一ページ目に書かれている作者名を確認した。
俺はごく一部の恋愛小説家しか知らないから、そこにプロの作者名が書かれていたとしてもおそらくわからない。それでも気になって、見てしまった。
〝桜庭……アヤハ〟
彩葉、という漢字が読めなくて、俺は、桜庭があの小説の持ち主であることに気づかなかったんだ。
「——うあっ……!」
自転車が勢いよく曲がり角から飛び出してきて、危うくぶつかりそうになった。
避けたと同時に、手に持っていた桜庭の絵馬を落としてしまった。尻餅をついたまま、涙で滲む視界の中で、必死になって絵馬を探した。
「危ないよ、キミ!」
「……っ、すみません!」
自転車が通り過ぎるのを音で聞きながら、這いずるようにして絵馬を探した。
無意識に、持ってきてしまっていた。
必死になって、アスファルトの上を探す。その間にも、頭の中では桜庭の言葉がリフレインされていた。
——あっちにいい席あるよ! 帰ったらもったいないよ。
——私、邪魔しないから。離れてるから……。ね?
桜庭はきっと、俺が小説の束に触れているところを見ていたんだ。
もしかしたら、桜庭も一年のころから図書館に通っていたのかもしれない。図書館は、俺にとっては勉強をする場所で。桜庭にとっては、小説を書く場所で。
だから桜庭はあの日、図書館にいたのだろう。
桜庭と散歩デートをした、次の日。桜庭は、告白を拒否した俺がもう部室に現れないだろうと考えていた。そして、次の勉強場所として候補にあった、図書館に先回りしていた……。
地面に這いつくばっていると、側溝の近くに絵馬を見つけた。
表面を手で払うと、付箋が剥がれそうになっていることに気づく。落としてしまわないように付箋を剥がし、ポケットにしまい、もう一度走り出す。