「……あ」

 顔を上げると、目の前に神社があった。
 いつか桜庭と見つけた、あの神社だ。
 階段が、石垣をかき分けるようにして伸びている。緑のせいで奥は見えず、相変わらずどうなっているのかはわからない。なのに、なぜかそこを上ってみたいという衝動に駆られた。まるで誰かに(いざな)われているかのようだ。
 別に、赤い糸はそこを通っているわけじゃない。
 時間だって、ない。こんなところに立ち寄っている暇はない。
 無視して進まなければ。
 ……いや。
 お(まい)り、くらいはいいか……。
 おそるおそる一段目の石段に踏み入れると、妙にひんやりとした空気が体を包んだ。
 一歩、一歩、静かに上っていく。意外と段数があり、ようやく上まで上り切ると、そこは外界とは隔絶された小さな空間となっていた。
 誰もいない境内は、思った以上に厳かで、暗い。天を覆う木の葉の一枚一枚が、俺を監視するように見下ろしている。
 祈願をしよう。
 そう思い立ち、(やしろ)の正面に立った。
 ポケットの中にあった小銭を賽銭箱に入れ、お辞儀をし、手のひらを二回打つ。
 そして、静かに目を閉じた。
 ……桜庭が、もうこれ以上、苦しみませんように。
 遺された時間を、穏やかに過ごせますように。
 桜庭が、大切な人たちに見守られて。たくさんの愛を感じられる中で、最期を……。
 そっと瞼を開ける。
 合わせていた両手を下ろした。
 静かに、奥の扉を見つめる。腰の横で拳を握る。
 自分の願いに、ただただ呆然としていた。

「……ふざけんな」

 唇から、負に満ちた言葉がこぼれる。
 体が怒りに支配されるのを感じていた。

「なんで、桜庭にあんな運命を背負わせたんだ……」

 気づくと俺は、目の前に鎮座しているであろう神さまに啖呵を切っていた。
 ——なんで、桜庭なんだ。
 あんなに全力で、懸命に生きている人はいない。
 ただただ、小説を書きたくて。そのために、努力をして。俺は桜庭の書く小説を知らないけれど、中学のころから書き続けている桜庭はきっと、今でも成長し続けているはずだ。
 明るくて、やさしい人なんだ。
 こんな俺を変えてくれた。桜庭は俺を利用していたのかもしれないけれど、それでも、俺に勇気をくれた。逃げ続けてきた生き方を、変えてくれた。
 なんで、そんな人に。
 神さまはこんな仕打ちをするんだ……。
 両腕から力が抜け、うなだれ、地面を見つめる。石畳の上に伸びる、赤い糸に目を向けた。
 わかってる。
 今、この世界では桜庭のほかにも多くの人が病に苦しんでる。
 一定の確率で、病気は発症する。それが誰になるのかはわからない。発症する人の人間性なんて、関係ない。
 その中で、ただ、桜庭が病気になったというだけなんだ……。
 悔し涙がこぼれそうになって、雑に拭った。
 風も吹いていないのに、頭上で木の葉がさわさわと音を立てる。
 わずかに落ちてくる木漏れ日が眩しくて、思わず目を細める。

「……俺にやさしくしたって、俺は神さまを許さないからな」

 唇を噛み締め、そう吐き捨てた。
 階段のほうを向く。もう行かなくてはと自分に言い聞かせる。
 そのとき、視界の端になにかが置かれているのに気づいた。
 売り物の絵馬だった。
 奥には簡易的な絵馬掛けがあって、幾人もの願いが掲げられている。まるで自身の存在を主張するかのように、絵馬は時折揺れ、音をたてている。
 俺は自然と、料金箱に千円札を突っ込んでいた。
 そして絵馬をひとつ、手に取る。ペンを掴み、勢いにまかせて書き殴る。ペンの先に、怒り、悲しみ、そして桜庭に対する想い、すべての感情を込めた。
 桜庭をこんな目に合わせた神さまが、憎い。それでもすがるしかなかった。
 桜庭を助けてくれ。
 体は、助からなかったとしても。心を、助けてくれ。
 ほんの少しでもいい。桜庭の遺された時間を、幸せで満たしてくれ。
 なんの不安もない時間を過ごさせてくれ。
 助けてくれ。
 誰か。誰か。
 誰か……。

〈桜庭がいつまでも幸せでありますように〉

 涙が落ち、絵馬に染み込んでいく。でもそれすらもかまわずに、書き終えて絵馬掛けの前に行くと、一番高いところに結びつけた。
 神さま。
 本当にいるなら、俺の願いを聞いてくれよ。
 俺はどうなったっていい。
 なんだってするから。
 桜庭に、どうか、幸せを……。
 さわさわと、空が鳴る。葉が動き、太陽が走る道を開け、光が差し込む。
 ぼんやりと光の方向を見上げて、絵馬掛けの端に、妙に気になるものを見つけた。
 あれは……?
 近づいて、それを見上げる。
 ひとつの絵馬だった。
 ほかの絵馬と比べて、なにかが特別なわけじゃない。けれど、なぜかその絵馬に惹かれていた。
 見ると、そこにはきれいな字で誰かの願いが記されていた。