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 それから俺は、桜庭に会いにいくことはなくなった。
 ただただ自室にこもり、無意味な時間を過ごしていた。
 昼か夜かもわからない時間に起きる。クラスメイトから誘いのチャットが来ているのを、ぼんやりと眺めて閉じる。すべてから目を逸らすように、ベッドの上で目をつむり、現実から逃げ続けた。
 それでも時折、桜庭の笑顔が頭の中に侵入してくる。
 桜庭はもう退院しただろうか。
 でも、どんなに気になっても会いにいくことはできない。
 もうここには来ないで——桜庭が、そう言ったのだから。桜庭はもう、目的であった恋愛小説を書き終えている。遺された時間を俺なんかに費やすよりも、家族や親しい友人との時間にまわすべきだ。
 俺は、もう……用済みなんだ。
 寝返りを打つと、シーツの上に伸びている赤い糸が目に入った。
 指でつまみ、手繰り寄せる。

〝あの赤い糸を、追いかけて〟

 頭の中で桜庭が訴えている。
 あのときの桜庭の表情は真剣だった。桜庭にとって俺はもう関係のない人間のはずなのに、それでも、俺の幸せを考えていた。それは桜庭の、俺に対するうしろめたさだったのかもしれない。
 俺は赤い糸を追いかけるべきなのか?
 でも、そんなことをしてなんになるんだろう。
 仮に俺が糸を追いかけて、その先にいるあの子と再会したとしても、桜庭がそれを知ることはない。俺が伝えに行くことはできないし、……伝えたくも、ない。
 それでも、今の俺が桜庭に唯一してあげられることがあるとすれば、それしかなかった。
 離れていても、俺はやっぱり、桜庭が望むすべてのことをしたかった。
 赤い糸を追うこと。
 恋をして、幸せになること。それが桜庭の望みだ。
 ……でも。
 そこに、俺の幸せは、あるのか……?

「……陽斗! こっちこっち」

 夏休みも半ばに差し掛かってきたころ、突然渉に呼び出された。
 日が暮れはじめた時間だった。〈陽斗、今ひま? 俺、ちょうどお前んちのそばにいるんだけど〉——そうチャットが来て、すぐそばの公園に行くと渉がベンチに座っていた。
 この夏も、渉とは何度か遊びに出かけた。ただ、最後に遊んだのは一昨日だから、しばらく連絡は来ないかと思っていたのだけど。
 不思議に思いつつも渉の横に座ると、渉は静かにコーラのペットボトルを渡してきた。
 よくわからない差し入れを、素直に受け取る。

「……ありがとう。急に来るの、珍しいな。……なんかあった?」
「なんかあった、ってわけじゃないんだけどー……」

 渉は自分用にも買っていたコーラを一口飲むと、その飲み口を見つめたまま口を開く。

「……陽斗、今、ちょっと元気ない感じ?」

 言われて、どきりとした。
 そう思われる原因は、おそらく俺の振る舞いのせいだ。
 一昨日、渉に誘われ、悩んだものの遊びに出かけた。でもやっぱり気持ちは沈んだままで、渉が話を盛り上げようとするものの俺はずっと上の空だった。
 だから違和感を覚えたのだろう。繕えないくらい、俺は気持ちが落ち込んでいた。

「なんか、この前ゲーセン行ったとき変だなぁって思って。マッチョマンのぬいぐるみ、あんなの欲しがってたのにスルーだったじゃん? 実は俺、マッチョマンのクレーンゲームすげぇ探したんだぜ。こんなに尽くしてるのに反応なくて、俺、とうとう振られるのかしらってショックでさ」
「……別に、普通だよ。強いて言えば、少し夏バテしてただけ」

 コーラのペットボトルを口にする。まるで食欲はなかったけど、カロリーを補うにはちょうどよかった。
 渉が俯き、ツッコミがないんだよなぁ、とつぶやく。

「なんかあったなら、言えよ」
「なにもないよ」
「深夜でもさ、電話してこいよ。俺、ハルくんの連絡待って、眠れぬ夜を過ごしてるんだからさぁ」
「大丈夫だって。平気」

 答えると、渉は少し笑みを抑え、膝の上で手のひらを合わせた。

「まぁ、そう言うならいいんだけど。気になってるってことは伝えたかったんだよ。あとさ……ついで、じゃないけど、ちょっと話があるんだ」

 渉が顔を上げ、公園の奥のほうへと視線を向けた。
 この市営公園は、グラウンドや噴水などもある広い公園だ。
 この時間でも、小さな子どもや親たちがちらほらと見える。俺たちのそばには木製のアスレチックがあって、子どもたちがきゃあきゃあと声を上げている。
 渉の視線の先を追うと、遠く、豆粒に見えるくらいの距離に女の子がいた。
 こちらに背を向け、懸垂のできる健康遊具にぶら下がっている。

「……なんだよ。デート中ならそっちに集中しろよ」
「いや、デートはしてない。今日はここ以外どこにも行ってませんから」

 時任さんもいると知り、急に罪悪感が湧いてきた。
 俺の心配なんかで、ふたりの時間をつぶしてほしくはない。

「時任さんも陽斗に少し聞きたいことがあるって言うから、一緒に来たんだよ」