小説?
「……あら、違ったかしら」
冴子さんは記憶違いかと言うように、首を傾げている。俺はどう反応すべきか、じっとしたまま言葉を発せずにいた。
なんの話だ?
まったく心当たりがなかった。
桜庭が、小説を書いていた……?
そんなの、想像できなかった。そんな姿を見たこともなかった。
だって、図書館に行っても桜庭は、適当な本をパラパラとめくるだけだった。
太宰治は難しいなんて言って、部室の棚に小説を戻していた。
そんな、桜庭が。
小説を……?
「いえ……。俺も、書き終わったと……聞いてます」
ただ、今は冴子さんの話に合わせようと思った。
桜庭が冴子さんになにか嘘をついたのか、それとも俺に内緒で本当に小説を書いていたのかはわからない。けれど、冴子さんにそう話したということは、なにか意味があるのだろう。
状況はわからないけれど、ここで俺が知らないと言って、万が一にでも桜庭に不都合が生じるのは嫌だった。
「こんなことに協力してくれてありがとうね……。あの子、本当に書くことが好きなのよ。小さいころから純文学ばっかり読んでて、自分で書きはじめたのは中学生くらいだったかな。本当に、熱心に書いてたのよ……。……急に恋愛小説を書くなんて言い出したのは驚いたけど、きっと、あなたのおかげなのよね。あなたが男の子のこといろいろ教えてくれて、助かったって言ってたわ」
……教えた?
助かった……って?
心臓が鳴る。
ある想像が、膨らんでいく。
「ただ……この先の彩葉は、もっと症状が悪化していくだろうから。あなたは無理しないで、私にまかせて。あなたは、あなたの人生を生きていいんだからね」
冴子さんはそう言うと、お辞儀をし、病院のほうへと歩いていった。
俺はひとり、冴子さんのうしろ姿が消えてからもその場に佇んでいた。
ぬるい風が吹いている。行き来する人々の声が、やけに遠くに感じる。
込み上げてきた笑いが喉の奥に溜まっているのに気づき、ふっと息を漏らした。
そうか。
すべての謎が明かされたような気がした。
桜庭の行動はすべて、フェイクだったんだ。
……自分に恋をさせるための、ただの芝居。
彼女は最期に、恋愛小説を書こうとしていた。そしてそれを実現するために、恋人が必要だった。頭の中でイメージするんじゃない、書く道具としての、恋人が。
そのために、桜庭は屋上で自分を見つけてくれた、俺に目を付けた……。
〝死ぬ前に、一度でいいから恋人を作ってみたかっただけだよ〟——その言葉は、本当にその通りだったのだろう。
たとえ好きにはならなくても、偽物の彼氏ができたらそれでよかった。
俺の写真を撮って、俺の情報をスマホに蓄積していたのも、全部小説のためだった。
桜庭は、本当に俺を利用していた。
小説を書くために。
ただ、それだけだったんだ。
「……ピエロか、俺は」
小さく吐き出した。
なんてばかなんだろう。俺は、一人相撲を取っていたらしい。
たったひとりで恋心を募らせ、桜庭の一挙一動に心を動かされ、ひとりで踊っていたんだ。
桜庭はなにも感じていなかったのに。
俺の見えないところで、ずっと小説を書き続けていたというのに。
ふっ、と声を吐く。徐々に、それは笑いに変わっていく。
桜庭のことが好きだった。
どんな運命にも、負けずに立ち向かおうとする強さが好きだった。俺とは正反対の、やる気に満ちて、明るいところが好きだった。
桜庭も、俺を好きでいてくれていると思っていた。
あんなに強烈な好意を向けられて、俺はそれを疑うこともなく受け入れてしまった……。
恥ずかしい男。
ばかな男だ。
——そう、思っているのに。
すべてを理解した今も、桜庭のことが好きな俺は……紛れもなくピエロなのだろう。
「……あら、違ったかしら」
冴子さんは記憶違いかと言うように、首を傾げている。俺はどう反応すべきか、じっとしたまま言葉を発せずにいた。
なんの話だ?
まったく心当たりがなかった。
桜庭が、小説を書いていた……?
そんなの、想像できなかった。そんな姿を見たこともなかった。
だって、図書館に行っても桜庭は、適当な本をパラパラとめくるだけだった。
太宰治は難しいなんて言って、部室の棚に小説を戻していた。
そんな、桜庭が。
小説を……?
「いえ……。俺も、書き終わったと……聞いてます」
ただ、今は冴子さんの話に合わせようと思った。
桜庭が冴子さんになにか嘘をついたのか、それとも俺に内緒で本当に小説を書いていたのかはわからない。けれど、冴子さんにそう話したということは、なにか意味があるのだろう。
状況はわからないけれど、ここで俺が知らないと言って、万が一にでも桜庭に不都合が生じるのは嫌だった。
「こんなことに協力してくれてありがとうね……。あの子、本当に書くことが好きなのよ。小さいころから純文学ばっかり読んでて、自分で書きはじめたのは中学生くらいだったかな。本当に、熱心に書いてたのよ……。……急に恋愛小説を書くなんて言い出したのは驚いたけど、きっと、あなたのおかげなのよね。あなたが男の子のこといろいろ教えてくれて、助かったって言ってたわ」
……教えた?
助かった……って?
心臓が鳴る。
ある想像が、膨らんでいく。
「ただ……この先の彩葉は、もっと症状が悪化していくだろうから。あなたは無理しないで、私にまかせて。あなたは、あなたの人生を生きていいんだからね」
冴子さんはそう言うと、お辞儀をし、病院のほうへと歩いていった。
俺はひとり、冴子さんのうしろ姿が消えてからもその場に佇んでいた。
ぬるい風が吹いている。行き来する人々の声が、やけに遠くに感じる。
込み上げてきた笑いが喉の奥に溜まっているのに気づき、ふっと息を漏らした。
そうか。
すべての謎が明かされたような気がした。
桜庭の行動はすべて、フェイクだったんだ。
……自分に恋をさせるための、ただの芝居。
彼女は最期に、恋愛小説を書こうとしていた。そしてそれを実現するために、恋人が必要だった。頭の中でイメージするんじゃない、書く道具としての、恋人が。
そのために、桜庭は屋上で自分を見つけてくれた、俺に目を付けた……。
〝死ぬ前に、一度でいいから恋人を作ってみたかっただけだよ〟——その言葉は、本当にその通りだったのだろう。
たとえ好きにはならなくても、偽物の彼氏ができたらそれでよかった。
俺の写真を撮って、俺の情報をスマホに蓄積していたのも、全部小説のためだった。
桜庭は、本当に俺を利用していた。
小説を書くために。
ただ、それだけだったんだ。
「……ピエロか、俺は」
小さく吐き出した。
なんてばかなんだろう。俺は、一人相撲を取っていたらしい。
たったひとりで恋心を募らせ、桜庭の一挙一動に心を動かされ、ひとりで踊っていたんだ。
桜庭はなにも感じていなかったのに。
俺の見えないところで、ずっと小説を書き続けていたというのに。
ふっ、と声を吐く。徐々に、それは笑いに変わっていく。
桜庭のことが好きだった。
どんな運命にも、負けずに立ち向かおうとする強さが好きだった。俺とは正反対の、やる気に満ちて、明るいところが好きだった。
桜庭も、俺を好きでいてくれていると思っていた。
あんなに強烈な好意を向けられて、俺はそれを疑うこともなく受け入れてしまった……。
恥ずかしい男。
ばかな男だ。
——そう、思っているのに。
すべてを理解した今も、桜庭のことが好きな俺は……紛れもなくピエロなのだろう。