「……ねぇ、浅見くん」

 桜庭は瞬きもせずに、天井の一点を見続けている。
 その空間に、桜庭を連れていく天使が待っているんじゃないかと思えて、俺は桜庭を握る手に力を込める。

「ごめんね。今まで、連れ回して」

 まるで、永遠の別れであるかのような謝罪だった。

「私、自分勝手で……。ずっと、浅見くんのこと振り回してた。自分のことしか考えてなかった。そんなこと最初から知ってたし、今さら謝ったって、取り返しはつかないんだけど……」

 ロボットにでもなったように、淡々と言葉を紡いでいく。
 怖くなって、桜庭がどこかへ行ってしまいそうなのを引き留めたくて、また声が大きくなってしまう。

「なんで謝るんだよ。俺、桜庭と一緒にいるのが楽しいんだよ。花火に行ったことも、一緒に学校の近くを散歩したことも、図書館で過ごしたことも、全部楽しかったんだよ。桜庭がそばにいるだけで、俺は、それだけで」
「ごめんなさい」

 桜庭が首を傾け、目を合わせた。
 その瞳には、憂いも悲しみも、なんの感情も含まれていなかった。

「私、浅見くんのことが好きなわけじゃないの。死ぬ前に、一度でいいから恋人を作ってみたかっただけだよ」

 俺は声もなく、その言葉を聞いていた。
 胸の中に空洞が広がっていくのを感じる。
 その内部を、いつか聞いた、彼女の明るい声が響いている。

 ——おはよ、浅見くん。
 ——浅見くんとちょっと話してみたいなぁって思って。
 ——大丈夫。逃げられないように、捕まえとくから……。

「恋が、してみたかった。偽物の恋でいいから、誰かと心をつなげてみたかった。だから浅見くんのこと利用したの。ごめんなさい」

 ……嘘だ。
 そんなの、信じない……。

 ——私、浅見くんのことが好きです。だから付き合ってください!

 あの言葉たちが、全部演技だなんて思えなかった。
 演技というなら、今の言葉こそが演技だ。桜庭は今、俺を突き放そうとしている。運命の相手と出会えた俺の未来を想って、こんなことを言っている。
 桜庭は、自分の得のために人を騙すような人間じゃない。
 人の純粋な心をもてあそぶような人間なんかじゃない。
 利用したなんて、嘘だ。
 絶対、嘘だ……。
 ——そう、思っているのに。
 桜庭の瞳の中に強い光を感じて、否定することができなかった。
 桜庭は、あのね、と小さく前置きをすると、数回呼吸をしてから声を発した。

「……最後に、お願いがあるの。あの赤い糸を、追いかけて」

 桜庭は真剣な表情で、俺に懇願していた。

「そしたら、またあの子と再会できるから。もうここには来ないで。私、浅見くんには幸せになってほしい。今までたくさん、迷惑かけたから……」
「……嫌だ」

 拒否の言葉はすぐに出た。
 その願いだけは、どうしても受け入れられかった。

「そんなこと、したくない。俺はあの子に会いたいなんて思ってない。だって、俺は……。俺は、ずっと、桜庭のことが」
「一生の、お願いだから」

 口をつぐむ。
 もうなにも言えなかった。
 桜庭はようやく目に輝きを取り戻し、まっすぐに俺を見つめ、微笑んだ。

「浅見くんが幸せになってくれたら……きっと私、死ぬのも怖くないよ」