赤い糸の存在を、少しの間忘れていたように思う。
 桜庭のことを考えるようになってから、赤い糸は少しずつ視界から姿を見せなくなっていた。
 と言っても、本当に消えたわけじゃない。おそらく赤い糸はいつもそこにあった。けれど、俺の意識が世界から赤い糸を消したのだと思う。
 それでも、赤い糸はいつでもそばにあったのだ。
 俺の運命の相手は、どんなに桜庭との仲を深めても消えることはない。常に俺に張り付いて、いつかその存在を示そうと、タイミングを計っていた。
 そして〝そのとき〟は、思ったより早くやってきた。
 奇しくも、桜庭が倒れてしまった、あの瞬間に……。

「……あさみ、くん……」

 か細い声がして、はっとして顔を上げた。
 真っ白な病室の中、桜庭はベッドに横たわり、俺を見つめていた。
 桜庭の顔を久しぶりに見た気がした。何度面会に来ても桜庭は眠っていて、起きる気配を見せなかった。桜庭の母親によると、時折目を覚ますようだけれど、ろくに喋ることもせずにまた目を閉じてしまうらしい。
 命の終わりが近づいているのを感じた。
 まだ、時間はあるはずなのに。
 こんなにも、唐突に。

「……大丈夫?」

 できる限りやさしい声で話しかけた。
 ほんの少しでも雑に声を発したら、なにかが終わってしまうような気がした。今の彼女は積み木と同じだ。少しでも触れる箇所を間違えれば、一瞬ですべてが崩れ落ちてしまう。
 そしてそれは、きっと、もとには戻らない。

「うん……。ごめんね。花火……すごく、楽しかったのに」
「楽しかったよ。でも、俺が無理させた。俺が、桜庭の体調に気づかなかったからいけなかった。ごめん」
「……いいの。浅見くんはなにも悪くない……」

 そう言うと桜庭は、ゆっくりと俺のほうへ腕を動かした。
 力なく移動する桜庭の手を、こちらから受け止めにいく。両手で包み込むように桜庭の手のひらを握る。
 俺の左手の小指には、変わらず赤い糸が結ばれている。一方で、桜庭の指には酸素を計測する機械が取り付けられている。
 俺も桜庭も、指に望まない運命をしばりつけられている。
 あまりに理不尽な光景に、目を背け、逃げ出したい気持ちになる。

「……あの人、だったんでしょ?」

 しばらく見つめ合っていて、桜庭が不意に口を開いた。
 心臓が早鐘を打ちはじめるのを、必死に食い止めた。

「なに?」
「赤い糸の、相手……。あの人だったんでしょ? 私を助けてくれた、女の人……。浅見くん、救急車に乗るとき、あの人のこと振り返ったの見たの。それでなんとなく、あぁ、あの人なんだ……って思った」

 見られていたのか、と胸が痛む。
 振り返ったのは、単に声をかけられたからだ。
 お大事になさってくださいね——そう言われて、俺は感謝を伝えた。一言だけのやり取りだった。
 あの女性が現れて、動揺したのは事実だ。
 でもあのとき、俺はやっぱり、なによりも桜庭のことを考えていた。

「……違うよ」

 思わず否定した。
 でも桜庭は、俺の言葉を無視して続ける。

「私、だんだん呼吸が苦しくなって……。あんまり記憶はないんだけど、なんとなくは覚えてるの。きれいな人だった。私に話しかける声もやさしくて、絶対、いい人だぁって思ったの」

 桜庭は泣いていたあの夜と違って、どこかすっきりとした、晴れ晴れとした表情をしていた。

「私、ほっとしちゃった……。少しだけど、浅見くんの未来が見れたんだよね。きっと、幸せなんだろうなって、思えた」

 桜庭が目をつむる。
 閉じられた瞼の裏で、桜庭は何年後かの俺を空想している。

「きっとね、ふたりはまた出会うの。大学とか、就職先とか……それとも案外、普通の場所かもしれない。……図書館とかね。運命に引き寄せられて、ふたりは恋に落ちるの」
「……そういうんじゃ、ないって」
「それで浅見くんは、はじめて、なんの罪悪感もなく恋ができる。この人が大切な人ですって、全世界の人に言えるの。そういう浅見くんの未来を想像するとね、私」
「だから、違うから!」

 思わず叫んだ。
 桜庭の瞼が開く。でも驚いた様子はなく、桜庭はただ静かに口を閉ざしていた。
 ごめんとつぶやいたものの、それ以上なにもしゃべれなくなってしまう。
 苦しい。
 情けない。
 やるせなくて、話す話題が見つからない。
 俺はなんのためにここにいるのだろう。
 積み木が崩れる音がする。
 桜庭を笑顔にするどころか、今の俺はきっと、桜庭を追い詰めている。