「なんで、私なのかな。なんで、こんなに幸せなのに死ななきゃいけないのかな。みんなはもっと生きていられるのに。もっともっと、これからも楽しいことが待ってるのに。なんでなのかな」
「——さく……!」
「私、ずっと浅見くんのそばにいたかった」

 腕を引き、桜庭を胸の中に引き寄せた。
 浴衣の奥に、健気に脈を打つ心臓があった。震える体があった。熱を放つ、命があった。
 まだ生きたいという、強い想いがあった。

「いるよ」

 泣きそうになるのを耐えて、言葉にする。

「俺が、一緒にいるよ。ずっと離れない。だから、泣くな。桜庭。泣くなよ」

 叶わない願いだとわかっている。それでも口にせずにはいられなかった。
 俺は、桜庭から絶対に離れない。
 桜庭は絶対に、死んだりしない。
 だって、桜庭はこんなにも強く、生きたいと願ってるんだ。まだここに、たしかにこの場所に、生きているんだ。
 ……なのに。
 なんで……桜庭が、こんな思いをしなくちゃいけないんだ。
 なんで。
 なんでなんだよ……。
 桜庭の腕がゆっくりと動き、俺の背に手を回した。
 そしてすがりつくように、胸に顔を押し付ける。涙が、泣き声が、俺の体に染み込んで一体となる。
 それでもなんとか落ち着きを取り戻すと、桜庭は俺を弱々しい力で俺を押し除けた。

「……ごめん。弱音……なんて、吐きたくなかったのに」
「いいよ。なんでも言ってくれよ。俺でいいなら、いくらでも聞くから」
「……だめなの。わたし、ね……もう、だめ、みたい」

 俺を見上げる目が、朦朧としていた。
 焦点が定まらず、不安定にぐらぐらと揺れ続けている。
 この目を、どこかで見たことがあった。
 ……そうだ。
 この目は、あの日と、同じだ。
 桜庭とはじめて会い、倒れたときと、同じ……。

「ごめん、ね。あさみ、く……」

 言い残すと、桜庭の体から力が抜けた。
 ずるずると、俺の体に沿うようにして落ちていく。はっとしたが遅く、地面に腰がついたところでようやく桜庭を抱き抱えた。
 でも、桜庭は目を閉じたまま動かない。

「桜庭」

 ただ茫然と、声をかけることしかできなかった。
 頭が働かない。
 嫌だ。
 嫌だ。
 ただ、言葉だけが頭に響いていた。
 助けなきゃ。
 桜庭は、まだ生きるんだ。
 まだ生きたいと願っているんだ。
 でも、どうしたらいいのかわからない。
 頭の中が凍ってしまったかのように、なにも思い浮かばない。
 桜庭になにかがあったときの行動は、考えていたはずなのに。

「桜庭。……桜庭」

 自分の声が、力なく暗闇に響く。でも桜庭は応えない。
 嫌だ。
 こんなの、嫌だ。
 まだこの体に、熱はあるのに。
 心臓は、鳴り続けているのに。

「——桜庭‼︎」

 叫んだ瞬間、左腕を強く引かれた。
 はっとして振り返る。
 河川敷の頂上、黒く直線を引いたような道の上に、ひとつの影があった。シルエットでしか見えないけれど、明らかに誰かがこちらを見ていた。

「大丈夫ですか?」

 女性の声だった。
 彼女は即座にスマホのライトを付けて、河川敷を降りてくる。逆光でよく見えないけれど、スーツを着ている。真っ黒なリクルートスーツだ。
 靴を脱いだのか、彼女はストッキングのまま桜庭に近づいてくる。声をかけ、反応が見られないことを確認すると、自分のスマホの画面に目を落とした。

「救急車、呼びましょうか。呼びますね?」

 彼女は俺たちから少し離れ、冷静に通話をはじめた。
 情けなかった。
 なにもできない自分。
 桜庭をこんな目に合わせてしまった自分。
 そして。
 ——突然現れた彼女の、その小指に赤い糸がついているのを見て……動揺している、自分。
 悔しくて、苦しくて、桜庭の体を強く抱いた。
 あたたかい。
 桜庭は、生きている。
 今も、懸命に生きている。
 俺なんか、一生情けなくていいから。
 この命をあげても、かまわないから。
 だから、どうか。
 ……生きてくれ。

「桜庭……」