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 保健室に入ると、千夏さんと、数人の女子がおしゃべりをしていた。
 保健室の先生である千夏さんは、やさしいと評判の先生だ。生徒はなにかあると保健室に遊びにくる。今も、特に怪我をしたふうでもない女子生徒たちが千夏さんのそばに座り、なにかの相談をしていた様子だった。
 千夏さんは俺の顔を見ると、目尻に皺を寄せて笑った。

「あら、どうかした?」
「あ、あの……ただの、お見舞いなんですけど。桜庭さん、いますか」

 いつも笑顔の千夏さんが、一瞬だけ思案し表情を曇らせる。でもすぐにもとの顔に戻った。

「ごめんね。今寝てるから、またあとでもいいかな?」
「せんせ! 私起きてるから、大丈夫だよ」

 すかさず、カーテンの向こうから桜庭の声がした。
 あらぁ起きてたわ、と笑って千夏さんが俺を奥へと促す。なにも知らない女子生徒たちは、お見舞いに来た異性の生徒を好奇の眼差しで見やり、でもすぐに千夏さんへ意識を戻した。
 おそらく先生方は、全員桜庭の病気のことを知っているのだろう。
 だから、休んでいる桜庭に人を近寄らせようとしない。気を遣っているのがわかる。
 カーテンの向こうを覗くと、桜庭は寝転んだ体勢で俺を出迎えた。

「浅見くんだ! びっくりしたぁ」
「大丈夫かよ」
「死ぬかと思ったよ」

 死ぬ、という言葉が冗談には聞こえなくて、口元が引きつる。
 でもその言葉はちゃんと冗談だったようで、桜庭はにこにこしたまま頭をさすった。

「体育、見学してたのにボール飛んできてさ、頭にヒットしちゃった。たんこぶできたっぽい」

 え? と声が出た。
 想像していた症状と全然違う。

「……病気のほうじゃないのかよ」
「ごめんね、心配かけて」

 小声で話していると声が聞き取りにくくて、中腰になった。
 桜庭が座ってと言うので、ベッドの縁に腰をかけさせてもらう。

「みんなに気を遣わせたくないのにな。たんこぶなんかで保健室来ちゃって、ちょっと損した気分」

 横を向くと、桜庭は頭をさすりながら、頬を膨らませている。
 そういえば桜庭は、はじめて会ったとき具合が悪そうだったのに、学校へ戻ることも救急車を呼ぶことも頑なに断っていた。
 桜庭の立場からしたらそう思うのかもしれないけれど、こちらとしては、心配くらいさせてほしいと思ってしまう。

「まぁ、いいんじゃない。……軽い怪我でよかった」
「軽くはないよぉ! 目の前が真っ白になって、ほんとに死んじゃったのかと思ったもん。一瞬、倒れてる私と、私の周りに集まってるみんなが空から見えたの」
「え。それ、幽体離脱じゃん」
「かも。こんなのはじめて! 幽霊になったらこんな感じなのかなぁ」

 ふふ、と桜庭は笑うけれど、俺はやっぱり不安になる。幽霊なんて信じてはいないけれど、もしかしたら生死の境を彷徨うできごとだったのかもしれない。夢でも見ただけかもしれないけれど。
 外で、誰かが走り回る足音がした。
 気候のせいもあるのか、昼休みになると小学生のように外ではしゃぐ生徒が増えた。追いかけっこでもしているのか、ぎゃあぎゃあと叫び声が聞こえてくる。
 不公平だな、と思う。
 俺も含め、命の終わりなど知らない元気な生徒たちがいる。一方で、壁一枚を隔てて、命の終わりを突きつけられている生徒がいる。
 彼らの生命力を、ここで横になっている女子生徒に分けてくれたらいいのに。
 いや。そんなことしなくていい。
 俺の生命力を、ほんの少しでも、桜庭に分けてあげられたら……。

「私、死んだら浅見くんのそばにいようかなぁ」

 その言葉に、桜庭の顔を見返すことができなかった。
 桜庭の口から、真剣なトーンで〝死〟という単語が出てくるのははじめてかもしれない。

「……なんでだよ」
「幽霊になってね、浅見くんがちゃんと大学生になれたか見てみたいの。浅見くん、いつも勉強がんばってるもんね。こう見えて応援してるんだよ。あと、赤い糸の相手がどんな人なのかも見てみたいな。浅見くんが女の子にときめいてるの、想像できないし……」

 桜庭がいなくなったあとの話なんてしたくない。
 なんで今、そんな話をするんだ。
 頭に、たんこぶができたくらいで。ちょっと、保健室に運ばれたくらいで。
 今さら、死期を悟ったみたいな……そんな、弱々しい声で。