桜庭と図書館で過ごした日から、一ヶ月が経とうとしていた。
 俺はまた、部室で勉強をするようになっていた。
 SHRが終わると、いつものように二号館に向かう。階段を上り、閑散とした廊下を抜け、部室へ入る。
 そして窓を開け、空気の入れ替えをしているところでたいてい桜庭が顔を出すのだった。
 なんで俺は部室に戻ってしまったのだろう。
 あまりに付きまとわれて、根負けした?
 それとも同情?
 どちらも、あるとは思う。桜庭が俺のそばにいたいと思っている以上、俺にはもう、拒否することも説得することも難しい。桜庭の境遇を苦しく思う気持ちもある。逃げて桜庭を傷つけ続けるよりも、ただそばにいるだけならいいんじゃないかとも思えていた。
 それに……俺はたぶん、うれしかったのだ。
 桜庭が、俺と同じ気持ちでいたことが。
 俺たちはどこか似ている。運命に翻弄され、恋すらも困難な状況に立たされている。
 俺は、怖くて諦めてしまった。
 桜庭は、それでも突き進もうとしている。
 その気持ちが今、少しだけ俺を前に向かせようとしていた。俺もいつか、恋をすれば傷つくだろう。それでも、桜庭が前を向くなら俺も、前を向こうと。
 ただそれは、桜庭を好きになることとはまた別の話なのだけれど……。

「——だざい、おさむ」

 不意に小さな声が聞こえて、思考がかき消された。
 ペンを止めて横を向くと、桜庭が部室の端にある棚を眺めていた。
 桜庭は、勉強をしない。期末テストは明日なのだけど、必死になって勉強している俺とは異なり、のんびりとした日々を過ごしていた。
 遺された人生に、もう勉強は必要ないということなのだろう。それを思うといつも、やりきれない気持ちになる。
 ……ただ、そのかわりに費やすのが俺と過ごす時間、というのはどうなのだろうと思うのだけれど。

「あくたがわ、りゅうのすけ。みしま、ゆきお」

 桜庭が見ている棚には、OBたちの過去の遺産が並べられていた。
 もう誰にも読まれない小説たちだ。誰かが多少は持ち帰ったのか、本棚はガラガラで、数十冊の文庫が立てかけられたり倒れたりしながら棚の中で眠っている。

「なつめ、そうせき。かわばた、やすなり……」
 桜庭が背表紙をゆっくりと撫で、つぶやく。彼女の独り言が本当の独り言になる前に、声をかけた。
「読んでみたら?」
「……え?」

 大した問いかけでもないのに、桜庭は驚いた様子で振り向った。
 言葉の意味を読み取ろうとしているのか、瞬きもせずに俺を見つめる。

「退屈なら、読んでみたら。せっかく本があるんだし」

 桜庭が俺の勉強に付き合っているなら、正直心苦しい。せめてなにか、桜庭は桜庭で楽しいと思えることをやっていてほしいと思う。
 でも桜庭は、背表紙に端から端まで視線を向けると、首を傾げた。

「……私には難しいかなぁ」

 へろ、と笑う。
 俺も同じだ。恋愛小説ならずっと読んできたけれど、俺が読んでいたものは比較的文体がやさしい。急に純文学を読めと言われても、少し壁を感じてしまうと思う。
 でもやっぱり、桜庭にはなにかをしていてほしい。
 時間を無駄にしてほしくない。
 桜庭はここに来ると、いつも窓から空を見上げたり、スマホを触ったり、ぼんやり俺の横顔を見ているだけだ。話しかけてこないのは俺が勉強をしているからだろう。
 桜庭がこの部屋で過ごすことは、やっぱりいいとは思えなかった。
 でもどうしたらいいのかわからない。
 桜庭が望んでここにいるのだとしても、俺は納得できない。
 なにか、俺にできることはないのだろうか……。
 ……なんて。
 俺は、なんでこんなことを考えているんだろう。