不意に、姉ちゃんに小説を薦められたときのことを思い出した。

〝陽斗。これオススメだから読んでみて!〟

 そう言って渡された小説は、とにかく甘い、必ずハッピーエンドへ導かれる物語たちだった。
 はじめは、少年漫画のかわりだった。暇つぶしになるならなんでもよかった。でもその世界に俺は、溺れるようにのめり込んでいった。
 小説の中だけなら、俺は幸せな恋をすることができたからだ。

「全部、自分のためなんだよ。今、誰かに振られて傷つくより、俺は安全な恋がしたい。誰かと別れて落ち込むくらいなら、誰とも付き合いたくなんかない。赤い糸の相手さえ現れれば、間違いのない、幸せな恋愛が待ってるんだから……。……俺はそういうやつなんだよ」

 俺は、渉のように人に好かれる自信がない。
 気の利いた行動もできないし、なんに対してもやる気がない。
 そんな俺が、たとえ期間限定でも、ニセモノの恋をしたところでうまくいくとは思えない。
 桜庭が——いや。
 自分が傷つくのが、怖いんだ。
 桜庭が立ち止まり、振り返る。
 相変わらず桜庭は、満開の桜が咲いたような表情を浮かべている。
 なんでそんな顔ができるんだ。
 なんで、俺のことを軽蔑してくれないんだ。

〝桜庭には俺は相応しくないから〟
〝たくさんの魅力を持ってるんだから〟

 彼女を説得するための言葉が、頭の中に生まれては消えていく。
 なんで俺なんだろう。
 俺のことなんて、見なくていい。
 ほかの男を探せばいいのに。
 なのに——出会ったころから彼女は、どんなときも、俺だけを見ていた。

「私も、怖いよ」

 桜庭の、夕陽に輝く唇が震える。

「でも、傷ついてもいいの。実らなくてもいいの。きっとこの痛みが、いつか自分の支えになってくれるって信じてるから」

 その言葉に、不覚にも心が動かされるのを感じた。
 ……桜庭も、怖かったのか。
 いつも笑っているから、つい忘れてしまう。どんなに明るく振る舞っていても、桜庭はきっと、心の奥で現実と戦っているということを。
 桜庭は、今から恋をしてもいずれ終わりが来るのだろう。
 恋が実らなければ、傷を負って、終わる。たとえ実ったとしても、おそらくそのさなかで、恋は……終わる。
 それでも、彼女は逃げたりしない。
 恋することを、諦めない。
 そうして今、彼女はここにいる……。
 桜庭を見つめる。
 視線に気づき、桜庭が振り向く。
 彼女は全身にあたたかな光をまといながら、静かに俺を見つめ、微笑んでいた。