しかたなくまた勉強に戻り、一時間ほど集中したところでノートを閉じた。
 荷物を片付けはじめる俺に、桜庭が小声で囁いてくる。

「帰るの?」
「帰る。……桜庭も、帰れば」

 これ以上俺の勉強に付き合わせたくはない。といってももう、二時間も付き合わせてはいるけれど。
 桜庭が好きでやっていることだとしても、負い目は感じる。
 かといって、俺が同情心で桜庭と付き合って、桜庭が幸せになるとは思えない。
 結局のところ、俺は桜庭を拒否しても受け入れても、傷つけてしまうのかもしれない。

「……俺のそばにいても、時間無駄にするだけだよ」

 図書館を出ると、そう伝えた。
 こうしている間にも、桜庭の命は削られている。時間は命だ。それはほかの人間も同じだろうけど、命の終わりが見えている桜庭を見ていると、意識せずにはいられない。

「無駄なんかじゃないよ」

 その言葉はまるで、桜庭の汚れのない気持ちがそのまま口から出ているようだった。返事は、できなかった。
 ふたり、黙って道を歩く。
 桜庭との関係をどうしたらいいのか、ずっと考えていた。
 桜庭は、折れない気がする。俺がなにを言っても、笑って流して、俺のあとを静かについてくる気がする。
 そんな桜庭を、俺は拒否し続けるのだろうか。
 桜庭が動けなくなる、その日まで。
 ……俺は、どうしたい?

「私だったら、我慢しないよ」

 背後で声がした。
 振り返ると、夕暮れに染まった桜庭が、橙色の世界にぼんやりと浮かんでいた。
 両手をうしろに組み、少しだけ笑みを浮かべて、俺を見つめている。その瞳には死の影も悲しみも存在していない。

「……なに?」
「赤い糸が私の指についてたとしても、我慢しない。無視して恋愛しちゃう」

 なんの話だ、と考えて、この前の話の続きだ、と思い至る。〝付き合って〟〝無理〟の、押し問答。

「……だから、桜庭の彼氏になれって話?」
「ううん。そうじゃなくて」

 桜庭がまた歩き出す。通り過ぎる彼女を追うように、俺もあとをついていく。

「これはただの、私の考え。赤い糸がついていても、私は自分の気持ちに正直でいたい。運命なんかにしばられたくない。だって、多くの人は誰かに恋して、付き合って、別れて、っていうのを経験するでしょ? それで最終的には結婚したり、別れを決断したりするの。それって、自然なことじゃない? 浅見くんもそうしたっていいと思う。みんなと同じみたいにさ」

 みんなと、同じように……。
 頭の中に、誰かに恋をする自分を思い浮かべた。
 目を合わせて。手をつないで。ただそれだけで、幸せになれる。今の俺の、知らない感覚。
 ふと我に返り、気持ちを断ち切るように首を振った。

「それって……残酷だろ」

 桜庭の横に、静かに並んだ。

「相手を騙してんじゃん。最終的には別れるってわかってんのに、付き合うのかよ」

 桜庭は一瞬の間を開けて、反論する。

「でも、その人が好きならしかたないよ。その瞬間の気持ちは嘘じゃないでしょ? 浅見くんだけが我慢しなきゃいけないのって、おかしいと思う」
「だから、しかたないことなんだよ。俺には赤い糸が見えてるんだから」
「じゃあ、浅見くんの今の気持ちはどうなるの? 浅見くん、本当は、誰かに恋してみたいんじゃないの?」
「別にしなくたっていい。ていうか……したらいけないんだよ。赤い糸が見える人間は、ほかの人とは違うんだから」
「違わないよ。同じだよ」

 目をつむる。
 落ち着いて、深呼吸して、もう一度口を開く。

「同じじゃない。最後には相手を傷つけるってわかってるのに、付き合うことなんかできない」

 桜庭が口を閉ざした。
 夕暮れに、足音が響く。どこかでカラスが鳴いている。
 アパートの影が迫って、俺たちを覆っていく。

「……そっか」

 桜庭が小さくつぶやき、静寂に飲み込まれそうだった俺をすくい上げる。

「浅見くんは、やさしいんだね」

 思わず桜庭の顔を見た。
 思いがけない言葉だった。

「……やさしい……?」
「だって、いつも自分より相手のことを考えてる」

 また夕陽が桜庭を包み、その光が彼女の瞳に反射した。

「デートの行き先だって、私の気持ちを優先しようとしてくれたでしょ。今日だって、本当は嫌なのに私がそばにいるの、許してくれた」

 腰の横で、両手を強く握る。
 ……そんなの。
 デートのときは、桜庭が満足すれば諦めてくれると思ったからだ。
 VIP席に一緒に座ったのは、追い出すのに罪悪感が湧いただけだ。
 別に桜庭のためを思ったわけじゃない。
 どの選択も、全部、全部……。

「……俺は、やさしくなんかない」