「さく……」

 声出したところで、向こうの本棚に人がいることに気づいた。
 声を出したらうるさいだろう。桜庭と目が合い、慌ててノートを切り取って、そこに文字を書いた。

〈なにしてるの〉

 それだけ書いて、紙とペンを桜庭のほうへ寄せる。
 桜庭はふっと笑みをこぼすと、俺の字の下にきれいな字を添えた。

〈遊んでるよ〉

 一時間も、スマホで?
 SNSとか、誰かとチャットでもしているのだろうか。なんにせよ、桜庭は俺と一緒にいたいけれど声をかけることはできず、ひたすら暇をつぶしているのかもしれない。
 だとすると、さすがに申し訳なくなってくる。

〈図書館なんだから、本、読まないの〉
〈五分読むと眠くなっちゃう派!〉
〈じゃあなんで帰らないんだよ〉

 桜庭はこの質問だけ少しだけ考えると、ペンを滑らせ、こちらへ戻した。

〈落ち着くから〉

 落ち着くから。
 図書館にいると、落ち着くから。そう捉えていいのだろうか。
 桜庭の態度を見てると、〝俺といると落ち着くから〟などという、自意識過剰な解釈をしてしまう。
 でも、桜庭は俺が来る前からここにいた。ということは、図書館が好きは好き、と思っていいのだろうか。

〈浅見くんは本、読まないの?〉

 桜庭は俺の紙を奪うと、そう書き足してまた返してきた。
 俺ばかり聞くのもなんなので、しかたなくペンを取った。

〈読まなくもないけど、わざわざ図書館で借りたりはしない。たまにスマホで読んだり、姉ちゃんから借りるくらい。ただの暇つぶし〉
〈でも、読むんだ。どんなの読んでるの?〉

 いやにしつこく聞いてくる。
 面倒になったものの、いいことを思いついた。
 これは、うまいこと嫌われるチャンスかもしれない。

〈女子高生向けの、甘々な恋愛小説〉

 そう書いて、渡した。
 恋愛小説と一言で言っても、世の中にはさまざまなものがある。登場人物の心情を深く描いた、心を突き刺されるもの。恋愛だけでなく、社会情勢や歴史背景なども取り入れた壮大なもの。そして姉ちゃんが所持している小説は、恋への憧れを満たし、あるいは自分も恋に踏み出すきっかけをくれる、甘い恋愛小説だ。
 俺は、そんな姉ちゃんの小説をずっと読んできた。でもそれを人に話したことはなかった。
 その理由は、小説が女性向けだから、という部分が大きい。
 女性向けといえど、男性だってこういう小説を読む人はいると知っている。逆も然りだ。ただ、ごく一部の人間は男女の区切りを明確にしたがり、それを超えようとする人間をばかにする。
 桜庭は、そういう俺を幻滅するもしれない。
 夢見がちな彼女だからこそ、男には男らしい男性像を求めているかもしれない。
 ——そう思ったものの、期待は外れた。

〈え、意外! だけど、いいね!〉

 にこにこしながら紙を返してくる。俺は返事をせず、静かに視線を逸らした。
 桜庭は、俺を否定しない。
 すべてを受け入れ、肯定してくる。
 変なやつだ。男なんて、ほかにもたくさんいるのに。自分を受け入れてくれる人を探したほうが、絶対幸せなのに。
 ……なんで、わざわざ俺なんかを選ぶんだよ。
 などと考えても、わからないものはわからなかった。
 ただ、桜庭は今、ここにいる。その事実が目の前にあるだけなんだ。