*
一年生のころは、テスト前になると図書館にこもるのが俺のルーティンだった。
その図書館は、学校からバス停まで歩いたさらに先にある。少し古ぼけているけれど穴場と言っていい、落ち着く雰囲気の図書館だ。
全体が木目調で、天井が高く、視線を上げると球体の照明が浮かんでいる。ほんのりとした橙色に包み込まれた空間は、さながら魔法の館だ。
勉強なんて家でやってもいいけれど、すぐベッドに足が向いてしまう。そんな俺は、欲望を遮断して外で勉強するほうが性に合っていた。
放課後になると、俺は久しぶりに図書館へ向かった。
部室に行けば、今日も桜庭が待ち構えているかもしれない。でももう、彼女と会うことはできない。ならば図書館で勉強しようというのが俺の結論だった。
二年生になってからは無音すぎる図書館よりも部室のほうがいいと気づいたわけだけど、図書館も変わらず好きだ。久しぶりだから、楽しみでもある。
ほとぼりが済むまでは、こっちで勉強すればいいか……。
門を通り、バス停を越えると、懐かしい外観が現れる。ここだけ古都に迷い込んだような、クラシックな趣だ。
すでに開かれているドアを通る。
すると、前方を歩いていた女性がぴたりと立ち止まった。
「あ!」
その声を聞いて、顔を見て、愕然とする。
俺は呪われているのか?
「おはよ、浅見くん。あ、もうおはようって時間じゃ」
「なんでいるんだよ……」
つい、言葉を遮って問い詰めてしまった。
桜庭は、不機嫌さの漏れた俺の言葉を意に介さず、微笑んでいる。
「なんでって。偶然だよ」
「……つけてきたの?」
「まさか! ほら、私のほうが先についてるでしょ」
そう言って、桜庭が胸に抱いた数冊の本を軽く揺らす。
嘘だ。そんな偶然あるわけない。
またA組の誰かに聞いて、ここへ来たのだろうか?
でも俺は今日、誰にも言わずにここへ来た。念には念を入れ、いつも使わない正門から出て、遠回りをしてここへ来た。
なのに、もういるとか。
本当に、偶然か……?
ため息をつく。なんにせよ、桜庭がいるならここにはいられない。帰ろう、と踵を返すと、桜庭が即座に俺の腕を掴んだ。
「待って」
左の手首が熱くなる。赤い糸が揺れている。
……左手には、触らないでほしいのに。
桜庭のほうへ向き直り、腕を解くと、彼女は寂しそうに眉を曇らせた。
「帰るの? 私のせい?」
「そうじゃ、ないけど……」
「あっちにいい席あるよ! 人気の席みたいでね、いろんな人が空いてるか確認しに来るくらいなの」
「……人気……」
「浅見くん、今日も勉強するんでしょ? 今なら座れるから、帰ったらもったいないよ」
そう言われて、不覚にも心が揺らいでしまった。
この図書館には、たしかに人気の席がある。みんなそこを狙っているから、いつも誰かしら座っている。俺もここへ通っていたころはまずその席へ向かい、落胆してはほかの席を探したものだ。
「勉強するならその席使って。私、邪魔しないから。離れてるから……。ね?」
桜庭の腕が伸びて、今度は俺のブレザーの裾を掴んだ。
頭では拒否しているのに、つい、彼女が引っ張る方向へと足が動き出す。
また、流されている。
彼女の言葉に抗えない。なぜだろう。
……桜庭の寂しそうな眼差しが俺を捉えると、なぜか、体が動いてしまうんだ。
館内の、通称〝VIP席〟は二階の隅にある。
席はほかにもあるけれど、利用者にとってこの席は少し特別だった。
まず、ほかの席と違う、ソファのような椅子が心地いい。沈み込むように座れるけれど、目の前にある低めのテーブルはそれも考慮されているから、勉強も問題なくできる。椅子を半回転させるとガラス張りの壁があって、木々や、その向こうに見える運動場を眺めながら読書ができる。
四人席だけれど机が小さいから、ひとり座っているとほかの人は座らない。なんとなくみんなが狙っている、いい席だ。
桜庭の言っていた席は、思った通りそこだった。桜庭は走って席に近寄ると、そこに置いていたバッグを抱えて振り向いた。
「じゃあ」
そして、先ほど宣言した通り去ろうとする。
そんな彼女のうしろ姿を見て、思わず声をかけた。
「……座れば」
自分でも意外な言葉を発していた。
「ここ……桜庭が取ってた場所だろ。なのに、俺が奪う権利はないよ」
本当は、俺が違う席に行けばいいだけの話だ。
でも結局、俺は桜庭の気持ちを無下にできなくなっている。
そんなことをしても、桜庭のためにならないのに。いつ赤い糸の相手が現れるかもわからないのに。俺なんかよりも、もっと大切にしてくれる人と過ごすべきなのに。
そう思っているのにやっぱり、俺のことを第一に動く桜庭を、無視できなくなっていた。
「……ありがとう」
桜庭は少しだけはにかむと、ゆっくりとした動作で席へ戻った。
それから、桜庭は透明人間になったかのように、静かに時間を過ごした。
俺の横に座るのは悪いと思ったのか、斜め前に座っている。勉強する俺の邪魔をしまいと、できる限り物音をたてないよう努めている。
それだけの配慮をしてくれるのに、俺に付きまとうことはやめない。
変なやつだな、と思う。まぁ、付きまとうといっても、今日図書館で会ったのは本当に偶然なのかもしれないけれど。
桜庭のおかげで、集中して勉強することができた。
この席は本棚に囲まれていて、人気がない。席を狙って見に来る人はいるけれど、その視線も、桜庭のことも気になることなくペンを動かすことができた。
一時間を過ぎたころ、肩が凝って、思い出したように伸びをした。
桜庭に目を向けると、スマホをいじっている。遊んでいるようには見えない、妙に真剣な表情をしてなにかを入力し続けている。
ときどき手元の本をめくりながらも、基本はその姿勢だ。本は図鑑、小説、写真集など、まとまりがない。
なにをしているんだろう。
気になったけれど、邪魔をしたら悪いだろうか。
自分は席を借りたうえに静かにしてもらっているというのに、わがままな人間だ。
一年生のころは、テスト前になると図書館にこもるのが俺のルーティンだった。
その図書館は、学校からバス停まで歩いたさらに先にある。少し古ぼけているけれど穴場と言っていい、落ち着く雰囲気の図書館だ。
全体が木目調で、天井が高く、視線を上げると球体の照明が浮かんでいる。ほんのりとした橙色に包み込まれた空間は、さながら魔法の館だ。
勉強なんて家でやってもいいけれど、すぐベッドに足が向いてしまう。そんな俺は、欲望を遮断して外で勉強するほうが性に合っていた。
放課後になると、俺は久しぶりに図書館へ向かった。
部室に行けば、今日も桜庭が待ち構えているかもしれない。でももう、彼女と会うことはできない。ならば図書館で勉強しようというのが俺の結論だった。
二年生になってからは無音すぎる図書館よりも部室のほうがいいと気づいたわけだけど、図書館も変わらず好きだ。久しぶりだから、楽しみでもある。
ほとぼりが済むまでは、こっちで勉強すればいいか……。
門を通り、バス停を越えると、懐かしい外観が現れる。ここだけ古都に迷い込んだような、クラシックな趣だ。
すでに開かれているドアを通る。
すると、前方を歩いていた女性がぴたりと立ち止まった。
「あ!」
その声を聞いて、顔を見て、愕然とする。
俺は呪われているのか?
「おはよ、浅見くん。あ、もうおはようって時間じゃ」
「なんでいるんだよ……」
つい、言葉を遮って問い詰めてしまった。
桜庭は、不機嫌さの漏れた俺の言葉を意に介さず、微笑んでいる。
「なんでって。偶然だよ」
「……つけてきたの?」
「まさか! ほら、私のほうが先についてるでしょ」
そう言って、桜庭が胸に抱いた数冊の本を軽く揺らす。
嘘だ。そんな偶然あるわけない。
またA組の誰かに聞いて、ここへ来たのだろうか?
でも俺は今日、誰にも言わずにここへ来た。念には念を入れ、いつも使わない正門から出て、遠回りをしてここへ来た。
なのに、もういるとか。
本当に、偶然か……?
ため息をつく。なんにせよ、桜庭がいるならここにはいられない。帰ろう、と踵を返すと、桜庭が即座に俺の腕を掴んだ。
「待って」
左の手首が熱くなる。赤い糸が揺れている。
……左手には、触らないでほしいのに。
桜庭のほうへ向き直り、腕を解くと、彼女は寂しそうに眉を曇らせた。
「帰るの? 私のせい?」
「そうじゃ、ないけど……」
「あっちにいい席あるよ! 人気の席みたいでね、いろんな人が空いてるか確認しに来るくらいなの」
「……人気……」
「浅見くん、今日も勉強するんでしょ? 今なら座れるから、帰ったらもったいないよ」
そう言われて、不覚にも心が揺らいでしまった。
この図書館には、たしかに人気の席がある。みんなそこを狙っているから、いつも誰かしら座っている。俺もここへ通っていたころはまずその席へ向かい、落胆してはほかの席を探したものだ。
「勉強するならその席使って。私、邪魔しないから。離れてるから……。ね?」
桜庭の腕が伸びて、今度は俺のブレザーの裾を掴んだ。
頭では拒否しているのに、つい、彼女が引っ張る方向へと足が動き出す。
また、流されている。
彼女の言葉に抗えない。なぜだろう。
……桜庭の寂しそうな眼差しが俺を捉えると、なぜか、体が動いてしまうんだ。
館内の、通称〝VIP席〟は二階の隅にある。
席はほかにもあるけれど、利用者にとってこの席は少し特別だった。
まず、ほかの席と違う、ソファのような椅子が心地いい。沈み込むように座れるけれど、目の前にある低めのテーブルはそれも考慮されているから、勉強も問題なくできる。椅子を半回転させるとガラス張りの壁があって、木々や、その向こうに見える運動場を眺めながら読書ができる。
四人席だけれど机が小さいから、ひとり座っているとほかの人は座らない。なんとなくみんなが狙っている、いい席だ。
桜庭の言っていた席は、思った通りそこだった。桜庭は走って席に近寄ると、そこに置いていたバッグを抱えて振り向いた。
「じゃあ」
そして、先ほど宣言した通り去ろうとする。
そんな彼女のうしろ姿を見て、思わず声をかけた。
「……座れば」
自分でも意外な言葉を発していた。
「ここ……桜庭が取ってた場所だろ。なのに、俺が奪う権利はないよ」
本当は、俺が違う席に行けばいいだけの話だ。
でも結局、俺は桜庭の気持ちを無下にできなくなっている。
そんなことをしても、桜庭のためにならないのに。いつ赤い糸の相手が現れるかもわからないのに。俺なんかよりも、もっと大切にしてくれる人と過ごすべきなのに。
そう思っているのにやっぱり、俺のことを第一に動く桜庭を、無視できなくなっていた。
「……ありがとう」
桜庭は少しだけはにかむと、ゆっくりとした動作で席へ戻った。
それから、桜庭は透明人間になったかのように、静かに時間を過ごした。
俺の横に座るのは悪いと思ったのか、斜め前に座っている。勉強する俺の邪魔をしまいと、できる限り物音をたてないよう努めている。
それだけの配慮をしてくれるのに、俺に付きまとうことはやめない。
変なやつだな、と思う。まぁ、付きまとうといっても、今日図書館で会ったのは本当に偶然なのかもしれないけれど。
桜庭のおかげで、集中して勉強することができた。
この席は本棚に囲まれていて、人気がない。席を狙って見に来る人はいるけれど、その視線も、桜庭のことも気になることなくペンを動かすことができた。
一時間を過ぎたころ、肩が凝って、思い出したように伸びをした。
桜庭に目を向けると、スマホをいじっている。遊んでいるようには見えない、妙に真剣な表情をしてなにかを入力し続けている。
ときどき手元の本をめくりながらも、基本はその姿勢だ。本は図鑑、小説、写真集など、まとまりがない。
なにをしているんだろう。
気になったけれど、邪魔をしたら悪いだろうか。
自分は席を借りたうえに静かにしてもらっているというのに、わがままな人間だ。