*
「おーす」
朝、学校までの道のりを歩いていると、渉がうしろから走ってきた。
渉と通学路で会うのは珍しい。
予鈴ギリギリに来る俺とは違い、渉は早く登校しているからだ。基本は野球部の朝練があるし、ない曜日でも俺より早いバスに乗っている。
渉と会えてうれしい反面、今の俺には人と話す元気がなかった。
「おはよ……」
「どーしたどーしたぁ。暗い顔して」
「……別に。なんでもない」
一晩が明けたのに、昨日のことを思い出すとまだ憂鬱で、頭が疲弊していた。
昨日のデートの最後はめちゃくちゃだった。
〝付き合って〟〝無理〟〝付き合って〟〝無理〟——そんなやり取りを、桜庭と延々と続けていた。
走って逃げてしまいたかったけれど、桜庭の体調が気になるから置いていくこともできない。結局彼女を連れて歩き、無理やり電車に押し込み、家に着いたころには空は真っ暗になっていた。
これからどうなるんだろう。
桜庭がこれで引き下がるとは思えなかった。
でも、彼女の動きはまったく読めない……。
ふとうしろから自転車が来て、端に寄った。この時間、あたりはうちの学校の生徒であふれていて少し混雑している。
背後を確認した拍子に、ふと、気づいた。
ギリギリ顔を認識できるくらいの後方に、時任さんが歩いている。
「時任さん、いるけど。いいの?」
念のため、小声で聞く。すると渉も小声で返してきた。
「さっきまで一緒にいたから平気。公園でしゃべってたんだけど、学校までは別れて行こうって」
渉の頬がほんのりと赤らんでいく。
こんなに遅く登校しているのはそのせいか。
「付き合ってること、隠す感じ?」
「そ。時任さんが恥ずかしいって。まぁ、そのうちバレるかもしれないけど、わざわざ言いふらさない感じかな」
時任さんの性格だとそうだろう。俺もきっと同じだ。付き合う人ができたとしても、冷やかされたくはないから内緒にしておくと思う。
なんて、恋人なんて作らないんだから意味のない妄想だけれど。
「あーあ。卒業したら離れるんだよなぁ……」
渉が、遠い未来を見つめながらため息をついた。
いつのまにか乙女思考になっている渉が、なんだか別人のように思えて笑ってしまった。
「それ考えるの、まだ早いだろ」
「いや、卒業なんてあっという間じゃん」
「あと一年半はあるよ」
「受験もあるし、自由な時間なんて微々たるもんですぅー」
渉が納得していない様子で唸り声をあげる。
これが恋をした人間なんだ、とつい観察してしまった。
小さな不安を見つけては悩んでしまう。恋というのは、ある種のネガティブ思考を生み出すものなのかもしれない。
「俺も一緒の大学目指せればよかったんだけどなー……」
口を尖らせ、渉が子どものようにいじける。
ただ、俺は渉の様子よりも、違う部分が気になってしまった。
「時任さん、もう志望校決めたんだ」
今は高校二年生の初夏。大学が離れるということは、そういうことだ。
「教育学部行くんだって。もう第一志望決まってる。子ども好きだから、教師目指すんだと」
時任さんが教師。容易に想像できるくらい似合っている。
「そうなんだ。みんないろいろ考えてんだな。渉は変わらず法学部?」
「そう。受かった大学の中で一番いいところを選ぶつもり。……教育学部も法学部もある大学はあるかもしれないけど、やっぱり志望校を合わせるなんて、お互いのためにならないよな」
たしかに、大学が離れると環境が変わって別れる恋人たちは多いと聞く。
けど、ふたりに関しては当てはまらないんじゃないだろうか。
「渉なら、大丈夫だろ」
どんな状況でも、渉ならうまくやっていけると思えた。とことん一本気なやつだから。
本心でそう言ったつもりだったけれど、珍しくネガティブな渉には俺の言葉も届かなかったようだ。やだよー、俺ずっと高校生のままでいる、などと言って延々と泣きついてくる。
俺はやっぱり、渉が羨ましい。
恋愛も、勉強も、全力で向き合っている。いや、向き合おうなんて考えるまでもなく、体が勝手に動いているんだと思う。
俺は、なにもしたいことがない。
進路だって適当だ。行ける大学ならどこでもいい。一応外国語を学ぶということにしているけれど、それは英語が使えれば将来なにかの役に立つだろうという理由なだけで、明日進路を変えたってなんの問題もない。
俺には、なんの意思もない。
趣味もなく、将来の夢もなく、おまけに恋をする相手は決まっている。
ただ流されて生きているだけだ。
「おはよ、花ちゃん」
後方で聞き慣れた声が聞こえて、どきりとした。
そっと振り返る。はるかうしろで、時任さんにじゃれつく桜庭が見えた。そういえばふたりともB組だ。桜庭のことだから、誰とでも仲がいいのだろう。
……バス通学、だったのか。
昨日、桜庭は自分も裏門を使っていると言っていた。俺は気づかなかったけれど、桜庭は何度も俺のことを見かけていたのかもしれない。
「渉、遅刻するから急ごう」
「え? まだそんな時間じゃないだろ」
「あとさ、放課後、誰かに俺がどこにいるか聞かれても絶対言うなよ」
「なんだそれ。おまえ、誰に追われてんだよ」
しばらくは部室に行けない。桜庭が来るかもしれない。あの程度のことで気持ちが折れるような人には思えない。
俺はいつまで、彼女から逃げなくちゃいけないんだ……。
また陰鬱な気持ちに支配されそうになるのを振り払い、早足で校門へと向かった。
「おーす」
朝、学校までの道のりを歩いていると、渉がうしろから走ってきた。
渉と通学路で会うのは珍しい。
予鈴ギリギリに来る俺とは違い、渉は早く登校しているからだ。基本は野球部の朝練があるし、ない曜日でも俺より早いバスに乗っている。
渉と会えてうれしい反面、今の俺には人と話す元気がなかった。
「おはよ……」
「どーしたどーしたぁ。暗い顔して」
「……別に。なんでもない」
一晩が明けたのに、昨日のことを思い出すとまだ憂鬱で、頭が疲弊していた。
昨日のデートの最後はめちゃくちゃだった。
〝付き合って〟〝無理〟〝付き合って〟〝無理〟——そんなやり取りを、桜庭と延々と続けていた。
走って逃げてしまいたかったけれど、桜庭の体調が気になるから置いていくこともできない。結局彼女を連れて歩き、無理やり電車に押し込み、家に着いたころには空は真っ暗になっていた。
これからどうなるんだろう。
桜庭がこれで引き下がるとは思えなかった。
でも、彼女の動きはまったく読めない……。
ふとうしろから自転車が来て、端に寄った。この時間、あたりはうちの学校の生徒であふれていて少し混雑している。
背後を確認した拍子に、ふと、気づいた。
ギリギリ顔を認識できるくらいの後方に、時任さんが歩いている。
「時任さん、いるけど。いいの?」
念のため、小声で聞く。すると渉も小声で返してきた。
「さっきまで一緒にいたから平気。公園でしゃべってたんだけど、学校までは別れて行こうって」
渉の頬がほんのりと赤らんでいく。
こんなに遅く登校しているのはそのせいか。
「付き合ってること、隠す感じ?」
「そ。時任さんが恥ずかしいって。まぁ、そのうちバレるかもしれないけど、わざわざ言いふらさない感じかな」
時任さんの性格だとそうだろう。俺もきっと同じだ。付き合う人ができたとしても、冷やかされたくはないから内緒にしておくと思う。
なんて、恋人なんて作らないんだから意味のない妄想だけれど。
「あーあ。卒業したら離れるんだよなぁ……」
渉が、遠い未来を見つめながらため息をついた。
いつのまにか乙女思考になっている渉が、なんだか別人のように思えて笑ってしまった。
「それ考えるの、まだ早いだろ」
「いや、卒業なんてあっという間じゃん」
「あと一年半はあるよ」
「受験もあるし、自由な時間なんて微々たるもんですぅー」
渉が納得していない様子で唸り声をあげる。
これが恋をした人間なんだ、とつい観察してしまった。
小さな不安を見つけては悩んでしまう。恋というのは、ある種のネガティブ思考を生み出すものなのかもしれない。
「俺も一緒の大学目指せればよかったんだけどなー……」
口を尖らせ、渉が子どものようにいじける。
ただ、俺は渉の様子よりも、違う部分が気になってしまった。
「時任さん、もう志望校決めたんだ」
今は高校二年生の初夏。大学が離れるということは、そういうことだ。
「教育学部行くんだって。もう第一志望決まってる。子ども好きだから、教師目指すんだと」
時任さんが教師。容易に想像できるくらい似合っている。
「そうなんだ。みんないろいろ考えてんだな。渉は変わらず法学部?」
「そう。受かった大学の中で一番いいところを選ぶつもり。……教育学部も法学部もある大学はあるかもしれないけど、やっぱり志望校を合わせるなんて、お互いのためにならないよな」
たしかに、大学が離れると環境が変わって別れる恋人たちは多いと聞く。
けど、ふたりに関しては当てはまらないんじゃないだろうか。
「渉なら、大丈夫だろ」
どんな状況でも、渉ならうまくやっていけると思えた。とことん一本気なやつだから。
本心でそう言ったつもりだったけれど、珍しくネガティブな渉には俺の言葉も届かなかったようだ。やだよー、俺ずっと高校生のままでいる、などと言って延々と泣きついてくる。
俺はやっぱり、渉が羨ましい。
恋愛も、勉強も、全力で向き合っている。いや、向き合おうなんて考えるまでもなく、体が勝手に動いているんだと思う。
俺は、なにもしたいことがない。
進路だって適当だ。行ける大学ならどこでもいい。一応外国語を学ぶということにしているけれど、それは英語が使えれば将来なにかの役に立つだろうという理由なだけで、明日進路を変えたってなんの問題もない。
俺には、なんの意思もない。
趣味もなく、将来の夢もなく、おまけに恋をする相手は決まっている。
ただ流されて生きているだけだ。
「おはよ、花ちゃん」
後方で聞き慣れた声が聞こえて、どきりとした。
そっと振り返る。はるかうしろで、時任さんにじゃれつく桜庭が見えた。そういえばふたりともB組だ。桜庭のことだから、誰とでも仲がいいのだろう。
……バス通学、だったのか。
昨日、桜庭は自分も裏門を使っていると言っていた。俺は気づかなかったけれど、桜庭は何度も俺のことを見かけていたのかもしれない。
「渉、遅刻するから急ごう」
「え? まだそんな時間じゃないだろ」
「あとさ、放課後、誰かに俺がどこにいるか聞かれても絶対言うなよ」
「なんだそれ。おまえ、誰に追われてんだよ」
しばらくは部室に行けない。桜庭が来るかもしれない。あの程度のことで気持ちが折れるような人には思えない。
俺はいつまで、彼女から逃げなくちゃいけないんだ……。
また陰鬱な気持ちに支配されそうになるのを振り払い、早足で校門へと向かった。