「今、〝いいことなんてない〟って言ったでしょ。それって、寂しいってことなんじゃないの? もっと自由に恋したいってことじゃないの? 女の子とも普通に話したり、誰かを好きになったり、したいんじゃないの?」

 唾を呑み込む。
 喉が鳴る音が、空気中でかすかに震える。

「……そんな、こと」

 渉の顔が浮かんでいた。
 あの屋上で、渉は本当に幸せそうに笑っていた。
 あのとき、俺は心から渉の恋の成就を祝福した。それは本心だ。そして、心の奥で、思った。
 俺もいつか、あんな顔ができるようになるのだろうか。
 俺もいつか、誰かを好きになることができるのだろうか。
 ……俺は、いつまで、耐えたらいいんだろうか……。

「私がカノジョなら、いつかいなくなるから。ちょうどいいでしょ?」

 平然と言う。
 そして俺にさらに顔を近づけ、やさしく微笑む。
 ベンチの上で後ずさることもできず、背もたれに強く体を押し込んだ。

「……なに言ってんだよ。ちょうどいいわけないだろ……」
「もとから期間限定の恋なら、ふたりとも傷つかないよ。それとも私、タイプじゃない?」
「そういうことじゃなくて!」
「私、浅見くんの本命の彼女が現れる前の、練習台になるよ」

 練習台、という言葉が引っかかり、ついムキになった。

「桜庭は、こんなくだらないことに時間使ってる場合じゃないだろ」

 こんなことを言ったら、桜庭には遺された時間が少ないと言っているも同然だ。でも言わずにはいられなかった。
 こんなの無茶苦茶だ。
 桜庭が、あまりにも理不尽すぎる。

「全然くだらなくなんかないよ。だって私、浅見くんのこと好きだもん」
「いや……。……仮にそうだとしても、俺の気持ちはどうなるんだよ」
「浅見くん、私のこと嫌い?」
「嫌い、じゃないけど、好きになったわけでもない」

 だめだ。
 こんなの、だめだ。
 桜庭の現状を考えると心苦しいけど、乗せられちゃいけない。
 俺なんかに、桜庭の命を消費する価値はない。
 本命の相手がいる俺に、誰も、恋なんかさせない。

「あのね、これはどっちかというと、私のお願いなの。私、浅見くんのことが好きです。だから付き合ってください!」

 まっすぐに気持ちをぶつけられる。
 でも、やっぱり応えることはできない。

「……ごめん」
「お願いします!」
「桜庭は、もっと自分のこと大切にしろよ」
「お願いします!」

 あぁ……。
 なんで。
 なんでこんなことになったんだ……?
 思わず天を仰ぐと、カシの木の葉の向こうに、真っ青な空が光っていた。