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 放課後、待ち合わせ場所である部室に来ると、先に来ていた桜庭の姿があった。
 窓辺にたたずみ、こちらに背を向けて空を見上げている。
 本当に空を見るんだな、と思う。あんなに見晴らしのいい場所に立っているのに、校庭や街並みを見下ろすこともなく、空を。
 昨日、桜庭が天使に向かって手を振っていたことを思い出した。
 桜庭が言っていた天使という言葉が、今となっては違う意味に思える。それは決して妄想の中の話じゃない。
 近いうちに、自分自身が会う存在なのかもしれない。

「……あれ? イケメン風になってる!」

 桜庭が俺の気配に気づき、振り向いた。
 ……やっぱり言われた。
 桜庭だけじゃなく、今日はクラスでも散々言われた。髪型変えた、なんで、どうして。普段はしゃべらない男子すら寄ってきてつっこまれた。
 でも感想の最後には、必ず「いいじゃん」という言葉で締められたので、一応喜んではおいたけれど。

「もしかして、気合い入れてきてくれたのー?」

 ほら、やっぱりこうなる……。
 桜庭がぱたぱたと走り寄り、背伸びをして髪に触ろうとしてきた。俺は慌てて部屋の中を逃げまわる。

「姉ちゃんにやられただけだよ。たまたま家にいたから、絡まれて」
「え、お姉さんいるんだ。何歳?」
「六歳上」
「じゃあもう社会人とか? 結構離れてるね」

 桜庭がケラケラと笑いながら、長机の上のバッグを肩にかけた。
 外へ出る準備は万端、といった様子で俺のところへ戻ってくる。

「じゃ、行こっかぁ」
「行こっかぁ、じゃなくて」

 俺は逆にバッグを置いた。
 椅子に座り、きょとんとしている桜庭を見上げる。小さく息を吸って、できるだけ固い口調で答えた。

「一緒には帰らない」

 はっきりと言った。そうしないと、流されそうに思えた。
 桜庭はおそらく、自分を曲げない性格だ。
 現に今も、柳に風とでもいうように、表情を変えていない。自分の意向をはっきりと伝えないと、彼女のペースに飲まれてしまう。

「え? なんで?」
「一緒に帰る理由がないし。それに、ふたりで帰ってるところなんて見られたら変に噂をたてるやつもいるだろ」
「じゃあ、なんで来てくれたの?」
「おどされたから」

 バッグのポケットからはみ出ているスマホを叩いた。

「チャットだと面倒だから、もう一度ちゃんと話そうと思って」

 友達申請を勝手に受理したことはこの際置いておく。とにかく今は、ちゃんと拒否をして諦めてもらうことが先決だ。
 桜庭の願いを聞き入れられないのは悪いと思う。……でも俺は、赤い糸の相手がいる以上、ほかの女性と関わることはできないんだ。
 桜庭は俺の前に立つと、またあっけらかんとした笑顔を浮かべた。

「変な噂たてられても、私は別に平気だよ。むしろうれしいかも」
「俺は嫌なの。そんなの事実じゃないだろ」
「じゃあ、友達としてなら一緒に帰ってもいいでしょ? 友達なのは嘘じゃないもん」
「……俺たち友達なのか?」
「一緒に帰らないと、屋上のこと先生に言っちゃうかも」

 目を細めながら、なかなかに卑怯なセリフを吐いてくる。
 おどしが有効だと知ると、躊躇なく使ってくる。案外、小悪魔みたいな人なのかもしれない。
 ただ、俺はこのおどしを使われると逆らえない。
 本当にバラされたら、渉の評価が下がる可能性がある。幸い桜庭は渉も屋上にいたことに気づいていないようだけど、先生にバレて俺になにかがあったら、渉も名乗り出てしまうだろう。あいつはそういうやつだ。
 つい、下を向いて黙ってしまった。
 どう出るべきか迷っていると、思いがけず、向こうが先に口を開いた。

「……ごめんなさい」

 そっと顔を見ると、桜庭は一転して沈んだ表情をしていた。
 ……わがままだったり、かと思えば謝ってきたり、忙しい人だ。
 桜庭も椅子を引き、横に座る。視界の隅に、彼女の握りしめた両手が見える。
 そこにはなにか、決意が込められているように見えた。
 彼女の状況を考えると、何気なく笑っている瞬間であっても、きっといろいろな感情と戦っているのだろう。

「じゃあ、一回だけ。……一回だけ、デートしてください」

 また突拍子もないことを言われた。
 でも突然訪れた重い雰囲気に、なんとなく声が出せない。

「……この前も言ったけどね、私、誰とも付き合ったことないの。デートもしたことないの。一回も。だから……」

 こぼれた声は静かに溶けて、部室の床に染み込んでいく。
 ……ずるい。
 余命半年の人間にそんなことを聞かされたら、無視できなくなる。
 人生、最初で最後のデート。それは屋上の件なんかよりも、特大のおどしだ。
 それでも。
 それで、桜庭の気が済むのなら……。