「……ごめんね! 私、帰るね」

 そして、立ち上がった。
 置いてあったバッグを肩にかける。そのまま振り返らず、入り口に向かって歩いていく。
 傷つけてしまった。
 桜庭がどんなにあっけらかんとしていようと、つらい現実を抱えているのは間違いないのに。俺の戸惑いなんかよりも、よっぽどショックを受けているはずなのに。
 ……最低だ、俺は。

「ねぇ。また、会いにきてもいい?」

 入り口の近くまで来たところで、桜庭が振り向いた。
 その表情は変わらず笑顔で、なんだかほっとしてしまう。ただ、その問いだけは聞き捨てならない。

「えっと……なんで?」
「あ。ここ部室だから、私だって来る権利はあるよね。よしよし」
「ちょっと、待って……。なんで来るの」
「やりたいことがあるんだ」

 やりたいこと。
 ……死ぬ前に、ということか。

「私ね、恋がしてみたい」

 桜庭の表情がわずかに真剣なものになる。

「私、まだ誰とも付き合ったことないの。でも、それでもいいって思ってた。好きな人がいなくても楽しいことなんてたくさんあるし、やりたいこともたくさんあって、好きな人と過ごす時間なんてないって思ってたの。でも、今は、ちょっと違くて。心変わりしたっていうか」

 桜庭はまた笑顔を戻すと、俺に向かってにっこりと笑いかける。

「私、浅見くんと恋がしたい」
「……は⁉︎」

 思わず大声が出た。
 恋?
 俺と?
 ……なんで、俺?
 そのまま、思考が止まる。頭の中を桜庭の言葉が駆け巡っている。
 それでも、どう考えようとも理解が追いつかない。

「まっ……待って。なん、なん、なんで、俺」
「私、浅見くんに運命感じちゃったみたい。だから、浅見くんに恋したいなって」
「いやいや……。それって、屋上から目が合っただけの話だろ。ただの偶然だよ。意味なんてない」
「そうじゃないよ。もっとおっきな運命だもん。私ね、たぶんもう、浅見くんのこと好きだよ」
「は⁉︎」

 好きって……。
 そんなわけあるか。
 俺は、桜庭に気に入られるようなことなんてなにひとつしていない。
 好かれる要素なんてどこにもないはずだ。
 なのに、なんで。
 ——なんでこうなった?
 混乱している間に、桜庭はぴょんと飛び跳ねて廊下に出た。

「だから、またね! 浅見くん」

 そう言い残して姿を消す。しばらくして彼女の足音が消えると、思わず膝に肘を置き、頭を抱えた。
 左手から赤い糸が落ち、床を走る姿が見える。
 俺は、女性と関わらないはずだった。
 恋なんてしないし、させない。そうするには、誰とも接しないのが一番だった。
 なのに、なんでこうなるんだ。
 わけがわからない。
 昨日会ったばかりの同級生に好かれるなんて、あり得ない。
 俺の運命の相手は、桜庭じゃない。
 そうじゃ、ないのに……。


 ——その日を境に、俺と彼女の奇妙な関係ははじまりを告げたのだった。