――ずきん、と、胸が痛む。
(もしかしたら私が、彼を追い込んだのかな……)
もちろん直接的な原因はないにしろ、どことなく当てつけるような日々の呟きを思い返せば、キャリアの脱線にジレンマを抱いていた日暮が、追い詰められて躍起になってしまったという経緯もわからなくはない。
日暮にかける言葉が見つからなくて、ただ茫然と寄り添う二人を見つめていると、それまで無言だった宵町が、ふいに口を開いた。
「……涙ぐましい慰め合いは結構なことだけどさぁ。どんな事情があるにせよ、あなたの場合、不正は不正でしょ」
相変わらずの容赦のなさでバッサリ斬り捨てる宵町に、ギョッとする愛莉。
痛恨の一撃を喰らって心底苦しそうに顔を顰める日暮を、田島があわあわとした表情で見つめている。
「そ、そんなのわかって……」
「本当にわかってんの? あなたが不正にランキングを操作したことで、本来舞台に上がるべきだった人間が、ランク外に追いやられた可能性だってあんのよ」
「そ、それは……」
「まあ、アタシだって少なからずランキング不正の影響を受けた被害者の一人だから言わせてもらうけどね、真面目にやってる人間からすればたまったもんじゃないっての。いくら現実が厳しいからって、お子さんのためなんだったら、もっとお子さんに恥じないやり方を考えなさいよ。楽して這い上がったっていつかボロが出るわよ」
「……っ」
泣きっ面に蜂とはこのことをいうのかもしれない。宵町は同情の余地なくそう言い放って、ふんと鼻を鳴らす。
日暮は返す言葉なく、沈痛な面持ちで唇を噛み締めた。
「わかってるよ、そんなの。今まで応援してくれてたママ友パパ友にも散々叩かれまくって炎上してるし、春奈ちゃんだって悲しませたくないし……もう充分に身に染みた……不正はもう絶対にしない……それは誓う……」
すんと鼻を鳴らしながら、決意を示すようにそう呟く日暮。だが彼は、キッと顔を上げると、せめてもの悪あがきをするように、宵町や田島、愛莉をギリと睨みつけてから言った。
「でも。それとこれ――告発文の犯人探しの件は全くの別物だ。大事な時期に、こんな理不尽な方法で人のプライバシーを晒して、最終選考を引っ掻き回したヤツを、俺は絶対に許さない」
「それはこっちのセリフなんだけど」
呆れたように言い放つ宵町。間に挟まれた青木は、日暮と宵町、双方の顔をハラハラと見比べている。日暮は自分の意見を押し通すよう、さらに続けた。
「先に言っとく。俺は、俺と春奈ちゃんが告発文の犯人ではないことを断言できる。そんなことしたって俺にはデメリットしかないし、春奈ちゃんは人を貶めるような人間じゃないってこと、俺はよくわかってるからな。もちろん証拠なんてもんはないけど、お前らがどう思おうが関係ない。……で、いったい誰なんだよ。俺のサブ垢の存在を知ってたのはこの五人だけだ。さっさと白状しろよ」
やはり彼の中では、五人の中に告発文の犯人がいることが確定事項であるらしい。
言葉に詰まり、愛莉は困ったように視線を伏せる。
正直、日暮が登場するまでは、告発文の犯人たる人物は彼しかいないであろうと考えていた。
田島も、宵町も、青木も、告発文の内容を認めているし、自身の闇の部分を晒したところでなんのメリットもない。むしろ、今後の執筆活動に悪影響を及ぼすだけだ。
しかし――。残る一人、日暮の言い分にも不自然な部分はないし、なにより、不正を認めているのであればなおさら、彼には自分の罪を晒したところでデメリットしかない。有無を言わさぬ迫力も、当然、演技ではなく本物だろう。
だとすれば、いったい誰が?
いったい誰が、嘘をついているというのだろう――。
「すみません。チイトさんも宵町さんも春奈ちゃんも、お話を聞いて嘘はないように思えたので、わたしはてっきり、日暮さんなのかと思ってたんですが……」
「だからなんで俺が、こんな崖っぷちの状況で、自滅すんのがわかってて自分の罪晒すんだよ……あり得ないだろ」
「で、ですよね……。で、でも……」
「もしかして俺が嘘ついてるとでも言いたいのか? だったら、クビにされた勤務先なりなんなり教えてやっから、電話して確認すればいい。悲しいぐらいに事実しかねーから」
「いっ、いえ。そこまでは! 日暮さんの仰ることもきっと本当だと思いますし、疑ってません。だけど、でも、それじゃあいったい誰が……」
沈黙に耐えきれず、思っていたことを正直に伝えたところ、日暮の猛抗議に合い、その迫力に気圧されるように後退る愛莉。
告発文の真相を探るつもりだったが、ここへ来て頓挫してしまった。
もう一度はじめから情報を整理した方がいいだろうかと思いかけて……ハッとする。
(あれ……)
田島でも宵町でも青木でも日暮でもない。
自分以外の全員が告発文の内容を認めており、告発文を翻すことが不可能な状態にある。
だとすれば……自ずと、疑いの目は一点に集中するだろう。
(ちょ、ちょっと待って……)
――案の定、『ただ一人告発文の内容を認めていない自分』に、全員の視線が集まっていたのだった。
◇
ドクン、と鳴る心音。
まるで不意打ちで襲いかかる地震の緊急速報を聞いた後のような、嫌な圧迫感と緊張感が全身に漲る。
「え、あ、あの……」
うまく声がでない。口の中がカラカラに乾いていき、全身から血の気が引いていく。脈も不穏なぐらいに早まり、額に汗が滲んだ。
「……」
視線を泳がせても、誰も何も言わない。
ショックだったのは、田島までもが、辛そうな表情で自分をまっすぐに見ている。
彼の言いたいことはわかる。でも違う。自分じゃない。
「ま、待ってください。私じゃないです。私はっ」
「田島も違う、アタシも違う、青木サンも日暮サンも違う。そうなったらもう、あなたしか残ってないじゃない」
「やめてください、違います! 私は告発文なんて書き込んでません!」
宵町に冷たい眼差しを向けられ、痛いぐらいに心臓が高鳴り、徐々に呼吸が苦しくなってくる。
落ち着け、落ち着け愛莉――と、自分自身に言い聞かせる。
確かに自分は、魔がさして悪戯の告発文をあげようかと一瞬は考えたが、それは単なる妄想。神に誓って書き込んではいない。すでに削除されている書き込みなので履歴を見返したところでどうにもならないが、どうしてもというなら情報開示して調べてもらったって構わない。
自分が告発文の犯人ではないと、それは断固として断言できるのに、こんなにも恐怖心が這い上がってくるのはなぜだろう。
二の句が継げない愛莉に、日暮が白い目を向けた。
「まあ俺も、おかしいとは思ったよ。『事実』を指摘されて言い逃れができない俺らと違って、アンタだけは堂々と『否定』の声明文あげてたもんな」
「だ、だって私は、本当に盗作なんてしてな――」
「そりゃ、口ではなんとでも言えんだろ。『盗作』ってのは線引きが難しくて事実の認定が難しいって話だし、アンタが認めない限りやられた側は完全に泣き寝入りだ。その現状を逆手に取れば、危険な賭けではあるけど、唯一、自分だけが告発を受けてもほぼノーダメージで、安全区域にいながらライバルを蹴落とせるってわけ」
「……っ」
あまりの暴論に開いた口が塞がらず、握った拳が小刻みに震える。
待ってほしい。理論上はそれで告発文の犯人としての動機が成り立つけれど、そんなのは言いがかりだ。たとえそれで犯行に及んだとしてもあまりにもリスクが大きすぎるし、こじつけも甚だしい。
「あ、ありえな……」
「500万だぜ? 賞金500万がかかってて、三作品の刊行も約束されてる。さらに今波に乗ってるスターライト出版の推し作家にまでなれるんだ、俺がアンタの状況なら、ハイリスクハイリターンを覚悟でやると思うから、決してあり得ない話じゃない」
「……」
――ダメだ。実際に不正という抜け道を選んでしまった日暮にそう言われてしまうと、どれだけ常識的な意見で対抗しようとしても、それは都合のいい綺麗事だと結論づけられて、まともに取り合ってもらえる気がしない。
ドクン、ドクン――。
妙に昂ってくる心音。返す言葉がない。必死に自身の潔白を主張しようとするも、言葉を選ぼうとすればするほど得体の知れない焦燥感が増していき、次第に何を主張していいのかわからなくなってくる。
「違う、私じゃないです、盗作だって、してない。盗作なんかじゃ……」
妙に息が苦しくなってきて、言葉が出てこなくて、愛莉はどうしていいかわからなくなって、縋るように田島を見た。
彼は困り顔をしつつも、さすがに不憫に思ったのか、慌てたように口を挟もうとしたのだが――。
「あ、あの、セイさん、ヤミさん。ちょ、ちょっと待ってください、えと、愛莉さんは、その――」
「本当に、『盗作』じゃないんですか?」
田島の、頼りない決死のフォローは、あっけなくかき消された。
話を遮ったのは、青木だ。
それまでのおどおどとした控えめな態度ではなく、意を決して自身の主張を貫こうとしているかのような、そんな、逞しい声色と顔つきだった。
「は、春奈ちゃん……?」
「なん……」
「『ユッコ』『優葉』『亜恋』」
「……!」
突如として青木が放った名前。
それが耳に届いたとき、暴走するように心臓が跳ね上がり、全身が凍りついたかのように硬くなった。
「以前〝NARERUYO〟で恋愛小説を書いていた、私の創作仲間の名前です。今はもう活動していない方達ばかりですが……愛莉さん。この三人の名前に、聞き覚えはありませんか?」
突然の言及に、息が止まりそうになる。
――その名前は知っている。だが、思い出したくない。耳を塞ぎたい。そんな関係性だ。
返事ができずにいる愛莉を見て、興味深そうな表情を浮かべる日暮と宵町。元〝NARERUYO〟ユーザーの田島は、その名前には心当たりがなさそうに首を捻っている。
「え、ごめん、俺、結構〝NARERUYO〟での活動期間長かったけど、その名前は聞いたことないや。誰だろ……?」
「愛莉さん以外の皆さんはご存知ないと思います。私が恋愛小説を書いていた頃なのでだいぶ前の話ですし、それぞれ皆さん、そこまでランキングに強い方たちではありませんでしたから」
知っている。だからこそ、当時そこまで大きな騒ぎにはならなかった。
もう当時のことを思い出すことはないと思っていたのに……まさか青木の〝NARERUYO〟時代の創作仲間が、自分と縁のある人物だったとは。
青木の意外なネットワークの広さに戦慄し、愛莉は自分のこめかみから、一筋の冷や汗が伝っていくのを肌で感じた。
「そか。えと、それで、その三人がどうしたの?」
何も知らない田島はきょとんとした顔で、再び首をひねる。青木は静かに苦笑したのち、真っ向から対峙するよう愛莉に視線を向ける。
まっすぐで純粋な瞳が、今の愛莉には、ひどく耐え難いものに感じた。
そんな愛莉を追い込むよう、青木がきっぱりと告げた。
「彼女たちは、『盗作』を主張し、愛莉さんと散々揉めた子たちです」
「なっ」
「でも結局、折り合いがつかずに心と筆が折れて、皆、泣き寝入りするように辞めていってしまいました」
揺るぎのない瞳で現実を突きつける青木と、ふるふると無言で首を横に振る愛莉。
日暮と宵町は神妙な面持ちで息をのみ、ただ一人、田島だけが狼狽えるように青木と愛莉を交互に見比べている。
「え、ちょ、ま、待って。なんで⁉︎」
田島の『なぜ』は、いったい何に対するものなのか。
愛莉の盗作についてなのか。それとも、泣き寝入りするしかなかった理由に対してのものなのか。青木は後者と受け取ったようで、淡々とその事実を詳らかにする。
「セイさんが仰るように、『盗作』は線引きが難しいんです。『アイデア』や『設定』は著作権法で保護されていないので、展開やストーリー設定、キャラが似ているだけじゃ、真正面から訴えても上手く言い逃れされてしまう可能性が高いですし、当時から愛莉さんにはコアな読者さんが多くついてましたから、SNS等で主張しても『言いがかりだ』とか、『売名行為』だとか言われて、逆に袋叩きにあってしまうような状態でした」
「……っ」
「作品自体も、彼女たちの作品より愛莉さんの作品の方が注目度が高くて人気がありましたから、当然、ランキングでも勝ち目はなかったみたいです。自分のアイデアが他人の物になって、声をあげてもかき消されて、挙句に自分の作品より世間に支持されていくのを傍らから眺めるしかないって、当事者からしてみれば相当辛いことですよね」
憐れむようにそう呟く青木。田島は返す言葉なく口を閉ざし、代わりに、興味深そうな顔で話を聞いていた日暮が身を乗り出してきた。
「マジか……。春奈ちゃんが言うくらいだし、それ、確かな情報だよね?」
「はい。信頼できる親友たちから個人的に聞いた話ですし、今はもう彼女たちの作品は削除されてしまっていて現物を確認することができないんですが、当時、私も作品を見比べてみて、やっぱりそうなんだろうなと思うことも多かったので……」
青木が、真摯な表情で答える。
愛莉は何も口を挟めないまま、ただ悪い夢を見ているように、二人のやりとりを見つめた。
ドクドクと、徐々に脈が速まってくるのが自分でもわかる。
「なるほどね……。ツブヤイター見てても、仕事が激務だと言ってる割に異様に更新頻度高いし新連載の告知が多くて、どっからネタ降ってくるんだろうとは思ってたけど……まあ、アイデアを他人からパクってたんなら、納得だわ」
違う、と声にしたいのに、震えてしまって声が出てこない。
納得して呆れ果てるようにこちらを見てくる日暮に続き、宵町からも冷めた目線と台詞が飛んでくる。
「盗作ねえ……。あなたは違うと言い張ってたけど、どうせそんなことだろうとは思ったわ。他人のアイデア盗んどいて素知らぬ顔で相手を潰すとか最低じゃない。アタシだったら相手が認めるまで絶対許さないし、炎上覚悟で戦って、何がなんでも謝罪させてるわ」
「宵町サンが言うと洒落に聞こえないんですけど……」
引き気味に苦笑している日暮に、宵町は肩をすくめた。
「もし自分が盗作なんかされたら当然の権利でしょ。それはそうと、告発文の犯人、案外その子たちが絡んでたりしない?」
「どうでしょう。もう活動していない子たちばかりですし、厳密にいえば、私が知る事例は仲が良かったその三人ってだけで、愛莉さんと裏で揉めていた子たちは他にもたくさんいたはずですから、繋がりを絞るのはちょっと難しいと思います」
「そう……」
神妙な顔つきで青木に相槌を返す宵町。するとここで、再び日暮が間に入ってきた。
「いやでも、盗作された人物からのリークだったら、俺や春奈ちゃん、闇サンや田島クンまで巻き込む必要はなくね? 皇愛莉一人に対して告発すればそれでいいだろ」
「それもそうだけどさ。アタシは彼女が告発文の犯人って説の方が信憑性に欠けると思う。リアルが充実してて、誰よりもプライドが高そうな彼女が、わざわざ大きなリスクを背負って、自分の汚い部分を晒してまで500万を狙うとは到底思えないもの」
「それは……まあ」
宵町に妥当な指摘され、日暮がもごもごと口ごもる。
違う。充実なんてしてない。そんなフリをしているだけだ。
宵町は反論できずにいるこちらを見て、さらに続ける。
「もし彼女を犯人扱いするとすれば……盗作による良心の呵責に耐えきれなくなって、自首するつもりで告発文を書いたけど、途中で怖くなって他の受賞候補者たちを全員巻き添えにしちゃった、とか。そっちの方がしっくりくるかな」
「そ、そんなことしませんっっっ」
「そう? あなた、自分で他の候補者たちは嘘をついてるようには思えないって言ったんだし、もうそれぐらいしか可能性は残ってないじゃない」
反射的に声を上げてしまった愛莉に対し、宵町は冷め切ったような顔で嘲笑う。
青木は元より、宵町も確実に自分を追い詰める気だ。
きっと、自分だけが真実を偽り、罪を認めず、知らぬ存ぜぬを通しているのが気に食わないのだろう。そこまで思考を巡らせてから、愛莉はハッとした。
――真実を偽り……?
(なに言ってるの愛莉……認めちゃ駄目。真実なんかじゃない……)
ドクン、ドクン、ドクン――。
全身が震え始める。息が苦しい。はあ、はあと、乱れる呼吸を必死に整える。
「ほ、本当に違います……告発文なんか、書いてない……」
絶対に認めてはダメだ。
認めたら、全てが壊れてしまう。
今の自分の立場も、未来の自分の立場も、読者からの信頼も――。
「あ、あの、ヤミさん、セイさん、ちょ、ちょっと待ってください!」
言葉が紡げず、涙目になって立ち尽くす愛莉を見かねたのか、田島が間に割って入ってくる。
「なによ田島。これは皇サンの問題でしょ、あなたは関係ない」
「で、でもっ、その、愛莉さんは、マジで仕事が忙しいみたいでですね……」
「は? 仕事が忙しければ盗作していいっていうの?」
「い、いや、べ、別にそういうことが言いたいわけじゃなくてっ、その……」
「じゃあなによ。はっきりしない男ね。言いたいことあんならはっきり言いなさいよ。匿名なら好き放題言えるくせに、丸腰になった途端相手の顔色見て自己主張もできなくなるとか……あんたそれでも物書きの端くれ? いい人ぶってんじゃないわよ」
「……っ」
煮え切らない田島の返答に、宵町がイライラしているのが傍目でも見てわかった。
宵町に正論をつかれ、田島までもが返す言葉なくじわじわと涙目になっている。
――もういい、もうやめてほしい。
田島は悪くない。悪いのはきっと自分だ。
認めてしまえば楽になるのだろうか?
愛莉の中で何かが崩れそうになった……――そのとき。
室内の空気を切り裂くように、誰かの携帯電話がピロピロと鳴った。
◇
「……!」
追い打ちをかけるような着信音に、愛莉はびくりと肩を震わせる。
「……ん? 誰のだ?」
日暮を始め、他のメンバーが音ので元を探るように辺りをキョロキョロと見渡しているが、愛莉はただ一人、硬直する。
音の出元はまぎれもなく自分の鞄にある携帯電話。あの着信音は、会社からのものだ。
ピロピロ、ピロピロ。
スマホが、自分を呼んでいる。それがわかっているのに、足が動かない。
息が、苦しい。
「誰よ?」
「この着信音……愛莉、さん……?」
前回の茶会の帰り道に、一度、着信音を聞いている田島は、目ざとく愛莉のスマホであることに気づいていた。
きっと、田島は愛莉の実情に気づいている。気を揉むような顔で、こちらを見ている。
「愛莉さ……」
「出ないと……」
足が動いて、やっと声が出たと思ったとき、なぜだか急にあらゆる現実の波が押し寄せてきた感じがして、涙が込み上げてきた。
でも、泣いている暇はない。
電話に出なければ。
「ちょ、まだ話し合いは――」
困惑したように宵町が声を顰めたが、愛莉はふらふらと歩き、自分の鞄に手を伸ばす。
ピロピロ、ピロピロ、ピロピロ。
スマホを取り出し、ディスプレイを見て、ああやはり、と、目の前が真っ暗になった。
そこには、健康診断に行くと言って休みを取っていた上司の番号が表示されていた。
「なんだよ。アンタだって今日、編集部との打ち合わせだったんだろ? 会社にちゃんと休み申請してこなかったのかよ」
日暮が不満そうに顔を顰めているが、反応を示す気すら湧いてこない。
(してるよ、ちゃんと――)
半休取るためにやること終わらせて、引き継ぎもちゃんとして、万全を期してから体調が悪くなったと部内の人間に連絡を回し、直属の上司ではない役職者に許可をとってから、会社を出た。
だけど、そんなもの、自分を取り巻く環境には関係がないんだ。
――そんなことをぼんやり考えながら、半ば、虚ろな目をして機械的に通話ボタンを押す。
スマホを耳に当てるより早く、愛莉をどん底に突き落とすようながなり声が機械越しに届いた。
『おい愛川ァ、出るの遅ぇよ。上司からの電話、何コール待たせんだよ⁉︎』
愛川は、愛莉の本名。その名前が聞こえた瞬間、愛莉の中で、何かがガラガラと音を立てて崩れ去っていくようだった。
「も、申しわけ……」
『申し訳ございません、じゃ、ねえんだよ。っていうかお前さぁ。会社から聞いたけど、なんで俺がいない時に半休なんか取ってんの?? どこが調子悪いんだか知んないけど、そんなもん気の病だろが。ったく最近の若いモンってのはすぐ休むだのやめるだの逃げることばっか考えて、いったいどんな教育受けてきたらそうなるんだよ』
ゼェ、ゼェ、ゼェ。
息が、できない。
萎縮して体内の臓器が全て潰れてしまいそうだ。
六十代上司の大きすぎる野太い声は、おそらく漏れ聞こえて完全に室内へ筒抜けだろうから、日暮も、宵町も、青木も、そしてうっすらとこの現状を察していた田島も、動揺しているような顔を見合わせたり、怪訝そうにこちらを見ている。
「す、すみませ……」
『だからァ! 謝りゃいいってモンじゃないんだよ! 俺がなんで電話してるかわかるか? 他部署のヤツに聞いたけど、お前、例のクレーマーの顧客に難癖つけられて、真っ先に頭下げたんだって? ……っは。バカだなあ、謝っちまったら調査もクソもねえ、回答を用意する前からウチの非を認めたようなもんじゃねえか』
延々と垂れ流される上司の罵声が、ボロボロになった心を完膚なきまでに打ち砕いていく。
「……」
声が、出ない。
――大手企業勤務。聞こえはいいが、実情はメチャクチャだ。
休職者の穴埋めで膨大な業務を押し付けられ、日々、早朝から終電間際まで働かされる。
社内のしかるべき部署に訴えるも、すぐさま直属の上司にそれが伝わり『最近の若いモンは』の一言で徹底的に潰される。コンプライアンスなんて形ばかりでまるで機能していない。結局、会社が守るのは会社だという現実。
無論、休憩も休日もロクにない。常に鬼上司からの連絡に怯え、御機嫌取りに終始する毎日。慰めてくれる彼氏なんていないし、頑張ったねと頭を撫でてくれる男友達もいない。そもそも恋愛なんてしている暇もないし、学生時代の女友達は皆、付き合いが悪い自分に愛想をつかし、疎遠になってしまった。
そんな実情、ここにいる他のメンバーたちには知る由もないことで、当然、関係のないこと。
普段から張り合うような呟きをしていた日暮なんかは、想像とはあまりにも違いすぎる現実に、ひどく驚いているようだったけれど。
悲しくもこれが、皇愛莉の現実なのだ。
『……いいか、愛川。次に電話がきても上手いことボカして取り合うな。調べなくてもわかる、ウチは悪くない。向こうの認識不足に非があるんだよ。だから、認めるな。謝るな。突き返せ。言いがかりなんかに屈するな、いいな⁉︎』
――認めるな。謝るな。突き返せ。
今の上司に変わってから、徹底に叩き込まれてきた言葉だ。
いう通りにしていればいい。そうすれば確かに、大きな問題になることを避けられる。
それはわかっているのに、なぜだろう、心が痛い。悲鳴をあげている。
目元が急激に熱くなってきて、涙が零れ落ちそうになった。
必死に唇を噛み締めて我慢する。声はまだ出ない。
「……」
『おい、返事はァ⁉︎ こっちはさあ、有給中だってのに、出来の悪い部下を思いやってわざわざ電話してやってんの。ったくよお。そこそこいい大学出てるってのに、とんだ無能だよな。客にはホイホイ謝るくせに、社内じゃ無駄にプライドだけ高くて、すぐにコンプラだァなんだァ騒がしいったりゃありゃしねえよ。どうせ異動したところですぐに寿退社だ、産休だーとか言い出すんだろ? はあ。これだから女ってイキモンは……』
上司からの罵声はいつも、愛莉の心を粉々に打ち砕いた。
――愛莉にとっての『創作』は、唯一の避難所だった。
息苦しい生活の中で、『創作の世界』だけは自分にやさしくあってくれたし、自分を認めてくれるような場所だった。
それなのに、どうしてこんなことになってしまったのだろう――?
『おい、愛川!! なに黙ってんだよ、どうなんだよ、ああ⁉︎』
――本当は、わかってる。
全部、自分が招いたこと。
全部、自分の弱さが引き起こしたこと。
仕事で神経がすり減っていた時に出会った創作。
最初は読む方から始めて、見よう見まねで書いてみた。
感想をもらって、褒められて、嬉しくてどんどんのめり込んだ。
インプットのために読み合いもたくさんしたし、感想もたくさん送った。
いつしか純粋な読者も増えて、ランキングにも載るようになった。
読者に喜んでもらえるのが嬉しくて、寝る間を惜しんで小説を書き続けた。
でもどんどん仕事が激務になって、創作に費やす時間も減り、心がすり減ってアイデアさえ浮かばず行き詰まっていた時に、ふと、インプット用に読んだ作品から、『自分だったらこう書く』という妄想を経て、実際に書いてみた。
最初は本当に、ただ、刺激を受けて書いた作品。その程度だったはずだ。
だが、思いのほか読者の反応はよく、また、効率よく作業も進むため、それが常習的なやり方になり、気がつけばいつの間にか、感覚が麻痺していた。
どこまでがセーフで、どこからが盗作なのか、よくわからずに突き進んでしまった。
「……」
「(あ、愛莉さん、大丈夫ですか……?)」
「(お、おい。なんか彼女の会社、やばくないか……?)」
「(完全パワハラじゃないの。ツブヤイターでの印象と全然違うんですけど……どういうこと?)」
「……」
日暮たちがざわついているが、もう、愛莉の耳には届かなかった。
苦しい。辛い。本当は、自分が全部悪いことをわかっている。
けれど認めてしまったら、〝皇愛莉〟は終了だ。
ノベ大どころじゃない。温かく見守ってくれていた読者に見放され、世間からも盗作作家だと白い目を向けられ、自分にはもう、罵声を浴びせてくるどす黒い職場環境しか残らなくなる。
「す、皇さん……?」
『おい、愛川ァ! 返事はって聞いてんだよ‼︎ さっさと返事をしないと……』
真っ暗で、怖くて、震えが止まらなくて、どうしていいかわからなくて、過呼吸になりかけながらも、それでも毎日を生きていくために、なんとかありったけの声で返事をしようと思った。だが――。
横から誰かが、愛莉の携帯電話をスッと引き抜いた。
一瞬、なにが起きたのかわからなかった。
愛莉は顔を上げる。自分の携帯電話を抜き取ったのは、今にも泣き出しそうな顔をしている、田島だった。
「チイトさ……」
困惑するように目配せを送り合う日暮や宵町たちを尻目に、田島は、震える手でスマホを自分の耳元に持っていく。
携帯電話の向こう側では、ひっきりなしに鬼上司が怒鳴っている。
田島はスウっと息を吸い込むと、そんな上司の罵詈雑言を遮るよう、大きな声を張り上げた。
「うるっっっっせえ、聞こえてんだよ!」
『……⁉︎』
「……っ⁉︎」
「え、ちょ」
騒然とする室内。不意打ちの大声だったためか、上司が一瞬、言葉を飲んだようだった。
だが当然、それぐらいで怯む相手ではない。噴火寸前の空気をヒシヒシと纏いながら、上司が低い声で問うてくる。
『……あ? なんだ? 男?? 誰だ君は、僕は今、愛川君と話してるんだ。君はいったい……』
「あん⁉︎ 彼氏だよ彼氏、んなことどうだっていいだろ! っつうかお前こそなんなんだよ。んな怒鳴んなくたって聞こえてるし、ネチネチネチネチ説教のつもりだかなんだか知んねーけどものには言い方ってもんがあるだろうが。彼女、めちゃくちゃ怯えてんじゃねえか!」
『なっ、な、な……』
震えているのに。声が裏返ってるのに。涙目になっているのに。
まるで、内側に隠していた毒素が全て解き放たれていくように、田島の勢いは止まらない。
「なんか変だと思ったんだよ。会社から電話かかってきてるところを見て怯え方が尋常じゃなかったから、絶対何かあると思った。そりゃ毎日、終電間際まで残業させられてアンタみたいな心ないヤツの罵声浴びてたら、逃げ場が欲しくなるし感覚だっておかしくもなるわ。つーかさ、彼女の残業時間とかどうなってんの? そもそもちゃんと把握してんの? 大手企業の役職者だかなんだかしんねーけど、パワハラも大概にしろよてめぇ、訴えんぞ!」
『パ、パワハラ? ああ⁉︎ なに言ってんだお前、誰だか知らんが、そんな勝手なことを言って……彼女に代わりなさい! いい加減にしないと彼女の立場がどうなっても知らんぞ⁉︎ 俺の一存で、減給ぐらい楽にできるんだからな⁉︎』
「はい、今の全部録音しましたー。上等だよクソ野郎。これ以上、彼女に不当な圧力かけてみろ、出るとこ出てやっからS県S市にある田島商店の田島優弥宛に電話かけて来い!」
「は⁉︎ ちょ、おいま……」
「二度と彼女に〝出来が悪い〟とか〝バカ〟とか否定的な言葉使うんじゃねえ! わかったな⁉︎」
言うだけ言って、ブツっと通話を切る田島。
――ツーツーツー。
シン、と静まり返る室内で、田島がただ一人、ゼエゼエと息を吐いている。
日暮と宵町が顔を見合わせて『やっちまったなアイツ』といった顔で引き攣った笑いをこぼすと、緊張の糸が切れたように、田島がその場にへたり込み、愛莉に向かって、地に埋まる勢いで頭を下げた。
「すんません……ほんとすんません……。まじで調子乗りました……」
「……」
「ほんとごめんなさい……俺、はじめて匿名以外で自分の意見、言いました……」
いまだに震えている田島の言葉が、ストレートに愛莉の胸に届く。
「辛そうな愛莉さん見てたら、なんかしんどくて……我慢できなくて……彼氏なんかじゃないのに……録音だってとってないのに……俺なんかじゃなんの責任も取れないのに……ほんと、勝手なことしてすんません……」
心の底から詫びるよう、繰り返し、繰り返し、謝罪の言葉を述べる田島。
たしかに社会人としては、初対面相手にいきなりブチギレるだなんてアウトだろう。
しかも、よりにもよって相手はあの鬼上司だ。ちょっと意見しただけで十倍近い仕返しをされるのが常のあの上司に、あんなに啖呵を切ってしまうなんて。
これからどうすればいいんだろう――という、本来吐露しなければならない心配や言葉は、微塵も出てこなかった。
不思議と、怒りが湧いてこない。
正直、清々した。そればかりか、いつの間にか息がしやすくなっている。
今しがた田島が放った言葉は、本当はきっと、ずっと誰かに言ってもらいたかった言葉で、本当はずっと、自分があの鬼上司に言ってやりたかった言葉なのかもしれない。
「……」
気がつけば、愛莉の頬に温かい涙が伝っていた。
日暮も、宵町も、青木も、なにも言わずに二人のやりとりを静観している。
力なく笑う田島は、今一度、全員の耳に届くような声色で言った。
「誹謗中傷の件も……ほんとすみませんでした。俺、ちゃんと自分の嫉妬と向き合います。もう二度としません。なんか、自分の批判で大事な人が傷ついてんの見たら、とんでもないことしたなって……今ではマジで反省してます。告発文の犯人探しとかも……もうどうでもいいっす」
顔を上げた彼の瞳には、もう、一片の濁りもない。
戸惑うよう顔を見せ合う日暮や宵町を傍目に、田島は愛莉をまっすぐに見つめて続ける。
「だから愛莉さんも……もう、やめましょう。愛莉さんのことだから、きっと、疲れてんのに無理して、ファンサしようって必死に頑張ってるうちに、頭ん中麻痺して、気づいたら他人の作品に寄せすぎちゃったってだけすよね?」
「……」
「俺はそう信じてますから。そんな辛い顔をして作品を書き続けてたって、真のファンは、嬉しくないっすよ」
返す言葉が出なかった。
もう、何も反論する余地がない。
全て、田島の言う通りなのだ。
「ですぎたこと言ってホントすんません……でも俺、やっぱり愛莉さんが心配だか……」
「ありがとう」
ようやく、自分の口からこぼれたその一言。
不意をつかれたように田島が顔をあげ、日暮も、宵町も、青木も、息を呑むような顔で、こちらを見ている。
――認めちゃダメ。
――謝ったらダメ。
――全てが壊れる。
もう一度、頭の中で回る上司の言葉。
でももう、そんなこと、どうでもいい。
「ごめんなさい」
まるで憑き物が落ちたかのように、深々と頭を下げて、ただ素直に、真摯に、謝罪の言葉を紡ぐ。
「ごめ……なさい、本当にごめんなさい……」
今さら気がつく。本当はもう、自分の世界はとっくに壊れていたのかもしれない。
許されることではないけれど、だからといって謝罪もせずに、被害者を蔑ろにしていいはずがなかった。
「チイトさんのいう通り、です……本当に、ごめんなさい……」
自分の犯した過ちと向き合って、自分の弱さと向き合って、償って、もう一度、一から出直したい。
そして今度こそ、借り物の言葉よりも、自分自身で思い描いた言葉で、自分の世界を届けたいと、心の底から願った。
愛莉はその思いを貫くよう、謝罪の言葉を繰り返す。
「ごめ、なさい……」
「愛莉さん……」
「お、おい。それは盗作について謝ってんのか?」
日暮に問われ、こくりと頷く。
俯けば、溜め込んでいた涙がボロボロと落ちていった。
「告発文は、本当に、私じゃないです……。でも、盗作、は……チイトさんの言う通り、で……」
素直に白状すれば、ああやはりと、目前で日暮や宵町、青木が嘆息を吐いて目配せを送り合う気配を感じた。
顔を上げるのが怖い。責め立てられるのが怖い。けれどもう、逃げるのはやめよう。
ただ黙って、震えながら頭を下げ続けていると、傍らで黙って話を聞いていた田島が口を挟んだ。
「もういいじゃないすかセイさん。愛莉さんはもう二度としないと思います。それに、彼女を許すかどうかを決めるのは俺らじゃない、被害者の方です。魔がさしてしまった者同士の俺やセイさんには責める権利ないかと……」
それを言われると言い返せない日暮は、ぐっと呻くように押し黙っている。
田島に「ね? 愛莉さん」と優しく背を撫でられると、愛莉の中で張り詰めていた何かが途切れ、嗚咽が止まらなくなった。
深く頷く。もう、二度としない。
「もう、しません……誓い、ます……」
――これでもう、皇愛莉はおしまいだ。
自分で蒔いた種だとはいえ辛い現実に涙は止まらないし、今後の不安を考えると今すぐにでも膝から崩れ落ちたいような心境だったけれど、でもなぜだろう。肩の力が一気に抜けて、心は軽くなった気分だった。
ようやく罪を認めた愛莉の心からの謝罪に、日暮と宵町、そして青木は顔を見合わせて、失笑をこぼしている。
「なによ……やっぱり黒なんじゃない。ってかなんで田島まで泣いてんのよ」
呆れ顔で肩をすくめる宵町。表情を曇らせていた日暮は、ため息一つ落とすと、さっさと身繕いを始めた。
「勝手に美談で終わらせんなって感じだけどな」
「って何よあなた、あんなに息巻いてたのに帰るの?」
「ああ、帰る。なんか……結局全員同じ穴の狢かよと思ったら、急にシラけたしな」
「ちょっと。勝手に一括りにしないでよ。……でもまぁ、わからなくもないけど」
「セイさん……」
青木が心配そうに声をかけると、日暮は苦笑した顔で返す。
「悪いな、春奈ちゃん。なんか一気にほとぼりが冷めたっていうか……無性に自分の現実が心配になってきたわ。子が待ってるし、500万はもうアテにできないし、家帰って一息ついたら、マジな職探ししねえと」
「そうですか……。でも、それがいいかもしれませんね。わたしも……もう、これ以上は、誰も責める気はありませんし、家に帰って、今後のことについて考えようかと……」
悲しげに、でも、どこか割り切れたような表情で顔を見合わせ、頷き合う日暮と青木。
青木はぺこりと会釈をすると、嗚咽を繰り返す愛莉とそれを慰める田島をそのままに、日暮と連れ立ってそっと部屋を出ていく。
「アホくさ……。もういいわ、あとは好きにして。付き合ってらんないし、アタシも帰る」
そしてあの宵町も。美談や同情に流された、というよりは、すでに瀕死となっている他人を踏みつけている場合ではないと判断したのだろう。
こうしている間にも世界は回り、現実は歩みを止めることなく進んでいく。
彼女にとってもまた、明日はやってくるのだから。
「あーあ……。ノベ大、獲りたかったなぁ」
その一言を残して、宵町も静かに部屋を後にした。
残された愛莉と田島は、しばらくそのまま懺悔の言葉と励ましを繰り返し……やがて彼女たちも、気持ちの整理をつけて部屋を出ていく。
――結局、告発文の真犯人が特定できることはなく、解散となったその場。
その後、受賞候補者の誰一人として、世間に向けての発信がないままに時はすぎていき、やがて混沌としていた読者選考期間も終わりを迎える。
炎上により、最終的に例年より多くの投票数が集まったようだが、コメント欄が非表示になっていたため、それが純粋な投票によるものなのか、それとも野次のために投じられた票なのか、それは、ノベルマ編集部のみぞ知るという。
かくして、第五回ノベルマーケット大賞は、四月下旬に結果発表を迎えた――。
◆◆◆
――『第五回 ノベルマーケット大賞』結果発表――
この度は『第五回 ノベルマーケット大賞』におきまして、たくさんの投票をいただき誠にありがとうございました。
最終審査の結果をお知らせいたします。
【大賞】該当なし
【部門賞】該当なし
【コミック賞】該当なし
【奨励賞】『桜の散る頃、またあなたに会いたい』青木春奈(青春小説部門)
※今回の大賞について、本サイトの公式掲示板にて、一部、受賞候補者に対する不適切な書き込みがあり、急遽投票システムの非公開への変更や、注意喚起文の掲載など、利用者の皆様に多大なご迷惑をおかけしましたこと、深くお詫び申し上げます。
騒動の影響を受け、一部の受賞候補者様より選考辞退の申し出がありました。編集部内にて慎重な調査を行いましたところ、1ユーザーのアカウント停止と、2ユーザーへの厳重注意を行いました。
今後はこのような事態が起こらないよう、編集部一同気を引き締めてまいりますので、今後もノベルマーケットをご愛顧くださいますよう、何卒よろしくお願いいたします。
なお、本選考は慎重な調査、厳正なる審議を経た上で、受賞作を決定しております。その旨、ご理解くださいますよう、ユーザーの皆様に重ねてお願い申し上げます……――。
◆◆◆
――20××年4月末日、スターライト出版 書籍編集部第三課。
小説投稿サイト『ノベルマーケット!』の公式サイトにて、今期のノベルマーケット大賞の最終結果が発表された。
自分のデスクで該当ページの確認を行った【ノベルマーケット大賞 担当編集者:赤入 沙穂】は、机に突っ伏しながら、大きなため息をこぼした。
(ああ、終わった……)
何者かによる公式掲示板への真偽不明の告発文の書き込み、削除によって注目を浴び、荒れるに荒れた第五回の大賞選考。他部署と連携して調査を進め、部内で再三話し合い、コンテストの中止も幾度となく検討されてきた本選考だったが、最終的な落としどころが、今確認したページの通りだった。
「出ましたね、結果発表。〝大賞なし〟に、必要最小限の不正報告。これでよかったんですかねえ……」
机に突っ伏していた沙穂に、通りがかりと思しき後輩社員の西が声をかける。
沙穂はのそりと上体を起こすと、苦笑を覗かせながらぼやいた。
「仕方ないわよ……。編集部はあくまで受賞候補作に対しての評価を公正に行うだけ。事実の調査にも限度があるし、余計な情報を開示すれば憶測が憶測を呼んで、悪戯に騒ぎが大きくなるだけだもの」
沙穂のぼやきに、西がつられるように苦笑している。
「あー、まあ……ですよねえ。でも、五作品中四作品が受賞辞退を申し出てきただなんて、もはや前代未聞の伝説回じゃないですか」
それを言われると耳が痛い。沙穂はまた一つ、大きなため息を吐き出した。
「本当、前代未聞すぎるわよ。色々見抜けなかった自分にもへこむけど、どれもこれも純粋に作品はいいと思って推してたから、全っ然笑えないわ」
西のいう通り、ヒアリングの後、四人の候補者たちが受賞辞退の申し入れをしてきた。
一人はエッセイ部門の日暮。ヒアリングの際に自白したことがきっかけで過去の不正が発覚し、サイトの規約違反によってアカウントの停止処分を受けた。
二人目は田島。彼もヒアリングの際に誹謗中傷の事実を認めており、調査を行った結果、ノベルマの別アカウントにて他ユーザーへの複数の批判コメントが確認された。だが、相応の読書記録も残されており、作品をきちんと読み込んだ上でのコメントであろうことがすでに確認されている。その内容について、誹謗中傷ととるべきか辛口批評と取るべきか非常に悩ましいラインのものが多く、結果、厳重注意として処分を終えた。
なお、これはあくまでノベルマ内にて確認されたコメントに対するもので、他サイトのコメント等に関しては処罰の対象には入っていない。また、ノベルマでは、これをきっかけに複数アカウントの登録を禁止する方向で規則改正を進めるという話が持ち上がっている。
三人目は皇。彼女はヒアリングの際は盗作の事実を完全否定していた。だが、なんの心境の変化があったのか、その後、事実を認める旨の連絡と、選考辞退の申し入れがあった。
もちろん、事実を確認する調査も行ったのだが、何より比較対象となる作品が軒並みネット上から削除、あるいは非公開にされており、本人が証言していること以上の事実確認が困難であるため、社内的には盗作との認定には至らなかった。
「いやでも……今でも信じられないんですが、恋愛部門の皇愛莉さんの作品って、結局、盗作だったんですかね?」
「わからないわ。本人はアイデアとストーリー展開を似せて作ってしまったと話していたけど、そもそも元となる作品が消されてるからね……。例の検証サイトから辿って被害を受けた作者に話を聞こうにも、活動やめてる人ばっかりでコンタクトも取れないし」
「ううむ、そうなんですね……」
「まあ、本人が認めている以上、どのみち受賞候補の対象からも外れていたはず。彼女はとても女性の心を掴むのが上手くて、魅力ある作品を書ける子だったから……本当に残念」
残念なんてものじゃない。ノベ大の担当者である沙穂は、彼女の作品に大きな魅力を感じ、部内でも再三プッシュするほど期待をかけていただけに、落胆の色が隠せなかった。
「本当、残念ですねえ。盗作って本当に難しい問題ですから、その辺り、編集部としても今後どう対応していくか、重大な課題になりそうっすね」
「ええ、そうね」
なにもない宙をぼんやりと見つめて、抑揚のない返事をする沙穂。
残念だが、もう気持ちを切り替えていくしかない。
沙穂は短く息を吐き、手元の資料を手繰り寄せる。
そしてもう一人、受賞候補を辞退した四人目はというと――。
「そういえば、青木さんと宵町さんも、例の告発文の内容自体は、リスニングの際に認めてるんですよね?」
ふと気になったように、西が首を捻る。
沙穂は指で資料の束を弄びながら、ポツリと答えた。
「そうね、宵町さんは認めてる。ただ、青木さんはご本人は認めてる感じだったけれど、母親の方が完全に否定していて断固として認めてない感じだったわ」
「あー……聞きました! あのお母さん、編集長まで巻き込んで、相当やばかったらしいですね。告発文の犯人の情報開示をしろとか、名誉毀損で訴えるだとか、慰謝料ふんだくるとか……」
沙穂は当時のことを思い出し、乾いた笑いを浮かべる。
「うん、まあ、あのお母さんは元からちょっとそういうところがあったからね。結局、彼女はそのまま選考が進んで奨励賞に決まったはいいけど……」
「『なんでうちの子の作品が大賞じゃないんだ、やはりあの告発文の影響で不当な評価にされたんじゃないか!』って編集部にクレームの電話がかかってきたんすよね……」
「よく知ってるじゃない」
「僕の同期が偶然その電話とっちゃったらしくて、散々怒鳴られてメンタルやられたと嘆いてましたよ」
「それは御愁傷様だわ……」
顔を顰める沙穂に、西は心底同情するように苦笑していた。
視線を西から外した沙穂は、やるせない表情をして続ける。
「青木さんと宵町さんの件は、あくまで今回の作品には全く関係のない、個人のプライベートの話だからね。告発文の内容が事実だったとしても作品に対する評価は変わらない。当然、不当な評価なんてするはずがないんだけど、どうにもお母様には信じてもらえない様子だったわ」
「あー。あのお母さんは単に500万欲しくてゴネてただけですよ、きっと。赤入先輩が気にやむところじゃないと思います」
「そう思えるよう気持ち切り替えるつもりだけど……やっぱり滅入るわよね」
「まあ、気持ちはわかります」
「いずれにせよ、どれだけゴネられても受賞辞退さえなければ、大賞とってたのはきっと、青木さんじゃなくて『彼女』の方だったしね」
沙穂がポツンと呟いた言葉に、西がぴくりと反応する。
「それってやっぱり……ホラー部門の宵町さんのことですか?」
西の問いに、沙穂は静かに頷く。
そう。四人目の受賞辞退は、ホラー・ミステリー部門の宵町闇だ。
リスニングの際に、告発文の内容についての全容を聞き、編集部としては多少の懸念は残っても受賞には問題がないと判断していた。なぜならば彼女の場合、あくまで不慮の事故が原因であり、『犯罪者』という事実はないからだ。
だが――。
「ええ。順当に進めば、彼女の作品が最も有力候補だったのに……どうしても辞退するって」
「もったいない。それってやっぱり、『例の件』に対するケジメみたいなもんすかね?」
辺りを憚るようにして尋ねてきた西に、沙穂は苦笑を一つこぼしてから、神妙な顔で頷く。
そして、指で弄んでいた資料を一枚摘み上げ、まじまじと見つめた。
それは例の告発文の書き込みについて調査を行っていた部署、管理本部システム課の担当者から回ってきたもので、調査の結果、例の告発文の書き込み・削除を行ったユーザーのIPアドレスが、ある受賞候補者のものと一致した、との旨が記されている。
特定されたその『ある受賞候補者』というのが、まぎれもなく、ホラー・ミステリー部門の〝宵町闇〟のことだったのだ。
「やっぱりですか。……いやあ、でもそれ聞いた時、本気でびっくりしましたよ。僕、いまだに解せないんですけど」
「そりゃ私だってびっくりしたし、今でも信じられないわよ」
「どうして彼女は、自滅を覚悟してまであんな告発文あげたんですかね?」
西に問われ、沙穂は数日前、調査結果を元に、本人と再度面談をしてやりとりした際のことを思い返しながら答える。
「彼女いわく、きっかけは〝ぷんぷん丸〟に脅されたことだったみたいよ」
「〝ぷんぷん丸〟って……田島さんにですか?」
「ええ。そもそも彼女は、例の親殺しの件、事故であっても自分のことを責め続けているじゃない。息苦しい生活の中で、創作活動を唯一の心の拠り所にしていたのに、なにも知らない第三者に自分の罪を咎められたり、脅かされたりするのは相当苦痛だったんだと思う」
「なるほど……。確かに宵町さんって、口調はきついけど、ああ見えてかなり生真面目そうなところありますもんね」
腕を組んでうんうんと頷く西に、沙穂は相槌を打つ。
「そうなのよね。まあそれで、このままじゃたとえ受賞したって永遠に不当な脅しの影に怯えることになる。だったらもう自滅も辞さない覚悟で、〝ぷんぷん丸〟の正体を暴いてやろうっていうのがそもそもの発端だったらしいわ。……でも」
「……でも?」
「受賞候補者の仕業だと睨んで調べていくうちに日暮さんの不正に気付いて、皇さんと青木さんの疑惑にも偶然たどり着いて、大賞には相応しくないと思ったから全員を巻き込むことにした、って本人は言ってるんだけど……」
沙穂は言いながら、西と同じように腕を組み、小難しい顔でうーんと唸った。
「なんか解せないって顔、してますね?」
「だって、変じゃない。西くんだってシステム課から回してもらった、削除済みの告発文画像、見たでしょ?」
「……? はい、見ました」
「あの告発文にはたくさんのソース画像が貼ってあった。本人の件に関する画像や、本人が実際に会った時にこっそり写真を撮ったっていう田島さんのアイコン切り替え画像、検索して調べれば出てくる日暮さんの不正証拠ならまだしも、〝皇さん〟と〝青木さん〟の告発に使われていたソース画像って、調べようと思っても全然出てこないのよ」
一瞬、きょとんとした顔で沙穂を見る西。彼は組んでいた腕を外して、顔にかけていた黒縁メガネを押し上げると、身を乗り出すように問うた。
「そうなんですか?」
「ええ」
「二人のソース画像って確か……皇さんは、各種投稿サイトのレビュー欄にあげられたパクリ指摘の画像と、ツブヤイターで揉めてるDMやりとり画像。青木さんの方は〝Jおぢたん〟とかってやつの画像でしたよね?」
「ええ。どちらもすでに削除済みになっているせいか検索にはヒットしないの。特に皇さんのDMやりとり画像の方は、検証サイトに載ってる画像ってわけでもなかったから、今は活動していない被害者と密接にコンタクトを取らないと入手できないような画像じゃないかな」
「あーなるほど……」
「もしも彼女が執念でたどり着いたんだとしたら、それこそホラーじゃない」
眉間に皺を寄せる赤入に、西が納得したように何度も頷きを返した。
「言われてみれば確かにそれは謎が残りますねえ」
「まあ、彼女、時間だけはあるようだから、執念で調べたり、証言者をかき集めて裏を取ったっていうなら納得はできるんだけどね。そこまでするかなあって……」
沙穂は手元の資料を机に伏せ、椅子の背もたれに体を預けて、逡巡するようになにもない宙を見つめる。西はぽりぽりと頬をかきつつ、先輩編集の蟠りを払拭してやることにした。
「自滅覚悟の告発文をあげるぐらいですし、それぐらい執念と正義感が強かったってことなんじゃないですかね?」
「そうね……。彼女がそう言ってる以上、そう思うことにするしかないのよね」
「気持ちはわかりますし残念ですけどね。僕らにはもう調べようもないことですし……」
心底そうにこぼす西に、沙穂は諦めたような嘆息を吐き出す。
「わかってる。もう終わったことだし、これ以上、クビを突っ込むのも良くないわよね」
「そういうことです。……それはそうと、その後の彼女はやっぱり、意思は変わらないんですか?」
空気を変えるように尋ねられた沙穂は、手元の資料を見つめながら、悲しい現実を認めるよう、
穏やかな声でつぶやいた。
「……ええ。『もう、全てが終わったから』って。お世話になってる読者への挨拶が済んだら、もう二度と、宵町闇として作品は書かないって」
「そうですか……。まあ、心無い人間から今後ずっと殺人者呼ばわりされて事故のことを思い出すのも辛いでしょうし、そうなりますよね……」
西のため息に、沙穂は静かに頷く。
沙穂は最後の面談で、『宵町闇』はもう終わりにする、『新しいペンネームも二度と立ち上げない』と宣言した彼女の表情を思い出し、その決意は固いであろうことを確信していた。
あれだけ才能がある彼女が筆を置くだなんて残念すぎる現実だが、彼女にとってはそれが、告発文の『代償』なのかもしれない。
我が強いように見えて、その実、事故を自分のせいだと言い張る繊細な感情をも持ち合わせている彼女のことだ、きっと、他人の未来を奪ったことにもそれなりの責任を感じているのかもしれない。
「……過去イチ良作揃いの伝説回になると思ったんだけどなあ」
「前代未聞の伝説回には変わりがないと思いますよ?」
「それもそうね、これも勉強だわ。……いつかまた、彼女たちが自分の過ちを乗り越えて戻ってきてくれるといいわね」
「そうですね……」
沙穂はそっと目を瞑り、ゆっくりと深呼吸をするように大きく息を吸ってから、ふうと吐き出す。
すっきりしない謎は残ったままだが、いつまでも立ち止まっているわけにもいかない。
気持ちが落ち着くと、目を開け、背筋をシャンと伸ばし、前を向くように頬を叩いて、机の端に寄せていた原稿の束を引き寄せる。
「さて。仕事仕事。来月刊の校了が終わったら、次回の大賞に向けて動き出さないと」
「ですね。僕も次回からはサブ担入りますんで、たくさんフォローします。次回こそ、スターライト出版の名に恥じない名作を生み出しましょう!」
後輩編集の心強い励ましに背を押されるよう頷いてみせると、沙穂は手元の原稿に視線を落とし、今、自分ができる精一杯に意識を集中させるのだった……――。
◆◆◆
◆◆◆
――それから三年後の五月某日。
小説投稿サイト・ノベルマーケット! にて、『第八回 ノベルマーケット大賞』の結果発表が行われた。
過去の騒動により、いっとき選考基準が飛躍的に上がり、入賞は困難だと噂されていた小説賞だったが、今年は三年ぶりに大賞受賞者が出たとあって、その界隈は大いに賑わっていた。
〝第八回ノベルマーケット大賞《大賞》恋愛小説部門『契約ラブゲーム』赤草 波留〟
太陽出版、第一編集局 フラワーロマンス文庫編集部、本社オフィスのミーティングルームにて。
自身が持ち込んだタブレットで、ノベルマ大賞の結果発表のページを眺めていた新人恋愛小説作家の【亜恋】は、友人の輝かしい栄光に、心からの賛辞を送るよう優しく目を細めた。
「いやあ、お待たせしました亜恋さん〜。遅くなってすみません。新作の打ち合わせ始めましょうかぁ」
「あ、お久しぶりです加藤さん。今作もよろしくお願いします!」
気心の知れた男性編集者の登場に、亜恋は気さくな調子で挨拶を交わす。
大人の女性に人気のフラワーロマンス文庫で文庫編集者をしている加藤との付き合いは、今年で二年目になる。今から約一年半前、小説投稿サイト〝NARERUYO〟にて、書籍化の打診をもらったことをきっかけにして紡いだご縁だ。
ファンタジー一色となっている〝NARERUYO〟からは珍しい『恋愛小説』での作品刊行も、なんだかんだで今作を含めると三作品目。
とある盗作被害の精神的ダメージにより、いっときは活動を休止していた亜恋だったが、執筆を再開して約二年半。今では順調に駆け出しの恋愛人気作家として、その地盤を固めつつあった。
「っと、あ。もしや今、ノベ大さんの結果発表見てました?」
「あ、はい。ついに大賞が出たな〜と思って! 見てくださいよこれ、この『赤草波留』って、私の昔からの創作仲間で、親友みたいなもんなんですよ〜」
「えっ⁉︎ ご友人だったんですか?」
驚いたようにこちらを見てくる加藤に、亜恋は得意げな顔でへへんと鼻を鳴らす。
「はいー。前は違う名義で全く別のジャンルを書いてた子なんですけどね」
「あ、それは知ってます。前は青春系のジャンルを書かれていて『第五回ノベ大』で奨励賞を獲られた『青木春奈』さんですよね?」
「え! なんで知ってるんですか!」
とっておきの情報を伝えたつもりだったがあっさりと切り返されてしまい、亜恋は衝撃を受けた顔で加藤を見た。
「あはは。編集者の間では割と有名な話ですよ。彼女の場合、事情が事情ですし、うちでもすでに声をかけている方なんで、社内で情報共有されてますからねえ」
「そうなんだあ。残念、私だけが知ってる秘密の情報だと思ったのに……」
しょげてみせる亜恋だが、彼女の裏事情を考えれば、加藤の言うことは至極妥当なのかもしれない。
――というのも、昔から懇意にしていた元・青春小説作家の〝青木春奈〟は、毒親から逃れるため彼女が奨励賞をとった第五回のノベ大と、作業途中だった新刊の刊行を最後に、活動を無期限休止。
無事に高校を卒業し、親からも逃れて自立した後、今では名義を変えて大人向けの恋愛小説ジャンルにて創作活動を行い、最近では今回大賞をとったノベルマや、同出版社が運営している小説投稿サイト・ブルーベリーテラスで、大人向け恋愛小説の新刊予定をポツポツと発表し、その界隈で頭角を現し始めている。
ただ、縁を切った親が片っ端から出版社に電話をかけて娘の行方を追っているそうだから、彼女を取り巻く編集者同士が、彼女を守るために密に連絡を取り合っていたとしても不思議ではない。
本人からちょこちょこと近況報告を受けていた亜恋は、秘密が筒抜けだったことに拍子抜けしつつも、何より彼女がきちんと信頼できる編集者に囲まれて順調に新しい世界を築いていっていることを間接的に知り、どこか安堵するような気持ちを覚えた。
「いやあ、世間は狭いもんですね。いっときは如何わしい告発文が出回って大変だったみたいですけど、青木先生……じゃなかった、赤草先生としては、今の方が親からも離れられて、好きなジャンルを好きなように書けるようになったって話なんで、本人としては、あの告発文がある意味良い転機になったんじゃないですかねえ」
前向きな感想をこぼす加藤に、亜恋も賛同を示す。
「ですねえ。私も毒親のこととかパパ活のこととか色々相談されててずっと心配してたんで、彼女が今幸せな道を歩んでいるんだとしたら、友達としても嬉しい限りです」
友を思い、優しい表情で微笑む亜恋。
そんな亜恋を見て、ふと、思い出したように加藤が話題を切り替えた。