◇
「……!」
追い打ちをかけるような着信音に、愛莉はびくりと肩を震わせる。
「……ん? 誰のだ?」
日暮を始め、他のメンバーが音ので元を探るように辺りをキョロキョロと見渡しているが、愛莉はただ一人、硬直する。
音の出元はまぎれもなく自分の鞄にある携帯電話。あの着信音は、会社からのものだ。
ピロピロ、ピロピロ。
スマホが、自分を呼んでいる。それがわかっているのに、足が動かない。
息が、苦しい。
「誰よ?」
「この着信音……愛莉、さん……?」
前回の茶会の帰り道に、一度、着信音を聞いている田島は、目ざとく愛莉のスマホであることに気づいていた。
きっと、田島は愛莉の実情に気づいている。気を揉むような顔で、こちらを見ている。
「愛莉さ……」
「出ないと……」
足が動いて、やっと声が出たと思ったとき、なぜだか急にあらゆる現実の波が押し寄せてきた感じがして、涙が込み上げてきた。
でも、泣いている暇はない。
電話に出なければ。
「ちょ、まだ話し合いは――」
困惑したように宵町が声を顰めたが、愛莉はふらふらと歩き、自分の鞄に手を伸ばす。
ピロピロ、ピロピロ、ピロピロ。
スマホを取り出し、ディスプレイを見て、ああやはり、と、目の前が真っ暗になった。
そこには、健康診断に行くと言って休みを取っていた上司の番号が表示されていた。
「なんだよ。アンタだって今日、編集部との打ち合わせだったんだろ? 会社にちゃんと休み申請してこなかったのかよ」
日暮が不満そうに顔を顰めているが、反応を示す気すら湧いてこない。
(してるよ、ちゃんと――)
半休取るためにやること終わらせて、引き継ぎもちゃんとして、万全を期してから体調が悪くなったと部内の人間に連絡を回し、直属の上司ではない役職者に許可をとってから、会社を出た。
だけど、そんなもの、自分を取り巻く環境には関係がないんだ。
――そんなことをぼんやり考えながら、半ば、虚ろな目をして機械的に通話ボタンを押す。
スマホを耳に当てるより早く、愛莉をどん底に突き落とすようながなり声が機械越しに届いた。
『おい愛川ァ、出るの遅ぇよ。上司からの電話、何コール待たせんだよ⁉︎』
愛川は、愛莉の本名。その名前が聞こえた瞬間、愛莉の中で、何かがガラガラと音を立てて崩れ去っていくようだった。
「も、申しわけ……」
『申し訳ございません、じゃ、ねえんだよ。っていうかお前さぁ。会社から聞いたけど、なんで俺がいない時に半休なんか取ってんの?? どこが調子悪いんだか知んないけど、そんなもん気の病だろが。ったく最近の若いモンってのはすぐ休むだのやめるだの逃げることばっか考えて、いったいどんな教育受けてきたらそうなるんだよ』
ゼェ、ゼェ、ゼェ。
息が、できない。
萎縮して体内の臓器が全て潰れてしまいそうだ。
六十代上司の大きすぎる野太い声は、おそらく漏れ聞こえて完全に室内へ筒抜けだろうから、日暮も、宵町も、青木も、そしてうっすらとこの現状を察していた田島も、動揺しているような顔を見合わせたり、怪訝そうにこちらを見ている。
「す、すみませ……」
『だからァ! 謝りゃいいってモンじゃないんだよ! 俺がなんで電話してるかわかるか? 他部署のヤツに聞いたけど、お前、例のクレーマーの顧客に難癖つけられて、真っ先に頭下げたんだって? ……っは。バカだなあ、謝っちまったら調査もクソもねえ、回答を用意する前からウチの非を認めたようなもんじゃねえか』
延々と垂れ流される上司の罵声が、ボロボロになった心を完膚なきまでに打ち砕いていく。
「……」
声が、出ない。
――大手企業勤務。聞こえはいいが、実情はメチャクチャだ。
休職者の穴埋めで膨大な業務を押し付けられ、日々、早朝から終電間際まで働かされる。
社内のしかるべき部署に訴えるも、すぐさま直属の上司にそれが伝わり『最近の若いモンは』の一言で徹底的に潰される。コンプライアンスなんて形ばかりでまるで機能していない。結局、会社が守るのは会社だという現実。
無論、休憩も休日もロクにない。常に鬼上司からの連絡に怯え、御機嫌取りに終始する毎日。慰めてくれる彼氏なんていないし、頑張ったねと頭を撫でてくれる男友達もいない。そもそも恋愛なんてしている暇もないし、学生時代の女友達は皆、付き合いが悪い自分に愛想をつかし、疎遠になってしまった。
そんな実情、ここにいる他のメンバーたちには知る由もないことで、当然、関係のないこと。
普段から張り合うような呟きをしていた日暮なんかは、想像とはあまりにも違いすぎる現実に、ひどく驚いているようだったけれど。
悲しくもこれが、皇愛莉の現実なのだ。
『……いいか、愛川。次に電話がきても上手いことボカして取り合うな。調べなくてもわかる、ウチは悪くない。向こうの認識不足に非があるんだよ。だから、認めるな。謝るな。突き返せ。言いがかりなんかに屈するな、いいな⁉︎』
――認めるな。謝るな。突き返せ。
今の上司に変わってから、徹底に叩き込まれてきた言葉だ。
いう通りにしていればいい。そうすれば確かに、大きな問題になることを避けられる。
それはわかっているのに、なぜだろう、心が痛い。悲鳴をあげている。
目元が急激に熱くなってきて、涙が零れ落ちそうになった。
必死に唇を噛み締めて我慢する。声はまだ出ない。
「……」
『おい、返事はァ⁉︎ こっちはさあ、有給中だってのに、出来の悪い部下を思いやってわざわざ電話してやってんの。ったくよお。そこそこいい大学出てるってのに、とんだ無能だよな。客にはホイホイ謝るくせに、社内じゃ無駄にプライドだけ高くて、すぐにコンプラだァなんだァ騒がしいったりゃありゃしねえよ。どうせ異動したところですぐに寿退社だ、産休だーとか言い出すんだろ? はあ。これだから女ってイキモンは……』
上司からの罵声はいつも、愛莉の心を粉々に打ち砕いた。
――愛莉にとっての『創作』は、唯一の避難所だった。
息苦しい生活の中で、『創作の世界』だけは自分にやさしくあってくれたし、自分を認めてくれるような場所だった。
それなのに、どうしてこんなことになってしまったのだろう――?
『おい、愛川!! なに黙ってんだよ、どうなんだよ、ああ⁉︎』
――本当は、わかってる。
全部、自分が招いたこと。
全部、自分の弱さが引き起こしたこと。
仕事で神経がすり減っていた時に出会った創作。
最初は読む方から始めて、見よう見まねで書いてみた。
感想をもらって、褒められて、嬉しくてどんどんのめり込んだ。
インプットのために読み合いもたくさんしたし、感想もたくさん送った。
いつしか純粋な読者も増えて、ランキングにも載るようになった。
読者に喜んでもらえるのが嬉しくて、寝る間を惜しんで小説を書き続けた。
でもどんどん仕事が激務になって、創作に費やす時間も減り、心がすり減ってアイデアさえ浮かばず行き詰まっていた時に、ふと、インプット用に読んだ作品から、『自分だったらこう書く』という妄想を経て、実際に書いてみた。
最初は本当に、ただ、刺激を受けて書いた作品。その程度だったはずだ。
だが、思いのほか読者の反応はよく、また、効率よく作業も進むため、それが常習的なやり方になり、気がつけばいつの間にか、感覚が麻痺していた。
どこまでがセーフで、どこからが盗作なのか、よくわからずに突き進んでしまった。
「……」
「(あ、愛莉さん、大丈夫ですか……?)」
「(お、おい。なんか彼女の会社、やばくないか……?)」
「(完全パワハラじゃないの。ツブヤイターでの印象と全然違うんですけど……どういうこと?)」
「……」
日暮たちがざわついているが、もう、愛莉の耳には届かなかった。
苦しい。辛い。本当は、自分が全部悪いことをわかっている。
けれど認めてしまったら、〝皇愛莉〟は終了だ。
ノベ大どころじゃない。温かく見守ってくれていた読者に見放され、世間からも盗作作家だと白い目を向けられ、自分にはもう、罵声を浴びせてくるどす黒い職場環境しか残らなくなる。
「す、皇さん……?」
『おい、愛川ァ! 返事はって聞いてんだよ‼︎ さっさと返事をしないと……』
真っ暗で、怖くて、震えが止まらなくて、どうしていいかわからなくて、過呼吸になりかけながらも、それでも毎日を生きていくために、なんとかありったけの声で返事をしようと思った。だが――。
「……!」
追い打ちをかけるような着信音に、愛莉はびくりと肩を震わせる。
「……ん? 誰のだ?」
日暮を始め、他のメンバーが音ので元を探るように辺りをキョロキョロと見渡しているが、愛莉はただ一人、硬直する。
音の出元はまぎれもなく自分の鞄にある携帯電話。あの着信音は、会社からのものだ。
ピロピロ、ピロピロ。
スマホが、自分を呼んでいる。それがわかっているのに、足が動かない。
息が、苦しい。
「誰よ?」
「この着信音……愛莉、さん……?」
前回の茶会の帰り道に、一度、着信音を聞いている田島は、目ざとく愛莉のスマホであることに気づいていた。
きっと、田島は愛莉の実情に気づいている。気を揉むような顔で、こちらを見ている。
「愛莉さ……」
「出ないと……」
足が動いて、やっと声が出たと思ったとき、なぜだか急にあらゆる現実の波が押し寄せてきた感じがして、涙が込み上げてきた。
でも、泣いている暇はない。
電話に出なければ。
「ちょ、まだ話し合いは――」
困惑したように宵町が声を顰めたが、愛莉はふらふらと歩き、自分の鞄に手を伸ばす。
ピロピロ、ピロピロ、ピロピロ。
スマホを取り出し、ディスプレイを見て、ああやはり、と、目の前が真っ暗になった。
そこには、健康診断に行くと言って休みを取っていた上司の番号が表示されていた。
「なんだよ。アンタだって今日、編集部との打ち合わせだったんだろ? 会社にちゃんと休み申請してこなかったのかよ」
日暮が不満そうに顔を顰めているが、反応を示す気すら湧いてこない。
(してるよ、ちゃんと――)
半休取るためにやること終わらせて、引き継ぎもちゃんとして、万全を期してから体調が悪くなったと部内の人間に連絡を回し、直属の上司ではない役職者に許可をとってから、会社を出た。
だけど、そんなもの、自分を取り巻く環境には関係がないんだ。
――そんなことをぼんやり考えながら、半ば、虚ろな目をして機械的に通話ボタンを押す。
スマホを耳に当てるより早く、愛莉をどん底に突き落とすようながなり声が機械越しに届いた。
『おい愛川ァ、出るの遅ぇよ。上司からの電話、何コール待たせんだよ⁉︎』
愛川は、愛莉の本名。その名前が聞こえた瞬間、愛莉の中で、何かがガラガラと音を立てて崩れ去っていくようだった。
「も、申しわけ……」
『申し訳ございません、じゃ、ねえんだよ。っていうかお前さぁ。会社から聞いたけど、なんで俺がいない時に半休なんか取ってんの?? どこが調子悪いんだか知んないけど、そんなもん気の病だろが。ったく最近の若いモンってのはすぐ休むだのやめるだの逃げることばっか考えて、いったいどんな教育受けてきたらそうなるんだよ』
ゼェ、ゼェ、ゼェ。
息が、できない。
萎縮して体内の臓器が全て潰れてしまいそうだ。
六十代上司の大きすぎる野太い声は、おそらく漏れ聞こえて完全に室内へ筒抜けだろうから、日暮も、宵町も、青木も、そしてうっすらとこの現状を察していた田島も、動揺しているような顔を見合わせたり、怪訝そうにこちらを見ている。
「す、すみませ……」
『だからァ! 謝りゃいいってモンじゃないんだよ! 俺がなんで電話してるかわかるか? 他部署のヤツに聞いたけど、お前、例のクレーマーの顧客に難癖つけられて、真っ先に頭下げたんだって? ……っは。バカだなあ、謝っちまったら調査もクソもねえ、回答を用意する前からウチの非を認めたようなもんじゃねえか』
延々と垂れ流される上司の罵声が、ボロボロになった心を完膚なきまでに打ち砕いていく。
「……」
声が、出ない。
――大手企業勤務。聞こえはいいが、実情はメチャクチャだ。
休職者の穴埋めで膨大な業務を押し付けられ、日々、早朝から終電間際まで働かされる。
社内のしかるべき部署に訴えるも、すぐさま直属の上司にそれが伝わり『最近の若いモンは』の一言で徹底的に潰される。コンプライアンスなんて形ばかりでまるで機能していない。結局、会社が守るのは会社だという現実。
無論、休憩も休日もロクにない。常に鬼上司からの連絡に怯え、御機嫌取りに終始する毎日。慰めてくれる彼氏なんていないし、頑張ったねと頭を撫でてくれる男友達もいない。そもそも恋愛なんてしている暇もないし、学生時代の女友達は皆、付き合いが悪い自分に愛想をつかし、疎遠になってしまった。
そんな実情、ここにいる他のメンバーたちには知る由もないことで、当然、関係のないこと。
普段から張り合うような呟きをしていた日暮なんかは、想像とはあまりにも違いすぎる現実に、ひどく驚いているようだったけれど。
悲しくもこれが、皇愛莉の現実なのだ。
『……いいか、愛川。次に電話がきても上手いことボカして取り合うな。調べなくてもわかる、ウチは悪くない。向こうの認識不足に非があるんだよ。だから、認めるな。謝るな。突き返せ。言いがかりなんかに屈するな、いいな⁉︎』
――認めるな。謝るな。突き返せ。
今の上司に変わってから、徹底に叩き込まれてきた言葉だ。
いう通りにしていればいい。そうすれば確かに、大きな問題になることを避けられる。
それはわかっているのに、なぜだろう、心が痛い。悲鳴をあげている。
目元が急激に熱くなってきて、涙が零れ落ちそうになった。
必死に唇を噛み締めて我慢する。声はまだ出ない。
「……」
『おい、返事はァ⁉︎ こっちはさあ、有給中だってのに、出来の悪い部下を思いやってわざわざ電話してやってんの。ったくよお。そこそこいい大学出てるってのに、とんだ無能だよな。客にはホイホイ謝るくせに、社内じゃ無駄にプライドだけ高くて、すぐにコンプラだァなんだァ騒がしいったりゃありゃしねえよ。どうせ異動したところですぐに寿退社だ、産休だーとか言い出すんだろ? はあ。これだから女ってイキモンは……』
上司からの罵声はいつも、愛莉の心を粉々に打ち砕いた。
――愛莉にとっての『創作』は、唯一の避難所だった。
息苦しい生活の中で、『創作の世界』だけは自分にやさしくあってくれたし、自分を認めてくれるような場所だった。
それなのに、どうしてこんなことになってしまったのだろう――?
『おい、愛川!! なに黙ってんだよ、どうなんだよ、ああ⁉︎』
――本当は、わかってる。
全部、自分が招いたこと。
全部、自分の弱さが引き起こしたこと。
仕事で神経がすり減っていた時に出会った創作。
最初は読む方から始めて、見よう見まねで書いてみた。
感想をもらって、褒められて、嬉しくてどんどんのめり込んだ。
インプットのために読み合いもたくさんしたし、感想もたくさん送った。
いつしか純粋な読者も増えて、ランキングにも載るようになった。
読者に喜んでもらえるのが嬉しくて、寝る間を惜しんで小説を書き続けた。
でもどんどん仕事が激務になって、創作に費やす時間も減り、心がすり減ってアイデアさえ浮かばず行き詰まっていた時に、ふと、インプット用に読んだ作品から、『自分だったらこう書く』という妄想を経て、実際に書いてみた。
最初は本当に、ただ、刺激を受けて書いた作品。その程度だったはずだ。
だが、思いのほか読者の反応はよく、また、効率よく作業も進むため、それが常習的なやり方になり、気がつけばいつの間にか、感覚が麻痺していた。
どこまでがセーフで、どこからが盗作なのか、よくわからずに突き進んでしまった。
「……」
「(あ、愛莉さん、大丈夫ですか……?)」
「(お、おい。なんか彼女の会社、やばくないか……?)」
「(完全パワハラじゃないの。ツブヤイターでの印象と全然違うんですけど……どういうこと?)」
「……」
日暮たちがざわついているが、もう、愛莉の耳には届かなかった。
苦しい。辛い。本当は、自分が全部悪いことをわかっている。
けれど認めてしまったら、〝皇愛莉〟は終了だ。
ノベ大どころじゃない。温かく見守ってくれていた読者に見放され、世間からも盗作作家だと白い目を向けられ、自分にはもう、罵声を浴びせてくるどす黒い職場環境しか残らなくなる。
「す、皇さん……?」
『おい、愛川ァ! 返事はって聞いてんだよ‼︎ さっさと返事をしないと……』
真っ暗で、怖くて、震えが止まらなくて、どうしていいかわからなくて、過呼吸になりかけながらも、それでも毎日を生きていくために、なんとかありったけの声で返事をしようと思った。だが――。