僕は紫音にもう一度会いに行かせて欲しいと昨日の夕方にメールを送ったけど朝起きて、病室の前に来るまでき既読がつくことは無かった。
 面会時間は朝の十時から。
 朝一番で行って紫音が僕と話してくれる気になるまで何時間でも、何日でも待ってやるという意気込みで僕は学校を休んで病院へ向かった。
 いざ紫音のいる病室の前立つと、このまま僕が病室に入った時紫音はなんと思うだろうかと考えて、この後に及んで尻込みした。
 昨日母さんが言った通り、自分がやるべきだと思ったなら後悔する前にやるべきだと僕も思う。
 でも僕は人からの罵声や批判を受け流せる程強くない。
 ましてや好きな人からのそんな言葉なんて想像したくもない。
 でも、他の誰でもない紫音のためなんだ。
 紫音の病室の引き戸を前にして深呼吸をした。
 紫音は確かに寂しいと言っていたんだ。
 ここでこのドアを開けずに引き返してしまったら僕はこの先一生引きづることになる。
 母さんや大輝や乃々さんにも顔を向けできない。
 今、覚悟を決めるべきだ。
 (紫音……)
 僕が思い切ってドアを開ける瞬間、病室内から男の人の声が頭に響いた。
 しまった!誰かいたのか。
 そう思った時にはもう手遅れで僕の手は止まることなく扉を開けていた。
 「ん?君は……」
 「お、おはよう……ございます……」
 中にいたのは少し白髪の混ざったスーツ姿の男性。
 年は僕のお父さんより少し年下くらいだろうか。
 どことなくほっそりとした印象がして、眼鏡をかけているその顔からはやつれているというか疲れているような気配が感じられる。
 ベッドに横たわっている紫音は寝息を立てて眠っていた。
 「君は紫音の友達かな?」
 「同級生の比奈蒼唯です……あなたは?」
 「私は紫音の父の翔吾です。いつも紫音と仲良くしてくれてありがとう」
 確か紫音はお父さんと一緒にここへ引っ越して来たと言っていたはず。
 この人が……。
 なら、悪いことをしてしまった。
 仕事で忙しい中紫音に会いに来ているはずなのに時間を取らせてしまった。
 さすがに今は家族である翔吾さんに時間を譲るべきだろう。
 いくら今の僕でもそのくらいの気遣いはしなければ。
 「お取り込み中すみませんでした。また時間を置いて来ます」
 「大丈夫だよ。今日は入院のための荷物を届けに来ただけなんだ。僕ももうすぐ仕事に行ってしまうしね」
 「そう……ですか」
 そそくさと踵を返していた足を止めて病室の中へ入る。
 紫音が寝ているベッドの近くまで行くとドアは勝手に閉じ、僕らの間には気まずい沈黙が流れた。
 こういう時に紫音が居てくれたらと猛烈に感じる。
 紫音のお父さんと一体何を話せばいいというのか。
 「蒼唯君、君学校はどうしたんだい?この時間ではもう授業が始まってるんじゃないのかい」
 「それは……」
 僕らの間に起こった騒動について娘さんと話すために一日学校を休んで来ました、なんて紫音のお父さんに言えるはずもない。
 なんと説明すればいいかと言葉が見つからなかった。
 「……いや、今それを聞くのはやめよう。私は今は君に娘のためにここへ来てくれたことへただ感謝するべきだからね」
 「いえ、そんな……ただ僕がそうしたいと思っただけなので」
 「なら何も変わらない。それだけ娘のことを思ってくれているということだろう」
 紫音の意見を押し通すところや、僕の言葉を言い換えて褒めてくれるところはきっと翔吾さん由来なんだろうなと思うくらい二人の考え方は似ていた。
 「紫音に友達ができること自体がそもそも喜ばしいことなんだ。紫音はこんな身になってしまったせいでそれを叶えることにとても苦労しているはずだから」
 「……紫音はいったい何を抱えているんですか?」
 翔吾さんに聞くのは卑怯だとも思ったけれど紫音に直接聞いても教えて貰えない可能性もある。
 なら、今日の収穫として情報は一つでも分かっていた方がこれからに活かしていけるはずだ。
 「僕も教えてあげたいところなんだが、看護師さん達と同様、紫音から口止めされているんだ。それを聞きたいなら紫音本人から直接聞かなければならない。力になれずにすまないね」
 「いえ、すみません急にこんなことを聞いてしまって」
 翔吾さんだって紫音のことが不安だろうに無遠慮なことを聞いてしまった。
 翔吾さんの心の声でも紫音について言及している声は聞こえない。
 紫音の話題について翔吾さんと僕の間には心の壁があるか、翔吾さんと紫音の固い約束が翔吾さん自身の決意として心の壁の役割を果たしているのだろう。
 それだけ翔吾さんは律儀な人だということがうかがえる。
 「気にしていないよ……そろそろ僕は仕事に行くよ。今は寝てるけど紫音もあと少ししたら起きるはずさ」
 「ありがとうございました。お仕事頑張ってください」
 「あぁ、ありがとう」
 翔吾さんは椅子に置いていた鞄を手に取り、出口の方へと歩いて行くと僕の隣で足を止めた。
 「そうだ、そんな君に一つ頼み事をしていいかな?」
 「なんですか?」
 「これを、紫音が起きた時に渡して欲しいんだ」
 翔吾さんは鞄から一冊の手帳を取り出した。
 表紙には黄色を基調とした花が散りばめられていて、その中には金木犀の花もあった。
 「これは?」
 「紫音がつけている日記だよ。僕は蒼唯君に紫音の病状をいうことはできないが、それを読んだら何か分かるかもしれないね」
 「いいんですか?!」
 「僕はそれを君に渡しただけだ。それを君がどうするかは蒼唯君次第だよ」
 「ありがとうございます!」
 (紫音の大切な友人なんだ。これくらいはさせて欲しい。素直に教えてあげられなくてすまない……)
 手帳を受け取ると翔吾さんは病室を出ていってしまった。
 そんな翔吾さんを見送り、僕は寝ている紫音の横の椅子に座った。
 翔吾さんが紫音について「病状」と言っていたからには入院の理由は怪我ではなく、病気なのだろう。
 顔色もいいし、寝顔だけ見るととても病人のようには見えない。
 まじまじと顔を見ていると、その顔が紫音の寝顔だということをふと認識した途端顔が熱くなって思わず顔を逸らした。
 いったい何をしてるんだ僕は。
 気を引き締め直して、さっき手渡された手帳を見つめた。
 冷静になって考えると紫音の日記と言っていたけど無許可で見ていいものなのだろうか。
 日記ってあんまり人に見られたくないものだよねと一瞬開くのを躊躇った。
 でも、縁切りを宣言された僕にはもう失うものなんてない。
 少しでも紫音のことが分かるなら読もう。
 「紫音ごめんね。日記読ませてもらうよ」
 聞こえてなんてないだろうけど、一言言ってから満を持して表紙を捲る。
 『私へ。今まであったことを忘れないようにするために今日あったことを日記に書くようにすること』
 一ページ目に書かれていたのは紫音が自分に向けたメッセージだろうか?
 今日あったことを忘れないようにするため。
 『全部忘れられてしまうと言うのに』
 昨日の看護師さんの心の声を踏まえるとこの言葉には何か含みがあるように感じる。
 また一ページ捲る。
 これは紫音が小学五年生の頃のものだろうか?
 『病院で頭に異常が見つかったと言われた。今まで発見されたことのない病気みたいで私はこれからどんどん思い出を忘れていってしまうらしい。お医者さんからこれまでのことをこの先思い出せるようにと言われて日記をつけることにした。お父さんにも天国にいるお母さんにも心配をかけないように毎日頑張って日記をつける!』
 『昨日行った病院よりも大きな病院で色んな検査を受けた。たくさんの大きな機械で頭を調べてもらった。でも、そこのお医者さん達も見たことの無い病気だったらしい。私いったいどうなっちゃうんだろう?』
 紫音が抱えているもの、それは思い出……つまり記憶がなくなっていく病気だったのか。
 そう思うと合点が行く気がした。
 あの看護師さんの発言の意味も翔吾さんが言っていた友達を作るのが難しいと言っていた意味も紫音が記憶を無くしていくからだと考えれば理解できる。
 思い返してみれば、紫音が一度学校に遅刻しそうになっていた時、友達との会話が噛み合わなくて困っていた紫音が心の中で「寝坊したせいだ」と言っていたけれど、これは寝坊したせいで日記を読んで記憶を確認することが十分にできなかったからだと捉えることができる。
 続きのページには病院での検査や紫音の病状も書かれている一方で紫音の私生活や思い出の日記もたくさん書かれていた。
 僕は夢中になって紫音の日記を読んでは捲った。
 『お父さんがいつも検査を受けている病院の近くに引っ越しすることを提案してきた。お母さんと過ごしたこの家にもう住めなくなるのは嫌だったけど、お父さんの疲れた顔を見るのも嫌だったから、いいよって言っちゃった。お母さんのお墓参りだけは絶対に毎月来ようと決めた。だから、これを見た私は今月はいつお墓参りに行くかちゃんと決めておくようにしてね』
 『中学生になった。友達ができるか不安だったけどさっそく二人友達ができた。入学式の日から友達ができて安心した。二人の名前は加賀大輝君と佐倉乃々ちゃん。これからの学校生活は楽しく頑張っていこう!』
 『高校はお父さんの負担にならないように公立で家から一番近い学校を受けることに決めた。幸い学力的には問題なくいけそう。大輝も乃々ちゃんも同じ学校らしいし楽しく過ごせそう!油断大敵というし受験勉強もこれから頑張る!』
 ページを捲る度に紫音のことが分かっていく。
 それと同時にやっぱり今まで僕は紫音のことを何も知らなかったんだなと痛感した。
 そんな日記の中でも特に驚いたページがあった。
 紫音が引っ越す直前の日記だ。
 『公園で遊んでいると一人で泣いている男の子が居た。その子は心が読めるらしい。思っていたことを当てるクイズはなんと全部正解だった!心が読めるのはすごいことだと私は思ったけど、男の子は嫌なことまで聞こえてしまうからこんないらないと言って悲しそうにしてた。昔お母さんは私が泣いているとお庭の金木犀の花を私の頭にかけていい匂いにして励ましてくれたから、家の金木犀の花を取りに行ってその子にもしてあげた。男の子も元気になってくれて明日も遊ぶ約束をした。その子の名前は――比奈蒼唯君』
 僕のお父さんが言った通りだったのだ。
 僕と紫音は昔会っていたんだ。
 しかも、ただ会っていただけじゃない。
 あの時、心を読める僕を唯一受け入れてくれて励ましてくれたあの女の子は昔の紫音だった。
 なんで僕はそのことに今まで気が付かなかったのだろうか。
 思えば、紫音が僕の引っ越す前の住所を知っていたのはこれが理由だったのか。
 僕の初恋の人はこんなにも近くにいて、僕はまたその子に恋をしていたのだ。
 日記には僕らが再開してからのことも書いてある。
 『交通事故に会いそうな子供を庇おうとすると同級生の男の子がそんな私たちを庇ってくれた。私も子供たちもほぼ無傷の軽傷だったけど、庇ってくれた同級生は頭を打ったから病院へ運ばれて行った。入院してたのが私の通ってる病院というので看護師さん達に事情を説明してお見舞いにいくとなんとその男の子は心が読めると言っていた!名前は比奈蒼唯君。六年前、引っ越す前まで公園で一緒に遊んでいた子だった!?向こうは気がついてないみたいだし、このままバラすのももったいない気がするし、明日また会う約束を取り付けたからその時までにどうするか考えれよう。ちょっとばかりの恨みもあるし、どうしてやろうかな?』
 この恨みというのは紫音が心の中で言っていた『邪魔が入った』の真意なのだろうか、それとも殺人鬼呼ばわりされたことへの文句なのだろうか。
 僕の入院していた病室がすぐに分かったのも、紫音がお母さんのお見舞いでここに通っていたからではなく、紫音自身の病気のためにここに通っていたからだったのだ。
 『蒼唯と『お手伝い』という名目で私が今まで病気のせいで我慢してたことを一緒にしてもらうことにした。蒼唯は心が読めるから人を嫌ってるみたいだけど蒼唯に対して絶対に心を読ませない!って念じると聞こえなくなるみたいだからこれで蒼唯も私の心を読むことが無くなって少しは楽になるはず!まさか病気のせいで心を閉ざしてた経験がここに来て活きるとは!三つのルールはとってつけたようなものだけど、これはお互いのために必要なものだから私も守るようにしないと』
 『大輝と乃々ちゃんの告白が終わった。大輝は乃々ちゃんに告白して振られて、乃々ちゃんはなんと私に告白してくれた!男の子らしい性格をしていた乃々ちゃんを女の子のように大切に優しく接してくれたことが嬉しかったって言ってて私も嬉しかったけど、病気のせいで恋人のことを忘れるなんて事態に陥らないためにもその告白は受け入れられなかった。でも、これからも友達として仲良くしようと約束した。蒼唯も一人で乃々ちゃんと話に行くなんて言っていて成長を感じれたし、私が居なくなってももう蒼唯は一人でやっていけそうで安心した』
 『今月のお母さんのお墓参りには蒼唯にもついてきてもらった。蒼唯は金木犀の花を見て、昔会った女の子の話をしてくれたけどまだその子と私が同一人物とは気づいてないみたい。初恋の人だったなんて告白もしてくれたのに!でもその後蒼唯は離婚してから会ってなかった自分のお父さんと会って無事仲を取り戻したみたいだし忘れてたことも許してあげようかな』
 次々に明らかになっていく真実に僕は息を飲んで紫音の丸い字を目で追った。
 「んんっ……」
 日記に集中しているとベッドから紫音の声がして慌てて顔をあげると紫音はいつの間にか身体を起こしていた。
 「紫音……」
 「それ、見ちゃったんだ」
 紫音は僕が持っている黄色の手帳を指さした。
 「ご、ごめん……」
 「いいよ。どうせお父さんが蒼唯に渡したんでしょ?というか、それ以外考えられないし」
 昨日の感情のままに荒れていた紫音とは変わって今日はとても冷静だった。
 「私の病気のこと、どこまで分かった?」
 「……脳の異常で、今までの記憶が徐々に無くなっていくって」
 「そう。もっと正確に言うと長期記憶の中の、思い出なんかを記憶するエピソード記憶が消えていく病気。さらに追加で言うと記憶が無くなっていく早さは私の成長していくに連れて早くなっていくの。それが私の病気。この病気になったのは私が初めてで先生と一緒に『青春亡失症候群』って名付けた」
 青春亡失症候群……。
 「早くなるって……今はどこまでの記憶があるの?」
 「日記を見なかったらせいぜい二週間前程度の記憶しか今の私には残ってない」
 僕は絶句した。
 今の紫音は僕と出会った日のことすら覚えていないことになる。
 紫音は十七年も生きてきたのに、今はある記憶は二週間程度しかないなんて……。
 「記憶が無くなる進行速度が今より早くなって、紫音の持ってる記憶が全部なくなったら……どうなるの?」
 「この病気自体が世界で初めての症例だからまだなんとも言えないけどおそらく脳死と同じ状態、つまり植物人間になるだろうって先生は言ってた」
 「脳死……」
 「そう。だからみんなが私のせいで傷つかないように昨日はもう来ないでって言ったのになんで昨日の今日で来ちゃうのさ」
 紫音は笑ったけど、その顔はいつもの眩しいほどの明るい笑顔じゃなくて苦しさにまみれた絞り出したような笑顔だった。
 みんなが傷つかないように……。
 日記にも書いてあった通り、『お手伝い』のルールはそれぞれ一つ目の関係を口外しないことは紫音が居なくなった後でも周りに不信感を与えないため。二つ目の『お手伝い』が終わったらその内容を忘れることはいつまでも僕が紫音のの思い出を引きづらないようにすること。三つ目のお互いのことを好きにならないことは、紫音が「恋人を作る気はない」と言っていたように残された相手、置いていってしまう自分のことを考えて作ったルールだと推測できる。
 「紫音とちゃんと話したいと思ったんだ。何も知らないでこのまま終わらけなんて嫌だったから」
 「いいんだよ。どうせ私は全部全部忘れちゃうんだから。このまま私と居てもいいことないよ?」
 いつも快活に振舞っていた紫音がこんな思いを抱えていたなんて。
 紫音が自暴自棄になったように言った言葉に僕は無性に悲しくなった。
 今の紫音はまるで、一年前の僕を見ているようだった。
 人と関わることを避けて、ただ何もかもを諦めて絶望している様子が。
 だから僕は紫音を助けたかった。
 紫音が僕にしてくれたように、今度は僕が紫音を助ける番だと決意した。
 「損得の話じゃない。僕は紫音とただ一緒に居たいんだ。だから、もっと君のことを教えて欲しい」
 紫音は激昂して涙を流しながら声を張上げた。
 「だからもういいんだって!私は何をしても忘れてしまうの!これから蒼唯とどんなことをしたとしても次の日の私には蒼唯のことすら分からなくなってるかもしれないんだよ?!なんでそんなこと言えるの……」
 紫音の声は涙で掠れ、病室の中は紫音の嗚咽が響いた。
 「それは……僕は紫音が好きだから」
 「えっ……?」
 下を向いていた紫音は驚きで顔を上げて僕を見た。
 「紫音は心の読める僕を受け入れてくれて、何もかもを諦めていた僕を陽の当たる所まで手を引いてくれた。僕が色んな体験をして、諦めていた友達でさえ作ることができたのは紛れもなく紫音のおかげなんだ。そんな紫音に僕は二度目の恋をしちゃったんだ」
 「二度目って……蒼唯昔のこと、気がついたの?」
 「紫音の日記を見て分かったんだ。僕の初恋の人は紫音、君のことだったんだね。それに気が付かず本人に初恋の人だと話していた自分が恥ずかしいよ」
 僕は椅子から立って紫音のすぐ横まで近寄っ手跪いた。
 「『お手伝い』の『お互いを好きにならない』ってルールは破っちゃったけどさ、僕にも告白をさせて欲しい。紫音、僕は君が好きだ。だからいつまでも紫音の隣に僕を居させて欲しい」
 紫音は何も言わなかった。
 ただ、再度下を向いた紫音からは時々鼻をすする音と、涙がこぼれ落ちていた。
 「あのルールはさ、私たちの関係を言いふらさないことも、関係が終わったら全部忘れることも、お互いを好きにならないことも全部、私が居なくなっても蒼唯が大丈夫なように考えて設定したのにさ。大輝と乃々ちゃんのことも無事に終わってもう未練はないとか思ってたのに台無しだよ本当に」
 「ごめんね」
 紫音が言った『時間がない』というのは紫音のに記憶が全てなくなってしまうまでの時間だったのだ。
 紫音はどこまでいっても人のことを一番に考えるような人だった。
 顔を上げた紫音の顔は涙でぐしゃぐしゃだったけど、その少し笑った顔は世界一可愛いと思った。
 「蒼唯と会った時ね、病気の進行が激しくなってずっといっその事死んでしまいたいって思ってた。子供を事故から庇った時、私は人の役に立って死ぬ事ができるんだって思ったのに、蒼唯が私たちを助けたせいでそれも邪魔されちゃってさ。話を聞けば蒼唯は私の事忘れてるし、心が聞こえるからってこの先まだまだ人生があるくせにこの世の終わりみたいな顔をしてたから、蒼唯を連れ回してたのは最初は腹いせみたいなものだったの」
 『邪魔が入った』
 僕が最初、紫音のことを殺人鬼だと勘違いしてしまったきっかけの言葉はそんな理由だったのか。
 あの言葉はこれから何もかもを忘れて植物人間になるくらいなら人の役に立って死にたいという紫音の悲痛な思いから来ていた言葉だったのだ。
 「でも、蒼唯と一緒に過ごしていくうちにまだ死にたくないなって思うようになった。まだ蒼唯とやりたいこと、話したいこといっぱいあるのにって思うようになったんだ……だけど、そんな思いもきっとこれから先もずっと生きていく蒼唯には重荷になってしまうと思って突き放したのに蒼唯はそんな私のことなんて考えずに好きだなんて言ってくれちゃってさ」
 紫音は大粒の涙を何度も拭った。
 「どうしたら許してもらえる?」
 「……もう離れないで。私が全部を忘れてしまうまで、蒼唯声を聞かせて。私も蒼唯のことが大好き」
 紫音は僕に抱きついた。
 僕の肩は紫音の涙を含んで濡れて、紫音の肩もまた、僕の涙で濡れてしまっていた。
 「うん。これから毎日ここに来るよ。最後まで思い出を一緒に作ろう」
 二人で抱き合いながらいつまでも泣いた。
 僕のこの恋は長い期間続かないかもしれない。
 でも、今の一分一秒を大切にして、たとえ紫音が忘れてしまうとしても紫音とできる限りの思い出を作り続けたいと思った。
 「これからよろしくね、蒼唯」
 「うん。これからはずっと一緒に居よう」
 しかし、不幸というのは唐突にやってくるものでその日の病院の帰り道、僕は交通事故に巻き込まれた。
 僕は意識不明の重体で病院へ運ばれ、紫音が全ての記憶を失うその日まで僕が目を覚ますことはなかった。