茅野(かやの)円花(まどか)はもういない。

 あのとき、あんなことがなければ、彼女はきっと────。



     ◇



 カッ、と硬く軽やかな音を響かせ、解答を書き終えるとチョークを置いた。
 (かたわ)らで腕を組んでいた数学担当の先生が感心したように頷く。

「……正解。難問のはずだが、茅野には簡単すぎたか」

「ありがとうございます」

 笑みを返しつつ黒板に背を向けると、静謐(せいひつ)な教室内のすべての視線を一身に浴びながら自分の席へと戻った。

「すごーい、茅野さん」

「さすが優等生の委員長」

「完全無欠だよね。文武両道で、顔も性格も完璧な人気者……」

 羨望(せんぼう)憧憬(しょうけい)の込もった眼差しや囁きが心地よく浸透してくる。
 思わず口端が緩みそうになるのをこらえ、聞こえていないふりに徹した。

(当たり前でしょ)

 勉強も運動も見た目も言動も、すべては努力という土台の上で緻密(ちみつ)な計算をもとに作られたものなのだから。

 わたしは“完璧”なんだ。
 むしろ、そうじゃなきゃわたしに価値なんてない。



「円花、購買行こ!」

 授業が終わるなり声をかけられ、友だちと連れ立って廊下に出る。
 輪の中心を歩きながら、喧騒(けんそう)を割るようにして進んでいく。

「円花ってさ、本当にいつも完璧だよねー」

「さっきの時間もすごかった! あんな難しい問題、わたしには何が何だかさっぱりだったよ」

「憧れちゃうなぁ……。真似しようと思ってもできないけど」

「そうかな? 全然そんなことないと思うけど……ありがとう」

 髪に触れながらはにかむように笑い返しておく。
 耳当たりのいい褒め言葉の数々を日頃投げかけてくれる彼女たちは、わたしをわたしたらしめる“指針”みたいな存在であり、満たしてくれる存在でもあった。

「えー、でもさ」

 ふと舌足らずな声が緩んだ空気を引き張る。
 口を挟んできた綾音(あやね)はどこか不満気な顔をしていた。

「あたしは、円花はもっと“本当の自分”さらけ出した方がいいと思うな」

 沈黙が落ちた。
 彼女はたまにこうして水を差し、わたしの“完璧”さを否定するようなことを口にする。

(……わたしの何が分かるの?)

 喉元までせり上がった言葉をどうにか飲み込む。
 身体の芯が力んでしまうのを自覚しながら、笑みを貼りつけた。

「何のこと? わたしはわたしだよ」