木々と土の匂いの中で、七瀬は目を覚ました。
 どうやら七瀬は、地面の上で横たわっているようだった。

(えぇっと確か、私は雨道を帰っていて、それで……?)

 ぼんやりとした頭で、自分が最後にどんな状況にいたのか考える。
 そうして七瀬は、雨の中を自転車で帰宅していたところタイヤがスリップして、土手から川へと転げ落ちたことを思い出した。

(そうだった。川に落ちたんだった)

 濡れた服の感触と、命に関わらなさそうな程度の体の痛みは、土手を転がって川に落ちた結果として特に疑問はなかった。
 だから七瀬は、どうやら自分は無事に助かったらしいと思って目を開けた。きっと川から這い上がった後でどこかの雑木林で倒れたんだろう、くらいの気持ちであった。

 だが目に入ってきた光景は、想像していたものとは違った。

「どこだろう、ここ……?」

 緑色に苔むした大木が延々と並ぶ、見慣れない壮大な自然の森。

 まずその時点で七瀬の知っている地元・風来町の里山の林ではないのだが、その木々のすき間から見える青空の様子がさらにおかしかった。
 淡く白い昼の月が二つ、真っ青な空に浮かんでいるのだ。
 満月よりも少し欠けて並ぶ二つの月は、まるで双子のようであった。

(頭ぶつけて物が二重に見えてるとかじゃないよね。っていうか、今もう昼なの? 私、どれくらい気を失っていたんだろう)

 七瀬は目をこすって立ち上がった。
 自分の体は問題なく見ることができたので、少なくとも目は正常だと思われた。
 おそらく月食とか日食とかそういう天文現象でも起きているから月が二つ見えるのだと、七瀬はむりやり納得した。

(とりあえず、GPSで現在位置の確認を……あれ、鞄がないな)

 携帯を取りだそうとして、七瀬は自分の荷物がないことに気づく。
 今手元にあるのは、胸ポケットに入れた生徒手帳とハンカチだけであった。

 身一つで連絡手段もなく、まったく訳が分からない場所にいる。
 そのことについて七瀬は恐ろしく根源的な不安を覚えた。だが何とかして、多分ちょっとした問題が起きているだけだと考えようとした。

 とりあえず、七瀬は今いる場所について知るために少し歩いた。
 濃い緑の葉に覆われた木々の森は、時が止まったように音がなかった。
 いたるところが木の根に覆われている、ごつごつした地面を踏みしめる。空気はとても澄んでいて、風来町どころかそもそも日本ですらないような雰囲気だ。

 しばらく進むと、大きな水の流れがあった。
 川というにはあまりに静かなその流れは澄んでいて、鏡のように森を映していた。
 その光景がとても幻想的だったので、七瀬はもしかしたら自分は死んでいて、ここは天国か何かなのかもしれないと思った。

(でも死んでるにしては、感覚が妙に具体的なんだよね)

 七瀬は何となく水の流れに近づいて、覗きこんでみた。
 ほとんど揺れない水面に、仏頂面の女子高生の姿が映る。男だったとしたらぎりぎり塩顔イケメンに入れたかもしれないが、女性としては愛嬌があまりないその顔は、間違いなく自分のものであった。

(私自身には別に変なところはないし、やっぱりこの場所だけがおかしいっぽいなぁ)

 水面に映る自分の姿を見つめ、七瀬は首を傾げた。
 すると、どこかから艪を漕ぐ音がした。

 音の方向を見ると、流れに逆流するようにして、一艘の船がこちらに近づいて来ていた。

 木造の簡素な船の上には、人が何人か座って乗っていた。
 他に人がいたことで、七瀬は多少は安心した。だがその姿が不可解だったので、呼びかけようとは思えなかった。

 船に乗っているのは二十代くらいの若い男性で、どの人も皆時代がかった鎧を着ていた。
 鎧は黒い革の札を赤い紐で何枚も結び付けたもので、兜は被らずに髪は布でまとめている。日本の武士というよりは、どうも中国の武人的な人たちのように見えた。

 現代日本には普通はいない服装なので、ドラマの撮影でもあるのだろうかと七瀬は思った。だが、カメラマンやスタッフは見当たらなかった。

 船に乗っている男性の一人が、七瀬を見つけて指さした。男性たちはほっとした表情で、七瀬の方へと船を寄せてきた。

(この人たち、私を探してた……?)

 七瀬は不思議に思いながらも、危険は感じなかったのでそのまま立っていた。

 そうしているうちに、代表らしい男を先頭にして船に乗っていた人たちが岸辺に降りてきた。彼らは粛々と、七瀬の前に並んだ。

 本物の軍人のような無駄のない動作で、代表の男が七瀬の前に進み出る。
 男はやや強面で表情は硬いが、なかなかの美形だった。背は高めで、引き締まった体に鎧がよく似合っている。
 個人的な尺度からすると、姉が何年も追っかけている若手俳優よりも格好良いような気がした。

「あの、どちら様で……?」
 七瀬は事情や用件を尋ねようとした。

 だが男は七瀬が言い終えないうちに、いきなり七瀬の前で跪いた。

 その後ろのおそらく部下であろう兵士たちもそれにならって跪いた。
 それは自分の意思ではない何かの力によって動かされているような、七瀬には理解できない行動だった。
 いきなり見ず知らずの男性の集団に頭を下げられて、七瀬はただびっくりしてそれを凝視した。

 そして代表の男は七瀬を見上げ、丁寧な口調で何やら言ってきた。案外澄んだ、ほどよく低い声である。
 だがそれは日本語ではなかったので、七瀬はまったく意味を理解できなかった。

「ちゅ、中国語? 私、日本語しか話せないんですけど。ジャパニーズ・プリーズ」
 男の服装から勝手に中国語だと思った七瀬は、片言の英語で日本語を求めた。

 しかし男はそのままわからない言語で話し続け、後ろの兵士の一人に何かを命じた。
 呼ばれた兵士はくすんだ青い金属の器を男に渡す。
 代表の男は、その金属の器をうやうやしく七瀬に差し出した。

 どんぶりくらいの大きさのその器には三本の脚があり、渦を巻いたような緻密な文様の装飾が施されている。世界史の授業で最初の方に習った、古代中国の青銅器に雰囲気が似ていた。
 器の中には、水らしき液体が入っている。

 七瀬には、男の行為の意図がまったくわからなかった。

 不安そうな七瀬の反応に、男は困ったような顔をした。
 しばらく考え込んだのち、男はゆっくりと器を自分の口に近づけ、中の水を一口飲んだ。そしてたどたどしく微笑み、また七瀬に器を差し出す。

 どうやら、この中の水を飲めということらしかった。

(見ず知らずの言葉も通じない人からもらったものを飲むとか、何か嫌だな。今この人が飲んでたってことは、やばいものではなさそうだけど……)

 七瀬はおそるおそる跪く男から器を受け取り、中身を飲んだ。味は普通の水のように感じられた。

 器の水を七瀬が飲むのを見届けて、男が再び口を開く。

「ようこそ碧の国へ。これで、俺の言葉が通じるようになりましたか?」

 次に聞こえてきたのは、日本語だった。
 不可解な変化に、七瀬は半信半疑な気持ちで器を返して答えた。

「あ、はい。通じてます。でも、何で……?」
「これは古代の祭器です。異界からいらっしゃった稀客の方でも、この祭器に入った水を飲んでいただくと、言葉が通じるようになると伝わっていました。古いまじないの使われた品なので、仕組みはわかりませんが」
「異界? キ、キキャク?」

 男は七瀬の質問に答えてくれてはいた。だが、疑問は減るどころか増えている。
 七瀬は、どうにも悪い予感がした。

 男の方は、七瀬が見知らぬ土地にいる理由をすべて知っているようだ。だが、どこから説明すればいいのかをわかっていないらしく、次の言葉を迷っていた。
 そして若干の時間差を挟み、男はゆっくりと話し出した。

「稀客、というのは稀なお客様という意味です。あなたは吉兆を意味する天変である瑞風により、異なる世界からこの世界に来訪した稀客の方。俺たち碧の国の民は、あなたを神聖なお客様としておもてなしいたします」

 そう言って、男は深々と七瀬に頭を下げた。

(異なる世界って、えぇ……。ちょっと、勘弁してよ……)
 夢か冗談としか思えない男の言葉が、現実感のないまま七瀬の耳に響く。
 まるで妹がやっているアプリゲームのヒロインのような状況だ。だが、すぐ目が覚めるような夢ではないことは何となくわかった。

 七瀬は屈みこみ、男と目線を合わせた。もう薄っすらとはわかっていたけれど、できれば違っていてほしいと願いながら尋ねる。

「それってもしかして、私がいわゆる異世界みたいなところに来ちゃったってこと? 月が二つあるのも、現代じゃない異世界だから?」
「おそらく、そういうことになるかと思います」

 畳みかけるように問いただす七瀬に、男は控えめな態度で答えた。緊張した瞳は、黒い前髪の奥で伏せられている。

 自分が今異世界と言うべき場所にいるらしいという事実を突きつけられ、七瀬の頭は真っ白になった。元の世界での自分はどうなったことになっているのか、なぜ自分なのか、そもそも帰る方法はあるのか……。様々な問いが込み上げてくる。

(お、落ち着け自分。今、目の前にはちゃんといろいろ説明してくれる人がいるんだから、多分何とかなるはず)
 平静になるために、七瀬はまずは一旦根本的な問題ではない事柄について確認することにした。

「となると、あなたは異世界の人なんだね」
 七瀬は、男の端正で精悍な顔立ちを見つめて言った。
 男は普通に髪も瞳も黒く、特別な特徴は見当たらない。後ろの兵士たちも同様だった。服装こそは見たことのないような古い造りの鎧だが、それ以外は普通の人間であるようだ。
 違うのは、男も部下の兵士たちも皆、目には見えない誰かに従っているような奇妙な雰囲気を持っていることである。

 だがそれでも同じ人であることは変わらないらしいことに、七瀬はひとまずほっとした。
 男も話をわかってもらえたことに安心した様子で、七瀬を見上げた。

「はい。申し遅れましたが、俺の名前はリウンと言います。この国の王に仕える者です。王に命じられて、あなたをお迎えに上がりました。あなたのお名前は、何とおっしゃるのですか?」
「私は野々山七瀬。名字が野々山で、七瀬が名前だけど……」
 リウンと言うらしい男に、七瀬は名乗った。

「ではナナセ様。この船に乗ってください。今から陛下のいる宮殿にご案内いたします」
 今までの人生で一度も感じたことがないほどの敬意が込められた声で七瀬の名前を呼び、リウンは立ち上がった。

「はぁ……」
 七瀬は気の抜けた返事をした。とりあえずのところは、リウンの誘導に従うことにする。
 船に向かって歩き出すと、兵士たちが仰々しく道を空けた。

 そしてリウンの手を借りて、船に乗り込む。七瀬を優しく支えるその手のひらは固く、力強かった。

(こんな美形にかしずいてもらえるなんてこの先なさそうなことだし、状況がどうであれ堪能しておこう)
 日に焼けたリウンの横顔を眺め、七瀬は素直にその格好良さに見惚れた。
 力強く高い鼻梁も翳のある目元も見れば見るほどものすごく好みであるので、よくわからない世界にいる不安を少しは忘れることができる。

 その後兵士たちも船に乗り、一行は川岸を離れた。川は深い森の中で複雑に入り組んでいたが、船は迷うことなく順調に進んだ。

 七瀬の隣に座るのは、リウンだった。リウンはしばらく何も言わなかった。
 だが七瀬の服や髪が濡れていることに気づくと、自分の身に着けていた外套を取り外してよこしてくれた。そして本当に申し訳なさそうな顔で言った。
「宮殿に着いたらすぐに、湯浴みと着替えの準備をさせます。しばらくはこれでご辛抱していただけますか?」

 乾いた布である外套は、ありがたくはあった。
 しかし七瀬は別に寒くも何ともなかったので、異常に心を砕いてくれるリウンに対して後ろめたい気持ちになった。濡れた制服の変な臭いが外套についてしまうのではないかと、逆に不安が募る。

「いろいろとお気遣い、すみません……」
「礼には及びません。これは、陛下が俺に命じたことでもありますから」

 謝罪のようなお礼を言う七瀬に、リウンは笑うことなく硬質な態度のまま答えた。

(何だか、すっごく真面目な人みたいだな。この人)
 七瀬はリウンから借りた外套に包まり、そう思った。これほどひたすら他者に仕えようとする人間に、七瀬は会ったことがなかった。

 リウンの主君である碧の国の王はどのような人物なのか。
 七瀬はその王に稀客という存在として何を求められるのか。
 それ以外にも、七瀬はまだリウンに聞きたいことが多くあった。

 だがリウンはもう話すことはないと考えているのか、沈黙していた。リウンだけでなく、兵士たちも皆何も言わなかった。

(もしかしてさっきので説明は終わり? まだわからないことがたくさんあるんだけどな)
 これは自分から聞いた方が良さそうだと気づいた七瀬は、おずおずとリウンに尋ねた。

「そういえば、その私がここに来るきっかけっていう瑞風は、どういうものなの? しょっちゅう起きるの?」

 七瀬としては、自分が知りたいので会話を切り出したくらいの気持ちであった。
 しかしリウンは自分の話に不足があったことは、責められるべき不手際と思ったらしい。

「説明が足りず、申し訳ありませんでした」
 そう言って、まずリウンは謝った。そして、慌てて話し出す。

「瑞風というのは、色の付いた雲による竜巻のようなものです。聖域であるこの森の決まった地点で起きるので、人的被害は起きません。ここ最近は何百年も起きておらず、伝説とされていた現象です。だから瑞風が発生した時には、陛下はとても喜んでいらっしゃいました。稀客の方と会うことも、非常に楽しみにされているようです」

 丁寧な、だが肝心な情報が足りないような気がする説明だった。
 そしてまた、リウンは黙った。客人である七瀬のためにいろいろ義務として話してはいるが、もともとは口数の多い人ではないのだろう。特殊な事柄についての会話であることを差し引いても、絶対的に話が下手であった。

 七瀬はあまりリウンを質問攻めにして困らせるのも気の毒だと思ったので、一旦黙って得た情報を整理してみることにした。

(要するに私は、この世界にとってあの『天人様』みたいな存在ってことだよね。吉兆を意味する客人らしいから、命の危険とかはなさそうだけど……)

 七瀬は地元風来町のゆるキャラにもなっている伝承上の存在『天人様』について思い出した。異なる世界からの来訪者を神聖な存在としてもてなすという発想そのものは、幼いころから慣れ親しんだものではある。
 だが天人様のような異世界から来る存在が本当にいるとは信じていなかったし、逆に自分が行くことになると思ったことは一度もなかった。

 見慣れた自分の手のひらを見つめ、七瀬は考え込んだ。

(これって本当に体ごと現実としてここに来ているのかな。それともやっぱり、本物の私は病院とかで死にかけてるとか、死んでるとか? ただ単に目覚めることができないだけで、全部私の見てる夢で幻っていうこともあるのかな)

 いろいろな可能性が考えられたが、答えはわからなかった。ただ一つはっきりしているのは、自分の意思では元の世界に戻れそうにないということである。
 『瑞風』はめったに起こらない現象であるというリウンの説明を思い出し、七瀬は怖くなった。

(一生帰れないとか、それは絶対困るんだけど。客人と言うからには、帰れるよね!?)
 帰る方法についてだけは今すぐ聞くべきだと感じ、七瀬は隣のリウンに話しかけようとした。

 しかしそのとき、急に森が開けて太陽の光が辺りを照らした。

「ナナセ様、あちらが宮殿でございます」
 リウンがよく通る声で、目的地に着いたことを告げる。

 顔を上げると、船は広い湖の上を進んでいた。
 湖は深い青を湛えて空を映し、水面に日光をきらきらと反射させている。

 そしてその向こうには、赤い屋根と緑の軒が幾重にも重なった巨大な長い東洋風の建物が見えた。たくさんの棟が繋がって池を囲むその城は、まるで水の上に浮かぶようにして建っていた。
 鮮やかな色彩の屋根の先端には黄金の霊鳥の飾りが取り付けられ、湖の青とは対照的な輝きを放っている。
 今までいた深い森の厳かさとは正反対の、人の手によって造られた美しさであった。

(あぁ……、やっぱりここは異世界なんだ)

 形だけ留めた遺跡や紛い物のテーマパークにはない本物らしい何かを持った光景に、七瀬は自分が今まで生きていた世界とはまったく違う世界にいることを改めて深く実感した。
 それは残酷な事実であるはずだけれども、景色はただ美しく七瀬の前にあった。