風を切って走る町の風景の色合いが、僕の横を通り過ぎるたびに混ざりあっていくようだった。感じるのは顔に当たる風の感触だけ。自分の呼吸も、周りの音も、まるで抜き取られてしまったように何も聞こえなかった。腕時計も沈黙したままだ。この瞬間がとても長く感じる。同じ一秒が、まるで違う長さの物差しで計った一秒みたいに長く……。
 次に腕時計から聞こえたのは、うろたえたジョージの声だった。
『大変だ! 紅葉がスカーフェイスにやられちまった!』
 通信を聞いた僕たちに動揺が走る。
「ジョージ⁉ 紅葉がどうしたって⁉ ジョージ⁉」
 状況を尋ねると、次の瞬間なぜかよくわからない言葉が返ってきた。
『えっ? なに? そうか! わかった! じゃあ紅葉を頼むぜ、マシュマロ!』
どうもマシュマロと会話しているらしい。つい通信ボタンを押すくせがついてそのまま話してるんだろう。不穏な様子に不安を掻き立てられてる。状況が見えない。
『ねえ、ジョージ君! どうしたの?』ミチルが尋ねた。
『あ! ああ! 悪い! 紅葉のやつ、惜しいところでスカーフェイスに時間を持ってかれて、目を開けたまま動かなくなっちまった! チクショー、時間をとられたやつは、あんなふうになっちまうんだな⁉ 見た目はボーッとしてるだけで、普通に見えたよ』
 きっと時間を盗まれた本人には、なんの自覚もないんだ。
『それで⁉ 紅葉ちゃんは? マシュマロはなんだって?』マルコが、ジョージを急かす。
『ああ大丈夫だ。マシュマロが紅葉を戻して、すぐに追いかけるから先に行けってよ!』
 ジョージの説明に、とりあえずみんなホッとする。
『よかった! ボク、心配したよ!』
 このとき一つの疑問が浮かんできた。スカーフェイスが時間に干渉して時間を盗むことができるなら、戻すことだってきっとできる。でも、マシュマロにも同じことができるんだろうか。〝この世界で実体のないボクたちは、本来なんの干渉もできないんだ。でも、一つだけ、この世界に干渉する方法があるんだよ〟と悲しそうに言ったマシュマロの言葉が浮かぶ。スカーフェイスは《不法の器》という禁術を使うことで実体を持ち、干渉する力を得てしまったと。実体のないままのマシュマロはこの世界で力を使えないはず。じゃあ、どうやって紅葉を治すつもりなのか? ……いやな予感が駆けめぐった。
 蟹頭マートへ走り出してどれくらい経ったろう。道の先に、真っ黒な猫と、それを必死に追いかけるジョージの姿が見えた。スカーフェイスだ! 真っ黒な艶のある体毛にスラリと伸びる手足。しなやかな長い尻尾を振り回し、左側の目には額から頬にかけて大きな傷がある。たとえ大きさは猫ほどでも、鋭い右眼から発せられる威圧感はかわいい黒猫のものとは思えない。まるで黒豹だ。辺りの景色が一瞬にして視界から消えていく。鋭い右目に睨みつけられた僕は、蛇に睨まれた蛙のように体が動かなくなっていた。
 みんながつないでくれたこの大きなチャンスを、絶対に活かさなきゃいけないんだ! 双子山町から追われ続けて、スカーフェイスだってそろそろバテてくるはず。これ以上のチャンスなんてない。自分を信じろ! きっとできる! これ以上、犠牲者を出しちゃいけないし、これ以上、スカーフェイスの好きになんてさせるものか!

(せんとくん! ……)

 誰かが僕の名前を呼んでいる。

(セントクン! ……)

 誰だい? 今は忙しいんだ! だって僕は、今まさに目前に迫ってるスカーフェイスを一人で捕まえなきゃいけないんだから!

「千斗君!」
 気づくと目の前に太っちょの真っ白い猫がいた。知らぬ間に自転車のカゴに乗り込んだ白猫が、僕に向かって話している!
「千斗君! ブレーキをかけて!」
 この声はマシュマロ⁉ マシュマロがいつの間にか自転車のカゴにいて、声を出してしゃべってる⁉ 我に返った僕は、大慌てで両方のブレーキを力いっぱい握りしめた。

 キイィィィィィ……‼

 耳障りなブレーキ音が辺りに響くと、僕の自転車は、車の通る横断歩道のギリギリ手前でやっと停止した。ハンドルが左に大きく傾いてバランスをくずし、右に倒れこんで膝をつく。
「千斗!」
「千斗君! 大丈夫⁉」
 倒れたまま声の方を振り返ると、僕の脇でカゴから飛び出したマシュマロと、自転車をおりたジョージと紅葉が心配そうにしていた。
「あれ? 僕は? それにマシュマロ……君……なんで声を?」
「クロに時間を盗まれたんだよ。紅葉ちゃんの自転車で後ろから追いついたボクが、君のカゴに飛び移ったんだ」
「ビックリしたぞ! 俺がどれだけ呼び止めても無視して行っちまうんだから!」
「あたしも千斗と同じ! 気がついたらマシュマロに起こされてたわ!」
 いつの間にか僕までが時間をかすめ取られてしまっていたんだ。情けない……みんなが頑張ってくれたのに期待に応えられなかったんだ。くやしさで涙が落ちる。
「みんな……ゴメン……」
「千斗は無事だ! おまえたちは?」
 ジョージが通信すると、心配していたマルコとミチルが元気な声で答えた。
『よかった! 千斗君になにかあったら、ボク、どうしようかと思ったよ!』
『こっちはまかせて! マルコと二人でかならず止めるから!』
 ジョージが僕の肩をポンと叩く。
「まだ俺たちにもやれることはあるさ! 諦めるなんて、おまえらしくないぜ!」
「そうよ! それにあんたはチームの頭脳よ! みんな、頼りにしてるんだからね!」
 紅葉も僕を励ます。みんなの優しさが嬉しかった。そうだ、まだ諦めるには早い。
「ねえマシュマロ? スカーフェイスはどうやって時間を盗むの?」
 気を取り直して僕は尋ねた。次に対峙したとき、また時間を盗まれてしまったら同じことの繰り返しだ。あいつを捕まえるには、時間を盗まれないことが絶対条件になるんだ! 
「力を発動させる方法は、みんな違うんだ。ボクの場合は、相手に自分の声を聞かせることなんだけど……」
「声を聞かせる? 僕はスカーフェイスの声なんて聞いてないよ。紅葉はどうだった?」
「うーん、あたしも、声を聞いた記憶はないわよ……」
 紅葉も首を振る。やはりそのときのことはあまり覚えてないようだ。
 じゃあ、スカーフェイスは一体どうやって……。もう一度、時間を奪われたときのことを思い出せ。僕は頭を悩ませた。初めは金曜日の朝だったはずだ。ボーっとする人たちがいて、同じようにボーっとする猫が道の真ん中にいた。猫も僕のことを見ていた。次はライオン公園だ……。紅葉とみんなを待ってる間に僕は見ていた、あの真っ黒な猫を!
 そうか! 目だ! さっき、僕は正面からスカーフェイスを見ていた。あの鋭く凍りつきそうに威圧感のある目を。
「目だよ! 目が合ってしまうと、スカーフェイスに時間をかすめ取られるんだ!」
「ああ! 確かに! あいつ、まっすぐあたしのこと睨んでたわ!」
「だとしたら、目を見ないで捕まえるなんてクレイジーすぎるんじゃないか?」
 ジョージはかなり不安そうだ。確かにあんなにすばしっこいんだ。目を見ないように捕まえるなんて可能なのか? 後ろから追いかけるだけじゃ、絶対無理だ……。
 なにか方法は……目を見ずに、スカーフェイスを捕まえる方法……。
「ねえ、マシュマロ? 君たちの能力をそっくりそのまま跳ね返すことはできるの?」
「試したことはないけど、ボクたちもこの世界に実体がある以上、たぶん可能だと思う」
 マシュマロは自信なさげに首を傾げる。それを見た紅葉はもどかしそうだ。
「でもさ、それができるとして、どうやってあいつの力を跳ね返すの? マシュマロはここにいるんだし、今から頑張ってもミチルたちには追いつけないわよ?」
 跳ね返す……紅葉の言葉を聞きながら、僕はあるお話を思い出していた。
「ねえ、みんな、見るものすべてを石に変えてしまうという『メドゥーサ』っていう怪物の話を知ってる?」
「おお! なんか聞いたことあるぜ! クレイジーな蛇の髪の毛のやつだよな!」
「あれを退治した英雄がいたはずだよね?」
 通信機のむこうで沈黙が広がる。いつも本を読んでいるミチルがこの話を知らないはずがない。みんなが僕の期待と同じように、ミチルの言葉を待っているのがわかった。
『ギリシア神話のペルセウスね。ベルセウスは、寝ているメドゥーサに近づいて鏡を見ながら首を切ったのよ。でも直接鏡を向けてその眼光を跳ね返すことができれば、その力もそっくりそのまま返すことができるかもしれないわ!」
「そうだよ、鏡を使うんだ!」
 さすがミチル。僕の言いたいことをよくわかっている。やっぱり天の使いかもしれない。
「鏡か! 俺のを使ってくれよ!」ジョージがポケットから小さな二つ折りの鏡を取り出すと、自慢げにちらつかせた。「バカ! それじゃ小さすぎるわよ! それに必要なのはミチルとマルコのとこよ!」盛り上がるジョージに紅葉がつっこむ。マルコも不安そうだ。
『でも、千斗君。スカーフェイスをまるごと映すような大きな鏡なんてどこにもないよ?』 
「そうか! 乙女町のミチルの家が近いから床屋から鏡を持ってくるのね!」
 紅葉がひらめいたようにうわずった声を出したけど、僕はそれを否定した。
「それじゃダメだよ! たぶん間に合わない。鏡を持ってくるころには、スカーフェイスはとっくにそこを走り抜けた後だよ」
 すでに獅子丘町へと入ってるはずのスカーフェイスが、ミチルたちの待ち構える乙女町にたどり着くのは時間の問題だ。自信満々に答えた考えを否定され、恥ずかしそうに顔を赤く染める紅葉と、それを横目で見ながらニヤニヤと笑うジョージ。
「ジョージなに笑ってるのよ⁉ じゃああんたなら、どんなアイデアが出せるのよ⁉」
 紅葉がジョージに矛先を向けると、怒鳴り散らされたジョージは青ざめる。
「そもそも、鏡が手に入らないんじゃ、こんなこと考えてもムダじゃない⁉」
 紅葉の怒りが僕に向けられる。するとミチルの声がスッと腕時計から割り込んだ。
『鏡ならあるわ。つまりそういうこと? 千斗君』
「なによ! つまりどういうことよ?」ジョージの肩を揺さぶりながら紅葉が言った。
「よかった、ミチル、やっぱりあの大きな手鏡持ってるんだね」
『うん。いつもの手さげカバンに入ってるわよ。今も持ってるわ』
 クラスの女子は昼休みになるとこぞってトイレに行く。そんななか、ミチルはひとりで図書室にいったり花園へ行ったりしてるみたいだから、誰かとつるんでるところを見たことはないけど、カバンから鏡を取り出して髪をいじっているところは見たことがある。しかも、手持ち部分のある大きな丸鏡で、学校に持ってくるには少し大袈裟だと思ったけど、実家が床屋だと知って納得いったよ。
 教室の隅では、ジョージまでもが教科書ほどもある大きな四角い鏡を取り出してリーゼントを眺めていたのにはさすがに引いたけどね。
「ミチルったら、なんで手鏡なんて持ち歩いてるのよ?」
 カバンの中身なんてそうそう入れ替えたりしないよな。ミチルのカバンにはマルコ用のおやつをいつもしのばせてるみたいだし、デジタルカメラまで入っている。ってことは、今日も手鏡を持っているはずだと僕は確信していた。
「おいおい、身だしなみは女子のマナーだろ? 俺だっていつも持ち歩いてるぜ?」
 ジョージが携帯ミラーを得意げにプラプラさせた。
「ふん! なんであんたが身だしなみを気にする必要があるのよ⁉」
「だって髪は命だろ?」
 それを聞くと、紅葉は強引にジョージから鏡を奪いとり、自分の髪を手ぐしで直してから鏡を草むらへと放り投げた。
「ああ! 俺の命!」ジョージが草むらに飛び込んでいく。
『でもこの手鏡で、どうやってスカーフェイスを捕まえるの?』マルコが尋ねた。
「たぶんチャンスは一度きりだ。だから二人ともよく聞いてね」
 僕は、頭の中で組み立てた作戦を二人に伝えた。
『それならうまくいきそうだ!』
 僕の作戦を聞いて、二人の声のトーンが上がったのがわかる。
「僕たちもすぐにそっちに向かうよ。二人ともよろしくね」
 通信を終えると、僕とジョージと紅葉の三人は急いで乙女町を目指した。
「急ぐわよ! 作戦がうまくいかなかったら、今度は自転車に乗ったあたしたちがスカーフェイスを捕まえるしかないんだから!」
 紅葉はマシュマロを抱き上げ自転車のカゴの中へ入れると、全速力でペダルを漕いだ。僕とジョージもその後を追う。
「あいつら、うまくやれるかな?」ジョージが隣を走りながら不安そうにつぶやいた。
「千斗が考えた作戦よ! うまくいくに決まってるじゃない! それに、あたしたちがミチルやマルコを信じないでどうするのよ!」
 紅葉はそう叫びながら、どんどん自転車を漕ぐスピードを速めていった。
 獅子丘郵便局を通り過ぎ、さらに乙女町を道に沿って黙々と自転車を漕ぎ続ける。目指すはカラス神社だ。乙女町を走りながら下方を見おろすと、おだやかに曲線を描く遊歩道が見えた。このあたりの道は、高低差を利用した立体交差になっていて、遊歩道を歩く人たちと、車が一緒にならないようにできている。
 下に見える遊歩道は、乙女町に住んでいるミチルたちが使う通学路でもあって、まっすぐ行けば学校まで到着する。犬の散歩をしている人たちが、小さな地下トンネルへと続く細い遊歩道を歩いていた。
 僕たちの自転車は、その地下トンネルの上を通る。地下を行く歩行者と、トンネルをまたぐ僕らの道が交差した先がカラス神社だ。僕らは、一言もしゃべることなく、腕時計からの通信に気持ちを集中させていた。緊張が高まっていく。
 そしてついに、息を殺したようなマルコの声が腕時計から響いた。『来たよ!』
 いよいよ始まった! 作戦はとても単純だ。まずミチルが一人で道を歩く。マルコは近くのカラス神社に身を潜め、スカーフェイスがやって来たら通信機を使ってミチルに知らせる。ミチルは気づかない振りをしてそのまま歩き続ける。――おとり作戦だ!
 マルコは、通信機でミチルとスカーフェイスの間の距離を伝え続ける。そしてその距離が一メートルになったとき、ミチルは鏡を顔の前にあて、スカーフェイスに振り返るんだ。
 たとえ鏡だと気づいても、もう遅い! あいつは相手の時間をかすめ取るつもりで必ず相手の顔を見てるはずだから、ミチルが振り返った瞬間には鏡の中の自分と目が合い、自分自身の時間をかすめ取ることになるはずだ!
 もちろん、自分自身の時間をかすめ取ったスカーフェイスがどうなるか、そこまではまだわからない。でも何も起こらないなんてことはないはず! 少なくとも捕まえやすくはなるはずだ。あとはカラス神社で潜んでいたマルコと協力して、虫網で捕まえればいい。
『5……4……』マルコがカウントを始める。
 マルコ!
 ミチル!
 僕たちはすがるように二人の成功を祈った。
『3……2……』
 お願いだ! スカーフェイスを捕まえてくれ! いつの間にか、腕時計から聞こえるマルコの声にみんなが集中し、僕たちはペダルを漕ぐのも忘れていた。
『1!』
 マルコがそう叫んだ瞬間だった。
『アァァ……!』
 すぐあとに、ミチルの声がした。
『マルコ! 今よ!』
 腕時計の通信ボタンは押されたまま。ドスドスと音を立てながら誰かが走り込んできたかと思うと、『バサッ』という音が近くで鳴った。そして次の瞬間、僕たちは待ちに待った声を聞いた。
『みんな! マルコが捕まえたわ! 成功よ!』