南館に入ると、そこはなにもない真っ白な空間だった。ただ、空間の真ん中に石でできた幅広い階段のみが上空へと伸びている。
 階段を上る人影が見えた。
「待って!」
 私はその人影がオーナーだと思い、大声で叫んだ。
 人影がこちらに振り返ったとき、私もケルビムも言葉を失った。
 振り返った人影――それは、まるで鏡に映したかのように私にそっくりだったんだ。
「そ、そんな! あれは私?」
「まさかそんなことになるはずが!」
 ケルビムはスーツの内側からアンティーク銃を取り出し、もうひとりの私に銃口をガチャリと向けた。
「あぁ、おまえがケルビムだね? アケルから話は聞いているよ」
 もうひとりの私は立ち止まり、ゆっくりと首をこちらに振った。
「おまえは何者だ。アケル様は今どこにおられる?」
 ケルビムは銃口を向けたまま、ピクリとも動かない。
「たとえ知っていても、それを伝えたところで何も変わるまい。アケルはおまえたちには逢いたくないと思うが?」
 もうひとりの私とケルビムの間に私は入っていく。
「お願い! アケルに逢わせて! どうしても謝らなくちゃならないの!」
 もうひとりの私は、表情を怒りで満たし、ズンと距離を詰めた。
「特にアケルはおまえとは逢いたくないんだ! 出て行け!」
 私に向かってくるもうひとりの私にケルビムは静止を促す。
「撃ちたければ撃つがいい。私もろとも私の中のアケルもね!」
 その言葉を聞いた途端、ケルビムは呆然とし、銃を下ろした。
「そんな……虚ろなる者が、肉体を手に入れた……?」
 ケルビムはすべてを悟ったようだったが、私にはまるで理解できないでいた。「その者は、パルケラクスです……」
「どういうことなの⁉ パルケラクスって何⁉」
「小賢しいねえ……ようやく会えたというのに邪魔だよ」
 もうひとりの私は歩を進め、片腕を払ってケルビムの体を易々と払いのけた。ケルビムは階段下まで転がり落ち、横に倒れ込んだままピクリとも動かない。
「ケルビム!」
 階段を駆け下りようとすると、もうひとりの私が後ろから私の首を絞め、そのまま宙に持ち上げた。途端に呼吸が絶たれる。
 もがきつつ、ようやくその者の両腕を掴むと、その感触は血が通っていないかのように冷たい。
「……ぐっ、は…う…うっ……! はなっ、離、せ……ッ!」
「苦しいだろう。だがアケルはもっと苦しんでいる。おまえがこのホテルエデンさえ創り出さなければ、アケルは今ごろ本当のエデンに行けたはずだったのに……」
 もうひとりの私が、私の首をさらに絞め上げながら嬉しそうにつぶやいた。
「どっ、どういう……ことっ⁉ わた、……が、ホ…エデ、ンをつく……した……⁉」
 意識が遠退きかける中、私は必死に声を吐き出した。
 ――アケル……アケルが苦しんでいるってどういうこと……?
「おやあ? ケルビムに聞いていなかったのか?」
 もうひとりの私は、突然その手を離した。どうして解放されたのか、その理由は分からない。でもそんなこと、今はどうでもいい! 私はアケルを助けだす方法に考えを巡らせるんだ!
 屈しない意思を示すよう、顔を持ち上げると、ケルビムがパルケラクスと呼んだもう一人の私の表情が一変していた。
「そうか……知らなかったんだね。それじゃあ教えてあげなければねえ……」
 ぶるると身を震わせ、全身で歓喜を表す。最高のご馳走を目の前に差し出されたかのように、不気味に目元を綻ばせた。「さあ、受け取りな」嬉しそうに見つめ、その手を私の額に当てた。
 途端に、額から〝意識〟が流れ込んでくる。
「なっ、何をするのっ⁉ やめてっ」
 抵抗も虚しく、〝意識〟は感触を伴った闇に姿を変え、浸蝕するように私に入り込んだ。全視界が闇に閉ざされる。次の瞬間、私の意識は私の部屋に在った。

 そこで私が泣いていた。
 私の腕の中では楓が息荒く、目を閉じていた。

 これは⁉
 私はこの記憶を覚えている! 忘れたくても、決して忘れられない楓との別れが迫った瞬間だった。
 どうして⁉ どうしてこんなもの私に見せる必要があるの⁉
 私は心を掻き乱されていく。
 私の意識の中で声が響く。
「知りたいんだろう? どうしてホテルエデンができ上がってしまったのか? なぜそこに楓を呼び込んでしまったのか……」
 私が楓を呼び込んだ⁉
 意識は絶えず流れ込んでくる。
 私の腕の中で突然楓はその目を見開き、真っ直ぐに私を見て、口を開いた。
 声は出なかった。
 ただ、なにか言いたげに口を開き、そして息絶えた。私は涙で震え、何度も何度も何度も何度も楓の名前を叫んでいた。
 頭の中は真っ白だった。
 その時間は止まってしまったかのように楓との別れの瞬間が永遠に続いていた。
 何度も何度も楓の名前を呼んだ。
 今、この瞬間まで生きていたんだ。
 でも、次の瞬間には楓は生きてはいなかったから。
 私は楓が生きていた瞬間に一生留まっていたかった。
 この瞬間の時間が止まり、永遠だと感じた瞬間が終わりを告げたのは、
 せき止められた時間の波が私を飲み込んだのは、
 楓が生きていた瞬間の後からやって来た次の瞬間だった。
 見開かれた楓の眼球は徐々に渇いていき、白く濁り始めたんだ。
 その体は冷たく硬くなっていく。
 時間が! ……時間が楓を殺していく!
 私は必死に楓を自分の体で抱え込んで、楓を連れ去ろうとするなにかから守ろうとしていた。 
 結局、私は楓を連れ去るなにかから楓を守ってやることができなかった。
 その日から、徐々に私は抜け殻になっていった。
「お願い! もうやめてよ! こんなことをほじくり返す必要なんてないでしょ⁉」
「いいや……まだまだこれからだよ……」
 意識下で、嬉しそうに声が響く。
 もう限界だ! 精神が持たない! 泣き叫ぶ私の気持ちなどお構いなしに、その声は私の中に意識は流れ込んできた。
 真っ白の空間の中、ひとつの小さな塊が不安そうにその身をそこに留めていた。
 その塊に向かってひとりの男がやって来た。
 ケルビムだ!
『お待たせしました。さぁさ、貴女の行くべき場所へご案内致します』
 ケルビムがその塊に触れると塊はアケルの姿へと変貌していった。
『どうです? お気に召しましたか?』
 アケルに変貌した小さな塊は自分の姿を見て驚いている。
『これ、かえでと一緒!』
 ケルビムが笑いながらアケルに言った。
『あっはっは! 楓ですか? 実際には彼女の名前は楓ではないのですがね』
『あなたはだれ?』
 アケルは不思議そうに自分の身に起こっているひとつひとつを理解しようとしていた。
『申し遅れました。わたくしはエデンまでの案内役、ケルビムと申します。エデンとは、我が主人が創りました永遠の庭の事でございます。貴女は今からそこへ行き、時が満ちるまでそこに留まるのでございます』
 アケルにはまったく理解できないのだろう。
 ケルビムの話にはあまり興味がなく、自分が人間の姿になっていることに心躍っているようだ。
『ねぇねぇ! わたしはどうしてかえでと同じになったの?』
 ケルビムがアケルに優しく言った。
『それが、貴女の次の魂の器の姿ですよ。気に入りましたか? お母様に似て美人でらっしゃる』
 アケルは目を輝かせながら言う。
『わたし、かえでになるの⁉』
『えぇ、その姿は我が主人がお造りになられた『ひと』という姿です。意外にも早く魂の絆は結びつくようですね。まぁ、我が主人の計らいなのですがね』
 アケルはケルビムの言うことをまったく聞いている気配はなく、次に生まれ変わる姿に全身で喜びを現しながら走り回っていた。
 それよりも私はケルビムがさっきから言っている主人という人物が気になっていた。
 私はケルビムがオーナーに雇われている者だとばかり思っていたからだった。
 主人とオーナーは別人なのか? 私は事の経緯を見守った。
『では、そろそろ参りましょうか?』
 ケルビムが言うと、アケルは不思議そうに『どこに?』と訊ねた。
『あぁ……もう』
 ケルビムは笑いながらも落ち着きのないアケルに少し呆れ気味だ。
 真っ白ななにもない場所に、突然虹が出現した。
『うわぁ! きれい!』
 アケルは目の前で起こるすべてに感動し、目を輝かせた。
『この虹の橋の向こう側がエデンになっております』
 得意げにケルビムがそう説明するころには、アケルはすでに虹の橋に向かって足を踏み出していた。
『あぁ……もう』
 あのケルビムが完全にアケルのペースに飲み込まれている感じだった。
 ふたりが虹を進み始めてしばらく歩くと、アケルが急にその足を止めた。
『どうしました?」
 ケルビムがアケルに訊ねる。そのとき、虹の橋の足元から声が響いてきた。

「楓ー! 楓ー!」

 これは私の声だ!

 私の声は泣き叫ぶかのようにアケルとケルビムの足元から大声で呼び続けている。

「楓ー! 楓ー!」

「かえでが呼んでる! わたし行かなくちゃ!」
 アケルに向かって、ケルビムは大きく首を振った。
「戻ることは許されません。今は離れ離れでつらいでしょうが、この虹の橋を降りたが最後、二度と戻ることはできなくなってしまうのです」
 だが彼が説明を終える前に、アケルは飛び降りてしまった。
「あぁ⁉」
 すぐさまケルビムも後を追い、虹の橋を飛び降りるとアケルの小さな体を空中で抱きかかえた。
「貴女、自分のしたことわかってますか⁉」
 ケルビムが厳しい口調で言う。責め立てるような声にアケルは怯え、わーわーと泣き叫んだ。
「だって……だってかえでがわたしのこと呼んでるんだもん!」
「まったく……」ケルビムは呆れたようにつぶやくと、スーツの内ポケットから携帯電話のようなものを取り出した。
「主人、ケルビムでございます。はい……主人の予想通りの展開となったのですが、この者が規約の説明を終える前に飛び降りてしまいまして……はい……わかりました、そのように致します」
 内容から察するに、相手はどうやらケルビムの主人のようだ。

  どういうこと?
  規約の説明?
  アケルをいったいどうするつもりなの?
 
 ふたりは抱き合ったまま、真っ白でなにもない空間を落ちていった。これが虚無の世界というものなのだろうか。やがて、ふたりの足はふわりと速度を失い、地に着いたように見えた。
 辺りには、楓を呼ぶ私の声が、変わらず聴こえている。
 ケルビムはアケルの両肩をつかむと、その顔を覗き込んだ。
「まったく、貴女の主人も貴女同様に手の掛かるお方だ。予定が狂いましたが、貴女にも、貴女の主人を立ち直らせるための手伝いをしていただきますよ?」
 アケルは泣きじゃくりながら体を何度も捻り、ケルビムから逃れようとしている。
「記憶はすべて預からせていただきます。効果的に貴女の主人に気づいていただかなくてはならないのでね。そうですね、貴女の名前は……アケルにしましょう」
 ケルビムがアケルの額に手をやる。柔らかい光がアケルを包むと、アケルはすっと泣き止み、眠ったように大人しくなった。
 アケルをぼんやりと包んでいた光は、収束していくに従って輝きを強め、やがて一本の光の線となり、アケルから前方へと飛び出すように一直線に伸びていった。
「やはり、もう創りあげてしまっていましたか……」
 光は、一枚の扉を映し出した。
「さぁさ、行きなさい。わたくしも後から参りますゆえ」
 ケルビムは両手を高く掲げ、なにかをつぶやいた。すると、真っ白のなにもない空間に突如石の階段が出現し始める。
 アケルは虚ろな目で誘われるように階段を上り、扉を開いた。
 扉の向こう側は、一筋の光もない真っ暗な世界――。泣き叫ぶ私の声が、さらに大きく中から聴こえてくる。
 私の絶望と、悲しみが渦巻く闇へとアケルは飛び込んでいった。
 絶望感、虚無感、喪失感が闇を練り続ける。負の情感に溺れそうになりながらも、アケルは前へ、前へと進んでいった。
 やがてアケルの目の前に現れたのは…………。

 すべてが繋がった!
 このホテルエデンを創りだしたのは私!
 順調に旅立とうとしていた楓を引き戻してしまったのも私!
 私の意識は再び、南館の真っ白ななにもない空間の階段へと戻ってきた。
「どうだい? 自分の愚かさが少しはわかったかい?」
 私は自分のしでかしてしまったことに言葉もなく、ただ泣いているだけだった。
「そんな……私が楓を……」
「しかし、まだまだなんだよ……」
 もうひとりの私が再び私の額に手をやった。
「お……お願い! ……もう……もうやめて! ……」
 私は泣きながら懇願するも、無慈悲にも意識は私へと流れ込んでくる。
 私が見える……私が私を見ている?
 なんなの? これはなに?
 私がなにかを喋っている。なにか申し訳なさそうな顔だ。
 私の横でケルビムが食器をまとめている。
「おねえちゃんがわたしたちのこと忘れないでいてくれて本当によかった」
 これはアケルの声⁉
 じゃあ今私が見てる視点はアケル⁉
 私がハンカチでアケルの口の周りを拭くとそれは始まった。
「私ね、アケルが私のためにあの化け物を追い払おうとしてくれてたときにね……」
 この話をし始めた辺りからアケルの様子は変わって行ったんだ……。
 私はつらつらと、しかし悲しそうに、楓が私の不注意でいなくなってしまったあの話を話し始めた。
 アケルの意識が私の中へと注ぎ込まれていく。
 おねえちゃんの話してること、なぜかわたしも知ってるような気がする……。
 アケルの頭の中はモヤモヤしていた。
 私が話し終わるころ、アケルの記憶の一部は蘇りかけていた。
「待って! それはおねえちゃんの思い出なの?」
「うん、そうだよ、私が大好きだった猫の楓との思い出、アケルが行動を起こしてくれなかったら、私は今ごろこの思い出を失くしたままでいたわ」
 かえで!
 アケルの頭の中は懐かしくて愛おしい、この音に、自分が猫だったころの記憶が溢れてくる。
「おねえちゃんはどうしてその猫ちゃんのこと忘れて構わないって思ったの?」
 アケルは身を乗り出して私に訊いた。
「お願い! やめて!」
 私はこれから言うであろう私の台詞を閉ざしたい気持ちでいっぱいだった。
「あの子を失ったことが受け入れられないくらいにつらかったの。毎日、毎日あの子を思って泣いていたわ。こんなにつらいならいっそのこと忘れたいって思うくらいに」
 アケルの中でなにかが音をたてて崩れていった気がした……。
 私はなんてことをしてしまったのだろうか……。
 自分で自分が許せない気持ちで胸が張り裂けそうになった。
 アケルの意識がどくどくと脈を打ちながら流れてくる。

  かえではわたしのことを忘れたかったんだ!
  わたしを思い出すと苦しかったんだ!
  このまま忘れさせてあげられたらよかったのに!
  わたしはかえでになんて残酷なことをしてしまったんだろう!

  違う! 違うの! 楓!
  悪いのは私なの! 楓は悪くないのよ!

 その声は当然のようにアケルには届かない。
 アケルの中で私に忘れられたい気持ちと後悔の気持ちが織り交ざっていく。
 やがてその心の中の真っ黒な感情は高ぶり、アケルの内側からとめどなく溢れ始めた。

  わたしは、わたしを恐怖から身を隠す穴がほしい。
  かえでが、わたしを二度と見つけられないように……。
  かえでが、わたしのことを忘れられるように……。

 これがホロウを生み出した原因!
 自分の存在の否定!
 私の中で次々に繋がっていく私の罪の事柄に私の胸は切り裂かれていった。
 やがてアケルはホロウに取り込まれていく。
 自らが生み出した闇が自らを覆い隠す殻となったのだ。
 闇に飲み込まれたアケルの気持ちはとても穏やかだった。

  これで、かえではわたしのことを思い出さなくてすむんだ。

 闇に侵食されたアケルの心はとても幸せに満ちていた。

  ごめんね、かえで……。
  もうわたしのために苦しまないでね……。

 やめて! 楓! お願いだからそんな風に思わないで!
 私の心は引き裂かれていく。
 そしてアケルの心は深い深い闇の奥へと包み隠され、沈んでいった。

「アケル……アケル……」
 アケルを取り込んだホロウがアケルの心に呼びかける。
(わたしを呼ぶあなたは誰?)
「私は、おまえに囁く者だよ」
(ささやく者? それはよいわね、あなた、わたしに『かえで』ってささやいてくれない? そうすればわたしは安心して眠ることができるわ)
「もちろんだとも、おまえの『かえで』の記憶を見せてくれるのなら、私はおまえに囁き続けよう」
 アケルを取り込んだホロウがアケルの『かえで』に変化していった。
 アケルは『かえで』の中の深く真っ暗闇の底で冷たくなり、そして眠りに入っていった……。
 あぁ……。なんてことを……。
 私はなんて取り返しのつかないことをしてしまったんだろう……。
 そこからひきちぎられた私の意識が再び元の私へと戻ってくる。
 私は力なく膝から崩れ落ちる。垂れた頭は生気もなくぶら下がっているだけ。涙と涎だけが、ボトボトと虚しく地面へと吸い込まれていった。

 もう、声の出し方もわからない。
 もう、体の動かし方もわからなかった。

 もうひとりの私が私の顔を見あげ、嬉しそうにニタニタと語りかける。
「どうだい? 自分がアケルにどれほどの苦しみを与えたのか? アケルがどれほどおまえに逢いたくないのかが、これでわかっただろう?」
 私はなにひとつ言えないまま、その場に座り込んで指一本動かすことすらできなかった。
 もうひとりの私は壊れきった私に完全に興味を失くしたのか、満足そうに立ち上がると、振り返って階段を上っていく。
 彼女の進む階段の先には扉が設置されている、ポツンと扉の立つそこは真っ白ななにもない空間。――あの扉を開いた先にはいったいなにがあるんだろうか?

 アケルが、私から一歩一歩離れていく。

 私はなにもできず、それをただ、指をくわえて眺めているだけ。
 楓が、私から一歩一歩離れていく。

 私の生み出した誤解という名のモンスターが、私の楓を手の届かない場所へ連れて行ってしまう……。
 もうひとりの私が扉まで辿り着くと、その手を伸ばし、扉を開こうとした。しかしもうひとりの私はいったん固まると、ドアをつかんだまま激しく腕を揺らし始める。
「なぜだ⁉ なぜ⁉」
 そう叫びながら、ガチャガチャと何度も扉を開こうとするが、一向に扉が開かれる気配はない。
「なぜ開かない⁉ 私はアケルと『かえで』の姿を手に入れたと言うのに!」
 もうひとりの私は、扉をこじ開けようと体ごとぶつかり始めた
「もう少しなのに! この扉の向こうはエデンなのだ!」
 とり憑かれたように喚きながら、何度も体当たりを繰り返す。 
 そのとき、カツンカツンと階段をゆっくりと上ってくる足音が届いてきた。
 ケルビムだった。
「おまえにその扉を開くことは絶対にできませんよ」
「近寄るな! それ以上近寄れば私はここから飛び降りるぞ! そしてアケルとともに救われない魂となり、永久にこの場をさ迷うことになる!」
 ケルビムは歩を勧め、崩れる私の横で立ち止まる。
 銃口をもうひとりの私へと向けたまま、その言葉を私へ向ける。「さぁさ、千里様。アケル様を、楓様を救うことができるのは貴女以外におられませんよ? いつまでそこで休んでおられるおつもりか?」
 私は垂らした頭を持ち上げ懇願するように泣き叫んだ。
「私にはできない! 私にはあの子を救う資格がないのよ!」
 ケルビムは呆れたように両手を上げて言った。
「やれやれ、本当に手の掛かるお方だ……」

 私だって悔しい!
 私だってアケルを取られたくない!
 私だってアケルを救いたい!
 私が……私が一番あの子を愛しているんだから!
 でも……私はあの子になにもしてあげられない……。

 私は声を発さない。
 自分の気持ちだけが自分の頭の中で泣き叫んでいる。
「貴女の不注意で楓が飛び出していった広い世界で、どうして貴女は楓を見つけることができたのでしょうねぇ……」
 ケルビムの言葉にあのときの記憶が蘇ってくる。
 楓が出ていった七日目の朝、私はいつものように会社の上司に電話をした。
「すいません……まだ体調が優れないので、今日もお休みさせてください……」
 初めはずる休みだと思っていた上司だったが、日を追うごとに精気をなくして行く私の声に、上司は完全に私を信用していた。
 それに実際その一週間というもの、ほぼ食べ物は喉を通らず、ろくに眠ってもいなかったからリアリティはあったのだろう。 
 私はいつものように早朝から出かけていく。近所はしらみつぶしに探しきった。少し離れた所も探しきった。ビラも配りまくり、いたるところに貼りつけた。
 もう、なにもやることなんてなかった。自分がそのとき思いつく限りのことはやり尽くし、なにをすればいいのかもわからなかった。
 だけど、なにかせずにはいられなかった。

 楓を探し続けなければ、二度と会えないような気がして……。
 楓を求め続けなければ、永遠に楓に会えないような気がして……。

「楓ー! 楓ー!」

 どのくらいこの名前を叫び続けただろうか?

「楓ー! 楓ー!」

 呼び続ければ、いつかひょっこり戻ってくる気がしたから。
 其の名前を呼ぶ私の声を、微かにでもその耳に届けることができたなら、きっと楓は出てくるはずだから!
 そのとき、どこかで微かに猫の鳴き声がした。
 か細い声でどこからか猫は鳴いている。

「楓ー! 楓ー!」

 私の声に呼応するかのように、不安そうに弱々しい声で。

『かえで! かえで!』

 楓! 近所にあった誰も住んでいない一軒家のU字ブロックのトンネルの暗闇の中、私の求め続けた愛しき者は、その身を縮こませ、不安そうに弱々しく鳴いていた。
 ずっと、ずっと、ここで私のことを待っていてくれたんだ。

 私の目には光が宿る。
 私の体に力が溢れてくる。

 ケルビムがつぶやく。
「求め続けなさい……」

 私は力の限り楓の名前を叫んだ。

「楓ー! 楓ー!」

 もうひとりの私が振り返り、私に黙れと命令する。

「楓ー! 楓ー!」

 もうひとりの私は両手で耳を塞ぎ、私の声を遮断する。

「楓ー! 楓ー!」

 私の声は掠れ、その声はまともに音を成さない。

「楓ー! 楓ー!」

 もうひとりの私がひざまずく。

「楓ー! 楓ー!」

 苦しそうにもがくもうひとりの私が、ものすごい形相で私の元へと駆け降りてくる。

「楓! どうか私の声を聞きとって!」

 深い暗闇の中、冷たい眠りに入っていた少女が目を覚ます。

  この声は、誰かがわたしを呼ぶときの声。
  この声は、誰かがわたしを探すときの声。
  この声は、誰かがわたしを求めるときの声!
  誰かとは、誰?
  誰かとは、かえでだ!
  行かなくちゃ! かえでがわたしを呼んでいる!

 もうひとりの私が私の喉元に手が届く瞬間、そいつは私の目の前でアケルを吐き出した。
「アケル!」
 ぐったりとしているアケルを私は体で抱きかかえた。
 中身を失ったもうひとりの私はその形を留めておくことができずに崩れていく。
「お見事!」
 ケルビムの構えていた銃口から一発の煌めく弾丸が飛び出しホロウを粉々に散らした。
「去りなさい、誘惑する者よ」
 粉々に砕かれたホロウが霧のようになり消えていった。
「アケル! アケル!」
 私はアケルの頬を叩き、呼びかける。
「お願い! 目を覚まして!」
 アケルは意識を取り戻し、その瞼をゆっくりと開いていった。
 私の腕の中で私と目が合ったアケルは嬉しそうな笑顔を浮かべ、そして言った。
「おねえちゃんの声が聞こえたよ。わたしのことを見つけてくれてありがとう」
 この光景が私の中で、家出した楓を見つけ出し、腕の中で楓を抱えた光景に重なって見えた。
 楓は私の腕の中で体を必死に擦りつけ、安心したようにゴロゴロと喉を鳴らし、私の目を見てはっきり鳴いたんだ。
 私は涙が止まらなかった。
 あのときも、今も、私たちはずっと同じことを繰り返し、そして絆を深めていたんだ。 
 そうやって、ずっとずっと繰り返しお互いを愛していたんだ。
「本当に、本当にごめんね!」
 私はこうして楓に何度謝ってきたのだろうか?
 そのたびに楓は何度私を許し続けてきたのだろうか?
「魂には絆という見えない繋がりがあります。この絆は厄介なことに好きな相手だけでなく嫌いな相手にも存在しますが……。互いを想い合う限り、限りなく絆は強く、太く繋がり続けていくのでございます」
「私とアケルがそうだと言うの?」
 ケルビムはなにも言わずに肯いた。
 私はケルビムのその言葉になによりも希望を持ち、そしてなによりも嬉しかった。

     †

 アケルは私の腕の中で再び眠ってしまっていた。よほど疲れたのだろう、気持ちよさそうに、そして穏やかな表情だった。
 ケルビムはアケルをおぶり、階段を上っていく。
 私もケルビムについて階段を上っていった。
「ねぇ、ケルビム。このホテルエデンを私が創り出したということはアケルの意識が流れ込んできたときにわかったし、オーナーが私だってことも理解したわ。でもなぜあなたはアケルをオーナーのところへ連れていくなんて言ったの? 私が『オーナー』だったのに」
 ケルビムはアケルをおぶり、階段を上りながら説明してくれた。
 もともとペットロスにより、自分の内側の殻にこもってしまった私を立ち直らせるのは、最初からあった計画だったらしい。しかし私の楓への気持ちが強すぎて、エデンに楓を連れていく途中に私の声が楓に聞こえてしまったのが、予定が狂い始めた原因だった。 
 もともと私を立ち直らせる使命のあったケルビムは楓の記憶を一時的に封じ込め、アケルを使って私を楓を失った悲しみから立ち直らせようとしたのだった。
 そのケルビムの思惑どおり、このホテルエデンでアケルたちと行動をともにするうちに、私は次第にアケルを楓と認識し、そして今、魂の絆の存在を知った私はようやく立ち直ることができたのだ。
「そして、立ち直ったオーナーでなければ、最後の扉を開くことはできないのです」
「そう言えば、ケルビムとアケルが一番初めに着いた場所はこの南館よね? 東館への扉が現れたとき、なぜアケルと一緒に東館へ行かなかったの?」
 扉の前まで来た私たち、ケルビムは立ち止まり向き直って話し始めた。
「当初、このホテルエデンは隣同士に繋がる扉がない迷宮のような場所でした。わたくしは南、西、北、東へと逆に辿り扉を設置していったのです。楓様にまつわるキーワードで開くように。ですのでわたくしの合流が遅れたわけでございます」
「リストには他に誰が載っていたの?」
「リスト? はて」
「あなたが最初に出した黒の表紙のリストよ。それにあなたの言う主人っていったい誰?」
「ああ、あれでございますか。中身は白紙でございます。そして、わたくしの主人に関してですが……」
 私はケルビムの話を遮った。
「あなたの主人の話はやっぱりもういいわ。私だってそんなに鈍感じゃないもの、ここまでくれば、はっきり言われなくてもわかるわ」
 ケルビムの背中で眠っていたアケルが目を覚まし、ケルビムの背中から降りた。
「左様でございますか」
 ケルビムは笑いながら言った。
「おねえちゃん! おねえちゃんもわたしと一緒にエデンに行こ?」
 アケル――楓が私の手を嬉しそうに引っ張る。
「楓……」
 正直一緒に行きたかった。ずっと楓といたかったから。でも私がそれを望めば、きっとこの扉は開くことはないのだろう。
 ケルビムが私を立ち直らせるために設置した扉のキーワードは楓の花言葉。
『美しい変化』に『思い出』に『遠慮』そして最後は……、『調和』。
 つまり、私が楓と一緒に行くという選択は、不調和になってしまう。
「楓、ごめんね。私はあなたとは一緒に行けないの、でも必ずまた会えるから心配しないで」

 ――ガチャリ。

 扉の鍵の開いた音がした。
 私は楓を思い切り強く抱きしめた。
「わたしの名前はアケルだよ?」
 ――え?
 アケルは自分を楓と認識していたはずなのにどうして?
 私はケルビムを見上げた。
「どうやら、ホロウに取り込まれたショックからか一時的に記憶を失ってしまったようですね」
 私は少しショックだった。これでお別れなのに……。でも、楓にとっては覚えていない方が幸せなのかも……もし記憶が残っていたらつら過ぎて別れられなくなると思うから。
 私は立ち上がり、そしてケルビムを見た。
「ケルビム、色々とありがとう。でもよかったの? ここの裏情報をペラペラと私に喋ったりして?」
 ケルビムは笑いながら言った。
「大丈夫でございます。むしろ謎に思うことはすべてお話して、納得していただかなければなりませんので」
 ケルビムの説明ではどうやら、こちら側から現実の世界に戻るとき、こちら側での記憶はすべて消失させるのがルールらしい。稀にこうして現実の世界からこちら側に生きたまま偶然迷い込む者がいるらしく、そういった者たちになんの説明もせずに疑問を残したまま帰してしまうと、こちらの世界での疑問が頭の中でモヤモヤと残り、現実の世界に戻ってから、やれ天国を見た! とか地獄を見た! とか言い出すのだという。
 なるほど、なんだかそういうことを言う有名人だの書籍だのがあったなあ、と妙に納得してしまった。
「さて、アケル様、そろそろ参りましょうか?」
 ケルビムが促すと、アケルは黙って肯いて私に言った。
「ここでお別れだね、おねえちゃん」
 記憶を失ったアケルの屈託のない笑顔が、私の胸にチクリと刺さる。でも、絶対に泣いちゃいけない。私がここで泣いてしまったらアケルが心配してしまう。
 万が一、楓の記憶が戻りでもしたら、この子はきっと別れられなくなってしまうから……。
 私は拳を握りしめ、この心の痛みに耐え忍ぶことを受け入れた。
「アケルも元気でね」
「うん! おねえちゃんもね!」
 アケルは今から自分がどこへ行くのか本当にわかっているんだろうか?
 どうかアケルがエデンに辿り着き、そしてまた旅立つまでの間、私との記憶が戻らないことをただ祈るだけだった。
 アケルは扉を開き、元気に駆け出していった。

     †

 扉の向こう側は虹の橋に通じていた。
 キラキラと光る虹の橋の上でアケルは元気に駆け回り、そして私に大きく手を振った。
「この扉をわたくしが閉めたとき、貴女の夢は醒め、何事もなかったかのように穏やかな日常が始まるでしょう」
 ケルビムが扉を潜り、ドアノブに手をかけて言った。
「ねぇケルビム! 私と楓は魂の絆で繋がってるのよね? その絆はいつ現れるの?」
「それはわたくしにもわかりません。しかし、それは必ず起こるということだけは断言できます。今世なのか? ……はたまた来世なのか?」 
「そっか……。うん、ありがとう。あなたの主人にもよろしく伝えてね」
「えぇ、もちろんです。では、どうかお体をお大事に」
 ケルビムは深々と私に頭を下げると扉を閉め始めた。
 扉の隙間のケルビムの後ろで、アケルが相変わらず元気いっぱいに私に手を振ってくれている。
 最後くらい、私も暗い顔していないで笑顔で楓を見送ってあげなきゃ! 目に溜まっていた涙を手の甲で拭き取り、私はアケルを見送った。
「元気でねー! アケルー!」
 扉の隙間が閉じていく瞬間、再びケルビムが扉から頭を出し、私に言った。
「実は内密なお話なのですが、主人は楓だとわかる印を貴女の前に示すでしょう」
 そう言うとケルビムは扉を完全に閉じた。
「えっ⁉ 印ってなに⁉」
 閉ざされた扉に目の前が真っ暗になった。
 私のホテルエデンでの記憶は失われていった。